詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」

2021-07-18 17:02:47 | 映画

エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」(★★★★★)(2021年07月17日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 エリザ・ヒットマン 出演 シドニー・フラニガン、タリア・ライダー

 「17歳の瞳に映る世界」とは、何とも奇妙なタイトルである。まるで見ることを拒んでいる。特に私のような高齢の男が、わざわざ17歳の少女に世界がふうに見えるかということは、頭では関心があっても、肉体として関心がない。そんなもの見ても何も感じないだろうなあ、と思ってしまう。しかし、「予告編」の映像が不思議に気になって仕方がなかった。あ、この映像は珍しい、見たことがないという印象があるわけではないのだが、気にかかるのである。
 主人公は、当たり前だが17歳。妊娠している。これも、まあ、あり得ることである。母親も父親も気づかない。友人が気づく。少女はだれに相談するでもなく堕胎を決意する。少女が住むペンシルベニアでは両親の同意が必要。少女は両親には知られたくないので、ニューヨークへ行って堕胎しようとする。その旅行(?)に、やはり17歳(?)のいとこがつきあう。
 このときの車窓の風景が奇妙。なんのおもしろみもない。「近景」があるだけなのだ。ロードムービーの感じがしない。それもそのはずである。ペンシルバニアとニューヨークは遠くない。同じバスに乗る青年が何も持たずに乗る距離である。少女たちは重いバッグを持っているが(このバッグのせいで、長い旅を思ってしまうが)、本来なら必要ない。「近い」からこそ、ニューヨークで堕胎しようと思ったのである。途中でバスを乗り換えるシーンがあるが、連れの少女が「なぜ、乗り換え?」と聞くくらいの近さなのである。手術しても、せいぜい一泊、ことによれば日帰りができると思っていたのである。
 で、ニューヨークなのだが。
 「近い」けれど、やっぱり「遠い」。人の密度がペンシルベニアとはまったく違う。密度が違うと、人に対する「関心度」がまったく違う。簡単に言えば、少女に対して「ビッチ」などとはだれひとり言わない。この映画では、たまたまバスに乗り合わせた青年が主人公ではなく、いとこの方に関心を持って近づいてくるが、ほかにはだれも近づいてこない。自分から近づいていかないと、「親密」が生まれない世界である。「自分を知っているものは誰一人いない」。この冷たい感じが、街の映像そのものとなって動いている。もともと堕胎が目的だから、少女たちも「観光客」のように視線を動かさない。少女たちも街に近づくわけではないのだが。
 この不思議な映像には、私は、かなり困惑した。予告編で感じたのは、この印象である。この「疎外感」いっぱいの街を、「堕胎」をしてくれる医院(施設?)を探して歩く。つまり「近づく」ということを少女が必要に迫られて行動する。ここからが、すごい。映画がまったく別の生き物のように動き始める。
 たどりついた施設は、「近づいてくる」少女を施設は拒まない。言いなおすと、「堕胎はよくない」というような説教をしない。そういう領域へは「近づいていかない」。近づいてきた部分だけを受け入れ、そこで何ができるかを探し出す。最初の施設は妊娠期間が18週間なので、ここではできない、と別の施設を紹介する。
 次の施設では、手術前の処置に一日、手術に一日と二日かかると言われる。そして、その、「決意」を再確認するとき、少女に、突然「近づいてくる」ものがある。担当の相談員が、少女に質問をする。初体験はいつだったか。いままで何人とセックスしたか。どんなセックスをしたか。避妊をこころがけていたか。少女は、四択の答えのなかのひとつを選んで応えていくわけだが、だんだん答えられなくなる。セックスを強要されたことはあるか。暴力を振るわれたことはあるか。そういうとき、拒否したことはあるか。「Never Rarely Sometimes Always 」(一度もない、めったにない、時々、いつも)。答えられないのは、「一度もない」と断言できないからである。つまり、彼女の妊娠は、望んでいたものではない、ことを思い出してしまうのだ。もちろん、だからこそ堕胎にやってきたのだが、その堕胎の直前で、自分は自分のためにだけセックスをしてきたのではないという事実を再確認するのである。セックスをさせられたことがある、それを受け入れたことがあるという事実を再確認するのである。質問に答えようとして、答えられないことを知る。少女は、突然、自分自身に「近づいていく」ことを強いられる。それは「近づきたくない自分」である。
 このシーンには、釘付けになってしまう。少女が答えられなくなってからのシーンは、たぶん二、三分だと思うが、まるで何時間にも思える。
 そして、あ、これだったんだ、とおも思う。「近づきたくない自分に近づく旅」。近づきたくない自分を目の前に抱えながら、ニューヨークを歩く。そのとき、世界はたしかにこんなふうに見えるのかもしれない。冷たい無関心。それはニューヨークの人々の視線が生み出すのではなく、少女自身の「近づきたくないものがある」ことが生み出している部分の方が大きいのだ。
 手術を終えて、少女は帰っていく。その途中、トンネルのなかか何かで、スクリーンが暗くなって、終わる。少女は、いままで生活してきた「家」へ近づいていくしかないのである。そこで見出す自分はどんなものなのか。近づいてみないとわからない。

 これは、大変な傑作である。この作品に比べると、先週★5個をつけた「ライトハウス」は、まあ、映画でなくてもいい作品、いわば「文芸」である。見る順序が逆だったら、「ライトハウス」は★2個かもしれない。タイトルに騙されずに、見てください。なお、原題は、クライマックスシーンで繰り返される「Never Rarely Sometimes Always 」。
 

 


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河野俊一「そのたびに」、愛敬浩一「観念的な悩み」

2021-07-18 10:37:41 | 詩(雑誌・同人誌)

河野俊一「そのたびに」、愛敬浩一「観念的な悩み」(「潮流詩派」262、2021年07月10日)

 「潮流詩派」262が「短詩」の特集を組んでいる。そのなかから一篇。河野俊一「そのたびに」。

  同じことを
  何度も繰り返して
  話す日が来るように
  同じ詩を
  何度も書く日が
  きっと私に訪れる
  いくつかのテニヲハは違って
  ものの名前も
  似たようなものに
  すり替わっているかもしれないが
  なかみは概ね同じで
  でも書くたびに
  新しい気持ちに戻り
  ふりだしに引き返しては
  怒ったり
  喜んだりする

 私は、毎日同じような感想を書いているので、それでいいと思っている。特に「新しい気持ち」にならなくてもいいかなあ、とも思う。
 この詩の感想を書く気持ちになったのは「概ね」ということばが印象に残ったから。
 「概ね、か……」と、私は、ふと思ったのだ。声には出さなかったが。
 そうか、河野はこういうことばをつかうのか。私は、河野のことを個人的に知らないからわからないが、こういう少し形式ばったことばで日々を繰り返しているのだろうか。「同じこと」と書き出されているが、その「同じ」を支えるのは「無意識の形式」かもしれない。
 さて。
 この「形式」というのは、暮らしの中で、どんなふうに生きているだろうか。
 愛敬浩一「観念的な悩み」は、実家の居間と駐車場のあいだにある木のことを書いている。

  「そこに緑があって、助かるねえ」と
  ふいに、母が言う。
  表からの“目隠し”になるというのだ。

 この「目隠し」が「形式」である。自分の家を覗かせない。しかし、居間からは外の様子が伺える。内と外を切り離し、同時につなぐ暮らしの工夫。それが暮らしの工夫であることは、母のことばを聞きながら、父を思い出すからである。

  たぶん、父がそう言っていたのだろうと思った。
  父親が亡くなってからは、ほぼ毎日
  仕事帰りに、実家に寄った。
  日曜日は、昼前には顔を出していた。
  なぜか、父親の座った場所に座らされ
  今さら、母親と話すこともないのだが
  「そこに緑があって、助かるねえ」という
  ほとんど意味を持たない母親の言葉に
  その時、上手く反応できなかったことを
  母の三回忌も過ぎた今
  「観念的な叫び声をあげ」(田村隆一)、悩んでいる。

 「形式」は共有されて始めて「形(式)」になる。どんなふうに暮らしを整えるかという意識が「形式」を生み出す。それは暮らしの中で共有されて、無意識(無意味)になっていく。これが「繰り返し」の持ついちばん重要なものだろう。
 無意識、無意味だから、それを「観念」にまで拡大し(?)、精錬し(?)、点検するのはとても骨が折れる。そういうとき「観念的な叫び」というのは生まれるのだろうか。それは「観念」になろうとする「叫び」かもしれないなあ。
 ここで、私はふいに、河野の「概ね」に戻るのである。
 「観念」と「概ね」。それは違うことばだが、二つをごちゃまぜにしてしまうと「概念」ということばがあらわれる。「観念」と「概念」はまた違うものである。
 こういうどこからともなくあらわれてきた思いつき(?)が、再び、「観念的な叫び」とは「観念」になろうとするまえの「未生の観念」であるという感じを強くし、その「未生の観念」が愛敬の「肉体」を感じさせる。「悩み」ということばが、その印象をさらに強くする。きっと「観念」になってしまえば、「悩む」ということはない。「観念」は「目隠しの木」のように「家のなか(家の内部/家の肉体/家の裸)=愛敬の裸体(肉体)」を隠すからである。そうであるからこそ、悩むのだ。愛敬は、いま、外からはみえない「家のなかの肉体」と向き合っている。それは、父からなのか、母からなのか、まあ、「家」からなんだろうなあ、愛敬のなかで「繰り返されている」「同じこと」なのだ。そういうものが、あるのだ。

 

 

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