詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白石和彌監督「ひとよ」(★★)

2019-11-28 23:00:31 | 映画
白石和彌監督「ひとよ」(★★)

監督 白石和彌 出演 佐藤健、田中裕子

 久々の田中裕子。その前に見た日本の邦画がどうも気に食わなくて、「ひとよ」も見ようか見まいか、ずいぶん迷った。予告編で見た田中裕子が「浮いて」見えたということも気がかりだった。
 そして、気がかりどおりの映画だった。
 田中裕子は「おさえた演技」する。うまいのだが、「おさえた演技」をしているということが「主張」になってしまっている。それが、どうも、落ち着かない。ほかの役者とのバランスが乱れる。
 唯一感心した部分は、次男が中学生のとき、コンビニでエロ本を万引きする。そのこどもを引き取りにいった帰り道。田中裕子は、万引きしたエロ本を道を歩きながら開いて読む。そのあとを少年が「みっともないから、やめて」というようなことを言いながらついてくる。このシーンでは、田中は「おさえた演技」をしていない。むしろ、こどもをからかう(?)ために、おおぴらな、わざとらしい雰囲気を出している。これが、とてもいい。なんといえばいいのか、「役」をばかにしている。母親の感情を、親身をもって演じているというよりも、ばかにしている。こどもを叱る(注意する)にしても、もっとほかにも方法があるだろうという思いがあるのかもしれない。だけれど、この映画ではこういう設定になっている。そのことを突き放して演じている。だから、その瞬間、「演技」ではない、田中裕子自身の「肉体」が動く。それがおもしろい。
 映画にしろ、芝居にしろ、観客はたしかに「演技」を見に行くのだけれど、「演技」だけではつまらない。「演技」以前の「肉体(人間)」をみたいという気持ちもある。「美人」とか「美男子」とか「かわいい」とか、「役」を忘れてしまって、そこにいる「生身」の役者も見たいのだ。
 それで、というのも変な言い方だが。
 このエロ本を開きながら街を歩くシーンを見たとき、私は「北斎マンガ」(漫画だったか?)の田中裕子を思い出したのだ。北斎がいなくなったあと、「どこへ行ったんだよう」と半分泣きながら歩くようなシーンだった。こどもの格好をしていた。自分はこどもではないのだから、これは「真実」を演じるのではない、単に「役」を演じているんだというような、突き放したような、さっぱりした感じがあった。
 私は、どうも、しつこい演技は苦手なのだ。
 しつこい演技が好きなひとは感動するかもしれないけれど。
 そして、これに輪をかけてストーリーがしつこい。こどもを守るために父親を殺した母親が15年ぶりに帰ってくる。それだけで充分めんどうくさいストーリーなのに、「親子」「家族」の話が、ほかにも登場するのである。それは微妙に絡み合っているというよりも、田中裕子の一家の問題の一部をほかの家族のなかでも展開してみせるという構造になっている。「伏線」ではなく、補強である。たとえていえば、色と面で描く絵画(洋画)の人物に、線で輪郭を描き加え(日本画)、形をはっきりさせるという感じ。たしかにストーリーで訴えたいこと(意味)は明瞭になるが、そんなものを押しつけないでくれよ、といいたくなる。「意味」というのは、人間がだれでももっている。他人の「意味」なんか、必要ない。だから、私は、拒絶反応を起こしてしまう。

(2019年11月28日、中洲大洋スクリーン4)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「桜を見る会」の決着のつけ方

2019-11-28 13:36:15 | 自民党憲法改正草案を読む

「桜を見る会」の決着のつけ方
             自民党憲法改正草案を読む/番外306(情報の読み方)

 2019年11月28日の読売新聞(西部版・14版)の4面(13S版)の見出し。

「桜を見る会」/反社会勢力の出席焦点/野党 追及の構え

 を読み、思い出すのは、2019年11月14日の読売新聞(西部版・14版)1面の記事である。そこには、こういうことが書いてあった。(番号は、私がつけた。)

①首相は同日、「私の判断で中止することにした」と首相官邸で記者団に語った。
②菅氏は「長年の慣行」として、内閣官房が招待者を取りまとめる際、首相官邸や与党に対して招待者の推薦依頼を行っていたことも明らかにした。

 ここで注目すべきことは「内閣官房が招待者を取りまとめる」ということばである。官邸や与党が「招待者推薦」をおこなったとしても、とりまとめる(整理する、取捨選択する)のは「内閣官房」。だれが出席するかは「内閣官房」の判断ということになる。言い換えると、安倍が誰を、何人招待したかは「不問」にされる。(このことは、すでにブログ「詩はどこにあるか」で書いた。(https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/ff179cc5d37c33a83443bcff0d4bf4c8)
 そして、いま、「内閣官房」の「長官」である菅が、桜を見る会で暴力団組員と握手している写真が出てきた。誰が、その男を「推薦」したのか。いちばんの問題は、そこにあると思う。しかし、「誰が推薦したか」ではなく、追及の矛先が「どうして出席できたのか」という「結果論」に向けられている。菅の責任は、どうなるのか。
 それを強調するように、読売新聞は、菅の発言と、立憲民主の安住の発言を「対話」のようにチャート図(?)にしている。(番号をつけるなど、少し加工している。)

①菅「(版社会的勢力の)出席は把握していなかったが、結果的に入られたのだろう。」(26日)
②安住「会に加わっていたと認めた以上、菅官房長官は大きな責任を負った。進退に関わる問題だ。」(27日)
③菅「(反社会的勢力の)定義は一概に言えない。出席していたとは申し上げていない。」(27日)

 安住の追及の仕方に、読売新聞は乗っかるようにして書いているのだが、この論理で行くと、きっと菅を辞任させて、桜を見る会の問題は「決着」という方向に動いているのだと思う。
 招待者を取りまとめた内閣官房の長官、菅を辞任させることで、この問題をかたづけてしまう。安倍が、そういう作戦に切り換え、それをマスコミが追随している。そういう構図が見えてくる。いろいろな問題が起きるたびに、以下に安倍以外のだれに責任をとらせ、安倍を守り抜くかという工作がおこなわれる。そのことに、マスコミも加担しているように見えてならない。
 「反社会的勢力の定義は一概にはない」と菅は言っているが、「桜を見る会」で問題になっているのは菅と握手をしている暴力団組員だけではない。
 共産党・田村が追及している問題に、マルチ商法大手の「ジャパンライフ」会長が出席している(出席を宣伝につかっている)というものがある。(2015年の会だが。)そして、そこには安倍が関係していると「推測」できる。そういう資料を田村は公開している。
 反社会的というか、被害者の多さでは「ジャパンライフ」は暴力団以上かもしれない。その問題は「焦点」にしなくていいのか。
 「焦点」を「暴力団組員」と菅の握手写真に絞って、菅を辞任させれば、桜を見る会の問題は解決するのか。

 いちばんの問題は安倍の関与である。税金をつかって支持者を招待した。選挙活動に利用した。それが問われている。菅の問題も大きいが、ほんとうの「焦点」をすりかえるような「論理展開」には疑問を感じる。菅を辞任させて終わり、という「決着」ではいけないと思う。誰が参加しているかではなく、誰が、誰を、何人招待したか。そして、その目的は何か。それを追及し、明確にしないかぎりは「桜を見る会」問題は決着とは言えないはずである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(30)

2019-11-28 08:41:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはかぎりなく慕わしいために)

歩みよることができなかつた
運命がたちどまつてまた歩きだす僅かなあいだに

 詩は、このあと「僅かなあいだ」を別なことばでいいなおすのだが、言い直す前の、この二行を私は「倒置法」の文章として読む。そうしたい気持ちになる。「慕わしいために」という言い方が私にはなじめず、そのなじめなさが倒置法を私の「肉体」に求めてくる。
 倒置法は不自然な文体である。言いたい何かが、正常な文体(?)を突き破って動く。そういう生々しい動きが「慕わしいために」という不思議な言い方をすでに要求しているのだ。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする