黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』(2)(土曜美術社出版販売、2021年06月25日発売)
黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』の「バナナ日和」は短い詩だが、黒田の特徴をあらわしている。
食べても食べても
バナナを食べる
ぽとりぽとりと
落ちてくる
空っぽの
青い空から落ちてくる
何本 何本 何十本
黄色いバナナが落ちてくる
わたしは待つ
両手を大きく広げて
ひとりぼっちで
なーんにもしないで
酸っぱいわたしの胃袋のなかは
甘くて黄色い匂いで満ちる
それから
それから
それから
ぽとりぽとりと
わたしが落ちる
空っぽの
青い空から落ちてくる
何人 何人 何十人
ゆっくり空から落ちてきて
だんだんわたしが
遠くなる
バナナを食べている。そのうちにバナナとわたしが入れ替わる。入れ替わるといっても、バナナにわたしが食べられるわけではない。「空から落ちてくる」という動詞をとおして「主語」が入れ替わる。
バナナが空から落ちてくる、ということ自体、いくらか現実と外れているのだが、完全に非現実とは言えない。たとえばバナナの木下へ行く。バナナは上の方で実っている。それが落ちてくる、ということは絶対にありえないとは言えない。バナナを食べるとき、それがどうやって収穫され、どうやって市場に出回るかを、ふつうは、考えない。だからその「考えない部分」を省略して、空から(高いところから)バナナが落ちてくる。それを食べる、と考えても、そんなに不思議なことではない。
バナナを食べていると、だんだん満たされてきて、体中がバナナでいっぱいになった気持ちになる。これだって好きなものをいっぱい食べたらそういう気持ちになるだろう。ひとによって、ステーキだったり、饅頭だったりするかもしれない。
不思議なんだけれど、不思議ではない。
そして、なんといえばいいのだろうか、こういう詩を読むと、ぼんやりとバナナを食べてみたくなる。バナナを食べて、空から落ちてみたい気持ちになる。黒田のことばのリズムには、そういう不思議な力が隠れている。
「緑色の、どろどろの」は「バナナ日和」といくぶん似たものがある。「緑色の、どろどろの」はタイトルがちょっと気持ち悪い感じがしないでもないが、読んでしまうと、あ、それしかないなあ、と思う。「緑色の、どろどろの」ものを食べてみたくなる。どうやって? こうやって。
真夜中に女は暗い台所で
残ったパンを食べる 少し干からびたチーズも食べる
胡瓜を齧る 味噌をつけながらぽりぽり齧る
齧りながら女は 昼間 男から聞いた話を思い出していた
ライオンはね シマウマを食べるとき
まず腸を引っ張り出して食べるんだ
ライオンは肉しか食べないから
体の中に葉っぱを分解する酵素が無いんだよ
だからシマウマが消化した葉っぱを
むしゃむしゃむしゃむしゃ食べて
ビタミンやら植物繊維やらを吸収するんだ
シマウマの腸 と女は小さな声でつぶやいた
それから長い長い腸の中で消化される葉っぱのことを考えた
いったいどんな味がするのだろう
口じゅうにひろがる草や土の匂いと
緑色のどろどろがいっぱい詰まった栄養たっぷりの腸のこと
うまいうまいと涎をたらしながら食べるライオンのことを考えた
それからふーっと大きく息を吐くと
女はまたぽりぽりと胡瓜を齧り始めた
女は胡瓜を齧ることで人間に戻るけれど、なんだかシマウマの腸を食べているライオンになった気持ちにならないかなあ。なるよなあ。ライオンになってシマウマを食べてみたい気持ちにもなるし、ふとシマウマになってライオンに食べられてみたいという逆の気持ちにもなったりする。
すべてがいれかわる。
このすべてというのは、胡瓜と人間(女)についても言える。胡瓜を齧りながら、シマウマを食べるライオンになってみたいと思ったり、台所でたったまま胡瓜を齧ってみたいという気持ちになるだけではない。胡瓜になって人間に齧られてみたいという気持ちにもなる。そのとき、ライオンに食べられるシマウマの気持ちがよくわかるかな? そんなもの、わからなくてもいいんだけれど。それだけではなく台所で胡瓜を齧る女の気持ちも、わからなければわからなくても全然かまわないのだけれど……。
こういうどうでもいいことを考えてしまうというのは、きっと大事なことだなあと思う。そういう大事な時間を教えてくれるのが詩というものだろう。
この詩には「どろどろ」をはじめ、「ぽりぽり」とか「むしゃむしゃ」「うまいうまい」「長い長い」ということばの繰り返しがある。そういうことばによって、詩自体は「長く」なっているのだが、読むと、逆に、そういうことばが詩を「短く」感じさせる効果をあげていることがわかる。肉体に染みついている簡単なことば、その繰り返しが、長いはずの「回路」を短く感じさせる。
「それからふーっと大きく息を吐くと」というような、一見すると「間延び」したような行も、ことばの呼応がとても自然なので「短く」感じられる。黒田は「口語」がきちんと肉体になっているのだと思う。「文語」で書く詩人が多い中にあって、これは貴重なことばの運動だとも思う。
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