詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

GSOMIA失効回避

2019-11-23 15:33:25 | 自民党憲法改正草案を読む
GSOMIA失効回避
             自民党憲法改正草案を読む/番外304(情報の読み方)

 2019年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面、

GSOMIA失効回避/韓国が方針転換/日本 輸出管理 対話再開

 という見出し。たぶん、どの新聞でも同じようなトーンだと思う。
 私には、このニュースがさっぱりわからない。
 見出しだけ読むと、韓国が方針転換をしたために、それを評価して日本側が輸出管理問題での対話再開に応じることにした、と読める。韓国側が「折れた(譲歩した)」から、日本がそれを評価して態度を緩めた、と。
 しかし、どうなんだろう。
 「外交」は、そんな簡単に、一方が勝利し、他方が負けたというような「簡単明瞭」な「合意」などしないだろう。読み方しだいでは「逆」にも読めるというのが「外交」の基本ではないだろうか。つまり、玉虫色。それぞれの「国民」が納得できるような「合意(文書)」にするというのが基本であると思う。
 読売新聞の記事の「前文」には、こう書いてある。(番号は、私がつけた。)

 ①韓国政府は22日、破棄を決定していた日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA=ジーソミア)について、23日午前0時の期限を目前に、失効を回避することを決めた。②輸出管理を巡る日韓政府の対話の引き換えに方針転換した。

 たしかに、新聞の見出しのように①GSOMIA失効回避した②その結果、日韓の輸出管理問題の対話が再開される、と読むことができる。

 でも。
 ①の「韓国がGSOMIA失効を回避することを決めた」というのは、日本語として奇妙な表現ではないだろうか。
 私は「回避(する)」ということばは、こんなふうにはつかわない。
 私が「回避(する)」ということばをつかうならば、日本がGSOMIAが失効してしまうのではないかと心配していたが、その不安は回避された、と書く。「回避する」ではなく「回避された」。つまり、受け身。
 ①の見出しと記事がつたえているのは、日本は安心した(日本にとって好都合だ)ということであって、韓国を主語にすると、違う「文章」になるのではないか。
 一面の「韓国大統領の発表ポイント」という箇条書きの部分を読むと、こう書いてある。

③韓国は、日韓のGSOMIAの破棄通告の効力を停止
④韓国はGSOMIAをいつでも終了可能

 「失効回避」という表現は見当たらない。韓国は「失効」を「回避」したのではなく、単に「破棄通告を停止」したのであって、いつでもGSOMIAを終了できる(破棄できる)ということにすぎない。これでは、単なる「保留」である。たぶん、文は、韓国民にそう説明するだろう。
 では、なぜ「保留(停止)」したのか。②が理由である。日本が輸出管理についての対話を再開すると「譲歩」したから、その譲歩と引き換えに「方針転換した」。②は①の結果ではなく、②が初めにあって、その結果として①がある。読売新聞の前文にも「引き換え」という表現がかつわれていた。「引き換え」の主語は、韓国である。(韓国がGSOMIA破棄を停止したから日韓の対話が再開するのではない。日本が対話再開へ譲歩したから、それと引き換えにGSOMIA破棄を停止した。)
 文の方から言わせれば、

日韓輸出管理の対話再開/日本が方針転換/GSOMIA破棄通告を停止

 という見出しになるだろう。つまり、文は、韓国国民向けには、そう説明するだろう。それは文が発表した「ポイント」からも、そう理解できる。

⑤韓国政府は、日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続いている間、WTOへの提訴手続きを停止

 ここにもGSOMIAと同じ「停止(する)」という主体的な動詞がつかわれている。そして、そこには「日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続いている間」という条件がきちんと書かれている。この条件は③にもそのまま流用できる。つまり、③は、

日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続いている間、韓国は、日韓のGSOMIAの破棄通告の効力を停止(する)

 であり、④は

日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続かないならば(協議が中断するならば)、韓国はGSOMIAをいつでも終了可能(一方的に、終了することができる、韓国はGSOMIA破棄を再通告する)

 である。
 「真相」はわからないが、私のような「外交」のシロウトでも、そう読み直すことができる「合意内容」になっている。

 「外交」というのは、いわば、どういう「国内向けの発表」ができるか、ということがいちばんの問題点なのである。
 安倍は、安倍の都合のいいように「日本向け」の「ことば(論理)」を発表したにすぎない。
 日米貿易交渉などを見ていると、安倍の「発表」をそのまま信じていいかどうか、わからない。疑ってかかる必要があるだろう。

 いちばん興味深いのは、日本政府発表の「ポイント」の最後に、こういう文章があることだ。

⑥茂木外相が韓国人元徴用工訴訟問題について、韓国に「国際法違反」の是正を強く要請

 これが興味深いのは、「徴用工問題」がやはり最後まで残るということ。言い換えると、今回の問題は徴用工訴訟が原因だったということだろう。徴用工訴訟が引き金になって、日韓関係がこじれた。これが解決しないかぎり、日韓正常化はありえない。
 さらに。
 この⑥だけ、主語が「茂木外相」と個人名であることに、私は、思わず笑いだしてしまった。
 それまでは「韓国」「韓国政府」「日本」「日本政府」と表記していたのが、ここでは「茂木外相」になっている。つまり、「日本」「日本政府」とは発表できなかったのだ。
 水面下の交渉は、私にはわからないが、私はわからないからこそ「妄想」する。
 アメリカが日本に圧力をかけた。それで日本がしかたなく応じた。でも、徴用工問題がまた障碍になる。なんとかしたい。なんとか日本の主張を入れたい。でも「日本(政府)」としてしまうと、アメリカになにか言われそう。「茂木外相」にしてしまえ。
 ほら、いつもの安倍の行動パターンがここにみてとれる。
 「悪いのは私ではない。私は何もしていない。徴用工問題を主張しているのは茂木だ」と、いざとなったら言い逃れるための「口実」を、早くも準備しているのだ。

 だいたい

GSOMIA失効回避

 という「見出し」そのものがあいまいなのだ。だれが失効させるのか。執行されたら困るのはだれなのか。GSOMIAそのものに、人間のように「失効する(させる)」「回避する(させる)」という「主体的」能力はない。
 きちんとした「意味」にするためには、「主体(主語)」がひつようなのに、それがない。見出しそのものが安倍の意向を受けて「玉虫色」になっているのだ。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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閻連科『愉楽』

2019-11-23 09:55:53 | その他(音楽、小説etc)
愉楽
谷川 毅
河出書房新社


閻連科『愉楽』(河出書房新社、2015年03月30日3刷発行)

 村上春樹がノーベル賞を逃した日、私は「閻連科が、いまいちばんおもしろい」というような話を知人とした。何冊かの本の感想はすでに書いているので、まだ書いていない『愉楽』の感想を書いておく。(すでにいろんな人がいろんな批評を書いていると思うけれど。)
 帯にこんな紹介文がある。

真夏に大雪が降った年、障害者ばかりの僻村・受活村では、レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にするという計画が始動する。

 これだけで、もう「デタラメ」(荒唐無稽)なことがわかる。いわゆる「現実」を描いていないということが、わかる。でも、「小説」だから人間が出てくる。人間は「肉体」をもっている。人間が動けば、どうしたって読者の「肉体」も動く。「動き」が共有される。その「共有」されるということは「デタラメ」ではない。
 もちろん、ふつうの人間にはできない「動き」というのは、ある。しかし、それを「ことば」でできるかのように書くことができる。ことばは「肉体」の限界を知らない。書かれている「肉体」の動きに刺戟され、読者の「肉体」も自然に動いてしまい、それがなんとも楽しい。
 究極の「リアリズム」がそこにある。
 「ことば」で考えることができる。それは、「肉体」でできることでもある。少なくとも、「肉体」は、それをしたい「欲望」をもつ。そして、欲望が生まれた瞬間、「肉体」は無意識に動くのである。そこに人間の避けて通れない「リアル」がある。裸の女を見て勃起するようなものである。勃起を引き起こすのは裸の男であるかもしれないし、死にそうな老婆かもしれない。動物、ということもあるだろう。えっ、そんなことが、と誰かが思ったとしても、それは単にそのひとの「欲望」が貧弱だっただけ。人間は、どんなことでも「欲望」できる。「欲望できる」ということが、「本能(生きる力)」なのだ。
 「レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にする」というのも、「頭」のなかの「空想」ではない。どうしたって、「肉体」が動く。遺体を購入するには金を稼ぐというところから始めないといけない。「肉体」を動かして働かないかぎりは何も始まらない。
 で、つぎつぎに、私が(そして、たぶん多くの読者が)想像したことのない「肉体」の動きが展開される。そんなことができるはずがない、というのは簡単だが、動かせる「肉体」があるのだから、そういうことができたってかまわない。そうしたいかどうかだけである。セックスと同じ。自分のしたいことがあれば、そうするだけだ。

 ということは、これ以上書いてもしようがない。すでに「奇想天外」については多くの人が書いているに違いないと思う。
 たとえば、谷川俊太郎は「帯」に、こう書いている。

読んでいるとどんどん面白くなってくる、だんだん怖くなってくる、その奥深い魅力。アタマでは分からない中国を、カラダが知った。

 谷川は「カラダ」と書いている。私は「肉体」というこばをつかう。つかっていることばは違うが、たぶん、同じことを指している。
 だから、もうこのことは書かないで、別なことを書く。

 この小説を読み始めて、途中で、あれっ、と思う。
 「第一巻(第一章、第三章、第五章)」「第三巻(第一章、第三章、第五章……)」。 「第二巻(第二章)」というような「偶数」のくくりがないのだ。ストーリーがめちゃくちゃなので、最初は気がつかない。ふと、「あれ、さっき読んだのは第一章じゃなかった? 今第三章だけれど、第二章は? 乱丁本?」と気がつき、目次で確かめると、偶数がないのだ。最初から「奇数」だけで構成されている。
 わざとしている、といえば、それだけなのだが。
 私は、非常に、非常に、非常に、つまずいた。私の「アタマ」のなかにある「中国人」とはまったく違う「思想(肉体)」の人間が動いている。
 私にとって中国とは「対(二つ、偶数)」の国である。なんでも「対」でなっている。対というのは「一つ」と「一つ」であり、「対」とはその「一つ」と「一つ」がいっしょになって「別の一つ(完成された一つ)」になる。「陰陽」思想というもの、それをあらわしていると思う。
 中国には「二つ」以上の数はない。「三つ」からは「無限」である。つまり数えられない。
 そして、この「数えられない」(無限)こそが、閻連科の「思想(肉体)」なのである。もし「対」が生まれてしまったら、それを破壊して「奇数」にしてしまう。「奇数」にすることで、世界を破ってしまう。開いてしまう。言い直すと、完結させない。
 その「証拠(?)」のようなものを小説のなかから探してみると。
 中心的な人物のおばあさんには四つ子の姉妹がいる。ひとりが対をみつけて双子になる。双子が対をみつけて四つ子になる。ここまでは「偶数」の中国思想。でも、その四つ子のなかにひとり、とても小さい女の子がいる。「蛾」のように小さい。(もともと四人とも小さいのだが。)四つ子(偶数、対)だけれど、どこか「破綻」している。このなかから、ひとりが男とセックスをすることで、ふつうの女にかわっていく。身長ものびるし、美人になっていく。またまた、それまでの世界が破られていく。
 それよりもっと明確な「証拠」は、金稼ぎの見世物興行が成功し始めると、急いでもうひとつ見世物興行集団をつくる。「一つ」ではなく「二つ」になることで、金がますます入ってくる。つまり「対」が世界をよりよくする……はずなのだが、それは「円満解決(ハッピーエンド)」にはつながらない。大もうけしたはずが、とんでもない事件が起きる。破綻する。「一つ(孤)」にもどってしまう。「一つ(孤)」といっても「集団」ではあるのだけれど。
 閻練科は、その「孤」を肯定している。「対」による「完成」ではなく、「対」を破る運動を、「孤」に託している。
 私は、そう読むのである。「孤」こそが、想像力を解放し、あらゆる「リアル」を可能にする。「対」は「リアル」を抑制する。「対」はニセモノの「リアリズム」である。そう宣言している。つまり、「中国の古典(漢詩の世界など)」は「理想」が描かれているかもしれないが、それは「リアル」ではない。閻連科は、「文学」に対して異議を唱えている。
 だから、読みにくい。だから、楽しい。新しいから。
 ノーベル賞は、こういう冒険(開拓)にこそ与えられるべきものだと思う。






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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(25)

2019-11-23 08:31:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あれから幾日たつたろう)

 「あれから」とは何を指すか。「答え」は詩のなかに書いてあるが、直接的でおもしろくはない。おもしろいのは、その「直接性」をどうやって言い直すかである。詩はいつでも、言い直し(余剰)のなかにある。

ぼくは白い雄鶏がひろげる陽にかがやいている羽根をみつめる
あのみずみずしくも逞しい六月鶏を

 「ぼく(嵯峨)」鶏をみつめながら、鶏になる。鶏は「ぼく」の比喩なのだ。「陽にかがやいている羽根」、それを「ひろげる」動作。「みずみずしく」「逞しい」。
 「答え」はつまり、その対極にある。







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