詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(16)

2021-07-22 11:54:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(16)

 第24条は大きく改変される。

(現行憲法)
第24条
1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
(改憲草案)
第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)
1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 現行憲法は、「婚姻」に関する規定である。「婚姻の自由」(婚姻の権利)について書いている。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とは、国が個人の婚姻の自由(権利)を侵してはならない、という意味である。「合意のみ」の「のみ」には、国の関与は排除する、国は権利を侵害してはならないという意味である。憲法は、あくまでも国(権力)を拘束するためのものである。
 改憲草案では、この「のみ」を削除した上で、さらに現行条項に先立つ条項を新設している。
 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と「家族」を「婚姻(個人の問題)」よりも先に書いている。「家族があって、個人がある」、つまり「家族優先」が改憲草案の理念である。第三章は国民の権利の条項(国が国民の権利を保障するための禁止事項の条項)であるはずなのに、ここでは国民の権利を明示されず、「家族」ということばが登場している。
 この「家族優先」の規定には、どこにも国(権力)に関する「禁止規定」が書かれていない。「家族」が大切だとして、その大切な家族に国(権力)は何をするのか。「家族は、互いに助け合わなければならない」と国の責任を放棄し、家族に「助け合い」を丸投げしている。国民の権利も、国の責務も書いていないこんな条項が憲法にあっていいはずがない。道徳の副読本ではないのだから。
 ここに改憲草案は「助け合い」ということばをつかっているが、私の感覚では、この「助け合い」が「公共の福祉」(みんなの助け合い)である。そして、「公共の福祉」であるかぎり、それを邪魔してはいけないが、邪魔をせず参加しないということは許されるはずである。しかし、改憲草案は、これを「互いに助け合わなければならない」と国民の義務にしている。
 現実問題とつきつめてみれば、これがいかに不自然であるかがわかる。世の中には「離婚」があたりまえのこととして存在している。離婚は、家族が「互いに助け合う」ということをやめてしまうことである。自分を助けるために、自分を「配偶者」から切り離し、自由になることである。「みんなの助け合い」に参加する必要はない。自分を自分で助けるためなら、配偶者とわかれてもいいというのが離婚の考え方であり、それはこの世の中では当然のこととして認められている。
 改憲草案は「互いに助け合わなければならない」と書いているが、これは私が「みんなの助け合い」と読んできた「公共の福祉」ではなく、「公益及び公の秩序」のことである。「公の秩序」とは、改憲草案では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位」という定義にあらわれている。個人ではなく「家族」という集団。その中にある「秩序」。それを守らなければならない。「家族の秩序」を守ることが「家族の利益」である。「家族の利益」を守るために「家族の秩序」を守る必要がある。それを「家族は、互いに助け合わなければならない」と言い直し、ごまかしている。
 これは「離婚を認めない」ということにつながる。離婚すると、個人の経済的基盤は弱くなる。どうしても「公共の福祉(助け合い)」が必要になる。国は、経済的弱者を助けるために、所得の再配分(税金の活用)をしなくてはならない。その国の義務を放棄し、「家族」に責任を押しつけている。個人の困難を、家族の問題に押しつけ、個人の自由を奪おうとしている。個人の自由を拘束しようとしている。「家族は、互いに助け合わなければならない」は美しいことばだが、「美しいことば」のかげには、邪悪なごまかしがある。
 改憲草案に書かれている「家族」とは、「家族」というよりも「家制度」である。「家制度」であると考えると、ここにはつかわれていないが「公益及び公の秩序」こそが自民党改憲草案の狙いであることがよくわかる。「家の利益」「家制度という秩序」を守る。「家長制」の復活、父が全権を握り、他の家族を支配する。そうすることで成り立つ秩序と、そこから生まれてくる利益。これは「家督制」と言いなおせばもっとわかりやすくなる。財産問題(利益の問題)をからめると、「公益(家の利益)及び公(いえ)の秩序」がわかりやすくなる。
 改憲素案は「家族」をさらに「親族」へと広げていくのは、「家」には「財産」が関係してくるからである。だからこそ、「婚姻及び離婚」「相続」などに「親族」までが関与してくる(関与できる)ように憲法で言及するのである。「婚姻」とは簡単に言いなおすと「配偶者の選択」であり、あくまでも個人の問題だが、改憲草案はそこに「家族」「親族」を関与させている。「両性(ふたり)」の問題ではなく「両家」の問題にしようとしている。「両家」は「親類」になり、そこにまたあらたな「公益及び公の秩序」が生まれる。
 ところで、この条文では、ことばのつかい方が現行憲法と改憲草案では違うところがある。
 現行憲法では「離婚並びに婚姻及び家族」という言い方をしている。改憲草案では「婚姻及び離婚」、「相続並びに親族に関する云々」。「及び」と「並び」のつかい方が違う。「及び」はイコールである。現行憲法では、婚姻=家族。婚姻すれば家族が成立するからである。離婚でも家族が生まれるときもあるが、家族が生まれないときもある。「両性」がそれぞれの「個人」に戻るだけの場合がある。そういうことを想定して「離婚並びに婚姻及び家族」という表現をとっていると思う。「並びに」は並列、簡単なことばでいえば「と」、and になるだろう。
 改憲草案では「婚姻及び離婚」と書いている。「及び」は「及ぶ」という動詞と関係している。婚姻で生じた問題がやがて離婚に及ぶことがある。でも、「婚姻=離婚」というのは乱暴である。その乱暴をあえてここでおかしているのは、「婚姻」にしろ「離婚」にしろ、それが成立したとき、そこに「財産」が絡んできて、それは「両性」の問題ではなく「両家」の問題になるからだろう。だから「相続並びに親族」ということばがつかう。「婚姻→家族(両家の統合、統合される財産、あらたな秩序)→離婚→家族(両家の分断、新たな財産問題)」ということになるのか。
 「個人の尊厳」と改憲草案も、現行憲法と同じことばをつかっているが、改憲草案が「個人の尊厳」に配慮しているとは思えない。改憲草案は、あくまでも「家」のことを中心に考えている。「家」を支配する「家長」を中心に考えている。
 これは最近起きていることと結びつけると、「夫婦別姓問題」が思い浮かぶ。夫婦別姓のどこかいけないのか。「家長」があいまいになるからだろう。あるいは「家長」を重視していないという印象が生まれるからだろう。なんとしても「家長」が「家」を支配する。そういう「秩序」を維持したいということだろう。
 同性婚を認めないというのも同じだろう。いくつかの自治体で「パートナー制度」と呼ばれるものが誕生している。パートナーは、対等である。この「対等」という感覚が、たぶん自民党のいちばん嫌っている感覚なのだ。だれかが「長」になり、秩序をつくる。「秩序」とはピラミッド型の支配構造のことであり、それから逸脱するものは許さないというのが自民党の考え方である。
 国民を支配するための憲法をめざしていることが、ここからもわかる。「家族」ということばは美しい。「助け合う」ということばも美しい。しかし、夫婦が別姓だったら、家族がどうして「助け合う」ことにならないのか、夫婦が同姓だったらどうして「助け合う」ことにならないのか。その疑問から出発すれば、改憲草案のめざしているものが、「国民の権利」とは無関係なものであることがわかる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする