山本育夫「HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)」(「博物誌」42、2019年11月01日発行)
山本育夫書き下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』は「博物誌」に収録されている。その巻頭の作品。
何が書いてあるか、わからない。でも、最後の三行は、妙に「肉体」に迫ってくる。水のはいった袋に穴をあける。そうすると「水」がこぼれてくると思うのだが、山本はそのことは書かずに「甘い臭気」について書いている。水が「甘い臭気」をもっていて、それが袋の中から水がこぼれたとき、いっしょにあふれだす。水袋から水がこぼれるのはあたりまえだけれど、その水が「甘い臭気」をもっていたために、意識が臭気の方にひっぱられてしまう。「意外なもの」(知らなかったもの、でも理解できるもの)がとつぜんあらわれると、見慣れたもの(たとえば水)が意識から消えてしまう。こういうことは、たしかにあるなあ、と思う。山本が書いている水袋に穴をあけるとどうなるか、その現実をみているわけではないが、私の「肉体」はそれに似たこと(重なり合うこと)をかってに思い出す。そのため、実際に起きていることがどういうことかわからないのに、何かわかった気持ちになる。ぐい、と肉体がそっちの方向へひきずられていくのを感じるのだ。
で、そう思った瞬間、書き出しについても、あ、そうか、と思うのだ。
筆記具がない。でも、コップに水が入っている。指を突っ込み、濡らす。それからテーブルの上に「水」をつかって「文字」を書く。「水馬」。それから「これ、読める?」といっしょにいるひとに聞く。「あ、どこかで見たことがある。なんだったかなあ」「あめんぼうだよ」。それは、たぶんどうでもいい話、その場限りの思いつきの話なのだが、「水馬」かどうかは別にして、こういうことをしたことがあるなあ、と「肉体」が覚えているために、ここに書いてあることを「わかる」。私のわかったことが、山本の体験したこととぴったり重なるわけではないが、やっていることが「肉体」の行為(運動)として、「わかる」。
「意味」ではなく、「肉体」の動き、その「肉体」の動きが「共有」するものがわかる。ことは別な角度から言いなおせば、「肉体」を共有してしまうことかもしれない。
「ことば」は意味(意識/主張/思想)をつたえるためにある。ふつうは、そう考えられていると思う。ことばは、「意識/思想」を共有するために、ある。
私は、そのことに対して「異論」があるわけではない。でも、つけくわえたくなるのだ。
「ことば」は「肉体」を共有するためにある。
「肉体」はひとりひとり別なものである。産んでくれた母からさえも完全に独立している。母親が死んでも生きているし、逆にこどもが死んでも母親が生きていることがある、というのは「肉体」というものが決して共有されないものであるという証かもしれない。しかし、その共有されないものが、なぜか、ことばを介すると共有されてしまう。
「肉体」は、よほどのことがないかぎり、だれでも同じように動かせるからだ。あるいは、まったく違った動かし方をできないからだ。「他人」をみても、どうしても「自分と同じ肉体」と思ってしまう。だから、道端でだれかが腹を抱えてうずくまっていたら、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。他人のことなのに、肉体が別個なのに、そう思ってしまう。
そして、それは「肉体」を見なくても、起きてしまう現象なのだ。
水をつかって、指で(あるいは筆で、ということもあるだろう)文字を書く。その文字を「発音する」。そういうことを、私たちは「できる」。「肉体」を共有するというのは、「できる」を共有するということでもあるのだが、きょうはそこまでは考えずに、詩にもどる。
ことばは肉体を共有する。
だから、「詩を書く」「読書する」「寝ている」「コーヒーを飲む」「待っている」ということがどういうことなのか「わかる」。どんな詩を書いたか、だれの本を読んだか、寝ている間にどんな夢を見たか、コーヒーに砂糖を入れたか、などということはわからないのに、わかった気持ちになる。「待っている」にいたっては何を(だれを)待っているのか、あまりにも漠然としているが、それでも「待っている」をわかってしまう。自分の「肉体」が覚えている「時間」をひっぱりだしてきて、わかったつもりになる。
ことばをとおして肉体を共有するというのは、ことばをとおして肉体の中にある「時間」を共有するということなのだとわかる。
と、書いて。
あるいは、これから先、ことばをどうつづけていけばいいのだろうか、と一瞬立ち止まるのだが。私は、ここで、突然、何を書きたかったのか、気づく。ふいに、
の「思い出す」という文字が、目にくっきりと見えてくる。
「肉体の中にある時間を共有する」とは、言いなおせば「思い出す」である。あるいは「覚えている」である。
テーブルに水文字を書いたこと、これ何と読むか知っていると聞いたこと、自慢げに「あめんぼう」と教えてやったこと、詩を書いたこと、来ないひとを待っていたこと(来ないとわかっているのに待っていたこと)などを「思い出す」のだ。「肉体」は、それを覚えている。
と、書いて、私はまた立ち止まる。
きょうは書かないと書いたことについて書きたくなる。
「肉体」が思い出すのは、「肉体」が覚えていることであり、「肉体」がおぼえていること、「できる」ことなのだ。自転車に乗ることを肉体がおぼえると、長い間自転車に乗っていなくても、自転車に乗れる。泳ぐことを肉体がおぼえていると、長い間泳いでいなくても泳げる。「肉体」には、そういう力がある。
だから、ことば(詩)を読んで「肉体」が刺戟されたときは、そこに書かれている「肉体」と同じことを自分の「肉体」でもできるということなのだ。そう感じたとき、私は、山本の詩を読んでいない。自分の「肉体」を読んでいる。自分の「肉体」でできることを思い描いている。
テーブルに水文字を書く、詩を書く、待っているのは、山本ではない。私は私の「肉体」として、そこに書かれていることばを実行する。
ということは、私は「した」ことがない。しかし、それを「してしまう」。そして「甘い臭気」を嗅いでしまうのだ。「おぼえている」こととして。
ひとができるのは「おぼえていること(知っていること)」だけなのである。
そういうことを考え始めると、急に「けち」をつけたい部分も見えてくる。
この三行では、私の「肉体」は動かない。「思い出す」は「おぼえている」にかわりながら私の「肉体」を刺戟するけれど、「ひとは皮膚におおわれた/水袋だ」というセリフ(ことば)を思い出すとは重ならない。きっと「セリフ(ことば)」は「頭」でおぼえるものだからだろう。「水馬をあめんぼうと読む」のも「頭」でおぼえることかもしれないが、「水文字で書く」「発音する」という「肉体」の動きがあったから、「頭」という印象は少ない。「セリフ」になってしまうと「頭」(記憶力)になってしまう。
この三行は、目立つが、目立つがゆえに、何か違和感がある。
この三行がなくても、この詩は成立するとも思う。
そして、このことから、私は、この詩のキーワードは「思い出す」である、と考える。山本は「思い出す」ということばを書かないことには、ことばを動かせなかったのだ。それは「思い出す」ということばをここでつかうと意識したということではない。逆だ。意識していない。無意識に書いてしまう。山本の「必然」がそこにあるだけで、読者には無関係だ。「思い出す」ということばは、この詩のなかでは山本の「肉体」になってしまっていて、山本はそれに気づいていないのだ。
山本は「思い出した」ことを、「思い出した」とも意識せずに、書いている。無意識が「思い出す」に噴出してきている。
そして、もうひとつ「無意識に噴出してきた思い出(おぼえていること)」が「アメに似た甘い臭気」である。
「思い出す」も「甘い臭気」も、山本には絶対に書き換えることのできないものである。それは「無意識の必然」であり、山本の「正直」(本能)がからみついてことばなのだ。
ほかのことばでは、私の「肉体」は山本の「肉体」を共有する。(もちろん、これは私が勝手に共有する、ということである。つまり「誤読」するのである。)ところが、「思い出す」と「甘い臭気」では、私の「肉体」は山本の「肉体」にならない。言い換えると、そのことばに「山本の肉体」だけを感じる。私の別の「肉体」を感じる。あ、ここに「山本」が「固有名詞」として存在する、と。
でも、これは「けち」をつけたことにならないかも。
考えてみれば、「嫌い」というのは、それは私とは違うということを言っているだけだからね。どんな場合でも。
追加(1)。
「アメに似た甘い臭気」の「アメ」というのはなんだろうか。「飴」なのかもしれないが、私は「雨」と瞬間的に思った。文字変換キーを押していると「天」もまた「アメ」と読むことがわかったが、これは無視する。
追加(2)。
「けちをつけたい」以後、少しと品が変わっているが、ここで私は少し休憩したからだ。私は目が悪くて45分以上パソコンに向き合っていられない。休憩をはさんで嘉吉具と、前に書いたこととは違うことばが動き始めてしまう。首尾一貫するようにととのえればいいのかもしれないが、私はととのえたくない。
追加(3)。
私の書いていること「感想」でも「批評」でもないかもしれない。いや、私は、実は感想や批評を書いているつもりはない。ただ「考えたこと」を書きたいだけである。考えたいだけである。
だから、「結論」は、いつでもない。もし「結論」みたいなものにたどりついたとしたら、それを壊すためにべつのことを書きたい。そう思っている。山本の詩を手がかりに、どれだけ違うことを考え続けられるか。どうしても、どこかで「同じ」ものがあらわれる。それが、私の考えの限界ということになるが。まあ、仕方がない。
*
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山本育夫書き下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』は「博物誌」に収録されている。その巻頭の作品。
01水馬(あめんぼう)
水馬とテーブルに水文字で書いて
あめんぼうと発音する
ぼくは終日こども公園前の
小さな喫茶店で詩を書く
あるいは読書する
寝ている
コーヒーを飲む
待っている
「ひとは皮膚におおわれた
水袋だ」
というセリフを思い出す
そして水馬のように世界の水面を
すべりぬけ
とうとう通りかかった
銀色の水袋にシュッと穴をあける
アメに似た甘い臭気が
しばらく周囲にただよう
何が書いてあるか、わからない。でも、最後の三行は、妙に「肉体」に迫ってくる。水のはいった袋に穴をあける。そうすると「水」がこぼれてくると思うのだが、山本はそのことは書かずに「甘い臭気」について書いている。水が「甘い臭気」をもっていて、それが袋の中から水がこぼれたとき、いっしょにあふれだす。水袋から水がこぼれるのはあたりまえだけれど、その水が「甘い臭気」をもっていたために、意識が臭気の方にひっぱられてしまう。「意外なもの」(知らなかったもの、でも理解できるもの)がとつぜんあらわれると、見慣れたもの(たとえば水)が意識から消えてしまう。こういうことは、たしかにあるなあ、と思う。山本が書いている水袋に穴をあけるとどうなるか、その現実をみているわけではないが、私の「肉体」はそれに似たこと(重なり合うこと)をかってに思い出す。そのため、実際に起きていることがどういうことかわからないのに、何かわかった気持ちになる。ぐい、と肉体がそっちの方向へひきずられていくのを感じるのだ。
で、そう思った瞬間、書き出しについても、あ、そうか、と思うのだ。
筆記具がない。でも、コップに水が入っている。指を突っ込み、濡らす。それからテーブルの上に「水」をつかって「文字」を書く。「水馬」。それから「これ、読める?」といっしょにいるひとに聞く。「あ、どこかで見たことがある。なんだったかなあ」「あめんぼうだよ」。それは、たぶんどうでもいい話、その場限りの思いつきの話なのだが、「水馬」かどうかは別にして、こういうことをしたことがあるなあ、と「肉体」が覚えているために、ここに書いてあることを「わかる」。私のわかったことが、山本の体験したこととぴったり重なるわけではないが、やっていることが「肉体」の行為(運動)として、「わかる」。
「意味」ではなく、「肉体」の動き、その「肉体」の動きが「共有」するものがわかる。ことは別な角度から言いなおせば、「肉体」を共有してしまうことかもしれない。
「ことば」は意味(意識/主張/思想)をつたえるためにある。ふつうは、そう考えられていると思う。ことばは、「意識/思想」を共有するために、ある。
私は、そのことに対して「異論」があるわけではない。でも、つけくわえたくなるのだ。
「ことば」は「肉体」を共有するためにある。
「肉体」はひとりひとり別なものである。産んでくれた母からさえも完全に独立している。母親が死んでも生きているし、逆にこどもが死んでも母親が生きていることがある、というのは「肉体」というものが決して共有されないものであるという証かもしれない。しかし、その共有されないものが、なぜか、ことばを介すると共有されてしまう。
「肉体」は、よほどのことがないかぎり、だれでも同じように動かせるからだ。あるいは、まったく違った動かし方をできないからだ。「他人」をみても、どうしても「自分と同じ肉体」と思ってしまう。だから、道端でだれかが腹を抱えてうずくまっていたら、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。他人のことなのに、肉体が別個なのに、そう思ってしまう。
そして、それは「肉体」を見なくても、起きてしまう現象なのだ。
水をつかって、指で(あるいは筆で、ということもあるだろう)文字を書く。その文字を「発音する」。そういうことを、私たちは「できる」。「肉体」を共有するというのは、「できる」を共有するということでもあるのだが、きょうはそこまでは考えずに、詩にもどる。
ことばは肉体を共有する。
だから、「詩を書く」「読書する」「寝ている」「コーヒーを飲む」「待っている」ということがどういうことなのか「わかる」。どんな詩を書いたか、だれの本を読んだか、寝ている間にどんな夢を見たか、コーヒーに砂糖を入れたか、などということはわからないのに、わかった気持ちになる。「待っている」にいたっては何を(だれを)待っているのか、あまりにも漠然としているが、それでも「待っている」をわかってしまう。自分の「肉体」が覚えている「時間」をひっぱりだしてきて、わかったつもりになる。
ことばをとおして肉体を共有するというのは、ことばをとおして肉体の中にある「時間」を共有するということなのだとわかる。
と、書いて。
あるいは、これから先、ことばをどうつづけていけばいいのだろうか、と一瞬立ち止まるのだが。私は、ここで、突然、何を書きたかったのか、気づく。ふいに、
というセリフを思い出す
の「思い出す」という文字が、目にくっきりと見えてくる。
「肉体の中にある時間を共有する」とは、言いなおせば「思い出す」である。あるいは「覚えている」である。
テーブルに水文字を書いたこと、これ何と読むか知っていると聞いたこと、自慢げに「あめんぼう」と教えてやったこと、詩を書いたこと、来ないひとを待っていたこと(来ないとわかっているのに待っていたこと)などを「思い出す」のだ。「肉体」は、それを覚えている。
と、書いて、私はまた立ち止まる。
きょうは書かないと書いたことについて書きたくなる。
「肉体」が思い出すのは、「肉体」が覚えていることであり、「肉体」がおぼえていること、「できる」ことなのだ。自転車に乗ることを肉体がおぼえると、長い間自転車に乗っていなくても、自転車に乗れる。泳ぐことを肉体がおぼえていると、長い間泳いでいなくても泳げる。「肉体」には、そういう力がある。
だから、ことば(詩)を読んで「肉体」が刺戟されたときは、そこに書かれている「肉体」と同じことを自分の「肉体」でもできるということなのだ。そう感じたとき、私は、山本の詩を読んでいない。自分の「肉体」を読んでいる。自分の「肉体」でできることを思い描いている。
テーブルに水文字を書く、詩を書く、待っているのは、山本ではない。私は私の「肉体」として、そこに書かれていることばを実行する。
そして水馬のように世界の水面を
すべりぬけ
とうとう通りかかった
銀色の水袋にシュッと穴をあける
ということは、私は「した」ことがない。しかし、それを「してしまう」。そして「甘い臭気」を嗅いでしまうのだ。「おぼえている」こととして。
ひとができるのは「おぼえていること(知っていること)」だけなのである。
そういうことを考え始めると、急に「けち」をつけたい部分も見えてくる。
「ひとは皮膚におおわれた
水袋だ」
というセリフを思い出す
この三行では、私の「肉体」は動かない。「思い出す」は「おぼえている」にかわりながら私の「肉体」を刺戟するけれど、「ひとは皮膚におおわれた/水袋だ」というセリフ(ことば)を思い出すとは重ならない。きっと「セリフ(ことば)」は「頭」でおぼえるものだからだろう。「水馬をあめんぼうと読む」のも「頭」でおぼえることかもしれないが、「水文字で書く」「発音する」という「肉体」の動きがあったから、「頭」という印象は少ない。「セリフ」になってしまうと「頭」(記憶力)になってしまう。
この三行は、目立つが、目立つがゆえに、何か違和感がある。
この三行がなくても、この詩は成立するとも思う。
そして、このことから、私は、この詩のキーワードは「思い出す」である、と考える。山本は「思い出す」ということばを書かないことには、ことばを動かせなかったのだ。それは「思い出す」ということばをここでつかうと意識したということではない。逆だ。意識していない。無意識に書いてしまう。山本の「必然」がそこにあるだけで、読者には無関係だ。「思い出す」ということばは、この詩のなかでは山本の「肉体」になってしまっていて、山本はそれに気づいていないのだ。
山本は「思い出した」ことを、「思い出した」とも意識せずに、書いている。無意識が「思い出す」に噴出してきている。
そして、もうひとつ「無意識に噴出してきた思い出(おぼえていること)」が「アメに似た甘い臭気」である。
「思い出す」も「甘い臭気」も、山本には絶対に書き換えることのできないものである。それは「無意識の必然」であり、山本の「正直」(本能)がからみついてことばなのだ。
ほかのことばでは、私の「肉体」は山本の「肉体」を共有する。(もちろん、これは私が勝手に共有する、ということである。つまり「誤読」するのである。)ところが、「思い出す」と「甘い臭気」では、私の「肉体」は山本の「肉体」にならない。言い換えると、そのことばに「山本の肉体」だけを感じる。私の別の「肉体」を感じる。あ、ここに「山本」が「固有名詞」として存在する、と。
でも、これは「けち」をつけたことにならないかも。
考えてみれば、「嫌い」というのは、それは私とは違うということを言っているだけだからね。どんな場合でも。
追加(1)。
「アメに似た甘い臭気」の「アメ」というのはなんだろうか。「飴」なのかもしれないが、私は「雨」と瞬間的に思った。文字変換キーを押していると「天」もまた「アメ」と読むことがわかったが、これは無視する。
追加(2)。
「けちをつけたい」以後、少しと品が変わっているが、ここで私は少し休憩したからだ。私は目が悪くて45分以上パソコンに向き合っていられない。休憩をはさんで嘉吉具と、前に書いたこととは違うことばが動き始めてしまう。首尾一貫するようにととのえればいいのかもしれないが、私はととのえたくない。
追加(3)。
私の書いていること「感想」でも「批評」でもないかもしれない。いや、私は、実は感想や批評を書いているつもりはない。ただ「考えたこと」を書きたいだけである。考えたいだけである。
だから、「結論」は、いつでもない。もし「結論」みたいなものにたどりついたとしたら、それを壊すためにべつのことを書きたい。そう思っている。山本の詩を手がかりに、どれだけ違うことを考え続けられるか。どうしても、どこかで「同じ」ものがあらわれる。それが、私の考えの限界ということになるが。まあ、仕方がない。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com