詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朝吹亮二『ホロウボディ』(2)

2019-11-05 10:31:33 | 詩集
ホロウボディ
朝吹 亮二
思潮社


朝吹亮二『ホロウボディ』(2)(思潮社、2019年10月10日発行)

 朝吹亮二『ホロウボディ』について、私はきのう何を書いたか。「リズム」ということばを書いたはずだが、それ以外は覚えていない。
 というか。
 きのう書いたことをきょう読んだ詩につづけることができないので、きのう書いたことは捨ててしまうのだ。「覚えていない」と書くことで。
 「わたしはむなされていた」という作品。

わたしはむなされることばがいつもくちびるのうえでうたうのだった

 「むなされていた」「むなされる」。終止形は「むなす」? 
 こんなことばを私は知らない。
 「むなす」は「空しくする」ということか。
 あるいは「うめ」「うま」は「むめ」「むま」と書かれることがあるから、「うなされていた」「うなされる」ということか。
 わからないが「されていた」「される」という「使役形」が、私の「肉体」に残る。何かが、自分の意思とは違うものによって動かされている感じ。動かされるといっても、動くのは自分の「肉体」である。その「肉体」がここでは、

むなされることば

 と、「ことば」と言いなおされている。「わたしは(むなされる)ことば」。つまり、何らかの動きを強いられていることば。何かを強いられながら、

いつもくちびるのうえでうたうのだった

 うーん、「くちびる」か。しかも「くちびるのうえ」。
 ここでも私は「う」と「む」の交錯を聞く。さらに「ことば」の「ば」の音にも。

わたしはむなされることばがいつもくちびるの「む」えで「む」た「む」のだった
わたしはむなされること「ま」がいつもくち「み」るの「む」えで「む」た「む」のだった

 私の「肉体」は鼻音にうなされる。追いかけられ、どこへも行けない。

わたしはむなされることばがいつもくちびるのうえでうたうのだった
摺るようにあるいは滑るような気分で
むなされたままわたしはと二度ずつくりかえし外出し川ぞいにあるいてゆくのだが
そこはざったな店がならび、珈琲や古着の木の看板にまじって中古家具
苔屋、古書店までならんでやがて暗い画材屋にいたるのだが
いきかうきれいなおねえさんが発する摺るような俗語の断片にむなされるの
だった摺るような音響にむなされるのは
水曜日の語学の刻苦のせいだろうか

 何のことかわからない。わからないが、私の「肉体」と「む」という唇の先端(いわば肉体のいちばん外側)との対極に「か行」の音があって、それが「む」(ま行?)に取って代わろうとしているように感じられる。「外出」「川ぞい」「珈琲」「古着」「木(の)看板」「中古/家具」「苔」「古書店」「画材」。「む」の音は唇を閉ざすことによって生まれるからか、どこか「暗い」。鼻腔を通って逃げていく「息」は暗くてなまあたたかい。「か行」の音は口蓋の奥の方で生まれる。その奥深さが「暗い」が、「ま行」のように鼻腔を通らずに口腔を通ってくるので広がりがある。言うなれば「いきかう/きれいな」おねえさんのように。
 などと書いても、何の「意味」にもならないのだが。
 私の「肉体」がこの詩から感じるのは、そういうことなのだ。
 ここには「意味」よりも、「肉体」を刺戟する音がある。私は「音読」をしないが、そして「音読」をしないからかもしれないが、朝吹の交錯させる「音」が肉体を奇妙に切断しながら接続する。

いきかうきれいなおねえさんが発する摺るような俗語の断片にむなされるの
だった摺るような音響にむなされるのは

 この行わたりの「むなされるの/だった」ということばのように。
 この奇妙な「音」を「肉体」で刺戟された後、それにつづくことばを読むと、新しく広がる音の「軽さ」に驚きながら、さっき聞いたはずの音の「もたつき」が懐かしくなる。

わたしはわたしはわたしはフランス語の滑空する俗語の音だった
きつきつに巻かれる弦のように
くるくるくるっと夏がくる
ように唐突に
おびやかされる
俗語も断片なら思考も断片になる
どのくらい坂をのぼり坂をくだったのか歩行したのか滑空したのだったかわたしは

 ここにも「か行」の音がつぎつぎに出てくる。もう「む/無」につながるのは「巻かれる」の「ま」くらいである。だから、私の「肉体」は「む」を懐かしく感じるのかもしれない。「どのくらい坂をのぼり」の「くらい」は程度をあらわす副詞だが、「どの暗い坂をのぼり」と読み替えたくなる。暗闇の中で「歩行」か「滑空」かもわからなくなる。そういう世界を夢見る。

 さて。
 この詩に何が書いてあったのか。引用した最後の行に「思考」ということばがある。もし、この詩から朝吹の「思考」あるいは「思想」というものを抽出するとすれば、どういうものが「結論」として取り出せるか。
 ということは、私は考えない。
 きょうの私の感想は「無意味」である。たぶん、だれとも共有できるものを持っていない。しかし、それは私が「思想」を書かなかったからではない。私は「流通言語」で「思想」を書かなかったが、私は私のことばで「肉体」を書いた。実は私は、私の「肉体」で「流通言語」を壊したい、「流通批評」を壊したいという欲望を持ってる。つまり、だれかとことばを「共有する」ためにではなく、「共有しない」ために書く。だから、こんな風に、感想にならないことばになるのだ。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(7)

2019-11-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛というものは)

愛というものは
騎手のもつ鞭のようなものだろう
世界のどこでも
やたらと男たちの運命を駆けさせるばかりである
 
 「意味(論理)」の強い詩である。
 「愛」が「騎手のもつ鞭」なら、「男」は「馬」か。「騎手」は「女」になるかもしれない。
 男は女にあやつられている。愛にではなく。




*

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