嵯峨信之『小詩無辺』再読(4)
「時間」ということばを中心に読み返してみる。
「人名」という詩のなかには、こういう行がある。
ぼくはいま
誰かの記憶のなかを通つているのかも知れない
人の名とは
時間にとらえられた人間の影ではないのか
「誰かの記憶」というのは「誰かの魂しい」だろうか。人と人をつなぐもの。「時間にとらえられた人間」とは人間は時間を生きているということだろう。生きているあいだは「人の名」がある。死んでしまう、つまり「時間」の外に出てしまうと「人の名前」はなくなり、「魂しい」になる。
嵯峨は「魂しい」に固有名詞を与えていないように思える。
その無名の島をつつむ春の雨
海は一枚のみどりの褥のようにひろがつている
誰も時の行衛を知らない
もういい 何も考えなくても
さらによりよい時刻の国へいつかは行きつくことを (無題抄 451ページ)
「無名」、名もないと「時間」ということばがいっしょに出てきている。さらに「時」はいつでもあるものではなく、いまはそこにない。「行衛を知らない」はいまそこにないということを意味している。時はどこへいったのか。「よりよい時刻の国」とはどこだろうか。私はなんとなく「時間の故郷」というものを考える。
言葉よ
まだ目ざめないのか
ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか (* 450ページ)
先に引用した詩だけれど、この「どのあたり」というのも「時間の故郷」を思い起こさせる。「魂しい」と「時間の故郷」は重なるのではないだろうか。
「魂しいを失う日がある」と始まる無題の詩の後半。
ぼくがぼくの現し身を離れても
まぎれもなく思いは残る
そして時はすぎていくだろう
ぼくを連れて
「ぼく(現し身)」と「時」といっしょにある。ぼくが「現し身を離れる」というのは死ぬということだろうか。よく「魂しい」が離れていくというけれど、嵯峨は「魂しい」と「肉体」を逆の関係でとらえているように思う。「肉体」を離れていきながら、「思い(魂しい)は残る。過ぎていかない「時」(時間)のなかに。肉体は過ぎていく時間といっしょにどこかに消えてしまう。
これは人間が死んだ瞬間のことではなく、死後の長い時間で見たときのこと。生滅するが、「魂しい」は残り続ける。だが、どこに。「故郷」に。「魂しいの故郷」が「時間」だとすると、これは同義反復のような言い方になってしまう。
「魂しいの故郷である時間」のなかに「魂しい」は残りつづける。それは「故郷」というものが思い起こすときあらわれるように、「魂しいの時間」も思い起こすときにあらわれるものという意味になると思う。
純粋時間、純粋な場、想像の「基盤」のようなものが「故郷」「魂しい」かなあ、と考える。ただ、それは確固とした存在ではなく、思い起こすという運動としてあらわれるもの。そしてその思い起こすという「みちのり」が「魂しい」の「しい」という「長さ」(ひろがり)のようなものではないか、と考える。
「時」を含む詩には、「偶成二篇」という作品がある。
おれとおまえとの愛の時が失われたのではない
運命の前にあるはずの時が
空をもとめて遠くいづこかへ去つていつたのだ
ふたりにとつていま生命とは何だろう
過ぎ去つた時がまたここへ帰つてくること (455ページ)
「時」は失われ、過ぎ去り、また帰ってくる。この自在な運動の変化は、思い起こすという意識の運動と関係していると思う。意識、精神は、また「魂しい」の同義語だろうと思う。「魂しい」もまた「思い起こすとき」にあらわれてくるものであって、どこかに確実に存在しているのではない。存在している場所から、いま、ここに「あらわれてくる」。「時間」もおなじ。存在しているけれど、ふつうは意識しない。意識したとき、はっきりと存在する。「故郷」「時間」「魂しい」は、そういう意味で重なる部分がおおい。重なるために「しい」という「長さ」「ひろがり」を嵯峨は必要としたのかもしれない。
「白昼の街」には、こういことばがある。
人間は
人間からついに逃れられない
時の力によつて捉えられ
時の力によつて解放される (457ページ)
「人間」を「魂しい」と読み替えてみたい気持ちになる。「時の力」を「魂しい」と読み替えたくなるし、また「故郷」と読み替えたくもなる。「人間」「魂しい」「時(時間)」「故郷」というのは、かさなりあう運動だろうか。
おなじ詩のなかに、こういう三行もある。
ぼくがおまえにやれるものは透明な時の流れだ
おまえがぼくにくれるものは
いつも濁つた小さな時の渦である
「透明な時の流れ」とは「故郷」、「濁つた小さな時の渦」は「現実」だろうか。故郷と現実の対比が「透明」と「濁った」ということば、「流れ」と「渦」ということばで印象づけられている。
思い起こすとき、透明で流れ続けるのが「故郷の時間」「魂しい」なのだろう。流れるという「運動」、「方向」を暗示するのが「しい」というひらがな。
美しい、悲しい、さびしいなどの形容詞は「状態」をあらわす。状態というのは、そこにあるものだけれど、それは動かないのではなく、動きながらある。その動きは「透明」をめざしている。「透明なうつくしさ」「透明なかなしさ」「透明なさびしさ」。これは「濁った美しさ」「濁った悲しさ」「濁ったさびしさ」と比較すると、嵯峨のめざしている野もが浮かびあがるような気がする。「濁った悲しみ」というと「汚れちまった悲しみ」の中原中也になってしまう。嵯峨と中也は、そういうところで決定的に違っていたのではないか、と思う。
でも、こう読んでいくと、
ふるさとというのは
そこだけに時が消えている川岸の町だ
そこの水面に顔をうつしてみたまえ
背後から大きな瞳がじつときみをみつめているから (462ページ)
の「時が消えいている」と矛盾してしまう。
でも、私は、こういう風に、どこかでわかったつもりになると、別なところでわからなくなるという奇妙な動きをするのが詩だとも思っている。詩は論理ではなくイメージ。イメージには論理にはつかみきれない独自の運動があると思う。
だから、私は、あまり気にしない。イメージを、ぱっとつかんだ気持ちになる。それで十分だと自分に言い聞かせている。
「時間が消える」ということばを含む詩には、こういうものもあった。「鐘」。
大きな鐘がそこにある
どこを叩いても鐘は鳴らぬ
沈黙にすつぽり覆われているのか
魂しいの不在か
手で撫でる
強く重く吸いついてしまう
時間が消えて
空間だけになつたのだろう
「鐘」をことばの比喩、象徴として読むと、言葉と魂しい、時間と空間の関係が浮かびあがる。それはみんな「一体」になっていないと意味を持たない。何かひとつでも書けると不完全なものになる。時間が消えて空間だけになってはいけない。時間と空間はいっしょに存在しないと世界ではない。故郷と現在の街もいっしょに存在しないといけない。それは同時に「思い起こすことができる」ということである。いっしょに存在するというのは。そこにことばも重なる。なんといっても思い起こすということは、ことばをうごかすことだから。ことばによって思い起こす。そのときの「運動」の「軌跡」としての「しい」というものをわたしはぼんやりと考えている。
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