山本育夫書下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』(2)(「博物誌」42、2019年11月01日発行)
ことばは肉体を共有する--きのう、そう書いた。そのつづきを、次の作品で書いてみる。
一連目と二連目(もしかすると空白の行はなくてひとかたまりの詩かもしれないが)で「共有」されることばに「ならんでいる」「整列された(整列する)」がある。「ならぶ」を「整列する」と言いなおしている。ここでは「肉体」が同じ動きをしている。言いなおし、繰り返されることばに出会うと、「肉体」はその動きを意識する。あるいは、その動きが「肉体」にしっかり根付く。つまり、「おぼえる」。
さて、その「ならんだ肉体」「整列された(整列を強制された?)肉体」とは何のことだろう。山本の「肉体」ではない。「みずすまし」のことである。
一連目は、「ことばが/ならんでいる」と書いているが、「ことば」は「みずすまし」の比喩である。比喩であるから、二連目で「ことば」は「みずすまし」にもどって、「ものがたり」を語る。「ものがたり」とは「ことば」が「ならんだもの」「整列したもの」である。
だが、一連目の「ことば」はみずすましの比喩か。簡単には言いきれない。「ことば」がならんでいる「光景(霊感/インスピレーション/厳格)」が見えたのだが、それはそのままことばにすると「リアル」ではなくなるので「みずすまし」と言い換え、その上で、「みずすまし」を「ことば」という比喩にしたということも考えられる。「比喩」のなかでは「リアルとしての対象」と「比喩」が簡単に入れ替わり、区別することはできない。つまり、そこでは「実態」は問題ではなく、「運動」が問題になる。「ことば」も「みずすまし」もならぶ。整列する。「ならぶ」「整列する」という動詞ので、ふたつは「統一される」。ひとつになる。「ことばの肉体」がならぶ、「みずすましの肉体」がならぶ。ならんで、「列」にととのえられるとき、「みずすましの肉体」は「ことばの肉体」としし「整列する」。「ことば」が並ぶ(整列する)と、それは文章になる。文章が並ぶと「ものがたり」になる。
山本はみずすましをみながら、ことばが並んでいる。並んだ「ことば(ものがたり)」をみずすましの姿から連想している。「みずすまし」と「ことば」、「並んだ(整列した)ことば」と「ものがたり」は交錯する。
どこで?
「こころ」ということばを山本はつかっている。
「こころ」のなかで「みずすまし」と「ことば」の「肉体」、「(単独の)ことば」と「ものがたり(つながったことば)」の「肉体」が交錯する。違うものが同じものになるためには、新しい「視点」が必要だ。「みずすまし」が「ことば」の「比喩」なのか、「ことば」が「みずすまし」の比喩なのかわからないが、「比喩」という概念を持ち込めば、断絶している(孤立している)はずの「肉体」がつながり、かさなる。「概念」が離れたものを結びつける。この定義は、孤立している「ことば」を「ひとつの概念」でつなげば「ものがたり」が生まれるという具合に流用できる。「概念」を「意味」と言い換えてもいい。
この詩では、その概念、あるいは意味は、
という行で説明される。(言いなおされている。)
「意味」を「こころ」に植えつける--それが「ことばの仕事」と言いなおされている。「ことばの肉体」は何事かを反芻する。そうすると、その半数を支える動きが「意味」になって「こころ」に「記憶される」(こころが、それをおぼえてしまう)。「こころ」とは無意識に記憶された「肉体」のなかの何かである。「何か」も特定できないし、「肉体のどこ」ということも特定できない。「こころ」がどこにあるか、私たちが「特定」できないのは、そのためである。こころは「手」にあるのかもしれないし、「並ぶ」ときの「足」にあるのかもしれなし、「並んだ」ことを確認する「目」にあるのかもしれない。だから「こころがおぼえる」は「肉体がおぼえる」でもあるのだ。
山本は、今回の一連の詩で、「ことば」の「肉体性」へと近づいていっている。「ことばが肉体である」ということを明確にするために、「引用(他者のことば)」が鏡のようにつかわれている。人の振り見て我が振り直せ、ではないが、他者からの反映が「ことばの肉体」を刺戟する。並んだことばを「意味」に結晶させる。
ことばはことばとして「肉体」をもち、「ことばの肉体」そのものが動いていくことがある。これをインスピレーションとか霊感と呼ぶこともできる。山本は「みずすまし」に誘われて、「ことばの肉体」が動くのを感じた。そして、それを追いかけた、というのが今回の「書き下ろし詩集」ということになる。
このインスピレーションは、一篇の詩、あるいは「ものがたり」へと動いていくものだが、インスピレーション自体は「整列」していない。「孤」のままである。こうした「孤」、つまり「つなぎとめられていない状態」を「03水陰草」では、こう書いている。
「決壊」。ほどかれてしまった存在。「水の流れ」は「ことばの流れ」。そこからあふれてしまった過剰なことば。それを詩と呼ぶ。詩は、みずすましとなって、水場にありながら、遠い水の流れ、その決壊を象徴する。
「ことばの肉体」は詩を選ぶか、散文を選ぶか。ことばを生きるそれぞれの人の個性によって違うだろう。詩を選んだとしても散文は響いてくるし、散文を選んだとしても詩が残る。その交渉のなかで「ことばの肉体」が成長していくのか、あるいは「肉体のことば」がその交渉に制限を与えるのか。これは簡単には断定できないが、そういう交渉がこの詩集のなかで展開されている。
*
この詩集の「14水分補給」に、突然、私の名前が出てくる。もちろん架空の名前で私とは無関係な存在として読むことができる。もしかしたら「谷川(俊太郎)」の書き間違いかもしれないが、私の名前と思って読んでみる。
「どう読む」と問われれば、「ゴロゴロにして」ということばは、私の肉体からは出てこないというのが、最初印象としてある。行を変えるのは、私にとっては「重し」を捨てること。私は「刻む」という面倒くさいことはしない。切って捨てる。「ゴロゴロにして」「転がす」ということはしない。「重し」を捨てると、すこし身軽になる、というのは錯覚かもしれない。しかし、私はその錯覚に身をまかせる。見えたかもしれないもの、間違いかもしれないもの、それを「掴む」ために、書いてきたことばを捨てる。
「肉体はおぼえたことを忘れない」というようなことを私は書くが、実は、私は「おぼえる」ということが大嫌いだし、苦手だ。だから反省を込めて、そう書くのかもしれない。一方、山本は私とは逆に、「切る」だけでは満足せず、「刻んで」、そのうえ「ゴロゴロにして」(たぶん肉体になじむまで、手でこねて、まるめて)、さらに「転がす」のだ。そうやって書かれたのが、山本の詩だ。「捨てた」はずのものが、うしろに整列している。その整列の仕方は「ばらばら」に見えるかもしれないが、捨て方に「手でこねて、まるめて、ゴロゴロにして」という「手間」が見える。「手間」というのは「肉体」のことでもある。「肉体」が過ごしてきた「時間」。だからね、笑えるんですよ。こんな無駄な時間のつかい方をして、と。
たとえていえば、ごみ捨て場に、捨てにきたはずの不用品が丁寧に並べられているようなもの。捨てるんだけれど、愛着があって、それを並べてしまう。整列させてしまう。それを見ると、あ、これは捨ててあるんじゃなくて、私はこの不用品をこんなに愛していると告げたくて、ここに置いてあるんだな、と思う。「ごみ」という比喩は、乱暴すぎたかもしれないけれど、そういう「ことば」の整列を見ると、ほら、
という感じがしない?
「アメ」に似ているかどうかは、読者しだいで受け止め方は違うだろうけれど、何かそこにはないけれど自分の「記憶」のなかにあるものが、山本のことばによってひっぱりだされてきて、そこに漂っている。それは、だから、山本が愛したものを「共有」するというよりも、自分の肉体の中にあるもの、山本の肉体の中にあるものを「共有」する。「肉体」そのものを共有する、という感じになる。
セックス、ことばの肉体のセックスだね。そこを、もっと。ここは、ど? あ、そこ、違う。こっちは? ダメだって、もう、ほんとうに。なんて、声が思わず漏れてしまうと、きっと、その「批評」は成功したことになる。ことばが性交した、ということになる。したいことと、されたいことは、みんなひとりひとり違うからむずかしいんだけどね。
こういう具合だから、気取った女性から私は嫌われる。おばさんからは突き飛ばされる。おじさんは、どうかなあ。「博物誌」の表紙には、いつも「×(バッテン)」が印刷されているんだけれど。
*
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ことばは肉体を共有する--きのう、そう書いた。そのつづきを、次の作品で書いてみる。
02水糸
はりめぐらされた
透明な水糸の上に
きれいに洗われたことばが
ならんでいる
この世の水平は
ゆるぎない
みずしましが
語りはじめる
そのものがたりを聴きながら
すっかり整列された
こころにね
「生かさず殺さず幸福幻想」
を植えつける
それが彼らの仕事だ
一連目と二連目(もしかすると空白の行はなくてひとかたまりの詩かもしれないが)で「共有」されることばに「ならんでいる」「整列された(整列する)」がある。「ならぶ」を「整列する」と言いなおしている。ここでは「肉体」が同じ動きをしている。言いなおし、繰り返されることばに出会うと、「肉体」はその動きを意識する。あるいは、その動きが「肉体」にしっかり根付く。つまり、「おぼえる」。
さて、その「ならんだ肉体」「整列された(整列を強制された?)肉体」とは何のことだろう。山本の「肉体」ではない。「みずすまし」のことである。
一連目は、「ことばが/ならんでいる」と書いているが、「ことば」は「みずすまし」の比喩である。比喩であるから、二連目で「ことば」は「みずすまし」にもどって、「ものがたり」を語る。「ものがたり」とは「ことば」が「ならんだもの」「整列したもの」である。
だが、一連目の「ことば」はみずすましの比喩か。簡単には言いきれない。「ことば」がならんでいる「光景(霊感/インスピレーション/厳格)」が見えたのだが、それはそのままことばにすると「リアル」ではなくなるので「みずすまし」と言い換え、その上で、「みずすまし」を「ことば」という比喩にしたということも考えられる。「比喩」のなかでは「リアルとしての対象」と「比喩」が簡単に入れ替わり、区別することはできない。つまり、そこでは「実態」は問題ではなく、「運動」が問題になる。「ことば」も「みずすまし」もならぶ。整列する。「ならぶ」「整列する」という動詞ので、ふたつは「統一される」。ひとつになる。「ことばの肉体」がならぶ、「みずすましの肉体」がならぶ。ならんで、「列」にととのえられるとき、「みずすましの肉体」は「ことばの肉体」としし「整列する」。「ことば」が並ぶ(整列する)と、それは文章になる。文章が並ぶと「ものがたり」になる。
山本はみずすましをみながら、ことばが並んでいる。並んだ「ことば(ものがたり)」をみずすましの姿から連想している。「みずすまし」と「ことば」、「並んだ(整列した)ことば」と「ものがたり」は交錯する。
どこで?
「こころ」ということばを山本はつかっている。
「こころ」のなかで「みずすまし」と「ことば」の「肉体」、「(単独の)ことば」と「ものがたり(つながったことば)」の「肉体」が交錯する。違うものが同じものになるためには、新しい「視点」が必要だ。「みずすまし」が「ことば」の「比喩」なのか、「ことば」が「みずすまし」の比喩なのかわからないが、「比喩」という概念を持ち込めば、断絶している(孤立している)はずの「肉体」がつながり、かさなる。「概念」が離れたものを結びつける。この定義は、孤立している「ことば」を「ひとつの概念」でつなげば「ものがたり」が生まれるという具合に流用できる。「概念」を「意味」と言い換えてもいい。
この詩では、その概念、あるいは意味は、
「生かさず殺さず幸福幻想」
という行で説明される。(言いなおされている。)
「意味」を「こころ」に植えつける--それが「ことばの仕事」と言いなおされている。「ことばの肉体」は何事かを反芻する。そうすると、その半数を支える動きが「意味」になって「こころ」に「記憶される」(こころが、それをおぼえてしまう)。「こころ」とは無意識に記憶された「肉体」のなかの何かである。「何か」も特定できないし、「肉体のどこ」ということも特定できない。「こころ」がどこにあるか、私たちが「特定」できないのは、そのためである。こころは「手」にあるのかもしれないし、「並ぶ」ときの「足」にあるのかもしれなし、「並んだ」ことを確認する「目」にあるのかもしれない。だから「こころがおぼえる」は「肉体がおぼえる」でもあるのだ。
山本は、今回の一連の詩で、「ことば」の「肉体性」へと近づいていっている。「ことばが肉体である」ということを明確にするために、「引用(他者のことば)」が鏡のようにつかわれている。人の振り見て我が振り直せ、ではないが、他者からの反映が「ことばの肉体」を刺戟する。並んだことばを「意味」に結晶させる。
ことばはことばとして「肉体」をもち、「ことばの肉体」そのものが動いていくことがある。これをインスピレーションとか霊感と呼ぶこともできる。山本は「みずすまし」に誘われて、「ことばの肉体」が動くのを感じた。そして、それを追いかけた、というのが今回の「書き下ろし詩集」ということになる。
このインスピレーションは、一篇の詩、あるいは「ものがたり」へと動いていくものだが、インスピレーション自体は「整列」していない。「孤」のままである。こうした「孤」、つまり「つなぎとめられていない状態」を「03水陰草」では、こう書いている。
あちこちでいくつもの
ことばの決壊が
はじまっているらしい
それがこのちいさな
水場までも
届いている
「決壊」。ほどかれてしまった存在。「水の流れ」は「ことばの流れ」。そこからあふれてしまった過剰なことば。それを詩と呼ぶ。詩は、みずすましとなって、水場にありながら、遠い水の流れ、その決壊を象徴する。
「ことばの肉体」は詩を選ぶか、散文を選ぶか。ことばを生きるそれぞれの人の個性によって違うだろう。詩を選んだとしても散文は響いてくるし、散文を選んだとしても詩が残る。その交渉のなかで「ことばの肉体」が成長していくのか、あるいは「肉体のことば」がその交渉に制限を与えるのか。これは簡単には断定できないが、そういう交渉がこの詩集のなかで展開されている。
*
この詩集の「14水分補給」に、突然、私の名前が出てくる。もちろん架空の名前で私とは無関係な存在として読むことができる。もしかしたら「谷川(俊太郎)」の書き間違いかもしれないが、私の名前と思って読んでみる。
行をかえると
先にすすむような気がする
散文のままだとさまようばかりで
その先へとすすめない
そんな気がするのだ、思い切って、
刻んで、ゴロゴロにして
谷内さんならここをどう読むんだろう
な、と思いつき、笑う
お、笑えるんだぼくは、そうだ、ぼく、
と自分のことを呼べるんだ
ぼくは、そして読点じゃなくて、句点。
ことばを転がしているうちに
肉体に出会う
そこがはじまりなのだ
(ね谷内さん
「どう読む」と問われれば、「ゴロゴロにして」ということばは、私の肉体からは出てこないというのが、最初印象としてある。行を変えるのは、私にとっては「重し」を捨てること。私は「刻む」という面倒くさいことはしない。切って捨てる。「ゴロゴロにして」「転がす」ということはしない。「重し」を捨てると、すこし身軽になる、というのは錯覚かもしれない。しかし、私はその錯覚に身をまかせる。見えたかもしれないもの、間違いかもしれないもの、それを「掴む」ために、書いてきたことばを捨てる。
「肉体はおぼえたことを忘れない」というようなことを私は書くが、実は、私は「おぼえる」ということが大嫌いだし、苦手だ。だから反省を込めて、そう書くのかもしれない。一方、山本は私とは逆に、「切る」だけでは満足せず、「刻んで」、そのうえ「ゴロゴロにして」(たぶん肉体になじむまで、手でこねて、まるめて)、さらに「転がす」のだ。そうやって書かれたのが、山本の詩だ。「捨てた」はずのものが、うしろに整列している。その整列の仕方は「ばらばら」に見えるかもしれないが、捨て方に「手でこねて、まるめて、ゴロゴロにして」という「手間」が見える。「手間」というのは「肉体」のことでもある。「肉体」が過ごしてきた「時間」。だからね、笑えるんですよ。こんな無駄な時間のつかい方をして、と。
たとえていえば、ごみ捨て場に、捨てにきたはずの不用品が丁寧に並べられているようなもの。捨てるんだけれど、愛着があって、それを並べてしまう。整列させてしまう。それを見ると、あ、これは捨ててあるんじゃなくて、私はこの不用品をこんなに愛していると告げたくて、ここに置いてあるんだな、と思う。「ごみ」という比喩は、乱暴すぎたかもしれないけれど、そういう「ことば」の整列を見ると、ほら、
アメに似た甘い臭気が
しばらく周囲にただよう
という感じがしない?
「アメ」に似ているかどうかは、読者しだいで受け止め方は違うだろうけれど、何かそこにはないけれど自分の「記憶」のなかにあるものが、山本のことばによってひっぱりだされてきて、そこに漂っている。それは、だから、山本が愛したものを「共有」するというよりも、自分の肉体の中にあるもの、山本の肉体の中にあるものを「共有」する。「肉体」そのものを共有する、という感じになる。
セックス、ことばの肉体のセックスだね。そこを、もっと。ここは、ど? あ、そこ、違う。こっちは? ダメだって、もう、ほんとうに。なんて、声が思わず漏れてしまうと、きっと、その「批評」は成功したことになる。ことばが性交した、ということになる。したいことと、されたいことは、みんなひとりひとり違うからむずかしいんだけどね。
こういう具合だから、気取った女性から私は嫌われる。おばさんからは突き飛ばされる。おじさんは、どうかなあ。「博物誌」の表紙には、いつも「×(バッテン)」が印刷されているんだけれど。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com