詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2019年11月29日(金曜日)

2019-11-29 23:59:08 | 考える日記
 「ことばがあって、同時に、ことばがさししめすものがあるとき、ことばは知性と感性に引き裂かれている、というのはどういう意味ですか?」と本棚の陰に隠れていた少年が、顔を上げて聞いた。ことばがうつむいた瞬間、目が合うのを待っていたかのようだった。路面電車のパンタグラフが電線にこすれて焦げた音を発するのが聞こえた。ことばは、どこかから剽窃してきたことばなのか、本を読みすぎたために文脈が乱れたために動き出したことばなのか考えたとき、遅れてきた顔をしたことばが、こう言った。「ものには知性で処理する部分と完成で処理する部分があるということです。五冊の本がある。本の形、色は感性でとらえることができる。でもそれを五冊だと判断するのは知性です。」その答えは少年を満足させなかった。軽蔑しながら笑った。「理性が働き続けるとき、そこには形の定まらないものしかない。言い換えると結論が生み出されるまでの間、そこには感性で処理できるものは何もない、ということを知らないんですか」
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北川朱実「川を見にいく」、長嶋南子「眠れない」

2019-11-29 11:46:01 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「川を見にいく」、長嶋南子「眠れない」(「zero」13、2019年11月14日発行)

 北川朱実「川を見にいく」。書き出しが魅力的だ。

降り出した雨が
体に届かない

水道の蛇口をゆるく締めて
川を見にいく

 北川は部屋の中にいるのだから、雨に濡れるはずがない。けれども、そのことに「違和感」をおぼえている。雨に濡れるためではないだろうが、雨を実感するために外へ出る。川を見にいく、とはそういうことだろう。
 その途中に

水道の蛇口をゆるく締めて

 ということばがある。なぜ「ゆるく」締めるのか。「ゆるく」とは、どの程度のことだろうか。私は水が静かに流れ落ちるくらいのゆるさを思った。雨の一筋のような。雨は水滴だから「一筋」というのは「比喩」でしかありえないが、その「一筋」というものへ向けて視線が動いていると感じた。
 「川」は「一筋」があつまって、どこからか流れてくる。

川べりに新しい病院が建った

熱でふくらんだ病室という病室が
逆さになって川面で遊んでいる

 「病院」「病室」に目が行ってしまうのは、北川が「病気」をかかえているからかもしれない。「事実」としての病気、「比喩」としての病気。
 北川と「病室」を結ぶ「一筋」のものがあるのだ。それは「川の流れ」を横切って(渡って)、北川と「病室」を結ぶ。
 「病室」に水道はあるだろうか。わからない。あるとすれば、そしてそこに北川がいるとすれば、やはり北川は「蛇口をゆるく締めて」川を見にくるだろうか。
 いま、雨は降っているのだろうか。



 長嶋南子「眠れない」。長嶋もまた「一筋」を書いている。

二階からあかりがもれている
食器をならべて
イスを引く音

笑い声が聞こえる
わたしと息子の声だ
二階には何年も誰も住んでいないはず

浮かない顔をしていた
そんな顔しないで遊びにいったら
と息子がいう
あれ 息子は家を出ていったはず

ここにいるわたしは誰なのか
わたしに息子はいたのか
真っ暗な部屋の中で耳をふさぐ
ひきだしの白い錠剤をさがす

という風景を見ているわたしがいる
その醒めた目つきが
にくらしい

 「一筋」は「いま」と「記憶」を結びつける。そこに「川」は流れているか。感情という川が流れている、という比喩はつまらない。感情とか意味というのは、誰にでもあるものなので(感情、意味をもっていないひとはいないので)、それを目立たせて「論理」にすれば、いつでも「批評」になってしまう。さらに自己を対象化する、メタ認識を言語化する、というような「批評の論理」も、どこまでもコピー&ペーストしていくことができる。
 だから違うことを書く。
 私は最終行で、あっ、と思った。引用するために文字をキーボードで打っているとき、長嶋は、こうだったかな、ふと思った。
 「にくらしい」でいいのか、「にくたらしい」ではないのか。
 私の勝手な思い込み(誤読)だが、長嶋には「にくたらしい」ということばの方が似合っていると、私は思ったのだ。いや、長嶋には「にくたらしい」ということばを言わせたいと、私は願っているのだ。それを裏切るように「にくらしい」。
 「にくらしい」と「にくたらしい」はどこが違うのか。
 正確な違いはわからないが、私は「にくたらしい」の方が「にくらしい」よりも気持ちが強いと思う。「にくらしい」では言いきれないものがあるとき「にくたらしい」ということばが出てくる。「にくらしい」には、ちょっとかわいらしいというか、甘えたような、こびたような感じもある。「にくらしい」と言うことで、あいてに気持ちを受け止めてもらいたい。「にくたらしい」というときは、きっとそういうものがない。
 私はいままで、長嶋を、自分の感情や意味なんか、他人に受け止められなくてもかまわない(受け入れられなくてもかまわない)と思っている人だと、勝手に想像していた。だから「にくらしい」ということばに出会ったとき、はっとしてしまったのだ。
 甘えたいとまではいわないが、甘えられたらどんなに楽だろうなあ、と感じている「さびしさ」のようなものが、最後の一行にある。
 長嶋は、ずーっとそういうものを書いていたのかもしれないけれど、私は、この詩で突然それを感じた。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(31)

2019-11-29 09:24:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2019年11月29日(金曜日)

* (わたしは水を通わせようとおもう)

愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら

 「愛する女」と「多くのひとの心」の対比がおもしろい。「多くのひとの心」と「愛する女の心」は違うのだ。もちろん、それは当然のことなのだが、わざわざ「多くのひと」と書いているところが興味深い。
 このあと「多くの人」は「針鰻」「蛙」「翡翠」という生き物の比喩となり、「蝉の啼いている水源地」へと変化していく。
 奇妙といえば奇妙だが、生き物がいる自然が嵯峨にとっての「ふるさと」なのだ。






*

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「桜を見る会」の暴走

2019-11-29 08:30:26 | 自民党憲法改正草案を読む


写真は、フェイスブックに投稿されていたものである。
菅の発言(字幕)がむごたらしい。


シュレッダー裁断の予約を担当しているのか、裁断の業務を担当しているのかしらないが、もし予約(の申し込み?)から2週間もかかるのだとしたら、それは「障害者」に責任があるのではない。
もしほんとうに担当が「障害者」だったために時間がかかったというのならば、「障害者」を適切な部署に配置できなかった人事上の問題。
できない仕事を「障害者」におしつけて、「障害者」のせいで業務が遅れたというのは変ではないか。

さらに、「障害者」が2週間も懸命に仕事をしているのに、誰も手助けをしないという職場に問題がある。
「障害者」が「すみません、仕事が立て込んでいるので、誰か手伝ってください」と職場仲間に言えない環境だとしたら、これも職場に問題がある。
「無言のパワハラ」が起きていることになる。
「障害者雇用」という名を借りた人権侵害である。

TBSのニュースを私は見ていないので、どういうことばが前後にあるのか、「文脈」がはっきりしないが、「字幕」で見るかぎり、とんでもない発言だ。
菅が自分で考え出したのか、官僚が書いてきた文章を読んでいるだけなのかわからないが、官僚がそういう報告書を書いてきたのなら、「職場点検」(適切な処遇がおこなわれているか、パワハラは起きていないか)を先にすべきだろう。
「障害者」(ひとり?)の人権も守れない内閣に、多くの国民の人権が守れるのか。
自分たち(お友達)が楽しく生きていけるなら、他人の人権(あんな人たち=安倍は都議選の応援演説で、批判する市民を、あんな人に負けるわけにはいかないと発言した=の人権)はどうでもいい、ということだろう。
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