詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『フランチェスカのスカート』(14)

2021-07-11 10:31:09 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

 

高柳誠『フランチェスカのスカート』(14)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「泉」。町を潤す水脈。その水は甘い。

  人々は、星降る丘に降りそそぐ流星の成分が地中深くに溶けこむか
  らこそ、泉は星空のように甘いのだと考えている。また、水の音楽
  自体も、もとは満天の星たちが奏でていたものの残響だともいう。

 これは、美しい。しかし、このままでは美しすぎて、なにかはかない感じがする。それを高柳は、こう変えていく。

  一方、地下に眠る死者の記憶を透過することこそ、甘さの原因だと
  信じる人々もいる。結晶化した記憶の成分を含むからこそ、この水
  を飲み続けると、死者固有の記憶がしだいに体内に降り積もって、
  生きている人のなかで確かな経験に析出してくるのだし、水の音楽
  も死者が地中でうたう歌のひそかな反響にほかならないというのだ。

 「透過する」「結晶化」という高柳好みのことばが出てくるが、私がなによりも注目するのは書き出しの「一方、」である。
 ある存在を一方向から描く。それを、別の「一方」から見つめなおす。それは「鏡」の文体である。鏡の存在によって、実在と鏡像の間で、実在と虚構からあふれだしてくるものがダンスをする。
 それが高柳の詩なのである。
 一方に夜空の星の音楽がある。それは地上に降り注ぐ。一方、その地中には死者たちの記憶がある。それを人々は飲むことで地上へすくい上げる。これを「降り積もる」ということばで「降りそそぐ」と対照的に描いているも「鏡の文体」である。このとき「鏡」とは星空か、地中か。限定されない。あるいは、ふたつもとが「鏡」になる。そのふたつの「鏡」のあいだで人間が生きる。夜空と地中というふたつの存在を結びつけながら。

 

 

 

 

 


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自民党憲法改正草案再読(11)

2021-07-11 09:55:56 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(11)

(現行憲法)
第16条
 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
(改正草案)
第16条(請願をする権利)
1 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願をする権利を有する。
2 請願をした者は、そのためにいかなる差別待遇も受けない。

 現行憲法は、一項目でおさめている。改憲草案は二項目に分けている。第18条でも同じスタイルをとっている。この「改正」の意図は何なのか。
 「請願」は別なことばで言えば「苦情/注文」だろう。「これでは困る。こうしてほしい」。「困る」という訴えが先にある。訴えられれば、どうしたって「反応」がある。反応は大きく分けて「受け入れる」「拒絶する」。そして、その「拒絶」にはときどき差別待遇が含まれる。それは、いわば「ひとつづき」のものである。そういう意識が現行憲法にあるのだろう。苦情、注文をつけられたからといって、苦情、注文をつけたひとを差別待遇してはいけない。
 改憲草案は、これをふたつにわけている。国民は請願する(苦情/注文を言う)権利を持っている。そして、補足として、請願者に対して差別待遇をしてはいけない、と苦情を受け付けた側に注意している。「請願をした者は」と「主語」が「請願者」になっているけれど、行為としては「請願を受けたもの」が主語だろう。差別待遇をしてはいけない。能動があって、はじめて受動が成り立つ。
 実質的な「主語」を切り離して、二項目にしている。
 これは第9条でも見られたことだが、かなり注意をしないといけない。何か問題があったとき、「第一項目」は適用するが、「第二項目」は適用しない、というときの「根拠」(よりどころ)にされてしまう危険性がある。
 この項目の分離は、たとえば「第7条解散」のように、実際に行われている。ひとつのことがらが何項目かにわけて規定されてるときは、それが「悪用」される危険性が高い。たぶん、悪用するために分離しているのだろう。
 この「差別待遇」では、菅のもとで、こういうことがあったはずだ。「ふるさと納税」という制度がある。その制度(特に返礼品)には問題がある、と官僚が菅に進言した。これは「請願」ではないが、「請願/注文/苦情」にいくらか似ている。そのとき菅はどうしたか。その官僚を異動(左遷)させた。これは「差別待遇」である。
 官僚とふつうの国民を同一視することはできないが、官僚に対しておこなわれたことは国民に対してもおこなわれるだろう。国民を直接異動(左遷)させるわけにはいかないから、別な「差別待遇」がとられることになるだろう。
 現実に起きていることと関係づけながら、私は、そんなことを思うのである。

(現行憲法)
第17条
 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
(改憲草案)
第17条(国等に対する賠償請求権)
 何人も、公務員の不法行為により損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は地方自治体その他の公共団体に、その賠償を求めることができる。

 改変点は二点。
①「公務員に不法行為により、損害を受けたとき」と「公務員の不法行為により損害を受けたとき」の違いは「読点」の有無。改正草案では「読点」がない。これはあまりにも微妙な改変である。なぜ、読点を削除したのか。
 たぶん改正草案は、公務員の不法行為により「直接」損害を受けたとき、に限定しているのだと思う。たとえば静岡県の盛り土の土石流。盛り土(土砂投棄?)処理を許可したの公務員がいる。そのとき何らかの規制ミス、管理ミスをしている。しかし実際に土砂を投棄をしたのは業者であり、施工ミスであるという場合。改正草案では公務員には(つまり、国には)賠償責任がない、ということになるのではないか。そういう結論を出したいがために「直接」ということばはつかってはいないが(つかうと目立ってしまうからね)、読点を削除することで「含み」を持たせたのではないか。
 疑り深いから、私は、そう考える。
②「国又は公共団体」に「地方自治体」と「その他の」が追加されて「国又は地方自治体その他の公共団体」になっている。これは、どういうことか。地方自治体の公務員の不法行為については、国は責任をとらない、ということにしたいのではないのか。「国家賠償」ではなく「地方賠償(?)」という形にしたい。「その他の」が追加されたのも、なるべく国ではなく他の「団体」に賠償責任を押しつけようとする意図があるように思える。国家公務員でない限り、国は賠償責任を持たないということにしたいのではないか。

(現行憲法)
第18条
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(改正草案)
第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)
1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
 この条項でも、条項の分割がおこなわれている。「奴隷的拘束」が「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言いなおされ、「その意に反すると否とにかかわらず」が追加されている。「奴隷的拘束」ということばが避けられているのは苛酷な印象を隠すためだろうか。しかし「奴隷」が「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言いなおされるとき、抜け落ちるものがある。「精神的拘束」が欠落する。「精神的」というのは「その意」の「意」のことだろう。「その精神に反すると否とにかかわらず」というとき「精神」とどうあつかわれているのだろうか。よくわからない。
 現実には、パワーハラスメント、モラルハラスメントが問題になっている。「身体的拘束」ではなく「ことば」による「精神的拘束」。これも一種の「奴隷状態」と言えるが、改正草案では、それは「身体的拘束」ではないから許される、ということになるのか。
 「ことば(精神)」による支配は、「空気を読む」という支配、「忖度を強要する」という支配につながりかねない。それは「身体的拘束」のようにはっきりとは目に見えないから、逆におそろしい問題を含んでいると思う。
 改憲草案は「犯罪者」を別項にし、強調することで、「奴隷的拘束」の「言い直し」から目をそらさせようとしているのかもしれない。

 

 

 

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