詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛敬浩一自選詩集『真昼に』(2)

2019-11-12 11:56:39 | 詩集
愛敬浩一自選詩集『真昼に』(2)(書肆山住、2019年04月01日発行)

 愛敬浩一自選詩集『真昼に』の、きのうのつづきではなく、別のことを書いてみる。別のことを書いても、同じになるかもしれないけれど。「繭」という作品。

夜のような沈黙の底で
波の音に浮かぶ
電話ボックスが
発光している
辺りにはだれもいないのが
ここからも見える
まるでなにかの説話ででもあるかのように
やがて彼女は
細い細い糸を静かに吐き出し始める

 電話ボックスの中に女がいる。海辺、かもしれない。だれかと話している。それを見ながら「男」の妄想が始まる。「声」は「糸」になって「見える」。男の妄想は「視覚的」である。
 「沈黙の底」「説話」ということばが、「男」を感じさせる。

電話ボックスは
波の音に揺られ
ゆらり
その時
彼女が見ているものはなんだろうか
彼女の尻上がりの声
ゆらり
決して自分から切ることのない電話を
ぐるぐる自分の身体に巻きつけながら
そこで彼女は
繭をつくる

 男は自分が視覚的人間だからこそ、他人も視覚的人間だと思う。「彼女が見ているものはなんだろうか」という「妄想」を女がするとは、私には思えない。(女なら、「彼女が触っているのはなんだろうか」と「妄想」するだろうと私は考える。)
 「尻上がりの声」は、もちろん聞こえないのだが、男は「尻」ということばをつかうことで「尻」を視覚化したいのである。
 そこには「彼女が見ているもの」ではなく、男が「見たいもの」がことばとなってあらわれている。しかし、いつでも「見たいもの」は「見えないもの」である。「見えない」から「見たい」。その「見える/見えない」のせめぎ合いでは、「見えない」ことによって「見たい」が強くなるので、「見たい」を強くするためにさらに「見えない」が増えてくる。
 「ぐるぐる自分の身体に巻きつけながら」は吐き出した「糸」であり、電話のコードであり、巻きつけているのが「見える」間は、女の肉体を縛る楽しみである。しかし、それがつづくと「繭」になって見えなくなってしまう。「見えなくなる」を楽しんでいるともいえる。矛盾だが、セックスとは、常に矛盾を含んでいる。苦しくないなら快感ではない。

波は見えないが
電話ボックスが
遠く流されて行くのが
ここからも見える
ゆらり
私の視界を越える手前で

電話ボックスが
考えられないほどの発光を始めたところだ

 まるでオナニーが終わった後の、何もすることのない男の見る風景である。欲望を果たしたのだから、もう見なくてもいいのだが、まだ見てしまう。「見える」と自動詞にしてしまっているが、こういう「逃げ方」に「おっさん」になれない「少年」の匂いがあると私は感じる。
 最後は、女を「発光」させることで、男の「妄想」を消している。「光」は「妄想の闇」を「浄化」する力である。こういうところは「気取ったおじさん」。
 と書いてしまうと、きのうのつづきになってしまうか。
 だから、違うことを書く。
 この詩のどこが好きか。
 私は、ことばの「リズム」が好きである。読んでいて、むりがない。「ゆらり」ということばは意識的に独立させられているのだが、それは次のことばを飛躍させるための「踏み台」にもなっている。「その時」「今」という、どうでもいいような「区切り」も、「妄想」の切断と接続の自然な「息継ぎ」になっている。ことば全体を「文語」ではなく「口語」が貫いている。それも鍛え上げた「雄弁」(たとえば石毛拓郎節)ではなく、訓練を放棄したしずかな口語だ。
 ほんとうは「抑制する力を鍛え上げた」成果としての口語かもしれないけれど、増殖することばが現代詩であった時代を生きてきた男のことばとしては、とても静かだ。
 そういう部分が、愛敬の魅力かもしれない。
 似たような(?)作品に「一行だけ抱いてよ」がある。

花瓶
しばらくは少しの距離をおいた
眺め
手をのばすのは

でもいいし次の
瞬間
でもいいと思う思いを
くゆらす
なにげないようにそっと
背後から抱く
こじつけを
のけぞっていく 物語の
枝や葉
を支えて
走る
舐るようにゆっくりと
するするとのびてゆく
糸のように
走る

が噴く
月明りではなく
午後の光りの中
香り始める
薔薇

 手書きのリズムかもしれない。ことばを手を通して動かす。口語だけれど、会話ではこういうしゃべり方はしないから、書くことで制御された口語だといえる。「文字」でことばをととのえる(目で見ながらことばをととのえる)詩人なのだ。





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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(14)

2019-11-12 09:37:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (なぜこんなに心せかされてくるのだろう)

 疑問、問いかけで始まる詩の途中に、次の二行がある。

ふと対岸から鐘の音がきこえてくる
いくつか鳴りつづいて遠くで鳴りやんだ

 「対岸」が遠いということなのかもしれないが、私は「鐘の音」そのものが鳴りながら遠くまでいって、その「遠く」で鳴りやんだと受け止める。「遠く」へ消えていくのではなく、「遠く」の一点でぱたりと「やむ」。
 「やむ」ことが聞こえる。
 その絶対的な「無」の感じが美しい。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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涙の皇后

2019-11-12 09:15:12 | 自民党憲法改正草案を読む
涙の皇后
             自民党憲法改正草案を読む/番外302(情報の読み方)

 2019年11月12日の読売新聞(西部版・14版)社会面に、天皇の即位パレードの記事がのっている。

涙の皇后さま

 という見出しで、皇后が「時折、手で涙をぬぐわれた」と書いている。なぜ、皇后は涙を流したか。

 皇室に詳しい河西秀哉・名古屋大准教授(日本近現代史)は、皇后さまの涙について「沿道にきた大勢の人たちに励まされたという思いが涙にあらわれたのではないか」と指摘する。

 読売新聞は、そう「推測」させているのだが。
 私は皇室のことなど知らないから疑問に思うのだが、皇后は国民から「何を励まされた」のか。つまり、皇后は、どういうことで苦しんでいたのか。そのことが明示されていないと、何がなんだかさっぱりわからない。
 読売新聞は、「ぼんやり」とこういうことを書いている。

 皇后さまは皇太子妃時代、適応障害で療養に入り、一部から批判にさらされた。体調が万全でない中、訪れた各地で歓迎され、自信を取り戻してこられた。

 ようするに「皇太子妃」のときは批判され続けたが、皇后になってから批判されていない。それを実感して涙を流したということなのだが、皇太子妃時代の「批判」って何? 誰からの批判?
 簡単に言えば、男子を産まなかったこと(産めなかったこと)だね。そしてそれは、国民からの批判ではなく、「男系天皇/男子天皇」にこだわる人々からの批判だ。その当時は、安倍は「首相」ではないから、そういう批判にどれだけ関与できたか知らないが、内心では批判しただろうと推測できる。

 で、ここから、私は「妄想」するのだが。
 平成の天皇の「生前強制退位」(安倍が仕組んだ、と私は考えている)からはじまり、新天皇の即位、元号改正、パレードまでの一連の大騒ぎのあと、何がくるか。
 新天皇・皇后への「祝福」は、東京五輪が終わるとき、きっと終わる。「天皇制」をどうするか、という議論が活発になる。
 安倍は「男系天皇」にこだわっている。小泉時代に「女系・女性天皇容認論」が出たとき、悠仁を引き合いにだし「男系天皇」を維持できるのに「女系・女性天皇容認論」を打ち出すのはおかしいと強硬に反対した。そして「女系・女性天皇容認論」は消えてしまった。
 その安倍の「思考」をそのまま動かしていくと、絶対に、いまの天皇を「生前強制退位」させるという動きが出てくる。(すでに平成の天皇のとき、成功している。だから、それを繰り返す。)「制度」というのは常に「持続」される保障がなければ「制度」として成り立たない。常に次の天皇はだれか(皇位継承者)が想定されていないと意味がない。天皇になるためには、天皇になるための「教育」が必要である。
 いまの天皇に「皇太子」はいない。秋篠が「皇嗣」、次の継承者である。これまでどういう「教育」を受けてきたか知らないが、天皇になる(継承する)という意識はあまりないだろう。それにいまの天皇が自主的か、死亡かわからないけれど、天皇でなくなるとき、秋篠はもう高齢である。天皇を引き継いでも、短期間であり、「天皇制の安定」という点では問題が起きる。どうしたって、その次の悠仁が「実質的な皇位継承者」ということになる。そのための「教育」も始まるだろう。
 そうなったとき、皇后の「立場」はどうなるのか。ふたたび、男子を産めなかった皇后という立場に逆戻りするのではないのか。そのとき「批判」は浴びないかもしれないが、「無視」がはじまるだろう。存在しているのに、「いない」存在になるのだ。それだけではない。「存在しなかった」になってしまうのだ。
 私はテレビを見ていないので、はっきりとは知らないのだが、安倍は即位パレードで車の窓を開け、車内から国民に向かって、天皇のように手を振っているというニュースをネットで読んだ。平成の天皇を退位させ、いまの天皇を誕生させたのは安倍だ、ということをアピールしたのだろう。天皇は「象徴」だが、それをあやつっているの権力者としての存在をアピールしたのだろう。安倍は、このあと「悠仁天皇」が誕生するまでさまざまな画策をするだろう。「悠仁天皇」が誕生したら、別の車ではなく、「悠仁天皇」と同じオープンカーにのってパレードするはずである。
 それはやりすぎだ、そこまではしない、と多くのひとは思うだろう。だが、「男系天皇」にこだわる人間がいて、その集団が安倍の「悠仁天皇」構想を支えているのだから、それは必ず実現する。安倍は、そのときは完全にと臭い者になっているから、何でもしてしまう。
 そのとき雅子は、自分の人生は何だったのかと振りかえり、悔しく、悲しい涙を流すだろう。パレードで流した涙のことは夢の夢、はるかな幻となって消えているに違いない。そして、私たちは知るべきなのだ。それは単に皇后の人間性を否定するだけではなく、皇后の人間性否定を通して国民の人間性を否定することにつながってくる。人間を「国家の維持」の道具としてつかう、ということがもっと徹底されるのだ。この場合の「国家」とは「国家権力」であり、「安倍独裁」と同じ意味である。
 「男尊女卑」丸出しの、いまの「天皇制」がかわらないかぎり、「雅子の悲劇」は繰り返される。安倍が首相でいるかぎり、「人間性否定(人間性無視)」の社会がつづくのである。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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