スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』(★★★★) (2022年02月12日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン13)
監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー
いちばん驚いたのは。
私の「肉体」がついていけなくなっていること。私はダンスもしなければ歌も歌わないから、前の作品(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督「ウエスト・サイド物語」)でも私の「肉体」がついていっていたのかどうかはわからないが、今回のスピルバーグの映画では、私の「肉体」が置いてきぼりにされているのを感じた。
冒頭の口笛のシーンは、まだ「耳」だけが動いているので、わくわく感はおなじなのだが、役者が歌い踊りだすと、途端に、私の「肉体」は傍観者になってしまう。歌いたい、踊りたい(まねしてみたい)という気持ちが起きないのだ。わくわく、どきどきが「肉体」を支配して、私の「肉体」が動き出すという感じにならない。
「トゥナイト」や「マリア」というゆったりとした曲さえ、何か、ついていけない。妙に「洗練」されている感じ、シャープな感じがする。「肉体」が動こうとすると、「理性」がやめておけ、というのだ。こころのなかであっても、一緒に歌うな、声を出すな、声帯を動かすなと、理性が言うのである。
「クラプキ巡査どの」はこのミュージカルでは私の一番好きな曲だが、初めて聞いたときの荒々しい強さがない。歌っている若者に対する「同情」というのか、あ、そのつらさ、知っている、という感じにならない。あまりにも洗練されすぎている。その場で思いついて歌いだすという感じがしない。最初からその曲があって、それを歌って踊っている感じがする。私がストーリーを知っているから、ということだけではない何かがあると思う。「午前十時の映画祭」で上映されたときは、そんな感じはしなかった。スピルバーグの映画になって、そう感じるのだ。「クール」(この曲もとても好き)もなんだか違う。「アメリカ」も、豪華だけれど、美しすぎる。
あ、そうなんだ。「美しすぎる」が、どうも、気に食わない。
映画(ストーリー)は簡単にいってしまえば、不良の対立が生んだ悲劇だが、その不良たちが、今の私から見ると繊細(純粋?)で洗練されすぎている。何かを破壊せずにはいられない「欲望」というものが「演技」としてしか伝わってこない。生身の「肉体」としてつたわってこない。「おれたちには肉体がある。この肉体を、この世界に存在させたいのだ」という欲望が稀薄なのだ。
「演技」になりすぎていて、しかも「演技」として洗練しすぎていて、「肉体」そのもの、どうしようもない「欲望」というものが、見えにくくなっている。うまく撮れすぎている。(これはスピルバーグの映画全体について言えるかもしれない。)とくに、集団のダンスシーンはあまりにもあざやかで、まるでそれだけのショーのような感じがする。若者が好きで踊っている、体がどうしても動いてしまうという感じではなく、私たちはこんなにダンスがうまい、とそのうまさを見せている感じ。
とってもいいんだけれど、何か、違うかもしれない、と感じる。
これは、というか、一方、というか……。
レイチェル・ゼグラーの声に、私は非常に驚いた。透明な輝きと、透明な強さがある。「トゥナイト」の二重唱は、まったく知らない曲に聞こえてしまった。もし映画から「抜粋」して、レイチェル・ゼグラーの歌声だけを聞いたら「ウエスト・サイド物語」とは思わないかもしれない。
ただ、それがいいことかどうかは、また、別の問題。
昔に比べて、歌もダンスも、みんな「うまく」なりすぎたのかもしれない。映画で見たいのは、「うまさ」でもないし「うまさ」にかける情熱でもない、と思ってしまったのだった。