砂川文次「ブラックボックス」(「文藝春秋」2022年3月号)
砂川文次「ブラックボックス」(第166回芥川賞受賞作)は、たいへん読みやすい文体である。こう始まる。
歩行者用の信号が数十メートル先で明滅を始める。それに気が付いてか、ビニール傘を差した何人かの勤め人が急ぎ足で横断歩道を駆けていく。佐久間亮介は、ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる。(254ページ)
この几帳面な文体(意識)が動いている人間が、几帳面さゆえに他人とうまく「調子」を合わせられない。息抜きができない。この感じを「佐久間」から「サクマ」へと主人公の呼称を替えて、この小説は展開する。「佐久間」にして置いたままの方が、私は、効果的だと思うが、佐川は「サクマ」を選んでいる。
で、正確さ(他人の文体を許さない神経質さ)のために、サクマは突発的に暴力をふるう。テキトウに自分を解放する方法を知らないので、ため込まれていた何かが衝動的に発散を求めるということだろう。
これは、「頭」では理解できるが、私の「肉体」は理解できない。なんとういか、つまらないなあ、と感じるのである。書き出し部分の正確な文体の読みやすさに、つまらないなあ、と感じるのに似ている。で、そのつまらなさは、そっくりそのまま「衝動的な暴力」の描写で、さらに感じてしまうのだ。あ、こんなふうに暴力をふるってみたい、と感じないのだ。
痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものでああとは耐えられる。(317ページ)
これは直接的な「暴力描写」ではないが、その「暴力」をささえる「認識」の部分を書いたものだが、「客観視」ということばがあるが、そのことばが示唆するように、ここには「主観」がない。「肉体」と「痛み」の「肉体」の側からの「変化」がない。
サクマはこのとき警官に右腕の動きを押さえ込まれているのだけれど、いったい右腕のどの部分が熱く、どの部分が痺れているのかぜんぜんわからない。したがって、それがどう分解されたのかもわからない。「肉体」に伝わってこない。
読み返せば、書き出しの「ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる」も、なにやら「客観的」な描写であり、「肉体」の内部の動きが書かれていない。つまり、「肉体」を排除することによって、「外形的」に「肉体」をなぞっている。だから、読みやすい。
これは、かなり退屈である。
唯一、サクマの「肉体」を感じたのは、刑務所の作業場で台車が壊れたときの描写である。サクマはふたつのボルトを見ながら「ピッチが違います」という。(339ページ)
「これ、どっちもM12ですけど、ピッチが違います」
「はあ?」
「ねじ山の距離のことです」
「お前、見ただけでわかるのか」
「なんとなく」
ここにはサクマの「肉体」がはっきりと書かれている。その「肉体」は「私の肉体」がそのまま「追認」できるものではないが、「職人」というのは、そういうふつうのひとがもたない「肉体の智慧」をもっている。それがさりげなく書かれていて、とてもいい。
この「肉体にたたきこまれた感覚/正確な認識となって動く肉体」というものが、もっと必要なのだ。とくに「暴力描写」には。
気が付くと中年の方は地面に転がって、鼻を両手で抑えて大声で騒いでいた。指の間から血が滴っている。自分の額から流れてくるそれは、自分のものとそいつのものとが混じり合っていた。でもなぜか他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした。(315ページ)
この描写、とくに「他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした」には「肉体感覚」が描かれていておもしろいのだが。
でも、この部分は逆に、どうしてこの部分だけ魅力的なのだろうか、という疑問も呼び起こす。「自分の額から流れてくるそれは」「自分のそれは」と繰り返される「それは」ということばのつかい方が、全体の文章のなかで浮いて見える。
考えているうちに、あっという間にそれらは雑念に変じ、想起と交わってどろどろに溶け合う。(289ページ)
「想起」ということばは何度かつかわれるが、この「想起」ということばは、私にはかなり唐突に感じられる。そして、ここにも「それらは」ということばがある。
でも、前回の芥川賞受賞作、石沢麻衣「貝に続く場所にて」よりは、まともな文章という気がした。