詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2019年11月27日(水曜日)

2019-11-27 11:08:02 | 考える日記
2019年11月27日(水曜日)

 ものの名。木を木と呼ぶとき、木は木である。しかし、木を別の名で呼ぶときがある。比喩である。そこには木ではない何かがある。つまり、「ない」が「ある」。
 たとえば木を、直立する精神である、と定義(比喩)する。精神は大地に深く根を張り、どこまでも迷い続け、不明なのもがあることを自覚する。その自覚が純粋化され樹液になって幹を駆け上り、枝や葉、さらには花となって開き、散ろうとする。そうことばにするとき、何が起きているのか。
 ことばにする前はなかったものが、つまり「ない」が「ある」として動いている。
 逆に言うこともできるにちがいない。「ある」を「ない」にするのが、ことばである。一本の木があり、花を咲かせている。それは散っていくが、それは「もの」ではない。私の知らないところから生まれ、育ってきたもの、形を変えて動き続けるものを、私は「形」と「名」を借りて「ある」ものと考えているだけで、それは「真実(実態)」ではない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(29)

2019-11-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛というものは)

 「薔薇の新種のようなものだろう」とつづくが、その詩の最後の二行。

もしそれを数え唄にうたおうとすれば
それはどこまでも果しなくなつてしまう

 「数え唄」がおわらない。
 私が「不思議(奇妙)」と思うのは、そういう「事実(意味)」のことではない。
 「それを」「それは」と繰り返される「それ」である。
 「それを」は「愛を」であり、「それは」は「数え唄にして歌うこと」である。微妙に違うのだが「それ」という共通のことばでくくられるので、「愛」と「数え唄にして歌うこと」が同じものとしてあらわれてくる。そのとき、「愛」とは「ひとつ」ではなく、どこまでも数え続けられないと愛ではない、という形で復讐(?)してくるように感じられるのだ。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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