詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』再読(4)

2021-07-27 15:54:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嵯峨信之『小詩無辺』再読(4)

 「時間」ということばを中心に読み返してみる。
 「人名」という詩のなかには、こういう行がある。

  ぼくはいま
  誰かの記憶のなかを通つているのかも知れない

  人の名とは
  時間にとらえられた人間の影ではないのか

 「誰かの記憶」というのは「誰かの魂しい」だろうか。人と人をつなぐもの。「時間にとらえられた人間」とは人間は時間を生きているということだろう。生きているあいだは「人の名」がある。死んでしまう、つまり「時間」の外に出てしまうと「人の名前」はなくなり、「魂しい」になる。
 嵯峨は「魂しい」に固有名詞を与えていないように思える。

  その無名の島をつつむ春の雨
  海は一枚のみどりの褥のようにひろがつている
  誰も時の行衛を知らない

  もういい 何も考えなくても
  さらによりよい時刻の国へいつかは行きつくことを  (無題抄 451ページ)

「無名」、名もないと「時間」ということばがいっしょに出てきている。さらに「時」はいつでもあるものではなく、いまはそこにない。「行衛を知らない」はいまそこにないということを意味している。時はどこへいったのか。「よりよい時刻の国」とはどこだろうか。私はなんとなく「時間の故郷」というものを考える。

  言葉よ
  まだ目ざめないのか
  ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか  (* 450ページ)

 先に引用した詩だけれど、この「どのあたり」というのも「時間の故郷」を思い起こさせる。「魂しい」と「時間の故郷」は重なるのではないだろうか。

 「魂しいを失う日がある」と始まる無題の詩の後半。

  ぼくがぼくの現し身を離れても
  まぎれもなく思いは残る

  そして時はすぎていくだろう
  ぼくを連れて

 「ぼく(現し身)」と「時」といっしょにある。ぼくが「現し身を離れる」というのは死ぬということだろうか。よく「魂しい」が離れていくというけれど、嵯峨は「魂しい」と「肉体」を逆の関係でとらえているように思う。「肉体」を離れていきながら、「思い(魂しい)は残る。過ぎていかない「時」(時間)のなかに。肉体は過ぎていく時間といっしょにどこかに消えてしまう。
 これは人間が死んだ瞬間のことではなく、死後の長い時間で見たときのこと。生滅するが、「魂しい」は残り続ける。だが、どこに。「故郷」に。「魂しいの故郷」が「時間」だとすると、これは同義反復のような言い方になってしまう。
 「魂しいの故郷である時間」のなかに「魂しい」は残りつづける。それは「故郷」というものが思い起こすときあらわれるように、「魂しいの時間」も思い起こすときにあらわれるものという意味になると思う。
 純粋時間、純粋な場、想像の「基盤」のようなものが「故郷」「魂しい」かなあ、と考える。ただ、それは確固とした存在ではなく、思い起こすという運動としてあらわれるもの。そしてその思い起こすという「みちのり」が「魂しい」の「しい」という「長さ」(ひろがり)のようなものではないか、と考える。
 「時」を含む詩には、「偶成二篇」という作品がある。

  おれとおまえとの愛の時が失われたのではない
  運命の前にあるはずの時が
  空をもとめて遠くいづこかへ去つていつたのだ

  ふたりにとつていま生命とは何だろう

  過ぎ去つた時がまたここへ帰つてくること  (455ページ)
  
 「時」は失われ、過ぎ去り、また帰ってくる。この自在な運動の変化は、思い起こすという意識の運動と関係していると思う。意識、精神は、また「魂しい」の同義語だろうと思う。「魂しい」もまた「思い起こすとき」にあらわれてくるものであって、どこかに確実に存在しているのではない。存在している場所から、いま、ここに「あらわれてくる」。「時間」もおなじ。存在しているけれど、ふつうは意識しない。意識したとき、はっきりと存在する。「故郷」「時間」「魂しい」は、そういう意味で重なる部分がおおい。重なるために「しい」という「長さ」「ひろがり」を嵯峨は必要としたのかもしれない。
 「白昼の街」には、こういことばがある。

  人間は
  人間からついに逃れられない

  時の力によつて捉えられ
  時の力によつて解放される  (457ページ)

 「人間」を「魂しい」と読み替えてみたい気持ちになる。「時の力」を「魂しい」と読み替えたくなるし、また「故郷」と読み替えたくもなる。「人間」「魂しい」「時(時間)」「故郷」というのは、かさなりあう運動だろうか。

 おなじ詩のなかに、こういう三行もある。

  ぼくがおまえにやれるものは透明な時の流れだ
  おまえがぼくにくれるものは
  いつも濁つた小さな時の渦である

 「透明な時の流れ」とは「故郷」、「濁つた小さな時の渦」は「現実」だろうか。故郷と現実の対比が「透明」と「濁った」ということば、「流れ」と「渦」ということばで印象づけられている。
 思い起こすとき、透明で流れ続けるのが「故郷の時間」「魂しい」なのだろう。流れるという「運動」、「方向」を暗示するのが「しい」というひらがな。
 美しい、悲しい、さびしいなどの形容詞は「状態」をあらわす。状態というのは、そこにあるものだけれど、それは動かないのではなく、動きながらある。その動きは「透明」をめざしている。「透明なうつくしさ」「透明なかなしさ」「透明なさびしさ」。これは「濁った美しさ」「濁った悲しさ」「濁ったさびしさ」と比較すると、嵯峨のめざしている野もが浮かびあがるような気がする。「濁った悲しみ」というと「汚れちまった悲しみ」の中原中也になってしまう。嵯峨と中也は、そういうところで決定的に違っていたのではないか、と思う。
 でも、こう読んでいくと、

  ふるさとというのは
  そこだけに時が消えている川岸の町だ
  そこの水面に顔をうつしてみたまえ
  背後から大きな瞳がじつときみをみつめているから  (462ページ)

 の「時が消えいている」と矛盾してしまう。
 でも、私は、こういう風に、どこかでわかったつもりになると、別なところでわからなくなるという奇妙な動きをするのが詩だとも思っている。詩は論理ではなくイメージ。イメージには論理にはつかみきれない独自の運動があると思う。
 だから、私は、あまり気にしない。イメージを、ぱっとつかんだ気持ちになる。それで十分だと自分に言い聞かせている。
 「時間が消える」ということばを含む詩には、こういうものもあった。「鐘」。

  大きな鐘がそこにある
  どこを叩いても鐘は鳴らぬ

  沈黙にすつぽり覆われているのか
  魂しいの不在か

  手で撫でる
  強く重く吸いついてしまう

  時間が消えて
  空間だけになつたのだろう

 「鐘」をことばの比喩、象徴として読むと、言葉と魂しい、時間と空間の関係が浮かびあがる。それはみんな「一体」になっていないと意味を持たない。何かひとつでも書けると不完全なものになる。時間が消えて空間だけになってはいけない。時間と空間はいっしょに存在しないと世界ではない。故郷と現在の街もいっしょに存在しないといけない。それは同時に「思い起こすことができる」ということである。いっしょに存在するというのは。そこにことばも重なる。なんといっても思い起こすということは、ことばをうごかすことだから。ことばによって思い起こす。そのときの「運動」の「軌跡」としての「しい」というものをわたしはぼんやりと考えている。

 


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自民党憲法改正草案再読(18)

2021-07-27 10:45:01 |  自民党改憲草案再読

 第26条は、「教育権、教育の義務」。

(現行憲法)
第26条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
(改正草案)
第26条(教育に関する権利及び義務等)
1 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 第一項、第二項は表記と文言の改正。「子女」を「子」に改正しているのは「子女」ということばがいまでは「死語」に近いからかもしれない。男女平等の時代なのだから、この改正はいいと思う。
 問題は新設された第三項。
 「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」というのは、その通りだと思う。教育が「義務」であるのは、学び、新しいものをつくりだしていかない限り、どういう分野でも「発展」はありえないからである。国の未来にかぎらず、人間の未来を切り開くのに教育は不可欠である。
 しかし、私がいま書いたように、教育は「人間の(個人の)未来を切り開くのに不可欠」なのであり、「国の未来」は、その後の問題である。個人がどのような国を理想とするかによって国の形はかわってくる。国の形は国が決めるのではなく国民が決めるものである。それが国民主権ということだ。
 だから「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」というのは事実だが、そのことばを「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」という形でとりこんでしまうと、意味はずい分違ってくる。
 「国の未来を切り拓く」のに必要ではない「教育(学問)」はないがしろにする。「国の未来を切り拓く」のに必要な教育のための「環境整備に努める」ということになってしまう。
 自民党が掲げる「国の未来」とは何か。前文に、「教育」というこことばをつかい、こう書いていた。

教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 科学技術振興と経済活動を結びつけている。科学を発展させ、それを経済に結びつける。経済を発展させるためる科学にが育つように、人間を「教育」する。それが国の目的である。自民党の大好きなことばをつかって言えば「公益及び公共の秩序」のための教育を推進するということである。
 学問にはとうぜん「政権を批判する学問」もある。「科学」「経済」と直接結びつかない「学問」もある。そういう「学問(教育)」をどうするか。「公益(自民党の利益)及び公の秩序(自民党の理想とする社会体制)」に反するものは排除するという形で進むのが、改正草案の「教育環境の整備」ということになるだろう。
 いま進められようとしている「教育環境」で言えば、高校の「国語」からの文学の排除もそのひとつだろう。文学というのは基本的にまったくの「個人」のものである。そして、その完全に個人のものであるということは、裏返せば、作者が何を感じているかを無視して、自由に考えることが許されるということである。作者の思っていることとは無関係に、自分の考えを語ることができる。感想をいう、批判をすることができるというのが文学の特権である。ことばは「考える」ために必要なものであるけれど、そのことばによって何を、どう考えるかは誰からも規制されない。自分で「考える」。ことばをつかって考える。そうやってできあがったものが「文学」である。とうぜん、そこにはあらゆる「批判」が含まれる。
 自民党が進めようとしている「文学排除」は、ことばを「個人」が「個人の意思」でつかうことを拒絶することなのである。自民党が考えるように、ことばをつかって考えさせたい。ことばを自民党の意思通りに支配する。そのための「環境整備」のひとつが「文学」の廃止である。あるいは「論理国語」の創設である。「論理をいかに正確に読み取るか」とは、支配者が指示したことばをいかに忠実に、正確に理解し、行動するかということにつながる。学校のテストというのが「先生の求めている答え」を提出することで「いい成績」をおさめられるようになっている。自分で考えず先生の考えた通りに考え、それを答えにすると「いい成績」になる。「先生」ではなく「自民党(権力)」の求めている通りに理解し、実行する能力を育てることを「教育」と言っているにすぎない。
 「赤木ファイル」で問題になった森友学園について見てみればわかる。安倍の意図は、安倍が森友学園の土地取引にいっさい関与していないということを資料を通じて証明すること。その意図を正確に理解し、文言の削除、文書の廃棄を命じた佐川が優遇された。その操作に反対した職員は自殺に追い込まれた。「公益」「公の秩序」とは国民の税金を無駄遣いしない、私利私欲を肥やす権力者を許さないではなく、単に安倍の利益、安倍の支配体制を守るということである。そういう「権力に忠実な人間」を育てるための「環境整備」に努める、というのが改憲草案の狙いである。「努めなければなさらない」と、そういうことを国の「義務」にしている。
 私はたまたま「文学(ことば)」に関心があるから「文学」をテーマに私の考えを書いたが、音楽や美術、スポーツについても、きっと同じようなことが言えるはずである。「表現の不自由展」のような権力批判の視点を含んだものは「芸術ではない」という教育を進めれば、美術を通して現実を批判するという動きは消えてしまうだろう。折りッピック開催に反対するのは「反日」である(安倍)という教育が徹底すれば(なんといっても、学校では先生の求めている答えを書かないと、成績につながらない)、オリンピック反対という人間は「排除」されてしまうのである。
 「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」ということばは「美しい」。そして、こういう「美しいことば」には必ず「悪巧み」が隠されていると考えるべきである。憲法は何よりも、国民が、権力に対して「〇〇してはいけない」ということをつきつけるものである。「禁止事項」が憲法の本質である。
 その「禁止事項」に「国民の義務」として「教育」が含まれるのは、教育なしでは人間の、個人の未来が切り開けないからである。国の未来ではなく、あくまでも個人の未来なのだ。第22条で見てきたように、国民は外国に移住すること、国籍を離脱する自由を持っている。つまり、国民には「国の未来を切り開く」義務などないのだ。日本を見すてて、自分の可能性(未来)を切り開いていい、と憲法第22条は憲法26条に先立って言っている。憲法は先に書いてある条項の方が大切なのである。
 こういう読み方は、きっと「自民党の改憲草案の意図に反する」という形で排除されるだろう。異論を排除する、独裁を進めるというのが改憲草案の狙いであり、それを先取り実施するようにして現実の政策が進められている。
 繰り返し書いてしまうが、自民党の政策の多くは「改憲草案」の先取り実施である。憲法を改正しなくても独裁ができるように、着々と行動しているのが自民党なのである。

 


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オリンピックは中止すべきだ(5)

2021-07-27 08:55:00 | 考える日記

 7月27日の読売新聞(西部版)によれば、

①東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は26日、海外からのアスリート3人を含め、新たに16人が新型コロナウイルス検査で陽性と判定されたと発表した。
②選手の国籍や競技については各国・地域のオリンピック委員会から同意が得られなかったとして公表していない。
③また、日本オリンピック委員会(JOC)は26日、陸上競技の日本選手団の関係者が陽性と確認されたと発表した。選手団員ではないとしている。

①は26日夕刊で既報。
②「プレイブック」(ルールブック?)では、規定はどうなっているのか。感染拡大は予測されていたことであり、感染者が出た場合、公表をどうするかということは決めてなかったのか。決めてなかったとしたら、それは「プレイブック」の不備だろう。
 「バブル対策」で選手や関係者の行動は制限されているということだが、「だれが、いつ、どこで」感染したのか、その詳細が公表されないことには、二次感染の防ぎようがないのではないだろうか。
 何度も書くが、「濃厚接触者」は何人なのだろうか。事前合宿し入りた選手から陽性者が出たときは、濃厚接触者の数も公表されていた。それをやめてしまったのはなぜなのか。
 誰が濃厚接触者であるか知らされないまま、競技はつづけられるのだろうか。選手たちは、対戦相手が濃厚接触者であることを知らされずに対戦するのだろうか。それは自分のいのちを守りたいという権利を侵害することにならないだろうか。
③日本の関係者の、濃厚接触者数も隠すのはなぜなのだろうか。

 さらに疑問に思うことがある。
 公表されている「陽性者」は、いま、どこにいるのか。どういうふうに健康管理されているのか。「個人情報」だから公表する必要はない、ということなのかもしれないが、治療が長引き、帰国が遅れた場合、どうするのだろう。さらに最悪の場合、死亡することも考えられるけれど、そのときの対処はどうなるのだろうか。
 検査では「陰性」のまま帰国し、帰国してから発症する、あるいはその人の周辺で感染者が増えるということも考えられる。帰国までの待機(隔離)期間、帰国してからの待機期間については、各国・地域と合意ができているのだろうか。きっと合意はできていなだろう。相手まかせ、だろう。

 オリンピック以外の国内状況では、東京都が1429人の新規感染。神奈川540人、千葉509人、埼玉449人。東京の感染状況については「前週比」を記載しなくなっている。どれくらい危険な状況になっているか「報道」しないようになったということだろう。これが、このままつづくとどうなるのか。新聞を読む人が、自分で資料をもとに計算しなくてはならなくなる。
 メダルの数を報道する、選手のことを紹介するのもいいけれど、感染状況、感染に対してどう対応しているか、そういうことをもっと報道すべきだろう。オリンピックには選手の「栄誉」(あるいは選手生命)がかかっているかもしれないが、感染状況は「いのち」そのものにかかわることである。
 報道の「順序」を間違えていないだろうか。

 私の住んでいる福岡県では、新規感染は172人。前週比では3・7倍。知事は「第5波ともいうべき感染の拡大傾向が見られる」と語り、県独自の警報発動を調整していると書いている。東京を中心とする関東では、どう対応しているのか。感染が急拡大しているか、オリンピック組織委の責任だから、「私は知らない」を決め込んでいるのか。菅は、いまの状況をどう把握しているのか。東京に緊急事態宣言を出したから、もう責任は果たした。あとは都や国民の責任、ということか。あまりにも無責任だろう。新聞を斜め読みしたが、何も報道されていない。

 ヨーロッパの感染拡大も、急激だ。フランスは600万人を超えたとたんに拡大のスピードがアップしている。きょうの一覧表では605万人。一時はフランスに追い抜かれた(?)ロシアが607万人。スペインも428万人で、イタリアを追い越してしまいそう。この、なんというか抜きつ抜かれつの、マラソンレースのような感染状況の変化を見ていると、東京オリンピック周辺だけではなく、世界中で感染拡大が問題になっていることがわかる。オリンピックは、世界中で報道されているが、世界で起きている「感染拡大競争」はどれくらいていねいに報道されているのか。オリンピックは、世界のニュースにも大きな影響を与えているように思う。
 きょうも書くが、オリンピックは即座に中止すべきである。

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