マーティン・スコセッシ監督「アイリッシュマン」(★★)
監督 マーティン・スコセッシ 出演 ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、ハーベイ・カイテル
この映画、監督と出演者の名前を見て、どう判断するか。私はアル・パチーノの大声が嫌い。それでずいぶん迷ったのだが、マーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロの組み合わせには「なつかしい」ものがあるので、ついつい見に行った。
クエンティン・タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でも感じたのだが、いま、アメリカは「懐古趣味」の真っ只中にあるのかもしれない。昔の「風俗」(社会情勢)が、とても丁寧に描かれている。「ゴッド・ファザー」のテーマ曲が、原曲のままではなく、編曲されてインストルメントで流れてくるところなんか、ちょっとうれしくなる。
しかし。
出演者の名前で気がかりだったことが、すぐにスクリーンで展開された。
ロバート・デ・ニーロの娘が店員をしている。何があったのかよくわからないが、娘はオーナーに叱られて(殴られて?)帰って来て、家にいる。怒ったロバート・デ・ニーロがオーナーに文句を言いに行く。のではなく、簡単に言うと、殴りに行く。復讐だ。
このシーン。もう、ロバート・デ・ニーロは動けません。76歳だからむりはない。いつまでも「タクシー・ドライバー」ではない。そうわかっていても、いやあ、もたもたしている。でっぱった腹が動きをさらに鈍くみせる。ふつうの「暴力」シーンが撮れないので、な、な、なんと。倒れたオーナーの手を踏みつぶす。これではまるでゲイの男の復讐。と書くと、偏見だ、と言われそうだが、とても「噂の殺し屋」として有名になる男とは思えない。「殺し」稼業は、「肉体」で戦うのではなく、銃で始末するのだから、とくに腕っぷしが強い必要があるわけではないが、どうもねえ。
私はこのシーンで、もう完全に「ダメ」。気乗りがしなくなってしまった。
映画そのものは、アメリカの政治が労組とマフィアがらみで描かれていて、とても丁寧につくられている。「裏事情」を私はまったく知らないのだが、アメリカというのは「政治」が国民のすみずみにまで浸透しているということが、よくわかる。
メインになっている労組は、トラック運転手の労組だが、トラックがあるからあらゆる商品がアメリカ国内に配送されるという「信念」が「権力」指向となって動くところがとてもおもしろい。日本の「連合」は、悪い意味で、この組織に似ているだろう、というようなことをちらちらと思いながら見た。
しかし、しかし、しかし。
やっぱり役者が年寄りすぎる。若い役者が老人を演じるとき、あまり違和感がないが、年をとった役者が若い年代を演じると、絶対にダメ。動きにシャープさがまったくない。さらに見慣れた顔が、見慣れた表情(演技)をするのだから、老人の学芸会という感じがしてしまう。ロバート・デ・ニーロは苦渋の表情と人懐っこい表情をおりまぜて演技しているが、苦渋のときの目に力がない。人懐っこい表情のときは「おじいさんの柔和な目」でもだいじょうぶなのだが、苦渋、懐疑の顔になると、まるで腑抜け。焦点があっていない。まあ、自分の内面をみつめているから、焦点があっていなくてもいいのかもしれないけれど、あの力のない目でどうやって「殺人」を乗り切るのか、見当がつかない。
アル・パチーノは、やっぱり好きになれない。いつからあんなふうに大声でわめきちらすことを演技と思うようになったのだろうか。「役どころ」は大声で労組をひっぱるボスだから、それなりの意味はあるのかもしれないけれど、声が演技になっていない。説得力がない。威圧しているだけ。大声で喚かないときは、しっかりした声なのになあ。どうしてふつうの声で演技しないのだろうか。
ジョー・ペシは、自分自身の「肉体」を動かさない役なので、「体型」に目をつぶれば、それなりにおもしろい。とくに、あのしゃがれた声が「裏舞台」を生きている感じがしていいなあ。何か「権力闘争」で精神を使い果たしたような声だ。最後の方のからだが不自由になったシーンの演技はいいなあ。自分のあわれさをわかって受け入れている。悪いことをやって、もう充分、人生を楽しんだ。仕方がない、という顔をしている。
そのあとに、まだまだロバート・デ・ニーロの人懐っこい目が語り続けるんだけれどね。娘が大好きなのに、娘から愛されないのはつらい、ということを訴える。
老人映画と思って見ればいいのかもしれない。
でも。
若いときのロバート・デ・ニーロやアル・パチーノを知らないからかもしれない、マーティン・スコセッシを知らないからかもしれないが、私の隣の若い男(30代?)は、「うーん、久々に感動する映画を見た」と独り言を言っていた。
妙なことに、映画を見た直後、他人の感想が、最近耳に入ってくることが多い。
(2019年11月16日、KBCシネマ1)