『ただ、詩のために』岡田幸文追悼文集(ミッドナイトプレス、2021年12月09日発行)
『ただ、詩のために』岡田幸文追悼文集の最後にアルバムが載っている。そこで私は初めて岡田幸文の顔を知った。そして山本かずこの顔も知った。ふたりが夫婦であるらしいことは、「らしい」という形で知っていた。あ、それはほんとうだったのだ、と今思っている。写真には、「ほんとう」が写っている。
そして、いま、私が驚いているのは、岡田幸文がいろいろなひとと会っていた、という事実であり、その出会い、交流が「ほんとう」のこととして、写真として残っているということだ。
こういうことは、あたりまえのことなのだろうか。
私には、詩人と会ったことも、一緒に写真を撮ったことも、ほとんどない。
この追悼文集には54人が執筆している。そのうち、私が会ったことがあるのは秋亜綺羅、正津勉、谷川俊太郎、八木幹夫の4人である。正津勉とはデパートの階段ですれ違った。一緒にいた池井昌樹が正津勉と教えてくれた。それだけの出会いなので、正津勉は私と会ったことなど覚えていないだろうと思う。八木幹夫は、池井昌樹の仲立ちで、一緒に三人であった。八木は覚えているだろうか。谷川俊太郎に会う前に、池井に「どんなひと?」と聞いたら、いくつかのエピソードを教えてくれた。秋亜綺羅とは、東京へ池井を訪ねて行ったときに会ったのが最初だ。会った回数で言えば、秋亜綺羅がいちばん多いが、それでも数回(10回も会っていない)と思う。全員、池井がいなければ会わなかっただろうと思う。
一緒に写っている写真で思い出せるのは、谷川の家を訪問したときに撮った一枚だが、それもどこにあるかは思い出せない。一度、本の宣伝のためにネットに載せたことがあるが、ファイルがどこにあるかわからない。もうなくなっているかもしれない。私は、どうも、ひとと会うのが好きではないし、ひとと会った記録も残しておくのが好きではないのかもしれない、と思った。思い出すということを、めんどうくさい、と感じてしまうのかもしれない。
でも、岡田は違うんだろうなあ。ひとと会うのが好きだし、ひとのことをよく覚えている。だからこそ、その会ったひとも岡田のことをよく覚えていて追悼文を書いているのだ、ということに気づいたのである。
そのひとり、秋亜綺羅は、どんなふうにして岡田と会っていたのか。若いときの出会いを、こう書いている。
「詩が好きでたまらない」と話してくれた。「どんな詩を書くの?」と聴くと「詩は書かない。読むだけだ」と幸文くんは応えた。
「詩は書かない」ということばは、その当時は詩を書いていなかったという意味なのか、発表にはいたっていないという意味なのかは判然としないが、秋が最初に思い出していることばが「詩が好きでたまらない」というのがいいなあ。
「詩が好きでたまらない」という印象を残して死んでいくのは、かっこいい。あの詩がよかったな、あの詩人はすごかったなあ、よりもかっこいい。だれにでもできることではないだろう。
他の寄稿者の追悼文を読んでみても、この「詩が好きでたまらない」という印象が浮かびあがってくる。岡田は詩をじっとみつめつづけたひとなのだ、と気づかされる。だから「詩学」の編集長もつづけることができたのだろう。
私は、その「詩学」で岡田の世話になった。評論を5年間書かせてもらった。ただ、連載中に、どんな注文を受けなかったので、岡田が何を感じているのか、私にはよくわからなった。一冊にするとき、岡田に相談したが、提示された費用がとても高かった。そのため詩学社からの出版を諦めたのだが、これは申し訳ないことをしたなあ、と思う。話し合う機会があれば、岡田を知ることができただろうなあ、と思うと残念でもある「詩が好きでたまらない」と実感させてくれるひとに出会うチャンスも逃してしまった。私は岡田がどういう人間なのか想像できなかったが、岡田の方では、私が誰にでも会う人間ではない、ひとと会うのがめんどうだと感じる人間だということがわかっていたのかもしれない。