サラ・カイリイ『ヴァージン・キラー』(書肆侃侃房、2021年10月06日発行)
サラ・カイリイ『ヴァージン・キラー』には、何度もセックス描写か出てくる。セックス描写は、なんといえばいいのか、意外に退屈なものである。いろいろなことをやってみても、結局似たようなことになってしまうからだろう。行為には限界がある。(ように、私には思える。)行為なんか、いくらでも、欲情しない。不思議なことに、思春期は「月経」ということばにさえ勃起したのに、である。「挿入」という文字を辞書で確かめれば、射精までは一分もかからない。ということは、というのは変な論理だが、セックスは「肉体」ではなく「ことば」の問題なのだ。そして、その「ことば」というのは「ことば自身の肉体」をもっている。これを私は簡単に「ことばの肉体」と呼んでいるのだが、この「ことばの肉体」は、実は、見わけるのが非常にむずかしい。ほとんどそっくりというか、いや、完璧にそっくりで、個別性があらわれるのは「ことばの肉体」が破綻したときだけなのだ。言いなおすと、「ことばの肉体」が見えるのは、そのことばが「破綻」した瞬間だけなのである。「ことばの肉体」はとても強靱で、簡単に「個人の肉体」を超えてしまう。たいていの場合は破綻しない。
たとえば「ふぇらちお」。
いとしいぺにすがただの肉塊になっていた
さあ飲み込めと突き出される勃起したぺにす
昨日まではいとおしくてたまらない 名前を付け
フリルで飾り バッグに持ち歩きたいと思っていたぺにすだったのに
反り返ったぺにすを口に含むと わたしの味しかしなかった
「いとしいぺにす」から「反り返ったぺにすを口に含むと」までは、「個人的体験」のようであって、「個人(サラ・カイリイ)」を感じさせる「ことば」はあらわれてこない。五行目の最後になって「わたしの味しかしなかった」になって、やっと「わたし」が「味がする(味を感じる)」という肉体の動き(肉体のことば)として「ことばの肉体」を動かし始める。
ここからが、詩の、「ことばの肉体」の勝負のしどころなのだが。
その辺に転がっている 犬のクソのような
人生と 自らが認識する特別性の 隔絶は 愛情をすり減らす
わたしは特別ではない ただのメスだった
うーん、私には「ことばの肉体」を利用しているだけのように感じられる。「特別性」「特別」という「特別」ということばが二回出てくるが、どこが「特別」なのか、私にはわからなかった。それが「ただのメスだった」という常套句に飲み込まれていくのを見ると、「わたしの味」とは何だったのかという疑問だけが残る。
この問題を、どう位置づけるか。
ときどき、おもしろい。だから、これから先、きっもっとおもしろい「ことばの肉体」が動いていくと読めばいいのかもしれないが、私は、親身になってそれを追いかけたいという気持ちにまではなれなかった。
もう一篇。「ヴァージン・キラー」。
帰りのバスの中から手をふるまで
接続は解消されない 自動ドアが
閉まって バスが走りだし
白いシャツが見えなくなる頃 私の膣から
ようやくペニスが 抜け落ちる
「接続は解消されない」という奇妙なことばが、「私の膣から/ようやくペニスが 抜け落ちる」と言いなおされる。膣からペニスが抜け落ちて、接続は解消される。「肉体のことば」が体験したことを、「ことばの肉体」があとから追いかけてきて、追いつく。そのとき初めて「世界」が「わたしの世界」の姿を取り始める。その瞬間の「抜け落ちる」ということばがとてもおもしろい。
「抜け落ちる」、特に「落ちる」ということばは否定的な意味を含むことが多い。「解消されない」(解消したい)というとき、その不快感のようなものは「落とす」であって「落ちる」というものではない。「落とす/落ちる」は「物理的」にはおなじ運動だが、意識的にはかなり違うし、それが「解消(する/したい)」ということばと連動するときは「落とす」でないと、落ち着きが悪い。「ことばの肉体」の方からとらえれば「落とす」を無意識に要求している。しかし、サラは「落ちる」を選びとっている。ここに「破綻」というとおおげさだし、「矛盾」といってもおおげさなのだが、一種の「撞着語」につうじるものがあって、それがおもしろい。そして、そのことばが「接続」を「再定義」しているようで、私は、あっと叫んでしまう。
サラは「接続」を求めている。しかし、求めている「接続」は手に入らない。ペニスが抜け落ちてもつづく「接続」が、サラのほんとうに探している接続である。しかし、ペニスが抜け落ちたときにほっとしてしまう「接続」を、いまは、生きているだけなのだ。この「矛盾」が、サラの詩を支えているということになるのかなあ。
そうだと仮定して。
そうだとするならば、「常套句」をどれだけ振り捨てることができるかということが、これからのサラの詩の問題かなあ。