細田傳造「のろのろとした話」、田中庸介「朝」(「妃」21、2019年10月10日発行)
細田傳造「のろのろとした話」は、「のろのろとした」文体を読ませる詩である。文体というのは、説明がしにくいが「対象」との距離の取り方のようなものである。この作品では、細田は「ことば」を選ぶというよりも、むしろ「ことば」を選ばないということで「のろのろ」という感じの「文体」を作り出している。
岡野屋という旅館にあがった
三階の窓から海が見える
波が見えない鳥が飛んでいない
のろのろとした海を見ていた
おのみものはなににしますか
女の人がききにきた
のろのろとした女の人といっしょに
ビールをのんだ
「岡野屋」ということばは「選ばれたもの」なのか、たまたま「事実」がそうなのであるかわからないが、これはこれで「選ばない」ことによってそこに存在している。ほかの行のことばは、とても「選ばれたもの」という感じがしない。つまり、「詩的」ではない。言い換えると、「早く詩にしろよ」といいたくなるような感じ。
それが「のろのろ」である。
そういう意味では、「文体」として成功している。こういう「文体」は書けそうでなかなか難しい。細田はたいへんな「技巧家」であることをあらためて確認させられた。
で、そのあと、私は驚いた。
ちゃんぺしますか
女の人がきいた
きょうはしない
あした決行する
女の人に告げた
「ちゃんぺ」(する)という「ことば」の意味がわかりますか?
ふつうは、わからないだろうと思う。方言である。どれくらいの範囲でつかわれているか知らないが、私が生まれ育った能登辺りではつかわれていた。
「女性の性器」を指す。「動詞」にして「ちゃんぺする」と言えば、それは「性交する」という意味になる。
しかし、このことば、私は「つかわれていた」と書いたが、いまも「つかわれている」とは思わなかった。聞けばわかるが、最近、聞いたことがない。これは、私が故郷を離れて何年にもなるので、そういう話をする友達が近くにいないという理由もあるかもしれないが、どうも高校のときくらいから「ちゃんぺ」ということばは聞かなかったような気がする。そういう話をいちばんする時期に、そのことばをつかった記憶がない。だから、もうつかわれていないと思っていた。
それが、細田の詩に出てくる。
さて、これは「選んだ」ことばなのか、「選ばなかった」ことばなのか。ここが難しい。私は「選ばなかった」の方だと思う。そして、「選ばなかった」ということは、その新しく出会った「ことば」に身をまかせるということでもある。自分ではなく、「相手」に身をまかせる。(したがって、ここに登場する「女」は、細田がどこかから連れてきた女ではなく、旅館で出会った女ということになる。旅館で出会わなくても、能登辺りで出会った女ということになる。「ちゃんぺ」は女も口にする方言である。)そうすると、何が起きるか。「距離感」がいままでのままでは通用しなくなる。「文体」が変わるのだ。
あした決行する
この「決行」という突然の「のろのろしない」ことばがそれをよくあらわしているが、その後、「文体」はさらに加速的に変化する。などというものではなく、突然、激変する。
〈明朝然るべき時に
禄剛崎の懸崖より空に向かって飛翔する
真摯に風と交感し海に挿入(ちゃんぺ)したまま果てる〉
そういう風に心情を吐露していると
女の人がなにかのんびりしないことを
口早にいった
いじくらしい
今夜のうちに勘定ちゃっちゃとすませー
引用されているのはだれのことばか。細田の創作か。よくわからないが、この「文体」の変化は何を引き起こすか。
これがまたまたおもしろい。
いじくらしい
わかります? めんどうくさい、とでも言えばいいのか。やはり能登方言である。「ばかやろう」というような意味で、ここではつかわれている。女は怒ったのだ。「今夜のうちに勘定ちゃっちゃとすませー」は、「それじゃあ、勘定は今夜中にさっさと払ってください」である。「ちゃっちゃとすませー」は文字だけで読むとわかりにくい。最後の「音引き」部分の「え」の変化は、とてもあらわすことができず、しょうがなしに「音引き」にしたのだと思う。能登の人なら「ちゃっちゃとすませえぇえ」と変化がわかるように書くだろう。
ということは、ともかく。
細田は、たいへん耳のいい詩人なのだと改めて気がついた。「ことば」を「耳」でつかみとり、それにあわせて「肉体」を動かす形で「文体」を作り上げる(変化させる)という「技術」を完成させている。「文体」なのに、「肉体」を出現させるのだ。これは「小説の文体」であるとも言える。細田は、人間を書いているのだ。
*
耳と「文体」の関係でいうと、田中庸介「朝」もまた、そういうことを感じさせる。
たとえば朝の六時半に起きるとしますよね。
うちは家族四人が雑魚寝をしているから、自分が起きるときには三人が寝てる。
その三人を起こさないように、抜き足差し足で仕事に出かけようとして、
寝巻のシャツを脱いで棚に上げる。
寝巻のズボンを脱いで棚に上げる。
書き出しの「たとえば朝の六時半に起きるとしますよね。」の「よ」と「ね」のつかい方は、絶妙である。会話の末尾の「よ」は基本的には相手の知らないことを告げる。「きのう、私は映画を見たんですよ」。「ね」は逆に相手が知っていることを告げる。自分が知っていることでもある。つまり共有された認識がある。「それじゃあ、きみはきのう映画を見たんだね」。これが逆だとおかしい。「きのう、私は映画を見たんですね」「それじゃあ、きみはきのう映画を見たんだよ」とは、ふつうは言わないね。その相反する「よ」「ね」をいっしょにつかっている。いっしょにつかうことで、田中は読者を、そういうことは知っている(よくなるなあ)と思い込ませる。
こういう微妙な世界へ読者をなるべく自然に導くために、書き出しに「たとえば」がつかわれている。「たとえば」ということが成り立つのは、「類似」したことを知っている場合に限る。人が(読者が)ぜったいに経験したこと(あるいは想像したこと)がないものは「たとえば」ということばで続けることができない。知らないと知っているが微妙に混ざっているときが、いちばん、効果がある。知っているとしても、これから語るのはその知っていることとは少し違った知らないものを含んでいる。そして、それを「よ+ね」で念押しする。
あ、うまいなあ、と私はこの一行目でうなってしまった。
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