詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(8)

2019-11-06 08:53:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (そっとしておこう)

そっとしておこう
ぼくのまずしい小さな命を

 「命」とはなんだろうか。「まずしい」と「小さい」。ふたつの形容詞を積み重ねたのはどうしてだろうか。どちらを強調したいのだろうか。

ぼくの感情に少しばかり朱を点じよう
小さな生命をのせて蜜蜂のように唸らせよう

 「少しばかり」「小さな」。ふたたび似たことばが繰り返される。「命」は「生命」とことばを変える。
 変わらないのは「……おこう」「……しよう」「……せよう」である。「……せよう」は「使役形」をとっているが、同じように「意思」をあらわしている。何かをする、という意思が書かれている。しかし、それは実際には「行動」にはならない。嵯峨は動かない。「そっとしておこう」。何もしないで、想像のなかで動くだけなのだ。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋南子「干し柿」

2019-11-06 07:11:02 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「干し柿」(「Zero」12、2019年06月14日発行)

 朝吹亮二『ホロウボディ』の「わたしはむなされていた」は、「意味」がわからない。「意味」がわからないからこそ、私はあれこれ「余分」なことを考える。そして、その「余分」を朝吹の差し出している「余分」と交換する。
 朝吹は「余分」と感じていないかもしれないが、表現されたもの、読者に提出されたものは「余分」と定義してもいいと私は思っている。ほんとうに朝吹にとって必要なものならば、それを朝吹は「ことば」として提出するはずがない。ずっと朝吹自身で抱え込んでいるはずである。他人が読んでかまわないと判断したのは、それがすでに「余分」になったからである。
 詩は、多くの商品のように「売れる」ということは少ない。だからなかなか「商品」とは認められないのだが、少なくとも書いたひとは「商品」にしようとしている。(商売ではなく、芸術のために書いているとかなんとか言うのは、方便である。)そして、「商品」というのは、どんなときでも「余分」なもの、自分では「つかわなくなったもの」である。「ことば(詩)」が特徴的なのは、それを「商品」として売り払ってしまった後も、なおかつ自分のものと言える点である。「売ったはずのことば」は依然として、書いた人の「肉体」のなかに残っていて、それを踏まえて「ことば」からさらに「余分」を生み出し続けることができる。他人が(たとえば私が)、朝吹の「発表したことば(売りに出したことば)」を引き継ぎ、加工して売り出すと「盗作/剽窃」ということになる。「換骨奪胎」という言い方もできるけれど。
 あ、脱線した。
 もとにもどって言いなおそう。
 「詩」だけに限らないが、あらゆる「商品」は、それをつくった人がどう思っているかわからないが、「余分」なのものにすぎない。どれだけ「余分」を生み出すことができるかが、いわば「商品価値」を決める。「ことばの暴走」がときに「詩」として評価されるのは、つまり、そういうことである。
 「意味」以上のものがある。
 その「意味以上」は、どうつかっていいか、「他人(読者)」にはわからない。でも、なんとなく、それを「つかってみたい」という気持ちになる。書いた人に「余分」なものが、なぜか自分には「必要」に見える。「それ、おもしろそう」という感じが、この場合「必要」ということなんだけれど。
 その「余分」をつかえば、何かおもしろいことが自分にもできそう。つまり「余分」を生み出せそうな感じ、自分が自分ではなくなる(自分の限界を越えられそうな気がする)。そういう感じを味わうために、たぶん、ひとは「ことば」を読む。詩を読む。小説を読む。

 という前置きは、必要ないものかもしれないが、私は書いておきたくなった。

 と書いて、やっと、長嶋南子「干し柿」について書き出せるかなあ、と私は思っている。
 何回か書いたが、私にとって長嶋南子は「おばさんパレード」には欠かすことのできないスターである。この「おばさん」はどんな「余分」を持っているのか。「意味」を越える「余分」をどんな具合に吐き出しているか。
 「干し柿」の全行。

渋柿をもらった
皮をむいてベランダに吊るす

わたしをベランダに吊るす
しわしわになって食べごろ
こんなに甘くなるんだったら
もっと前に干せばよかった

ベランダで
陽をあびて風にふかれ
水分が抜けていく
張りがなくなったこのからだ
いまさら甘くなったって

つやつやの渋柿のころがなつかしい
誰にもかじられず
ふくれっ面でななめ向いて
タバコふかしてエラそうにしていたあのころの

 「渋柿」という「もの」と、歳をとって(あ、歳を重ねて)、他人のあれこれを許容できる(受容できる)という「長嶋の事実」が、「甘い」ということばのなかで「交換される」。長嶋は「渋柿」と「自分」を等価交換(意味の明確化)をしている。「商売」している。
 この段階では「余分」は、まだ生まれていない。
 「余分」は「しわしわになって食べごろ/こんなに甘くなるんだったら/もっと前に干せばよかった」という「思い(比喩による強調)」である。といっても、これはきちんと順序だった動きではない。比喩による強調によって意味が明確化されるのだから、ほんとうは、そのふたつ「意味」と「強調(余分)」は区別できない。はっきりしているのは、この「意味」と「余分」をことばにするまでは、「意味」にとって「余分」は必要なものだった。長嶋には、その「余分」がなければ「意味」は成立しなかった。でも、実際にことば(意味)にしてしまったら、もうそれ(余分)はいらない。長嶋には「わかってしまった(意味が明確になった)」ことになる。だから「これ、買ってちょうだい」と売りに出すのである。
 私は、「あ、買います」とすぐに手を伸ばす。「それ」が欲しいのだ。それを自分のものにすれば、自分の知らなかった「意味」が明確になる、と思ってしまう。
 でも、「それ、買います」と言って、それを「自分のもの」にするために、あれこれつかおうとするのだが、うーん、うまくいかない。そうだよなあ。それは長嶋の「肉体」のなかで動いていた、長嶋に必要だったことば(意味を明確にするための過剰)であって、それをそのまま私がつかうという具合にはいかない。自分のつかえるように、工夫しなくてはならない。
 どうすればいいのかな?
 これは、よくわからない。わからないまま、私は、べつのことを考える。長嶋のことばを「つかう」のではなく、それを「目の前」において、自分のことばを動かす。長嶋のつかい方とは違うつかい方をする。(これを、私は「誤読」と呼んでいる。)
 どんなふうにか。こんなふうにである。

 長嶋のことば(詩)は「批評」である。
 「もっと前に吊るせばよかった」は、よく人が言う「もっと前に……すればよかった」という「後悔」の表現ではない。「こんなに甘くなって、だらしない」という「自己批判」を含んでいる。「自己批判」なのに「後悔」を装っている。つまり、この「装い」が「余分」ということになる。そして、それを「売り」に出しているのだ。さて、だれが買うか。買って、どんな顔をしてそれをつかうか。そういう「いじわる」な開き直りがある。この奇妙で、強烈な「いじわる」を私は「おばさん」の特徴だと考えている。「おじさん」にはこういう「いじわる」は思いつかない。「おっさん」は「いじわる」をするよりも「甘えん坊」になる。
 「おばさん」の「批評」は「おばさん」自身にも向けられる。「水分が抜けていく/張りがなくなったこのからだ」という具合に。
 と、思ってはいけない。これは実は「自己批判/自己批評」ではない。「このからだ」と書いているが、「この」からだだけを問題にしているのではない。
 これはねえ、ほかの「おばさん」を笑っているのである。自分を批評するふりをして、ほかの「おばさん」を笑っている。ここが「余分」のポイント。ここに書かれている「しわしわ」の女、(歳をとって、しわが増えた女)、性格(人柄?)が「甘く」なった女を想像するとき、たとえば私は、長嶋を思い浮かべない。私は長嶋にあったことがないから、長嶋がほんとうに存在するかどうかもしれない。長嶋を個人的に知っている一以外は、ここでは「どこかでみかけたおばさん(自分の知っているおばさん)を思い浮かべながら、ここに書かれていることを「事実」だと「誤読」する。
 ここには長嶋を超えていく「余分」、「他のおばさん」につながっていく「余分」が書かれている。
 むりやりがんばっていえば、これは長嶋を「他人」にしてしまって、そのうえで「他人としての長嶋」を笑っている。そういう「余分」なことをするのである。ふつうは、そういう「余分」なことはしない。ちらっと頭をかすめるかもしれないが、かすめたらかすめたまま、かすめさせる。明確に、だれにでもわかるような「ことば」にはしない。
 長嶋のしていることは、他人を笑う(おばさんを笑う)ことで、笑い(批評)を共有することだ。ここで笑った瞬間、共感した瞬間、読者は「長嶋おばさん」になるのだ。
 「他人としての長嶋」を笑った後、長嶋は「ほんとうの長嶋」に帰っていく。つられて、読者も、そこについてゆく。それが最終連。「なつかしい」ということばが特徴的だが、長嶋は、「甘くなった渋柿」ではなく、渋いままの「若い渋柿」を、やっぱりいちばん美しいと感じている。大事にしている。「私はただの干し柿ではない。渋柿だった」と自慢している。この自慢が、また、読者を気持ち良くさせるんだけれど。つまり、自分も「渋柿だった」と思い込ませるんだけれど。

 これってさあ。
 私は、ここで「いじわる」になる。
 これこそ「余分」じゃない? それなりに歳を重ねたんだから、いまさら「若いときは美しかった」なんて言っても、だれが信じる? 歳を重ねたら、やっぱり「渋柿」ではなく「干し柿」にならないと。
 若いおじさん(たぶん、私は長嶋より「若い」と感じている。ウディ・アレンによれば、男は歳をとらないそうだから)は、そういう「いじわる」を言う。
 あ、でも、私がいま書いたことは、ちゃんと長嶋は書いているね。
 やっぱり年の功。
 あるいは、女の強さ。
 「男(おじさん、おっさん)には書けないだろう、ざまをみろ」と、もう笑われてしまっている。
 私はなんとか「ちょっかい」を出したいのだが、いつでも押し切られてしまう。長嶋が先頭に立って「おばさんパレード」に繰り出したら、私は、長嶋に見つからないように電信柱の影にかくれて、それを見つめてみたい。
 見つけられて、あんなところに隠れちゃって、と詩に書かれるような「いじわる」されるといやなので、あらかじめ書いておく。






*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする