金子忠政『楔、アリバイ』(快晴出版、2021年10月19日発行)
金子忠政『楔、アリバイ』は、文字が小さくて、かなり読みづらい。ページも多い。詩集は、いつごろから、こういうスタイルになったのだろうか。わたしはもっと気楽に読める本が好きだ。
「しじま-森の口寄せⅡ」の書き出し。
ざんざか、ざんざか
打たれに打たれ
ひかる地面をみつめ
胸元に噛みついてきて
むざむざ淀んでいるそれを
どこにぶつけたらいいのか、
不穏にぬめりこむことなく
噴く火はかぼそい
金子は「耳」で、あるいは「喉/口蓋/舌」でことばを動かす詩人なのだろうと思った。「ざんざか、ざんざか/打たれに打たれ」という二行が象徴的だが、ここにあるのは「意味」というよりも「音」である。「意味」はあとから探し、くっつければいい。「意味」とはもともとそういうものだろうと思う。
いま、これから、私が書こうとしていることも、そのひとつである。
金子は音を繰り返しながら、音を探している。「ざんざか、ざんざか/打たれに打たれ」のような音は、簡単にはみつからない。簡単に見つかってしまえば、それは単純「方法」になってしまって、「声」をだすときの悦びが消える。
「ひかる地面をみつめ/胸元に噛みついてきて」という二行では、ま行の音と「い」を含む音が交錯する。ま行。「み」つめ、「む」な「も」と、か「み」ついて。「い」。「ひ」かる、じ」めん、「み」つめ、むなもと「に」、か「み」つ「い」て「き」て。
「むざむざ淀んでいるそれを/どこにぶつけたらいいのか、」には「むざむざ」という反復の音があり、「む」は「ぶ」つけると暗黙の出会いをする。それは「不穏にぬめりこむことなく/噴く火はかぼそい」の「ふ」おん、「ふ」くに通じ、か「ぼ」そいへと変化していく。
濁音に関しては、人の好みはわかれる。「濁」という漢字が示すように、それは濁っていて「汚い」という印象を持つひとがいる。「清音」は清らかだ。これは、「耳」の印象。しかし、「喉」から言うと、濁音は清音に比べて「豊かさ」に富む。簡単に言えば「有声音」である。この官能を覚えてしまうと、ちょっと抜け出せない。
辻の地蔵はざらざらの頭を
右の手のひらでかるく叩く
ペタ、ペタ、ペタ
ここは半濁音。「ざらざら」「ペタ、ペタ、ペタ」も「意味」ではなく、音だ。
ひとみを、
せせらぎへ静かにひたし
水がしわぶき緑が応じ
青空にひかりをあびせられ
小石が足下にあり
素足にしんみりと、
こういう行は「描写」というよりも、「音楽」である。実際に「情景」を思い浮かべることが詩の理解につながるというよりも、「音」を聞き取る方が、金子の「ことばへの欲望」と直結するだろう。
「焚書」という短い詩にも、そういうものを感じる。
紙の本を
澄んだ空気に
パタパタ震わせ
おとしめる言葉を探し
頁を破りつくすため
語りきろうと
思いを切り、……
はるか遠方、
砂埃にかすむ僧院の悲劇を
わくわく切り崩す
「はるか遠方」より「はるか彼方」の方が、か行が響きあうかとも思うが、金子は、えん「ぽ」う、すな「ぼ」こり、えんぽ「う」、そ「う」いんを好んだのだろう。とくに「僧院」を登場させるには「遠方」がなんとしても必要だったのだと思う。金子の「声」には。「寺院」や「教会」「砦」では詩にならないのだ。「意味」ではなく、「音」だからね。「声」だからね。
こういう詩は、むずかしいね。
「意味」の愛好者は多いが、「音」の好みはかなり生理的。おなじ「音」であっても、たとえば私はモーツァルトは不機嫌なときはいらいらしてしまう。体調が悪いときもぞっとしてしまう。きょうの体調にあわせ、私はふたつの詩を引用した。あす書いたら違う詩を引用するだろう。書き方も違うだろう。
「金子の音が好き」というひとが、どれだけいるか。また、「金子の音」のどの部分が好きかというのも、「評価の分かれ目」になると思う。
リズムも、とても重要になってくると思う。