詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』(2)

2021-07-09 17:34:10 | 詩集

黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』(2)(土曜美術社出版販売、2021年06月25日発売)

 黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』の「バナナ日和」は短い詩だが、黒田の特徴をあらわしている。

  食べても食べても
  バナナを食べる
  ぽとりぽとりと
  落ちてくる

  空っぽの
  青い空から落ちてくる
  何本 何本 何十本
  黄色いバナナが落ちてくる

  わたしは待つ
  両手を大きく広げて
  ひとりぼっちで
  なーんにもしないで

  酸っぱいわたしの胃袋のなかは
  甘くて黄色い匂いで満ちる

  それから
  それから
  それから

  ぽとりぽとりと
  わたしが落ちる
  空っぽの
  青い空から落ちてくる
  何人 何人 何十人

  ゆっくり空から落ちてきて
  だんだんわたしが
  遠くなる

 バナナを食べている。そのうちにバナナとわたしが入れ替わる。入れ替わるといっても、バナナにわたしが食べられるわけではない。「空から落ちてくる」という動詞をとおして「主語」が入れ替わる。
 バナナが空から落ちてくる、ということ自体、いくらか現実と外れているのだが、完全に非現実とは言えない。たとえばバナナの木下へ行く。バナナは上の方で実っている。それが落ちてくる、ということは絶対にありえないとは言えない。バナナを食べるとき、それがどうやって収穫され、どうやって市場に出回るかを、ふつうは、考えない。だからその「考えない部分」を省略して、空から(高いところから)バナナが落ちてくる。それを食べる、と考えても、そんなに不思議なことではない。
 バナナを食べていると、だんだん満たされてきて、体中がバナナでいっぱいになった気持ちになる。これだって好きなものをいっぱい食べたらそういう気持ちになるだろう。ひとによって、ステーキだったり、饅頭だったりするかもしれない。
 不思議なんだけれど、不思議ではない。
 そして、なんといえばいいのだろうか、こういう詩を読むと、ぼんやりとバナナを食べてみたくなる。バナナを食べて、空から落ちてみたい気持ちになる。黒田のことばのリズムには、そういう不思議な力が隠れている。
 「緑色の、どろどろの」は「バナナ日和」といくぶん似たものがある。「緑色の、どろどろの」はタイトルがちょっと気持ち悪い感じがしないでもないが、読んでしまうと、あ、それしかないなあ、と思う。「緑色の、どろどろの」ものを食べてみたくなる。どうやって? こうやって。

  真夜中に女は暗い台所で
  残ったパンを食べる 少し干からびたチーズも食べる
  胡瓜を齧る 味噌をつけながらぽりぽり齧る

  齧りながら女は 昼間 男から聞いた話を思い出していた
  ライオンはね シマウマを食べるとき
  まず腸を引っ張り出して食べるんだ
  ライオンは肉しか食べないから
  体の中に葉っぱを分解する酵素が無いんだよ
  だからシマウマが消化した葉っぱを
  むしゃむしゃむしゃむしゃ食べて
  ビタミンやら植物繊維やらを吸収するんだ

  シマウマの腸 と女は小さな声でつぶやいた
  それから長い長い腸の中で消化される葉っぱのことを考えた
  いったいどんな味がするのだろう
  口じゅうにひろがる草や土の匂いと
  緑色のどろどろがいっぱい詰まった栄養たっぷりの腸のこと
  うまいうまいと涎をたらしながら食べるライオンのことを考えた

  それからふーっと大きく息を吐くと
  女はまたぽりぽりと胡瓜を齧り始めた

 女は胡瓜を齧ることで人間に戻るけれど、なんだかシマウマの腸を食べているライオンになった気持ちにならないかなあ。なるよなあ。ライオンになってシマウマを食べてみたい気持ちにもなるし、ふとシマウマになってライオンに食べられてみたいという逆の気持ちにもなったりする。
 すべてがいれかわる。
 このすべてというのは、胡瓜と人間(女)についても言える。胡瓜を齧りながら、シマウマを食べるライオンになってみたいと思ったり、台所でたったまま胡瓜を齧ってみたいという気持ちになるだけではない。胡瓜になって人間に齧られてみたいという気持ちにもなる。そのとき、ライオンに食べられるシマウマの気持ちがよくわかるかな? そんなもの、わからなくてもいいんだけれど。それだけではなく台所で胡瓜を齧る女の気持ちも、わからなければわからなくても全然かまわないのだけれど……。
 こういうどうでもいいことを考えてしまうというのは、きっと大事なことだなあと思う。そういう大事な時間を教えてくれるのが詩というものだろう。
 この詩には「どろどろ」をはじめ、「ぽりぽり」とか「むしゃむしゃ」「うまいうまい」「長い長い」ということばの繰り返しがある。そういうことばによって、詩自体は「長く」なっているのだが、読むと、逆に、そういうことばが詩を「短く」感じさせる効果をあげていることがわかる。肉体に染みついている簡単なことば、その繰り返しが、長いはずの「回路」を短く感じさせる。
 「それからふーっと大きく息を吐くと」というような、一見すると「間延び」したような行も、ことばの呼応がとても自然なので「短く」感じられる。黒田は「口語」がきちんと肉体になっているのだと思う。「文語」で書く詩人が多い中にあって、これは貴重なことばの運動だとも思う。

 


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自民党憲法改正草案再読(10)

2021-07-09 09:11:29 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(10)

(現行憲法)
第15条
1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
(改正草案)
第15条(公務員の選定及び罷免に関する権利等)
1 公務員を選定し、及び罷免することは、主権の存する国民の権利である。
2 全て公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。
4 選挙における投票の秘密は、侵されない。選挙人は、その選択に関し、公的にも私的にも責任を問われない。

 第15条は、国民と公務員との関係を定義している。公務員は国民に代わって「実務」を代行する。国民に共通する「実務」にたずさわる人間だろう。
 現行憲法が、公務員を選定し、及びこれを罷免することは、「国民固有の権利」であると定義しているのに対し、改憲草案は「国民固有の権利」を「主権の存する国民の権利」と変更している。「固有」を削除している。
 なぜなのだろう。
 これだけではわからない。
 「国民の権利」を定義した後、現行憲法も改正草案も、「公務員」を定義している。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」。ここでいう「一部」とはなにか。思い出したいのは、憲法が「国民→国会(立法)→内閣(行政)」という順序であるということだ。国民よりも「国会(議員)」は数が少なく、「国民の一部」である。「内閣の構成員」はさらに数が少なく「国民、国会議員の一部」である。そう考えるならば、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、行政機関や国会議員への奉仕者ではない」ということになる。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とは、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、内閣の権利ではない。内閣は自分のかってで公務員を選定し、これを罷免してはいけない」ということである。
 しかし、実際はどうか。
 安倍は森友学園事件では、財務省の職員に文書を改竄させている。安倍に奉仕させようとした。改竄を苦にして自殺した職員までいる。菅は学術会議の委員6人を排除した。(学術会議委員は、厳密には「公務員」とは言えるかどうか、私は判断しないが。)そこには「公務員」を「内閣」に奉仕させようとする「意図」が働いている。菅は政府方針に従わないものは異動させる(左遷する)と明言している。公務員を菅への奉仕者にしようとしている。菅に奉仕しない公務員を排除しようとしている。この菅に反対するものを排除するという方針は、国民すべてに向けられることになるだろう。その最初の「排除」は学術会議委員6人の任命拒否という形で実行された。学術会議委員が公務員であろうがなかろうが、排除された。それは、そういうことが国民全員に対して行われることの「前兆」なのである。実際、この学術会議6委員任命拒否問題では、そのことを問うたNHKの穴ウンサーが左遷(異動)させられるということが起きている。公務員だけではなく、国民全員が影響を受ける。そういうことが実際に起きている。
 「国民固有の権利」「一部の奉仕者ではない」は、政府の権利ではない、政府(行政の権力者)への奉仕者ではない、という意味であることを認識しておきたい。公務員が「行政への奉仕者」ではないからこそ、国民には選挙が保障されなければならない。
 現行憲法の「保障する」は「政府は、国民の選挙する権利を侵害してはいけない」という意味である。これを「普通選挙の方法による」と書き直すのはなぜなのか。「選挙」をすれば「選挙する権利」は保障されるのか。そうとは言えない。選挙にはいろいろなことが起こりうる。投票先を「権力者」に指定され、実際に指定通りに投票したかどうかが監視されるということがある。そして、その指示に従わなかったら、不利益を被るということが起きうる。だからこそ、選挙について、現行憲法は「投票の秘密は、これを侵してはならない」という。これは「投票の秘密」(テーマ)についていえば、「政府(権力者)は、侵してはならない」という政府(権力者)への「禁止行為」を定めているのである。
 憲法がこれを「保障する」は、常に「(権力者は)それを侵してはならない」という意味である。「保障する=侵してはならない」である。「保障する」と「侵してはならない」はいつでも交換可能な「文体」である。
 改正草案は「侵してはならない」という政府(権力者)への禁止条項を、行為の主語(政府)を省略して「侵されない」と書いている。動詞の形を「侵してはならない」から「侵されない」とすることで、行為の主語を隠す「文体」に変更している。この「主語隠し文体」へ変更については何度か書いたが、これはすべて「禁止を命じられている存在」(行為の主語)を隠すためのものである。「権力者は〇〇をしてはいけない」という禁止を隠すための文体である。
 憲法は政府(権力者)の行為を拘束するためのもの(ある行為をしてはいけないという禁止条項を書いたもの)であることを、改憲草案は隠し続けるのである。それはつまり、政府(権力者)には「禁止事項」がないということを意味する。もし禁止事項があるとすれば、それは国民がしてはいけないことを定めていると言いなおそうとしている。憲法を権力を拘束するためのよりどころではなく、国民を拘束するための手段にしようとしている。
 「公務員の選挙については」を「公務員の選定を選挙により行う場合は」と書いているのは、「緊急事態条項」と関連するからだろう。「緊急事態条項」では、緊急事態時には選挙が行われない場合があることを定めている。国民固有の権利である「選挙権(被選挙権)」を剥奪する場合があると書いている。その条項と整合性を持たせるために「選挙により行う場合は」と書いている。
 これは逆に見れば、もし改正草案の第15条が認められれば、「緊急事態条項」が認められなくても選挙の制限が可能であるという道を開くことになる。「第7条」を「国会の解散権は首相にある」と解釈するくらいだから、改正草案の第15条を「選挙をしなくてもいい」と解釈するくらいは、簡単にやってのけるだろう。
 「緊急事態条項」に目を奪われて、それ以外の「細部の変更」を見落としてはならない。「緊急事態条項」がなくても、それがあるのと同じことができるようにしようとしているのが改憲草案なのだ。


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自民党憲法改正草案再読(7の追加)

2021-07-09 07:51:54 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(7の追加)

 現行憲法の第二章(第9条)は「戦争の放棄」。これは日本国民が、「政府には再び戦争をさせない」という決意の表明である。言いなおすと「政府は戦争をしてはいけない」という政府への禁止条項である。そのときの「主語(主役)」は国民である。
 改憲草案の「第二章」には「安全保障」というタイトルがつけられ第9条には「平和主義」というタイトルがつけられている。ここまでは、「主語(主役)」は国民である。しかし、新設された「第9条の2」には「国防軍」というタイトルがつけられている。そして、ここからは「主語(主役)」が国民ではなく「国防軍」にかわっている。

(改正草案)
第9条の2(国防軍)
1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。

 現行憲法は「第一章 天皇」「第二章 戦争放棄」「第三章 国民の権利及び義務」のあと、「国会」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」「補則」とつづいていく。「天皇は国民の象徴」「戦争放棄は国民の決意」。タイトルに国民ということばはないが、あくまでも「主役」は「国民」である。国民のための憲法。
 象徴と決意は「理念」をあらわしている。現実の「国」の組織形態としては、いちばん偉い(大切な)のは(こういう表現でいいかどうかわからないが)、国民である。国民の下に国会があり、その下に内閣、司法という組織がある。「軍隊(国防軍)」という組織は存在しないが、もし存在するとしても、それは「実働組織」であるから、国民よりも上の存在であるはずがない。実際、「自衛隊」は「防衛省」に属する「下部組織(下部機関)」である。つまり、「内閣」の「下部組織」である。
 その「下部組織」である存在が、改憲草案では「国民」よりも先に書かれている。あたかも「上位組織」であるかのように書かれている。しかも、第9条2の詳細を見ていくと、「内閣総理大臣」のあとに「国会」が出てくる。ここでも現行憲法の国民→国会→内閣という構造が逆になっている。国会→内閣(総理大臣)→国防軍でないと、国民が主役の憲法とは言えない。
 なぜ、順序が逆になっているのか。それは改憲草案が、内閣総理大臣を頂点として、その下に内閣の下部組織(たとえば国防軍)があり、その下に国会、さらにその下に国民が存在するという意識で書かれているからである。内閣総理大臣が軍隊を指揮し、国会と、国民を支配するという「独裁」の理念によってつくられているからである。
 「安全保障」という「耳障りのいいことば」で「独裁」の意図を隠している。
 もし、国民→国会→内閣→国防軍という「理念」を踏襲するなら、「国防軍」は現在の「自衛隊」と同じように「法律」で別個に規定すればいいだけである。「理念」を踏みにじってまで、つまり、国民の権利、義務を定義する前に、「国防軍」を先に書く必要はない。
 なぜ、第9条の文言を変えるだけではなく、わざわざ条項を新設して(独立する形でついかして)、ここに「国防軍」を書いているのか、「内閣総理大臣」を「国会」より先に書いているか、そういうことにも注意を払わないといけない。

 

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