詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2019年11月25日(月曜日)

2019-11-25 23:38:35 | 考える日記
2019年11月25日(月曜日)

 「ある」と「ない」について書こうとしたが、書けなかった。
 何もない「ある」がある。「無」が「ある」と書いてしまうと、違うのだ。「名づけられたもの」が「ない」。
 何もないは「具象(名)」がないということである。「具象」はそこにはなくて、しかし、「何か」特定できないものがある。そこから「具象(名)」生まれてくる。「具象がある」という状態。「世界」が生まれる。それはたしかに「ある」のだが、それを「ない」と言ってしまうのが、最初に想定された「ある」なのだ。
 もし「実在」するものがあるとすれば、「生まれてくる」という運動(具象を生み出す力)と、具象になった瞬間に「具象はない」と断定する力だけである。
 そのふたつは、ともに「ことば」であって、それ以外のものではない。「ことば」は、そういうことを明らかにするためにある。

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野沢啓『発熱装置』

2019-11-25 20:31:50 | 詩集
発熱装置
野沢 啓
思潮社


野沢啓『発熱装置』(思潮社、2019年10月31日発行)

 野沢啓『発熱装置』の巻頭の詩。その「1」の部分。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 「ことば」が主語/主役である。
 「ことば」は野沢ではない。だから「ことばは放たれたい(放たれることを欲する)」ではない。「がっている」という「ことば」が追加されている。つまり、野沢は「ことばははなたれたいと欲している+ようにみえる」と野沢自身の「立ち位置」を表明する。
 しかし二行目では、野沢は姿を消す。「+ようにみえる」がない。「ことば」がほんとうに「場所をもとめている」かどうかはわからないのに、野沢は「代弁」してしまう。
 三行目はどうだろうか。「ことば」と野沢の関係はどうなっているか。
 「ことば」は「この空間」に「放たれる」ことを願ったか。わからない。「ことば」がそう欲した、そう願ったのではなく、野沢が「放ちたがっている」のである。ことば「を」放ちたがっている。主語(主役)が一行目とは完全に違っている。交代してしまっている。野沢が「能動」として動いている。そして「この空間」を「用意した」のである。「用意された」と「受け身」の表現がつかわれているが、それは自然に用意「される」ものではない。野沢が用意しないかぎり、それは存在しない。
 「誰のものでもないことば」があるとすれば、「誰のものでもない空間」もあるだろう。しかし、その「誰のものでもない」は瞬時に「誰かのもの」になる。その「刻印」が「この」ということばのなかに残っている。
 「この」「その」あの」。「この」は身近なものをさす。「この」と言えるのは、どうしてもこの三行を書いている野沢である。「誰のものでもないことば」はどこに存在するか、それ自体わからない。あるいは存在するかどうかもわからない。そういう不確定な存在が「この」という指示詞をつかうことにはむりがある。

 ちょっと面倒くさいことを書いたが、何を言いたいかというと。
 ここに書かれているのは「ことば」それ自体ではない。「野沢」それ自体でもない。「ことば」と「野沢」が交渉している。そして、その交渉では、「ことば」はみずから何かを発言するということはないので、「野沢」が「ことば」になりかわって発言するということが起きる。
 問題は。
 「誰のものでもないことば」はほんとうに存在するかということがひとつ。だぶん、そういうものはない。だから早くも「2」では「他人のことば」が引用される。

「われはすべての書を読みぬ」
とうたったフランスの象徴詩人のことばを
真に受けて批判するロシア文学研究者は
世界文学の涯知れなさについて
論理的に語ってみせる

 このとき「引用されたことば」は、マラルメのものであるけれど、引用された瞬間から野沢が「引用したことば」になる。引用しなくても存在しているが、引用しなければ「この空間」には存在しない。「この空間」が野沢が用意したものである以上、「引用されたことば」は「この空間」に「放たれたがった」かどうかはわからないが、野沢が「放ちたかった」ということであろう。

 あ、こんなことを書いていけば堂々巡りか。
 もっと飛躍して、遠いところから、「ことば」と野沢の「交渉」(関わり合い)を見つめなおした方がいいのだろう。
 「18」まで飛んでみる。

そのひとにしか意味のない方法が
それがことばだ

 「意味」という表現がつかわれている。「ことば=意味」だと仮定して(途中を端折っているので、こういう乱暴を私はしてしまうのだ)、「意味」とはなんだろう。
 「ことば」が指し示すものに「現実/実在」がある。
 たとえば「机」。それは私がつかっている机の場合、木でつくれらている。四角い板がいちばん上にあり、脚がついていて引き出しがある。それをとりあえず「現実/実在」と呼んでおく。「机」の「意味」は、それでは何か。私の場合、「ものを書くときの台」と言えるかもしれない。
 でも別のひとは花を活けた花瓶を置く場所、さらに別なひとはドアが開けられないようにおさえるための「もの/道具」としてつかうかもしれない。「意味=つかい方」は人によって違う。
 野沢が書いていることは、そういうことではない、というのは承知の上で、私は、そういう具合に「ことば」と「意味」の関係を「誤読」する。つまり野沢が書き記したことばを利用して、自分勝手に私自身のことばを動かし、考え始める。
 私は、いつも、そうしている。だから、私の書いていることは詩の感想でも批評でもないことになるが、それはテキストを出発点としているという意味では、何らかの感想や批評でもありうるだろう。
 で。
 私が、ここからさらに考えたことというのは、こういうことである。
 「ことば」は「もの」の存在を指し示すと同時に、「意味」をも指し示す。「意味」というのは「人それぞれ」が何を必要とするかによって違ってくる。ひとは、それぞれの「意味」を生きている。だから「意味」が「共有」されるということはありえないと考えることもできるが、それにもかかわらず人間は「意味」をもとめ、それを共有したがる。このときの「意味」とは「真実」ということかもしれない。
 その「真実」とは、どこにあるのか。もちろんひとりひとりのなかに、そのひとだけの「真実」というものがあるのだろうけれど、そのことを厳密に語り始めると収拾がつかなくなるので、またまた端折って、私は……。

 「真実」というものは「ある」にはあるのだが、それ自体を指し示すことはできない。「意味」はいつでもどこにでも「ある」が、それ自体も直接的に指し示すことはできない。世界が「ことば」によって具体的な「もの」を出現させる。その「もの」としてあらわれた「ことば」を自分で動かすとき、必然的に「自分の意味(つかい方)」と「他人の意味(つかい方)」の違いに出会い、「意味」の修正が始まる。その「修正」作業をささえるもの(許すもの?)が「真実の幅」のようなものなのだ。「意味の修正」とは「間違いの修正」でもあるから、間違うことをとおして「真実」の方向を見出すと言ってもいいのかもしれない。
 「真実」は「ある」。でも、それは明示できない。「方向」として指し示すだけ、つまり、その方向へことばを動かしていくだけ。もし「真実」があるとしたら、そういう「動き(運動)」そのもののなかにある、ということになるだろう。
 で、書き出しにもどる。

ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ

 私はこの三行を、ことばは「間違い」から開放されたがっている。「真実」をもとめて動きたがっている、と野沢は感じている。(真実を「詩」と言い直すと、詩について語ることになるか。)
 ことばはすでに語られている。語られていないことばはことばではない。だから「誰のものでもないことば」というのは厳密にはない。ことばとことはの結びつけ方、ことばをつかって、ことば自体を動かしていく「方法」には、誰かの方法というものがある。「文体」と呼んでもいい。また単に、「確立された表現」と呼んでもいい。そのことばは「引用できる」。しかし、引用した瞬間に、それはテキスト(文脈)を失い、別の存在になる。引用したものが、引用に別の「意味」をつけくわえてしまう。別の「意味」になりたがっている、つまりいま「ことば」を拘束している「意味」から放たれたがっていると感じてしまい、どうしても別の「意味」をつけくわえてしまう。ひとはそれぞれ別の人生を生きているからである。引用される前から「別のテキスト」を求めているように感じられたが、引用してしまうと、物のテキスト(意味)になりたいという運動が加速する。これを「ことば」を主語ではなく、人(野沢)を主語にして言い直すと、野沢は別のテキストに組み込みたいからこそ「引用」するのである。そして、自分の「意味」をつけくわえることで、「真実」というものに近づこうとする。
 そして、その運動の場が、野沢の場合、この詩という空間なのだ。
 「運動」というのは熱を発する。「発熱装置」と野沢がこの詩集を呼んでいるのは、そういう意味、比喩なのだろう。



*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(27)

2019-11-25 08:43:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは空しいものを集めて)

長い橋をつくつた
いつたいその橋はどこへ架かつているのだろう

 この橋をつくる、橋を架けるとき、嵯峨は「対岸」がどのような場所か知らない。橋はここ(此岸)ではないどこか(彼岸)へとつながる。
 だから、詩は、必然的に、こう展開する。

その橋は女の方へむかつて架かつているだろう
すでにその女が死んでいたら
それでもぼくはその橋を渡つていくだろう

 橋を架けるは、橋を渡るという「動詞」を動かすために、絶対に必要なものだ。この絶対的な必要性を、切実さと呼ぶ。





*

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