詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

徳永孝「雲と太陽」、池田清子「雲」、青柳俊哉「空の家」

2021-07-15 17:49:22 | 現代詩講座

徳永孝「雲と太陽」、池田清子「雲」、青柳俊哉「空の家」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年07月05日)

 テーマを決めていたわけではないのだが「雲」「空」の詩がそろった。

  雲と太陽  徳永孝

  空一面に
  のっぺりと広がる
  灰色の雲

  太陽からのあまりにも強い紫外線から
  生き物を守り
  雨を降らしうるおいを与えるお母さん

  太陽の光は全ての生き物の命の元(もと)
  でも時にはそのはげしさが
  生き物を死に至らしめる

  そのはげしさは
  雲の優しさが有って
  始めて生きる

  強い陽射しをさえぎり
  ゆるやかに流れる雲の下
  公園で遊ぶ数組の親子連れ

  互いに呼び合い走り回る子供達
  穏やかに見守るお母さんは
  廻(めぐ)る子供達のもう一つの太陽

 これは推敲後の作品。講座で読んだ作品は四連目までは同じだが、そのあとは、こうなっていた。

  お母さんは
  その周りを廻(めぐる)る子供達を
  穏やかに包むもう一つの太陽

 受講生から、最初の形の作品に対して、最終行の「(雲は)もう一つの太陽」という比喩が新鮮、雲は従属的なことが多いが、太陽と同一という視点はインパクトがある、雲のいろいろな形を思い浮かべたという感想が聞かれた。ただし、「子供達」というのは何の比喩なのだろうか、わからない。子供達はいろいろな生き物の比喩なのだろうか、と疑問も聞かれた。私も子供達がわからなかった。最終連が唐突な感じがした。
 徳永は、公園で遊ぶ子供達と、それを見守るお母さんのことを書いた。太陽の周りを地球などが廻るように、子供達がお母さんの周りを廻っている。
 この説明を聞くと、最終連の「お母さん」が「雲」ではない、比喩ではないということがわかるのだが、それではやはり唐突だろう。二連目に出てくる「お母さん」は比喩であり、実際は雲のこと。どうしても「お母さん=雲」と読んでしまうので、いまのままでは最終連は公園の風景とは思わない。
 そういう感想を受け止めて、推敲したのがこの作品。
 公園であることを五連目ではっきりさせ、そのあとでお母さんを登場させている。五連目では「親」ということばだが、六連目で「お母さん」に変わっている。このとき、同時に「お母さん」は「もう一つの太陽」という比喩になる。
 ここに問題がある。
 二連目では「雲=お母さん」(お母さん=雲)、最終連では「お母さん=太陽」。比喩が二つ存在する。「お母さん」が共通するので、「雲=お母さん=太陽」という「等式」になる。これを簡略化すると「雲=太陽」になってしまう。そうすると、なんだかよくわからない。
 ひとつひとつの連はわかるが、全体では印象がごちゃごちゃになる。
 書きたいことが多く、よくばりな詩になる。書きたいことを絞り込んだ方がいいと思う。「雲=お母さん(太陽の激しさから生き物を守る)」という最初のテーマは新鮮なので、それが引き立つようにする方がいいと思う。

  雲  池田清子

  真っ白ではなく
  少しおさえた白のレースのカーテン
  開けると
  青い空と白い雲
  屋根と屋根と屋根と屋根の
  間に見える濃い山
  唯一の遠景ダ

  トーストが焼けた
  ハムときゅうりとトマトと卵
  セイロンティーのウバ茶
  おろしショウガが入ってる
  二杯目はレモン

  母と全く同じお昼
  母はリプトンだったっけ

  今日の雲は
  懐かしさのかたまり

 「屋根と屋根と屋根と屋根の」ということばのつかい方がおもしろい、景色が見える、と、この一行に称賛が集まった。最後に母親が出てきて、懐かしいと結びつくところがいいという声も。
 この詩は、視線の動きがとてもくっきりしていて、それが印象に残る。一連目は「カーテン」という「中景」から始まるが、屋根のつらなりを超えて「遠景」に開放される。そのあとテーブルの上の「近景」が描かれる。三連目は、「心象の遠景」。母親との昼食を思い出している。同じ昼食でも紅茶の種類が違う。その「違い」がより一層「遠景」にリアリティーを与える。そして、リアリティーというのは、いつでも「身近」なもの。「遠い心象情景」が、ぐいと近づく。「近景」になる。それが「懐かしさ」。遠い空にある雲を懐かしいと言っているのだが、同じ雲を母と見たのかもしれない。雲は母でもある。この「心象の近景」の描き方が絶妙だと思う。近いけれど、遠い。遠いけれど近い。こころには「遠近感」はあって、ないのだ。
 最終連に「雲」を描いたのは、とてもすばらしいと思う。雲を描くことで、情景が広々としたものになった。

  空の家  青柳俊哉

  鳥かげのみえない春の
  透明な空の家にわたしたちは住む
  土の匂いを断ち 均一な箱舟が空へ伸びて
  薄氷のうえを漂うように 
  根づくことのないわたしたちの住み処
  澄んだ生物の瞳から 
  萌える草木の想いから遠くはなれて 
  わたしたちはこよなく透明である
  休日の朝 わたしは空のベッドで本をよむ
  わたしの少女が死の絵本とよぶ
  罌粟の記憶を黒いミルクのように飲み
  空に生きるための糧とする

  少女は紙の鳥をベランダから放つ
  鳥は舟の間をさまよいながら
  鳥のなかない沈黙の空の白をさらに深める
  わたしたちは鳥を追って熱しすぎる赤い大地に降りる
  地上は硬い春の光線がふりそそいで
  仮面を嵌めた人間がまばらに通り過ぎていく
  鳥は公園のまぢかな上空で
  鳥の形をした人工の星と交わっている
  わたしたちは砂場の砂に青いバラの花を育て
  青いバラの鳥を折り 青い鳥に身を移して
  審判を受ける者のように わたしたちを生んだ
  郷愁の空の中へ投身するのだ

 ことばがことばを呼びながら、詩の世界が展開していく。「最終行の意味はよくわからないけれど、いいなあと思う」「空と地上の対比を感じる」「罌粟から阿片を想像し、不気味な感じもする」「人工的なものと自然なものの対比が描かれているのかも」という感想。
 青柳から少し解説があった。「空の家」というのは「高層ビル(マンション)」のこと。ここに書かれていることは、したがって「現実」であるけれど、同時に「比喩」である。何が何の比喩であるかは、たぶん、特定しても意味を持たない。ことばの運動が、次々に新しい比喩をもとめて動き続けるからである。
 一連目は、高層マンションの一室、つまり空から見た風景。二連目は逆に地上から見た風景だろうか。ふつうは高いところから地上へ「投身する」のだが、この詩では逆に地上から「空の中へ投身する」。それは地上への投身が死を意味するのに対して、逆に生を意味する。あるいは死を超えた「再生」を意味するだろう。
 「紙の鳥」は少女の「死への希求」のようなものかもしれない。しかし、それも現実というよりも夢だろう。若いとき、死は、ひとつの憧れである。まだまだ死なない、という命の強さが死を夢見ることを許してくれる。もちろん、その憧れは虚構であり、虚構を言いなおせば「人工」ということになるか。自然にあるのではなくあえてつくりだしたもの。「鳥の形をした人工の星」「青いバラの鳥を折り」などイメージが早いスピードで駆け抜けていく。意味を負うことも大切かもしれないが、ことばのスピードに酔うことも、詩を楽しむひとつの方法である。

 

 


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若者のテレビ離れ。

2021-07-15 16:34:17 | 考える日記

日刊ゲンダイに興味深い記事があった。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/291931

「10代20代の半数はテレビを見ない」

というのである。
私もテレビを見ないが、私のような老人がテレビを見ないのと、若者がテレビを見ないのでは「意味」が違うと思う。
記事には、いろいろなことが書いてあるが。

私が私なりに要約すれば、これは別なことばで言えば「時間」を共有しなくなったということだね。
昔は、たとえば人気ドラマがあると銭湯ががらがらになった、といわれた。
銭湯も単に体を清潔にする場所ではなく、一種の「時間の共有」だった。
銭湯で「時間を共有」するかわりに、各家庭で、銭湯で出会う人と「時間」を共有している。
だから、次の日、前日見たドラマの話をすることで、「時間の共有」を確認する。
「時間の共有」が「生きる」ことの「共有」だった。
いまは、「時間」ではなく「コンテンツ」の共有に代わっている。
昔も「コンテンツ」を共有してはいたけれど、コンテンツ以外の「時間」の共有こそが人間をつないでいた。
みんな「おなじこと」を「同じ時間」にしている。
これがなくなるのは、大変な変化だとも言える。
時間を共有するというのは、いっしょに生きているということを感じることだからね。
「時間の共有」感覚がなくなると、きっと「他人の肉体感覚」というのも消えるな。
側にいる人が「肉体」をもった人間ではなく、単なるある「コンテンツ」を知っているかどうかだけでつながることになる。
ネットで問題になる「炎上」というのは、そういう類のものだな。
ことばを書いているのは、肉体を持って生きている人間であるということを忘れて、肉体を欠いたことばが暴走する。
古いことばだけれど「裸のつきあい」というのは、とても大切なのだ。
それが、「若者のテレビ離れ」というのは、ある意味で「裸のつきあい」の機会を減らしていくことになる。
飛躍した論理のように見えるかもしれないが、私が若者に感じる不気味さは、「他人の裸を知らない人間」の不気味さなのだ。
「裸の肉体」を「共有」したことがない体験の不気味さなのだ。
そういうことを思い出させてくれる記事であった。
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自民党憲法改正草案再読(13)

2021-07-15 11:29:30 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(13)

 憲法の条文は、常に前に書いた条文を説明する形で展開する。

第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 この規定だけでは「思想及び良心の自由」というものが具体的に何を指すか(どういうものを「思想」「良心」と定義しているかわからない。わかるのは「侵してはならない」と国に禁止を命じているということだけである。
 だから、こう言いなおす。

(現行憲法)
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(改正草案)
第20条(信教の自由)
1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 私は信仰心がないし、死んだら何もないと思っているので、この条項をしっかり受け止めることができないのだが。
 しかし、多くの人は生死の問題を心の平安の問題ととらえているように思える。生きているときもそうだが、死んだらどうなるのか。生きているときは生きる努力をするが、死んだら「努力」できるのか。「努力」で死後の世界を平穏に暮らしていけるのか。そういう不安から「宗教」に頼る。生死にかかわるからこそ(あるいは死にかかわるからこそ)、「思想」のいちばんの問題として「信教」を取り上げているのだろう。何を信じるか、それは各人の自由である。「何人」を私は「個人(ひとり)」ではなく、「複数の人間」(だれであっても)と私は読んでいる。「何人」を私は「各人」と読んでいる。「各人」に、その「自由を保障する」。「保障する」は、「(国はこれを)侵してはならない」(第19条)ということである。
 そして、宗教というのは、たいていの場合、「個人」のものであるけれども、「個人」だけでは「宗教」にならない。たいてい、寺とか教会とか、いわゆる「組織/団体」といっしょに存在する。「組織/団体」というのは「個人」に比べて「力」を持っている。言いなおすと、「個人(ひとり)」は「組織/団体」に対して、その「権利を侵す」ということはしにくい。しかし、「組織/団体」は「個人(ひとり)」に対しては「権利を侵す」ということがあり得る。寺や教会が「あなたの考え方は私達の信仰とはあわない。だから、この寺、教会から追放する」ということが起き得る。それはもちろん「組織/団体」と「個人」の問題なのだが。
 ここで、現行憲法は釘を刺す。宗教団体と個人の力関係を配慮してのことだと思う。
 宗教団体は常に個人の上位に立つ。だからこそ「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。国から特権を受けて、信者に対して政治的に働きかけてはいけない。
 これは「主語」が「宗教団体」だが、憲法は「国の行動を拘束するもの」という立場から読み直すと、「国は、いかなる宗教団体にも特権を与えてはならないし、または宗教団体を通じて政治上の権力を行使してはならない」ということ。つまり、政治団体を政治のためにつかってはならない、宗教団体を通じて、国民に「信教」を強制してはならないということである。
 この条項から見ると、たとえば靖国神社で戦没者慰霊は、靖国神社を通じての「ひとつの宗教」の強制であるから、違憲である。靖国神社で慰霊されたくないという遺族の「信教の自由」を「侵している」からである。
 改正草案は
①「何人に対してもこれを」を削除している。したがって、改正草案が成立すれば、第二次大戦での戦没者は例外的に全員を靖国神社で慰霊する、ということが可能になる。「だれに対しても」ではないからだ。例外の余地を残すことになる。(これを、を削除しているのは、20条のテーマが「信教の自由」であることを、あいまいにしている。憲法を読む人に対して、これがテーマであるということを意識させないようにしている。)
②は「政治上の特権を行使してはならない」を削除している。つまり、国は「政治上の特権を、ある宗教団体を通じて行使できる」という可能性を残している。靖国神社を通じて「戦没者慰霊祭」を開催し、そこに遺族を集め、慰霊させるということができるのである。
 「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」は、現行憲法と改正草案に共通する(改正草案は、変更をくわえていない)が、意味合いが違う。
 現行憲法は、あくまで第一項で「国に対する禁止事項」を明記し、次に「国民」の「信教の自由」を言いなおしたのものである。国は宗教団体を通じて政治活動をしてはならないのだから、「何人(国民各人)」は、そういう催しに参加しなくていい(参加を強制されない)自由を持っている。
 改正草案は、こういう「国に対する禁止」→「各人の自由(の保障)」がはっきりとはつたわらない。
 第三項は、国の宗教活動禁止。現行憲法は「宗教教育その他いかなる宗教的活動」と書いているが、改正草案は「特定の宗教のための」を挿入し、「いかなる」を削除している。つまり「特定の宗教のため」でなければ「なんらかの」宗教活動ができるのである。
 私は「組織/団体」を「寺、教会」と書いてきた。簡単に言いなおせば「仏教、キリスト教」だが、実際の「信仰(宗教)」というのは「仏教/キリスト教」というあいまいなくくりではない。いつでも「門徒」のような問題といっしょに動いている。きわめて個別的なものである。同じようであっても、各人にいわせればまったく違うものであり得る。そういうことを改正草案は無視している。
 そして、「信教」を個別的ではない存在にしてしまったあとで、「なんらかの」宗教活動を、「社会的儀礼又は習俗的行為」と言いなおす。靖国神社での慰霊の奉納、慰霊行事は「宗教行事」ではなく、戦没者を追悼するという「社会的儀礼」であると定義することで「信教の自由」を「侵害した」ということにはならない、と定義しようとするのである。
 死者を悼まないというのは、一般的には批判を受ける行為であるけれど、死者を悼まないからといって「公共の福祉」に反するわけではない。追悼式の会場に侵入し、そこで祝い歌を歌えば、「みんなで悲しみを共有している(悲しみを共有することで、生きる力を支えあっている)」ことを妨害する(公共の福祉)に反するだろうけれど、その会場に行かない、家で一人で個人を思っているということは「公共の福祉」に反しない。だから、個人の自由である。しかし、改正草案の「理念」から言えば、「みんなが参加する」という「公の秩序」に反するという理由で、一人で家で個人を忍んでいる、という行為は許されないことになるだろう。つまり、追悼行事への参加を強制されることも起き得るだろう。
 改正草案は、国への「禁止」が、あいまいであり、緩やかである。「この限りではない」という「例外」があることを、わざわざ憲法に書き込むのは「例外」を実行するということである。

 

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