詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オリンピックは中止すべきだ(4)

2021-07-26 19:54:11 | 考える日記

 7月26日の読売新聞夕刊(西部版)によれば、

①五輪関係者、選手3人含めあらたに16人陽性…計148人に
 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は26日、海外からのアスリート3人を含め、新たに16人が新型コロナウイルス検査で陽性と判定されたと発表した。
 組織委が7月1日以降に公表した大会関係者の陽性者は、計148人となった。

②ビーチバレー女子、チェコ代表が陽性・試合棄権…石井・村上組が不戦勝
 ビーチバレー女子で24日に石井美樹(荒井商事・湘南ベルマーレ)、村上めぐみ(オーイング)組と対戦予定だったチェコ代表ペアの選手1人が新型コロナウイルスの検査で陽性反応を示したことを受け、大会組織委員会は、この選手のペアが1次リーグ全試合を棄権すると発表した。石井、村上組は不戦勝となった。

 今朝の朝刊では「陽性者は選手2人を含め10人だった。それが夕刊段階で「選手3人を含め16人」に拡大している。どんどん増えている。
 ビーチバレーでは、選手の「棄権」のために「不戦勝」ということが起きた。
 すでに書いたことだが(何度でも書くが)、「大会組織委」は「濃厚接触者」の数を講評していない。これは、危険だ。「濃厚接触者」が隔離されずにいるということではないのか。「バブル対策」は完全に崩壊しているのではないのか。
 「安心安全」を標榜するなら「濃厚接触者」が何人いるのか、「濃厚接触者」はどこにいるのか(隔離されているのか)をきちんと発表すべきだろう。
 こんな状態では、参加している選手や関係者に感染が拡大するのを「放置」しているとしか言えない。選手や関係者の「自己責任」と言うつもりなのだろうか。その選手や関係者が「バブル」の外に出て活動し、そこから市中感染が拡大した場合は、今度はだれに「自己責任」があるというのだろう。客として受け入れたコンビニ? オリンピック選手だ、と近づいて行って交流した市民?
 「濃厚接触者」の数、隔離場所を公表できない「安心安全」ならば、即座に大会を中止すべきだろう。

 

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高柳誠『フランチェスカのスカート』(17)

2021-07-26 16:05:30 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

 

高柳誠『フランチェスカのスカート』(17)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「本」。この作品には、注釈をつけたくなることばがたくさんある。すべてのことばに注釈をつけたくなる。つまり「高柳語」がぎっしりとつまっている。
 本を「物体」と呼んだ後、こう書いている。

              印刷された文字を読み進めたとたん、一
  挙に別の世界が広がる。そんなふしぎな世界を、どうやってこんな
  小さな箱に閉じ込めていられるのだろう。

 「物体」は「箱」と言いなおされている。そして、そう呼びなおすとき「閉じ込める」という動詞がつかわれている。この「閉じ込める」は重要なことばである。高柳は、ことばで「高柳ワールド」を「閉じ込める」。
 そして、それは本を「開く」ときに広がるのだが、そこにはもうひとつ別の動きがある。

             紙に囚われているはずのそうした文字たち
  が、いつのまにか立ち上がって自由に動き、互いに連動しあって独
  自の世界を織り上げていく。

 「囚われている」は「閉じ込められている」である。閉じ込められている文字が、「自由に動き、互いに連動しあ」う。そして、新しい世界を「織り上げていく」。
 「織り上げる」は、一つの運動のなかにことばを「閉じ込める」、ばらばらだったものをある形に構成するということかもしれない。
 重要なのは、しかし、その織り上げられたものではなく、ことばが「自由に動く」ということである。自立するからこそ、それは「独自の世界」になりうる。
 しかも、

         本から生まれた世界は、ぼくたちが生活するこの世
  界以上に広い。しかも、この世界とは違った原理のもとに存在して
  いる。

 「原理」ということばが出てくる。「独自の原理」をもっているから「独自の世界」になる。「原理」がなければ、それは「世界」ではなく、「でたらめ」になってしまう。
 「原理」とは「法則」である。そして、このとき「法則」とは「運動」のことである。
 たとえば、最初に引用した部分には「とたん」ということばがあった。引用は省略するが、別な部分には「ただちに」ということばがある。どちらも「運動」が接続していることをあらわす。「休憩」はない。休まない運動である。休まない、ということが高柳の動詞の「原理」である。「閉じ込める」「開く」という運動は矛盾しているが、矛盾しているからこそ、即座に「止揚」され、新しい運動へと転換していくのである。

 


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嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

2021-07-26 09:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

  謎を考えてみよう
  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
  カンガルウは妙な木々に何を習つたのか  (カンガルウ 459ページ)

 「故郷」について考えるとき、宮崎県を題材にした詩を選んだ方がいいのかもしれないけれど、あえて「抽象的」に考えてみたいと思う。嵯峨は宮崎県の出身だけれど、宮崎にいた期間は短い。
 嵯峨はここでは「故郷」を「不思議に曲がりくねつた木々」と結びつけている。土地の形、山の形、川の形ではなく、あるいは名前ではなく、木々。そこにあるもの。それは、ほかの土地にあるものとどんなふうに違っているのだろうか。その違いを「故郷」と読んでいる。

  ふるさとというのは
  そこだけに時が消えている川岸の町だ
  そこの水面に顔をうつしてみたまえ
  背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから  (*462ページ)

 この詩も抽象的だ。「時が消えている」しかも「そこだけ」。時間がない。しかし「川岸」がある。そして、水面に顔を写すとき背後から大きな瞳がみつめる。「背後」というのは自分の背中というよりも、消えたときの背後かもしれない。遠い過去。時間の向こうから、自分をみつめるものの存在としての「ふるさと」。
 「ここは何処なのか」という詩には、こんなことばがある。

  遠いことはいいことだ
  愛が 憎しみが 心だつて
  なにもかも遠くなる  (468ページ)

 「故郷」は「遠い」からいい。「なにもかも遠くなる」と、「遠い」という感じだけがのこる。
 カンガルウの詩にも「遠い」があった。

  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を

 木は「遠い」を教えてくれる目印のようなもの。木々よりも「遠い」の方が重要なことばかもしれない。
 「ここは何処なのか」という詩は「在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか」と自問する詩だけれど、その詩の途中に、こういう行がある。

  別れるのはいいことだ
  なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる

 「別れる」を「ふるさと」と「別れる」と読んでみる。そのとき「なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる」。この「ひとすじ」ということばに出会ったとき、私は嵯峨の「魂しい」の「しい」というものを思い浮かべた。それは魂から自分の方に帰ってくる「ひとすじ」の何か。魂を「背後から見つめている大きな瞳」と考えれば、そこから自分に向けられた視線が「魂しい」の「しい」なのではないか。

 「ふるさと」という詩がある。

  思い出の町はすつかり消えて
  ここはもはや見知らぬ遠い町のようだ

  ぼくは大きな白いキヤンパスを抱えて
  むかしの中央通りを通つていつた

  そして心のなかを一台の空車が
  空の方へのぼつていつた  (486ページ)

 これは、とても象徴的な詩だと思う。「思い出の町」は「ふるさと」。しかし、面影は消えて「見知らぬ町」になっている。それを「遠い」と呼んでいる。「遠い」は距離。魂と私をつなぐ遠さ(距離)が「しい」という文字なのかもしれない、と私は感じる。
 失われたふるさとと私。失われたのなら、それをつなぐものはないはずなのに、「しい」がつなぐ。そう考えると、漢字の「魂」という一文字は「ふるさと」かもしれない。「ふるさと=魂」と「私」をつなぐ「しい」。
 でも、「しい」って何なのか。
 もう一度「対話」という詩を読んでみる。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つていく遠い地が失われているからだ
  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 ことば通りには読むことができないのだけれど、「遠い地」は「ふるさと」。「ふるさと」が失われてしまっているのが嵯峨なのではないのか。宮崎は嵯峨の生まれ育った場所だけれど、それは「遠い」。「ふるさと」とは本来「去っていくもの」。形を変え、面影をなくしてしまうもの。それが「失われている」。この言い方は、とても奇妙だ。面影をなくして消えていくはずなのに、その消えてなくなるということが「失われている」。矛盾だ。昔の面影のまま、ふるさとは存在する、ということか。
 そして、この「矛盾する」ということだけが、何か、詩を詩にする力なのだろうと思う。
 矛盾は

  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

 という行にもあらわれている。遠いと近い、近いと果て。それが「あなたの傍ら」ということばのなかで絡み合っている。
 この奇妙な絡み合いは、

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから

 とい二行にもある。「愛する」ということは「さびしさ」があってはじめて生まれる。さびしいという心がなくなると愛するという心が起きない。さびしいからひとを愛する、というのはわかる。しかし、さびしさを失ったから愛さない、というのはどうなんだろう。わかったようで、わからない。だいたい人を愛したら、さびしいが消えて「うれしい」になるかもしれない。かといって「うれしい」がいっぱいになれば人を愛さないかというと、そうでもないだろうと思う。愛する、うれしい、うれしい、愛するは交錯する「充実」のようなものだ。
 こういうことは、考えるとわからなくなる。
 私がこの詩で注目するのは「さびしさ」ということば。「さびしさ」は「さびしい」。そして「さびしい」といったときに「さびしい」の「しい」が、嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」に似ているなあと、ふと思う。
 「しい」ってなんだろうなあ。「かなしい」「さびしい」「いとしい」「うつくしい」。それは「存在」というよりも「状態」。「状態」というのは、漠然とした「ひろがり」のようなものを持っている。そうすると、先に書いたこととつながるけれど、何かと何かをつないでいる、そのつなぎ方が「しい」なのではないか。「距離」が「しい」なのではないか。
 嵯峨は「魂」を「存在」というよりも、「ある状態」と考えていたのではないか、それが「魂しい」という表記になったのではないか、と私は思う。
 「しい」こそが、嵯峨が求めている「ふるさと」なのではないか、と思ったりする。

 「広がり」「距離」には「空間」と「時間」がある。空間の方は「ふるさと(自分が生まれたところ)」と「いまいるところ」という「間」があり、時間の方には「過去(自分が生まれた時)」と「いま生きている時」という「間」がある。時間はそれだけではなく「過去の過去」と「いま」という隔たり(間)というものがある。
 嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」は、その「間」の「状態」につながっている、と私は感じている。これをつきつめて考えるには、「時間」について見つめなおす必要がある。詩の中で「時間」を嵯峨はどんなふうに書いているか。それを見る必要がある。

 

 

 

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オリンピックは中止すべきだ(3)

2021-07-26 07:58:27 | 考える日記

 7月26日の読売新聞によれば、

①東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は25日、ボートのオランダ選手と自転車のドイツ選手の2人を含め、新たに10人が新型コロナウイルス検査で陽性と判定されたと発表した。

②国内の新型コロナウイルス感染者は25日、46都道府県と空港検疫で新たに5020人確認された。重症者は前日から12人増えて448人、死者は4人だった。
 東京都では、1763人の新規感染者が確認された。日曜日では1月17日の1595人を上回って過去最多。1週間前から755人増え、6日連続で1000人を上回った。(略)連休後半は検査数の減少に伴い、新規感染者も減る傾向にあるが、この日は前日(1128人)から635人増えた。

 コロナ感染者の拡大が止まらない。
 ①の記事で問題なのは、最初の頃は選手、大会関係者の陽性が発表されたとき、同時に「濃厚接触者」の数も公表されていた。選手、関係者は、選手と接触する。濃厚接触者でも「6時間前検査」で陰性なら試合にできる。しかも、対戦相手は対戦を拒否できない(新聞あかはた報道)。これでは「公平」と言えないだろう。自分の健康を大切にし、対戦を放棄すれば不戦敗になる。こんな状況では、金メダリストが「不戦勝」で誕生する可能性も考えられる。それでもスポーツなのか。最初の頃のように、「濃厚接触者」は何人なのか、濃厚接触者はどういう「待遇(処置)」にあるのか。それも記事にすべきだろう。 ②は東京の感染が検査数が減少しているにもかかわらず、感染者が前日から635人増えたと伝えている。月曜日(きょう)からさらに拡大するだろう。引用しなかったが、神奈川351人、埼玉449人、千葉279人と増加している。さらに全国的にも大阪471人、沖縄209人と拡大している。
 オリンピックは即座に中止し、感染者対策を強化すべきだろう。

 さらに、大会関係の記事では、酷暑対策にテニスは「10分休憩」の特別ルールを設けたとも書いている。熱中症にならなくても、疲労が大きくなれば免疫力も落ちるだろう。感染の危険性がさらに高まると思う。
 何度でも書くが、感染が拡大し続けている、「バブル対策」が効果を上げていないのだから「安心安全」は単なることばにすぎなかったことになる。間違いがわかったら、即座にいまやっていることを中断し、対策を立て直すべきだろう。

 

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