青柳俊哉「青い馬のかげ」、徳永孝「わたしが死ぬ時」、池田清子「歯車」(朝日カルチャーセンター福岡、2021年07月19日)
受講生の作品。
青い馬のかげ 青柳俊哉
枯れ木の中を風が吹きすぎて
意識のわたしは一途に 年輪のそよぎへ内向する
波立つ木目の層から 白樺の樹林が立ち上がる
岸一面に 夥しい花粉が風浪の形に敷かれて
それを乱す生物のかげはみえない
水に映る一頭の青い馬のかげがわたしをみつめる
それはまだうまれていないわたしの そして
わすれられたわたしの 像であるかもしれない
………………
雨がふりはじめた 青いかげが揺らぐ
樹林が乱れる 枯れ木の水面に
いくつも輪がうまれて わたしの中の
雪のかげが波立ちきえる
「全体が静かな感じ。白と青のイメージで統一されている」「凛とした感じ。冬の印象がある。青い馬は、エリック・カールの絵本にも出てくるので親しみを感じる。最初静かだったのか、徐々に動きが見えてくるのかいいなあ」「終わりの方の、雨と雪の関係がよくわからない」
少し質問をしてみた。かげ、が何回か出てくる。最後の「雪のかげが波立ちきえる」の「かげ」は、具体的には何を指しているだろうか。
「わたしの、白いきれいなかげ」「イメージは浮かぶが、消えていく」
こういうことは、答えはあって、答えはない。ひとりひとりが、それぞれに自分で思い浮かべればいい。もちろん、そのとき「わからない」があっても、いい。
私が質問してみたのは、タイトルとも関係する。「青い馬のかげ」「青い」は何を就職しているのか。「青い馬」なのか。「青いかげ」なのか。それとも「青い馬の青いかげ」なのか。「意識のわたし」という青柳のテーマを示すことばが二行目に出てくる。それは、結局、「意識のわたし」の象徴ということになるだろう、と私は考える。意識だから、自在に動く。あるときは「青い馬」、あるときは「青いかげ」。
この作品は、実は、ひとつづき、一連で構成されていた作品だったのだが、私は、「それを乱す生物のかげはみえない/水に映る一頭の青い馬のかげがわたしをみつめる」の二行の「みえない」「みつめる」の対比がおもしろく、そこから世界が変化し始めるので、連を分けてみると効果的かもしれないと語った。
その後、青柳が推敲したのが、掲載の作品。青柳の意識としては「三連構成」。途中の「………………」は次の「雨」をイメージ化したもの。
この雨を「………………」とあらわすのは、とてもおもしろい試みだと思う。
私が「連」を考えたとき、思い浮かんだのは、次の形。
枯れ木の中を風が吹きすぎて
意識のわたしは一途に 年輪のそよぎへ内向する
波立つ木目の層から 白樺の樹林が立ち上がる
岸一面に 夥しい花粉が風浪の形に敷かれて
それを乱す生物のかげはみえない
水に映る一頭の青い馬のかげがわたしをみつめる
それはまだうまれていないわたしの そして
わすれられたわたしの 像であるかもしれない
雨がふりはじめた 青いかげが揺らぐ
樹林が乱れる 枯れ木の水面に
いくつも輪がうまれて わたしの中の
雪のかげが波立ちきえる
二連目の四行は、他の連と違って、「ことばの数」が少ない。水に映る青い馬のかげとわたしが対面している。そこに書かれているのは「具体物」というよりも「像」(イメージ)である。「意識のわたし」が「像」として対象化されている。意識が集中し、象徴(イメージ/像)を生み出している感じがする。
林の中へやってきた。湖(川かもしれない)の岸で「青い馬」と出会う。ただし、その馬は「水に映る青い馬のかげ」である。それとわたしが対話する。そのあと雨が降り、雨に叩かれて水面の「青い馬のかげ」は消える。そういう時間経過というか、ストーリーのようなものも、中央の4行を独立させると、明確になるかもしれない。
雨のために「水面に/いくつもの輪がうまれ」、イメージ(影)が消えるというは、意識から現実へ帰る感じがする。
一連目(現実)、二連目(心象)、三連目(現実)。現実風景と心象風景を明確に区分する必要はないが、重点の置き片が、現実、心象(意識)、現実という形にした方が、意識が結晶する感じがすると思う。
*
わたしが死ぬ時 徳永孝
絵本の中の犬のデイジーは
走るアーサーにもう付いて行けなくなり
体のあちこちに不調を感じながら
いつものように眠った後
もう起き上らない
お父さん 振亜(ツェンヤ)さん お母さん
みんな
動かなくなって
いなくなった
もう戻ってこない
アーサーは
小犬のメイジーに出会い
わたしも また
新しい人々に出会い
毎日生活している
この世の理屈では
だれでも衰えていき最後は死ぬ
私も同じ
でも それは
遠い世界のだれか他の人の事のよう
朝 目覚めた時
きのう眠りに落ちた瞬間は
どうしても思い出せない
そんな日々の繰り返しのうちに
やがて目覚めない朝が来る
「死ぬ時、というタイトルのことばは重いが、絵本の中のの世界から始まり、いつのまにか夢の中つづいて終わっていく。絵本から始まるので、意味のとらえ方が深刻にならないのがいいなあ」「ことばが自然に動いているのがいい」
徳永は「死=動かなくなる(動かない)」という世界観でことばを動かしている。だから、二連目に愛着があると語った。
受講生が指摘した「自然な動き」とは、どういうことだろうか。
そのことばに誘われて、私は連の構成を、そのとき分析してみた。
一連。絵本、アーサー、死。(A)
二連。現実、父母、知人、死。(B)
三連。A+B。死と生の現実。意識で整理している。
四連。意識だけを追いかけている。「理屈」ということばが象徴的。起承転結の「転」にあたる。(C)
五連。現実。絵本から始まった「イメージ」が、意識として「結(論)」を生み出す。「きのう眠りに落ちた瞬間は/どうしても思い出せない」は、現実と意識の関係を象徴していて、とてもおもしろい。それが「死(目覚めない朝)」につながっていくことばの運動が自然だと思う。
*
歯車 池田清子
穏やかな
多分きっちりとした
かみあわせだった
途中
回転が悪くなったら
オイルをさして動かした
歯数と回転数は
反比例すると習った
私がゆっくり一回転する間
相方は、少ない歯数で
何回も何回も回っていてくれたような気がする
止まってしまった
はずれてしまった
片われを失くした歯車は
不要なぎざぎざが無くなって
つるんとした
ただの円盤になってしまった
方向が定まらず
ただ、ころころ ころころ
時々、ぱたっと倒れて
上を見上げて、また
自由に
ころころ ころころ
「最終連の、自由に、がいいなあ。悲しさが感じられ、切ない。二人は相性のいい歯車だったんだなあ、とわかる」「歯車は突起があり、ギザギザしているイメージがあるが、それとは逆の穏やかなということばから始まるのが印象的。ぎざぎざがなくなるのは、私には壊れていくという印象。つるんとした、という表現が出てきてびっくりした」
私は三連目の「くれた」ということばが、とてもいいと思った。「くれた」ということばのなかに、感謝の気持ちがある。「私」の感謝が「くれた」のなかに込められている。感謝から見直した世界が、そのあとにつづく。見直すといっても、過去を振り返るのではなく、自分のいまをみつめる。歯車でいられるのは、相手が歯車である時。かみ合う歯車がなければ、ぎざぎざがあっても、円盤。つるりとしている。だから、制御がきかない。つまり「方向が定まらない」。
こんな姿を「相方」が見れば、笑うかもしれない。「ぱたっと倒れ」れば、「ほらみたことか。私がいないとだめなんだ」と言うだろう。
それはそうなんだけれど。
でも、転げ回りながら、それを自由と強がってみる。そうすると、ほんとうに自由になったような気もする。それは「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」のなかにこそ、生きている感じがつまっている。
池田は後半の三連について「自分を出したかった」と語ったが、自分がきちんと書かれていると思う。私の感想は、「誤解」かもしれないが、そういう「誤解」を受け入れてくれる強さが、この池田の詩にはある。不謹慎な言い方になるかもしれないが、「相方」が死んだ時、自分はぎざぎざのなくなった歯車だと思い、ころころ転げ回り、これが自由か、と思ってみたい気持ちになる。繰り返される「ころころ」が暗くないのがとてもいい。
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都内で過去最多4058人感染、初の4000人超…1週間前から2930人増
東京都は31日、新型コロナウイルスの感染者を都内で新たに4058人確認したと発表した。過去最多となった29日(3865人)を上回り、初めて4000人を超えた。
都によると、1週間前から2930人増え、1日当たりの感染者は4日連続で3000人を上回った。直近1週間の平均新規感染者は2920人で、前週(1345・7人)の2倍以上に急増した。重症者は前日から7人増の95人だった。
↑↑↑↑↑
「1週間前から2930人増」とはどういうことか。
一週間前は何人だったか。4058-2930=1128
いったい何倍に増えたのか。4058÷1128=3・5975177304964
3・5倍を超えている。
「直近1週間の平均新規感染者は2920人で、前週(1345・7人)の2倍以上に急増した」などと、数字を小さく見せかけてはいけない。こんな操作はしてはいけない。いまは「非常事態宣言下」である。問題の深刻さ隠蔽している。
この速報には「五輪関係者」の陽性者数が書かれていないが、きっと多いだろう。
五輪関係者は連日検査を実施しているというが、東京はいったい何人検査しているのか。検査実数を公表しないことには、実態がわからない。
検査数を抑制さえすれば、感染者は増えない。
一日の検査を「5000人」に限定してしまえば、感染者は「5000人」を超えることはありえない。
「五輪関係者」並の検査をしたら、つまり、都民全員の検査をしたら、陽性者は何人なのか。ワクチンを接種しても感染する人がいることを考えないといけない。
菅なら、検査数を限定することで、感染者数をおさえるという操作を平気でやるだろう。小池は、その指示を平気で受け入れるだろう。
東京五輪は、即座に中止すべきである。
コロナ感染で「緊急事態宣言」に4県が追加された。私はテレビを見ていないので詳細はわからないが、対策は「①飲食店の営業は午後8時まで、②酒の提供停止」とこれまでのものの繰り返し。読売新聞(14版・西部版)によれば、「今回の宣言が最後となるような覚悟で、政府をあげて全力で対策を講じていく」と語っているのだが、対策①②を読む限り、どこにも目新しいものはなく「政府をあげて全力で対策を講じる」という気概が伝わって来ない。
さらに。
東京五輪については「(感染拡大の)原因になっていない」としたうえで、「五輪・パラリンピックは自宅のテレビで声援を送っていただきたい」と述べた。
↑↑↑↑↑
会場で観戦できないから、みんな自宅でテレビ観戦しているのではないか。
でも、テレビ観戦し、声援するだけでは満足できないから、人とあって話したりする。好きなゲーム、好きな選手の話をする。どうしたって、人は集まる。私は体調管理のためにプールに行くくらいだが、そのプールでも、泳ぎに来ている人たちは、泳ぎの合間にオリンピックの話をしている。先日たまたま人がほとんどいない日があった。隣のレーンで泳いでいた人が「きょう、少ないでしょ? 卓球の伊藤の試合があるから、みんなテレビを見ている」と教えてくれた。私が出た後は、きっとゲームを見終わったあとの人でいっぱいになっただろう。
「選手から元気をもらった」とか「みんなで声援しよう」とか、言っておいて、その感動を「共有」することを禁止する。こんなばかげか政策があるだろうか。感動は「私はこんなに感動している」とだれかに語ること以外では「共有」できない。感動の共有、みんなでいっしょにはしゃぐことを禁止しておいて、「オリンピック選手の活躍はすばらしい」などというのは、菅が「感動の共有」を求めているのではなく、国民の目がコロナ批判からオリンピック種の活躍に向くようにをしむけたいのだろう。「目くらまし/目逸らし作戦」である。日本選手が金メダルをとっている限り、コロナ対策に対する批判、菅政権への批判は大きくならない。日本選手が大活躍すれば「五輪は大成功だった」と主張し、総選挙の宣伝に利用できると考えているからだろう。「五輪の感動を教えてくれた菅は偉大な政治家だ」とアピールしたいからだろう。
選手の活躍は利用する。しかし、その活躍を共有したいという国民の声は拒否する。自宅でテレビを見ているだけにしろ、と迫る。人間が感情を持っているということを菅は知らないのだ。
さらに、そういう「目逸らし作戦」ではどうすることもできないところまでコロナ感染は拡大してきている。
何をすべきなのか。
記者会見も私は見ていないのだが、共産党の志井のツイッターによれば
https://twitter.com/shiikazuo/status/1421062556429389833?s=25&fbclid=IwAR3eoq0IYDUTKWc6GmfOtGhrEVEryd0-dtW9m_kV-YiHUe9KgsnzGBRzVrA
↓↓↓↓
記者「危機感を共有するために何が大切と考えるか」
首相「国民に危機感をもっていただくことが大切だ」
だめだこれは。
何を聞かれたかも理解していない。
↑↑↑↑
国民に危機感が足りないのではなく、菅に危機感が足りないのだ。菅が危機感を持っていないから、こんなことになる。
①きのうまで国民に向かって何も語りかけなかった
②非常事態宣言の開始が「8月2日」と、即時ではない
③オリンピックを中止しない
この3点だけでも、菅に危機感が欠如していることがわかる。コロナ感染拡大の責任を、国民の「自己責任」に押しつけることが政治の仕事であるはずがない。
「オリンピックを中止する」と言えば、いま起きていることの「衝撃力」が国民にはっきりつたわる。世界にもつたわる。