詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡部淳太郎「庭園」

2021-07-04 17:26:28 | 詩(雑誌・同人誌)

岡部淳太郎「庭園」(「spirit」22、2021年05月28日発行)

 同人誌を開くと、5ページの左上を折ってある。いわゆるドッグ・イヤー。何か書こうと思って印をつけたのだ。しかし、そのとき書きそびれて、そのままになっていた。何を書こうとしたのだろう。
 岡部淳太郎「庭園」。

  この場所に 一人
  私は立ちつくしている
  そよぐものはそよぎ
  あらがうことなく
  そのままに
  充足されてあり
  池の蓮はそのままで
  かたく緑だ

 むかし、新聞社の「回覧」のようなもので、読者の声を読んだ。「そよぐは漢字で書くと戦ぐ。私の印象では、戦という漢字はそよぐのイメージにあわない」というのだ。そんな苦情を新聞社に言ってきてもしようがない。新聞記事に「戦ぐ」という表記があったわけでもないらしい。読者相談室では「国語審議会に問い合わせてほしい」と応えたらしい。ああ、そんな対応の仕方があるのか。
 そんなことを思い出したのは「そよぐ」が「あらがう」と一緒につかわれているからだ。「あらがう」は抵抗する、かな。抵抗する、というのは「戦う」ということかな?
 草がそよぐ、木の葉がそよぐ。それは風にあらがっているのか。激しく動き回る様子が「戦(いくさ)」で動き回る兵士の姿にも見えるから「戦」という文字をあてたのか。あるいは、「戦」におののく兵士の顔を思い浮かべながら「戦」という文字をあてたのか。中国の古典を調べてみないことにはわからないだろう。漢字には日本人がつくりだしたものもあるが「戦」は中国人がつくったものだろう。「そよぐ」と日本語で言っていることを、中国人は「戦」という漢字で表現していたのだろう。
 その「そよぐ」「あらがう」のもう一方に「かたく」がある。「かたい」。動かない。その動かない蓮の緑の茎(?)に、岡部は自分自身を投影しているのか。「池の蓮」は自画像なのか。

  小さな道
  ここを横切るだけのしるし
  近くの林の葉は
  動かぬものとして
  私に届こうとし
  空気を媒介にして 伝言を送る

 ここには、「私(岡部)」と対話する他のものがある。道も林の葉も、「動かぬもの(あらがうもの/立ちつくしているもの)」として見えてくる。「自画像」から、「自己拡張」へ。しかし、自分から動いていくのではなく、私以外のものが私に「伝言」を送ってくる。私以外のものが近づいてくる、ということか。この主客の入れ代わりが、ちょっと漢詩の世界を思わせる。
 それからさらに進んで、この「禅」の風景のようにも見えてくる。

  砂利や白い石の記憶も
  この中に入ってきて
  まるで以前からここにあったかのように
  思えてくる

 自然とは非情なのもである。人間の感情など気にしていない。その非情の美しさが、「動かぬものとして/孤立したものとして」、私と調和する。「石の記憶」の「記憶」ということばがそういう交流を感じさせる。この「記憶」は「思惟」ということばを呼び寄せ、こう展開していく。

  騒がしい夜をぬけて
  こんなにも静かな思惟があふれる

 「記憶」から「思惟」へ。
 そのことばの動きは、とても気持ちがいい。すっきりと動いている。納得ができる。だが、あれっ、「夜」だったのか、とふいに私は疑問にとらわれる。
 私は「夜の風景(夜の庭園)」とは思っていなかった。
 すると……。

  薄暗い午後があることに
  もはやなんの驚きもない
  すべては留まり
  去ってゆく
  その いまが
  ここにあるだけだ
  宇宙は立ちつくしている
  この場所に 一人で

 えっ、午後? 私はわからなくなる。なぜこんな奇妙なことばの運動が起きるのか。「結論」を急いでいる印象が残る。そして、その印象が途中までの詩の世界を傷つけていると感じる。「宇宙」を持ちださなくても「記憶」から「思惟」への飛躍のなかに「宇宙」がある。それに、「この場所」が「宇宙」に転換するとき、そこにある(いる)のは「一人」ではなく、池の蓮、小さな道、林の葉、砂利や白い石も存在し、それぞれが「遠心・求心」のような往復運動を行っているのではないか。「静か」に見えるが、実際は、その「内部」には激しい「戦ぎ(そよぎ)/拮抗」があるのではないか。「静けさ」は「拮抗の激しさ」が生み出した「緊張」ではないか、と私は考えたいのだが……。

 「結」のことばの動きに、私は、なじめない。
 最初に読んだとき何を書こうとしたのか思い出せないが、いま、そう思う。

 

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自民党憲法改正草案再読(5)

2021-07-04 11:23:20 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(5)

 天皇の権能と国事行為。書き漏らしたことがあるので追加しておく。

(現行憲法)
第7条
 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
 一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
 二 国会を召集すること。
 三 衆議院を解散すること。
 四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
(改正草案)
第6条(天皇の国事行為等)
1(略)
2 天皇は、国民のために、次に掲げる国事に関する行為を行う。
 一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
 二 国会を召集すること。
 三 衆議院を解散すること。
 四 衆議院議員の総選挙及び参議院議員の通常選挙の施行を公示すること。
 
 現行憲法に書いてある「一」から「三」、実は「国会」の仕事である。国会で憲法を改正し、法律、政令を決める(議決する)、そして条約を承認する(承認議決をする)。国会は立法機関であるから、それを「知らせる」ための機能を持っていない。それを天皇が代行する。それが「国事を行う」ということだろう。「憲法改正、法律、政令及び条約を公布する」ことを「内閣」にまかせるという方法もあるだろうが、内閣は国会の下部機関というと語弊があるかもしれないが、まず国会があり、内閣があり、司法があるという順序からいうと、国会で議決したことを内閣が「公布する」というのは問題があるから、「国民統合の象徴である天皇」に公布を委任するのである。
 国会を開いて議論し、また国会を解散するというのも、国会の仕事である。開会については「第52条  国会の常会は、毎年一回これを召集する」という規定がある。「解散」については、「国会」の章のなかには「第54条 1 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない」とあるだけで、どういうときに「解散」になるかは、明記されていない。ただし、「内閣」の章で、こう規定している。「第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。これは内閣不信任が可決されたときは、内閣は、内閣の主張と国会の主張とどちらが正しいかという判断を国民に仰ぐために総選挙に問うことができるという意味であろう。もし、内閣が政策の当否を国民に直接問う機会がなければ完全に国会の下部機関になり、三権分立が成立しなくなるおそれがあるからだろう。「国会の解散」は内閣が不信任可決されたとき、国民に政策の当否を問うための最後の手段なのである。もし、内閣が否を認めるならば「総辞職する」。新たな内閣を結成し、政策を再提案するか、野党に政権を譲るしかない。野党に政権を譲らないために、選挙に問うのである。
 いま流行りの「7条解散(7条、4項を利用して、首相が解散権を持っていると解釈すること)」は、違憲である。7条は天皇に関する条項であり、内閣総理大臣の「権能」について定義したものではない。私のような批判があるからこそ、改憲草案では「4 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による」と「ただし」書きを付け加えたうえで、「第54条(衆議院の解散と衆議院議員の総選挙、特別国会及び参議院の緊急集会)1 衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」という条項を新設しているのである。この項目を新設していることからも、いまの「7条解散」が違憲であることは明らかである。もし、「7条解散」が妥当なものなら、改正草案の54条は不要だからである。
 
 さらに、
(改正草案)
第6条
5 第1項及び第2項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。

 ここに書かれている「及び」と「又は」の違いにも注目したい。「及び」は「〇〇から〇〇まで及ぶ」と「範囲の広がり」を感じさせることばである。そこには強いつながりがあり、二つのものは同等にあつかわれている。改正草案では「及び」は「イコール(=)」の代わりにつかわれていることが多い。イコールではないものは「又は」と書かれている。ふつうは(私は)そこまでは厳密に考えない。たとえば、改正草案の文言が次のようであったとして、いったいだれが違和感を覚えるだろう。
 天皇は、国「及び」地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。
 気にならないと思う。しかし、自民党は気にする。国(内閣)は地方自治体(の首長)や公共団体とは違う存在だと認識する。たとえ天皇がある行事に参加(出席)しても、天皇が行事に出席(参加)しているという具合に、天皇に「視点」をおかないのである。私は、行事の主体が国か、自治体か、公共団体か気にせずに、天皇が来ている、とした思わないが、自民党は天皇の存在によって、国の行事と自治体の行事、公共団体の行事が「同一視(イコール)とみなされることを、はっきりと拒否しているのである。それをあらわすのが「又は」ということばである。
 そう思って読む必要がある。

 もうひとつ、追加しておく。
(現行憲法)
第8条
 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
(改正草案)
第8条(皇室への財産の譲渡等の制限)
 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が財産を譲り受け、若しくは賜与するには、法律で定める場合を除き、国会の承認を経なければならない。

 「国会の議決」が「国会の承認」と書き直されている。天皇の「国事行為」では「承認」が削除されていたのに、ここでは「議決」が「承認」と書き直されている。このことばの変更も「及び」と同じように、微妙だけれど、慎重に読む必要がある。
 この「意図」は何なのだろうか。
 「議決」をするためには、議論が必要である。「承認」にも議論が必要かもしれないが、議論をしない「承認」(根回しによる総意の形成)というものがある。「議決」のためには絶対に国会を開かないといけない。しかし「承認」のためなら国会開会を省略できるのではないのか。国会を「前面」に出すふりをして、実は国会を軽視しようとしているのではないか。そういう姿勢がうかがえる。

 思想は、大きなことばで語られることがあるが(それが目立つが)、小さなことばの積み重ねで語られることもある。私は小さなことばの方に、「思想の根深さ」を感じる。だから、それにこだわって書いている。
 「緊急事態条項」はたしかに危険である。しかし、「緊急事態条項」さえもりこまれなければ自民党の「独裁政治」は回避できるのか、拒絶できるのか、となると、そうだとは思わない。「改正草案」の細部のことばが「緊急事態条項」と同じ力で国民を拘束する。それは目立たないからこそ、不気味な底力として国民を圧迫する。「反対」と言っている時間を与えずに、知らず知らずに、国民をむしばむ。

 

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