詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

うるし山千尋『ライトケージ』(2)

2022-02-04 11:50:44 | 詩集

うるし山千尋『ライトケージ』(2)(七月堂、2021年12月28日発行)

 うるし山千尋『ライトケージ』には、「返す」という動詞は、きのうふれた作品のほかに、もう一篇、違う作品でもつかわれている。「返戻」。この作品について触れながら、暁方ミセイが「「返す」詩人」というタイトルの解説(?)を「栞」に書いている。暁方も「返す」が気になったらしい。私は、「栞」はめったに読まないが、今回は暁方が書いているということと、その文章が短かったので、読んでみた。こう書いている。

 本詩集収録の最後の詩を読み、そうかぁ、と唸った。
  
  わたしは写真集を「元の場所」に戻したわけだけど
  戻したというより返したという感覚のほうがなぜかいつも強い
  戻すも返すもたいしてかわらないのに    
                          (「返戻」)

 うるし山さんの詩は、「返す」詩なのだ。返すということは、戻すこととは少し違って、それを一度受け取り、自分を通過させてから元の通りにすることだ。 

 「一度受け取り、自分を通過させてから」という部分が、ていねいで気持ちがいい。
 ここから少し、うるし山の市から離れてしまうかもしれないが。
 私は「元の通りにすることだ」という暁方のことばにたいへん驚いた。私は「返す」ということばを「元の通りにする」と考えたことはなかった。きのう書いたように、「返す」には「撞着語」のニュアンスがある。「元」とは違うのが「返す」ということだと思ったからである。
 さらに、うるし山が「元の場所」と鍵括弧付きで書いていることを、暁方は「元の通り」と別のことばで言いなおしている。このことにも、妙に、つまずいてしまった。
 「通り」とは何だろうか。「場」と「通り」はどう違うのか。
 「通り」は「通す」という「動詞」につながる。「場(空間/時間)」を何かが「通る」。すると、その「通り」には「つながり」ができる。新しい何かがそこに加わっている。そのために「通り」がよくなることもあれば、「通り」が悪くなることもある。「通り」が「案内」になることもあれば、「障害」になることもあるだろう。
 暁方は、そのことをどれくらい意識しているのかわからないが、「場」ではなく「通り」とわざわざ書き直しているのだから、そこになんらかの意識の動きがあるはずだ。そして、それは「通りがよくなった」につながる運動だと思う。うるし山の詩を読むことで、暁方の「肉体」が抱えていた何かが整理され、「通り」がよくなったのだ。
 暁方は、こうつづけている。

うるし山さんの詩において、受け取って返すものは、時間や空間や、この世界そのものなのかもしれない。わからないものに触れ、わからないままそっと「返す」という運動が、このやわらかな生の感触のする詩を生んでいる。

 「わからないものに触れ、わからないままそっと「返す」という運動」だけでは、しかし、「通り」はよくならないだろう。もちろんどこに「障害(つまずきのもと)」があるかを知っておけば次にはつまずかない、そこを避けることができるかもしれないが、それでは「通りがよくなった」とは言えないだろう。だから、うるし山は「わからないものに触れ、わからないままそっと「返す」という運動」をしているわけではないと思う。
 暁方は「やわらかな生の感触のする詩」とことばをつづけている。
 この「やわらかな生の感触」に注目するならば、うるし山は、「返す」とき「やわらかな生の感触」を「返すもの」に与えていることになるだろう。それまでは「かたい」何かがあった。それがうるし山の肉体/ことばを「通る」ことで「やわらかな生の感触」をもったものに変わった。それが「返す」ということ、それが「通りをよくする」ということなのだろう。

 こういうことを書いていると、だんだん、わけがわからなくなる。私が最初に書こうとしたことも、こういうことでなかったという思いが積み重なってきて、私のことばの「通り」を悪くする。
 こういうときは、脇道というか、最初に頭をかすめたことに「戻る」。
 暁方の「栞」を読む前に、私は何を考えていたのか。
 「返戻」。何と読んでいいのか、私には思いつかない。詩を読んだあと「返す」と「戻す」はどう違うのか、瞬間的にそう思った。
 「戻す」という動詞は、どうつかわれていたか。この詩以外に、つかわれていたか。私は、こういう「点検」が苦手で、「点検」してもきっと間違うので、思い出せないとだけ書いておく。これ以前に書かれている詩に「戻す」があったかなかったかは思い出せないが、この詩にはつかわれている。

昼食をとりに一度席を離れた人たちがまた戻ってくる
図書館では音を出してはいけないのだけど
せわしく音を出してうるさく戻ってくるひとたちもいる

 体験したことをそのまま書いているようだけれど、私は、実は、ここでかなりつまずいたのである。なぜ、わざわざこういうことを書いたのか。「戻ってくる」は「帰ってくる」であり「帰る」は「返る」に通じるし「返す」にも通じる。ワープロで「かえる/かえす」と入力し、変換キーをおすと「返る/帰る/返す/帰す」が出てくるくらいである。うるし山は無意識に(?)何かを書こうとしている。「戻す」が抱えているもの、「返す/返る」とは違う何かを書こうとしている。
 それは何なのか。

せわしく音を出してうるさく戻ってくるひとたちもいる

 「戻る」には、何か不愉快なもの、たとえば「せわしい」「うるさい」がつきまとっているのだ。「戻す」とき、きっと、うるし山は何か不愉快なものを抱えていて、それを「戻す」。整理されなかったものをかかえたまま、それを「戻す」。
 でも「返す」とき、その不愉快なものは消えているのだ。暁方の書いていることばを借りて言えば「通り」がよくなっている。この「通り」はうるし山の「肉体/意識/ことば」のなかにある「通り(道)」である。
 暁方は、「戻す」との比較は書いていないが、どこかで、こういうことを感じているのかもしれない。だから「通り」ということばが出てきたのかもしれない。

 でも。
 もし、「戻す」が不愉快なものを抱えたままの行為(動詞)だとすると、次の部分は、どう読めばいい?

席を立ちキャパの写真集を書棚に戻しに行く
元の場所はそのまま本の厚みの分だけスペースが空いている
だから探しやすいし、そのために大きな本は存在する気がする
詩集は戻すには薄すぎる そう思うと
目のまえをいま何かがすうっと通りすぎ
もう思い出せない

 ここにつかわれている「戻す」は、どうなる? とくに「詩集は戻すには薄すぎる」を、詩を書いている人間として、どう受け止める?
 こういうことは、私は、これ以上考えない。いわゆる「保留」ということですませてしまう。私は一体の執筆時間を四十五分以内と決めているし、頭(ことば)も、もう動くのを嫌がっている。
 ただ、ほら、ここにも「通る」がある、と指摘しておく。

目の前をいま何かがすうっと通りすぎ

 何か「通り道」ができたのだ。「詩」ということばを書くことで、「戻す」と書きながら、それでも「通り」があらわれた。それは一瞬のことで「もう思い出せない」。しかし、それは存在した。
 「返す」という動詞を私は「撞着語」と結びつけて読んできたが、「撞着語」は不思議なつまずきだけれど、それは同時に過激な「通過」でもある。あまりに早く通りすぎるので、それがいったい何だったのかわからない。しかし、それは確かに「感じることができた」なにかである。「冷たい太陽」「明るい闇」。そういうことばに触れた瞬間、上手く説明できない何かが、「目の前をいま何かがすうっと通りすぎ」たという印象がある。
 そういうものを浮かびあがらせるために、うるし山は「返す」という動詞を動かしている。

 

コメント
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