白石和彌監督「ひとよ」(★★)
監督 白石和彌 出演 佐藤健、田中裕子
久々の田中裕子。その前に見た日本の邦画がどうも気に食わなくて、「ひとよ」も見ようか見まいか、ずいぶん迷った。予告編で見た田中裕子が「浮いて」見えたということも気がかりだった。
そして、気がかりどおりの映画だった。
田中裕子は「おさえた演技」する。うまいのだが、「おさえた演技」をしているということが「主張」になってしまっている。それが、どうも、落ち着かない。ほかの役者とのバランスが乱れる。
唯一感心した部分は、次男が中学生のとき、コンビニでエロ本を万引きする。そのこどもを引き取りにいった帰り道。田中裕子は、万引きしたエロ本を道を歩きながら開いて読む。そのあとを少年が「みっともないから、やめて」というようなことを言いながらついてくる。このシーンでは、田中は「おさえた演技」をしていない。むしろ、こどもをからかう(?)ために、おおぴらな、わざとらしい雰囲気を出している。これが、とてもいい。なんといえばいいのか、「役」をばかにしている。母親の感情を、親身をもって演じているというよりも、ばかにしている。こどもを叱る(注意する)にしても、もっとほかにも方法があるだろうという思いがあるのかもしれない。だけれど、この映画ではこういう設定になっている。そのことを突き放して演じている。だから、その瞬間、「演技」ではない、田中裕子自身の「肉体」が動く。それがおもしろい。
映画にしろ、芝居にしろ、観客はたしかに「演技」を見に行くのだけれど、「演技」だけではつまらない。「演技」以前の「肉体(人間)」をみたいという気持ちもある。「美人」とか「美男子」とか「かわいい」とか、「役」を忘れてしまって、そこにいる「生身」の役者も見たいのだ。
それで、というのも変な言い方だが。
このエロ本を開きながら街を歩くシーンを見たとき、私は「北斎マンガ」(漫画だったか?)の田中裕子を思い出したのだ。北斎がいなくなったあと、「どこへ行ったんだよう」と半分泣きながら歩くようなシーンだった。こどもの格好をしていた。自分はこどもではないのだから、これは「真実」を演じるのではない、単に「役」を演じているんだというような、突き放したような、さっぱりした感じがあった。
私は、どうも、しつこい演技は苦手なのだ。
しつこい演技が好きなひとは感動するかもしれないけれど。
そして、これに輪をかけてストーリーがしつこい。こどもを守るために父親を殺した母親が15年ぶりに帰ってくる。それだけで充分めんどうくさいストーリーなのに、「親子」「家族」の話が、ほかにも登場するのである。それは微妙に絡み合っているというよりも、田中裕子の一家の問題の一部をほかの家族のなかでも展開してみせるという構造になっている。「伏線」ではなく、補強である。たとえていえば、色と面で描く絵画(洋画)の人物に、線で輪郭を描き加え(日本画)、形をはっきりさせるという感じ。たしかにストーリーで訴えたいこと(意味)は明瞭になるが、そんなものを押しつけないでくれよ、といいたくなる。「意味」というのは、人間がだれでももっている。他人の「意味」なんか、必要ない。だから、私は、拒絶反応を起こしてしまう。
(2019年11月28日、中洲大洋スクリーン4)
監督 白石和彌 出演 佐藤健、田中裕子
久々の田中裕子。その前に見た日本の邦画がどうも気に食わなくて、「ひとよ」も見ようか見まいか、ずいぶん迷った。予告編で見た田中裕子が「浮いて」見えたということも気がかりだった。
そして、気がかりどおりの映画だった。
田中裕子は「おさえた演技」する。うまいのだが、「おさえた演技」をしているということが「主張」になってしまっている。それが、どうも、落ち着かない。ほかの役者とのバランスが乱れる。
唯一感心した部分は、次男が中学生のとき、コンビニでエロ本を万引きする。そのこどもを引き取りにいった帰り道。田中裕子は、万引きしたエロ本を道を歩きながら開いて読む。そのあとを少年が「みっともないから、やめて」というようなことを言いながらついてくる。このシーンでは、田中は「おさえた演技」をしていない。むしろ、こどもをからかう(?)ために、おおぴらな、わざとらしい雰囲気を出している。これが、とてもいい。なんといえばいいのか、「役」をばかにしている。母親の感情を、親身をもって演じているというよりも、ばかにしている。こどもを叱る(注意する)にしても、もっとほかにも方法があるだろうという思いがあるのかもしれない。だけれど、この映画ではこういう設定になっている。そのことを突き放して演じている。だから、その瞬間、「演技」ではない、田中裕子自身の「肉体」が動く。それがおもしろい。
映画にしろ、芝居にしろ、観客はたしかに「演技」を見に行くのだけれど、「演技」だけではつまらない。「演技」以前の「肉体(人間)」をみたいという気持ちもある。「美人」とか「美男子」とか「かわいい」とか、「役」を忘れてしまって、そこにいる「生身」の役者も見たいのだ。
それで、というのも変な言い方だが。
このエロ本を開きながら街を歩くシーンを見たとき、私は「北斎マンガ」(漫画だったか?)の田中裕子を思い出したのだ。北斎がいなくなったあと、「どこへ行ったんだよう」と半分泣きながら歩くようなシーンだった。こどもの格好をしていた。自分はこどもではないのだから、これは「真実」を演じるのではない、単に「役」を演じているんだというような、突き放したような、さっぱりした感じがあった。
私は、どうも、しつこい演技は苦手なのだ。
しつこい演技が好きなひとは感動するかもしれないけれど。
そして、これに輪をかけてストーリーがしつこい。こどもを守るために父親を殺した母親が15年ぶりに帰ってくる。それだけで充分めんどうくさいストーリーなのに、「親子」「家族」の話が、ほかにも登場するのである。それは微妙に絡み合っているというよりも、田中裕子の一家の問題の一部をほかの家族のなかでも展開してみせるという構造になっている。「伏線」ではなく、補強である。たとえていえば、色と面で描く絵画(洋画)の人物に、線で輪郭を描き加え(日本画)、形をはっきりさせるという感じ。たしかにストーリーで訴えたいこと(意味)は明瞭になるが、そんなものを押しつけないでくれよ、といいたくなる。「意味」というのは、人間がだれでももっている。他人の「意味」なんか、必要ない。だから、私は、拒絶反応を起こしてしまう。
(2019年11月28日、中洲大洋スクリーン4)