詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(8)

2021-07-07 14:53:07 |  自民党改憲草案再読

 第三章は「国民の権利及び義務」。現行憲法も自民党の改憲草案も同じ。ここでは現行憲法も改憲草案も「及び」ということばをつかっている。「及びはイコール」。だから「「日本国民の権利=義務」なのである。「権利」が「広がっていく(権利から出発して、行動へと広がっていく、つながっていく)ときに、そこには義務が生まれる」。権利と義務は切り離せない。この「理念」は現行憲法も改憲草案も同じである。
 だが、各条項はかなり違う。

(現行憲法)
第10条
 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
(改憲草案)
第10条(日本国民)
 日本国民の要件は、法律で定める。

 いちばんの変更点は「これを」の省略である。改憲草案は、現行憲法のこの「文体」を嫌って「これを」という書き方を省略する。たぶん、現行憲法のような「文体」を日常的にはあまり用いない、日本語っぽくない、ということを「理由」にあげると思う。
 しかし、この「文体」は「主題(テーマ)」を明確にするための「方法」である。口語でも(会話でも)、重要な問題を語るとき、までテーマを提示し、次に「これは……」と言う。重要なテーマを強調するとき、ごく自然につかう「文体」である。日本国憲法は「国民のため」のものである。そういうとき、「国民」はとても重要なテーマであり、「国民」を忘れてはいけない、というのが第10条の「出発点」なのだ。
 その重要な「国民」とはどういう人間のことを指すのか。その「要件」は憲法では定義しない(規定しない)。「法律」で定義する(規定する)。こういうことを書くのは、憲法で日本人とはどういう人間のことなのかをひとつひとつ規定していくと「憲法」の骨格がみえなくなるからだろう。大切なのは、「憲法と国民の関係」「憲法は国民のためのものである」という「理念」である。「国民こそが大切」をまずはっきりさせる。そして、「理念」以外のこと(どこで生まれたとか、両親はだれであるとか)は、「法律でこれを定める」と明確化している。改憲草案は何が重要であり、その重要なものを語るためには細部は省略しなければならないという断念の「明確化」を避けているように見える。そうすることで「国民」こそがいちばん大事なのだということに目が向きにくいようにしているように見える。ただし、この短い条項だけでは、それは断定できない。保留にして読み進む。

(現行憲法)
第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(改正草案)
第11条(基本的人権の享有)
 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

 現行憲法の「享有を妨げられない」が「享有する」に変更され、現行憲法の「国民に与へられる」が改憲草案では削除されている。
 これは、どういうことなのだろうか。
 国民の権利(=義務)という主題(テーマ)を主語と動詞でどう定義するか。憲法と国民の関係を書いているのだから、現行憲法が「享有を妨げられない」というときは、それは「憲法によって妨げられない」という意味である。つまり、憲法は「国民の、すべての基本的人権の享有を妨げない」ということである。これを「主語」を「国民は」にすると「すべての基本的人権の享有を妨げられない」になる。このことを言いなおしたのが「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」である。憲法を主語にして言いなおすと、憲法は「この憲法が国民に保障する基本的人権を、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へる」である。
 すこし面倒くさいが、「憲法と国民の関係」を「国民」を主語にして書くと現行憲法のようになる。まず国民があって、憲法がある。だから国民を主語にして憲法を書かなければならないのだが、そうすると、どうしても「妨げられない」とか「与へられる」というような「文体」になってしまう。
 改憲草案は、こうした、すこし面倒くさい「文体」を避けて、日常的によく耳にする「文体」に変更している。しかし、その変更によって、テーマが見えにくくなる。「国民は、全ての基本的人権を享有する」は「国民」にかぎらず「全人類」についても一般的にあてはまる「理念」である。「国民と憲法」の具体的、実際的な関係ではなく「基本的人権」について述べただけの「抽象的」な意味におわっている。憲法は「基本的人権」を「侵すことのできない永久の権利である」と定義するだけである。「だれ」が「侵す」のか、それが明確ではない。
 現行憲法は、たとえ憲法であっても、国民の基本的人権を侵すことはできない、と定義している。つまり、憲法自身を拘束している。憲法は国民の基本的人権と合致していないといけない、と自己規定している。
 憲法の姿勢を自己規定した上で、現行憲法は、次に「国民の権利(基本的人権)」に基づく「基本的義務」を定義する。つまり「権利」にしたがって行動する。その行動は自分以外のものに影響を「及ぼす」がゆえに、そこには「義務(責任)」があるという形で、こう展開する。

(現行憲法)
第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 書き出しの「この憲法が国民に保障する自由及び権利」というのは、第11条のことをさす。「保持しなければならない」というのは憲法からの、国民への「命令」なのである。第11条が「憲法」を拘束する条文なのに対して、第12条は「国民」を拘束する条文なのである。「国民は、これを濫用してはならない」という「禁止」のことばが、それを明確に語っている。憲法は国民を守る、ただし、国民は次のことをしなければならない、次のことをしてはいけない、というのが第12条。
 繰り返しになるが、第11条では憲法がしなければならないこと、憲法がしてはいけないことが、国民の側から定義されているのに対し、第12条では国民がしなければならないこと、国民がしてはいけないことが、憲法の側から定義されている。第11条と第12条は「対」なのである。
 改憲草案は、これをどう変更しようとしているのか。

(改憲草案)
第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 おおきな変更点はふたつ。
①「保持しなければならない」は「保持されなければならない」になっている。改憲草案は「国民によって」保持されなければならないということだが、だれのために? なんのために? 国民自身のためにならば、わざわざ「保持されなければならない」ともってまわった「文体」にしなくてもいいはずである。なぜ「保持されなければならない」と変えたのか。主語を「国民」ではなく、「基本的人権」に変更することで、「国民」に意識が集中することを避けているのではないか、と私は思う。
 国民一人一人、個人個人という「意識」ではなく、「基本的人権」という抽象的な概念に「意識」を向けさせ、抽象的概念で国民の「権利(の主張)」を抑制しようとしているように思える。
 それは、現行憲法の「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」を「公益及び公の秩序に反してはならない」と言いなおしているところに、端的にあらわれていると思う。
 「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」は、どう違うか。
 「公共の福祉」とは「みんなの助け合い」ということだろう。現行憲法が基本的人権を「濫用してはならない」というのは、基本的人権(これは第13条以下で具体的に定義される)を主張するとき、「みんなの助け合い」を邪魔する(阻害する)ような形で主張してはならない、ということだろう。逆に言えば、もし「みんなの助け合い」を邪魔しない(妨害しない)のなら、基本的人権として認められていることは、何をしてもいいということだろう。
 「公益及び公の秩序」とは、しかし、何だろう。「及び」がイコールであることは、何度か見てきた。「公益=公の秩序」という「等式」自体がおかしい。「利益=秩序」ではないだろう。「利益=秩序」という等式を書いたとたんに思い出すのは、改憲草案の「前文」である。「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」とあった。「利益」のひとつに「(活力ある)経済活動」が生み出すものがある。「経済活動の秩序」に反するものであってはいけない、と言い換えると改憲草案の狙いがわかる。たとえば原発稼働反対という運動を起こす。それはきっと日本の経済活動(大企業の利益)を阻害するし、原発推進の政府を批判する運動につながっていけば、政府の思い描いている「秩序」とは違ってくる。改憲草案は、そういう動きを想定し、それを抑圧するための定義なのだ。
 今国会で「重要土地利用規制法」が成立したが、それも関連づけて考えることができる。「重要土地利用規制法」は、自衛隊基地や原発など安全保障上重要な施設の周辺や国境の離島などの土地利用を規制する。政府が対象に指定した区域の土地所有者や利用実態などを調査し、規制することができる。「原発は公の利益」「基地は公の秩序」と言いなおされて、個人の権利(基本的人権)は排除されるのだ。
 そしてこのときの「公益=公の秩序」とは「政府の利益」「政府の考える秩序」である。政府の方針に「反対」と言えば「国民」から排除される。安倍は「東京五輪に反対する人間は反日だ」と言ったが、この考え方など、完全に改憲草案の思想の先取りである。政府に反対するひともいて「日本」なのである。政府を批判する国民を排除して、「公益=公の秩序」というのは、「独裁者」の思想である。改憲草案には「独裁」の意図が随所に隠れている。「緊急事態条項」だけが「独裁」のよりどころではない。「緊急事態条項」がなくても独裁政治ができるように憲法を変えようとしている。
 安倍や麻生は、改正草案を書いた人の、手の込んだ「からくり」を理解するだけの日本語能力がないようだ。だからこそ、隠しておきたい「秘密」、たとえば「政府に反対する人間は反日というレッテルを張り、排除する」というようなことを知らず知らずに言ってましう。安倍や麻生がもっと「狡賢い」人間だったら、絶対に言わないことを言ってしまう。そこから改憲草案の「秘密」が見えるというのは、なんだか、とても滑稽なことではあるが、笑っているだけではすまない。笑っているうちに、改憲草案が先取りされる形で現実になってしまう。安倍や麻生(あるいは菅も)の「言動」が改憲草案のどんな「思想」を先取りしているのか、常に、改憲草案と結びつけてみていく必要がある。

 

 

 

 

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高柳誠『フランチェスカのスカート』(13)

2021-07-07 00:00:15 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

2021年07月07日(水曜日)

高柳誠『フランチェスカのスカート』(13)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「画家」。

                       ぼくはとりわけ版画
  が好きだ。この世界からあえて色を抜き去り、線の力だけで白と黒
  の世界に還元する。

 「還元する」という動詞のつかい方が独特である。世界はもともとは色がなかったのか。世界には最初から色がある。そうだとすると「還元する」という動詞のつかい方は、間違っていることになる。もし「還元する」という動詞をこのようにつかうことが正しいとするならば、高柳の世界は、線と白と黒だけで構成されていたことになる。
 詩は、こうつづいている。

           なんという魔法だろう。対象となった風景にし
  ろ人物にしろ、色彩を奪われてもなお、いや奪われたからこそ、幻
  想のうちに鮮明な色を得て生き生きとした生命をおびてよみがえる。

 「幻想のうちに鮮明な色を得て生き生きとした生命をおびてよみがえる。」それは「鮮明な色を得て生き生きとした生命をおびて幻想がよみがえる。」ということか。「幻想」正しい世界であり、「現実」は間違っている。
 この認識が「版画」のように反転しているのが高柳の世界か。
 こういうことは、論理的につきつめていくとおもしろくない。いま私が書いたことは、論理的にどこか間違っていないか、という疑問を残したままに放置しておいた方がいいだろう。
 私が注目するのは、「色彩を奪われてもなお、いや奪われたからこそ、」という反語的な繰り返しである。「反語」によって意味を強める。そういう「文体の癖」が高柳にはある。
 「反語」の「反」は「版画」の「版」とは文字が違うが、音は重なる。そして、

          版画には左右が反転するという、印刷と同じ原理
  が働いている。

 とあえて書いているところをみると、「版画」とは「反転画」の省略形のようにも見えてくる。高柳は「反画」と書きたい欲望を抱えているのではないだろうか。
 詩の最後は、

             版からは想像もつかない豊かな世界が、線
  がもつ生命力だけで立ち上がってくる刷り上がりの瞬間は、息がつ
  まるほどドキドキしてしまう。

 と閉じられるのだが、「版からは」ではなく「反からは」と読み直したい衝動に、私は襲われるのである。

 

 

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