粕谷栄一「一生」「副身」(「森羅」33、2022年03月09日発行)
粕谷栄一の作品は、どの作品も、まったくおなじだ。違うことを書いているのだが、まったくおなじという印象がある。そして、このまったくおなじは、不思議なことに、飽きるようで飽きない。
若し、おれが、南国の港の町で、何にでもなれる男だ
としたら、おれは、すぐ、若い水夫になる。太い腕をし
て、昼間から、酒場で酒を呑むのだ。 「一生」
人々も、彼自身も知ることはないが、ひとりの男のな
かには、もうひとりの男がいる。 「副身」
このふたつを重ねてみる。
「おれ」のなかに「もうひとりの男」がいる。その「もうひとりの男」は水夫になっている。そして、昼間から酒を飲んでいる。
ひとりの男が、めしを食っているとき、彼のなかにい
るひとりの男もめしを食っている。 「副身」
おなじように、水夫が酒を飲むとき、水夫を想像したおれも酒を飲む。想像と現実が入れ代わる。
いや、そうではないのだ。
想像と現実の区別がつかない。想像したことが現実であり、現実が想像なのだ。この想像を「ことば」と変えると粕谷のやっていることがわかる。ことばにできることだけが現実である。どんなことであれ、ことばにすればそれは現実である。しかし、その現実はことばなのだから、同時に、想像である。「実体」がない。
いや、しかし「実体がない」とはいえない。
いや、「実体」はないかもしれないが、そこには「何か」がある。
この「何か」を定義するのはむずかしい。私は「ことばの運動」と呼んでおく。「ことばが動く」。その「動き」がある。
そして、この「動き」がとても奇妙なのは、粕谷の書いていることが、誰も想像できないような「ことばの動き」ではないということだ。
酒場で酒を飲む、めしを食う。だれもが、そういうことを「肉体」で知っている。
水夫といっても、名ばかりで、べつに、働くことはな
い。なにしろ、おれは、滅多にいない二枚目のいい男で、
どこにいても、女たちが、放っておかない。 「一生」
こういうことを「肉体」で知っているひとは何人いるかわからないが、二枚目を女が放っておかないということは、「他人の肉体」を通して知っている。他人の肉体なのに、二枚目はもてる。他人の肉体なのに、女は二枚目が好きだ、ということを知っている。これは、どうしてだろう。だれかの視線が、だれかを見た瞬間に動く。あ、あの女はあの男が好きなんだ。あ、あの男はあの女の乳房を見た。欲情した。「他人の肉体」なのに、何かがわかってしまう。
「肉体」というのは、個人と個人を切り離すまったく別個の存在である。しかし、そこには何か不思議なつながりがある。「他人の肉体」はまるで「もうひとりの男の肉体」のようにして「おれ」のなかで動く。それが「男」であろうと、「女」であろうと、である。「他人の肉体」は「私の肉体」でもあるのだ。
この「混同」を切り離すために「ことば」はあるのかもしれないが、つまり「私/他人」という区別を明確にするために「ことば」は働くのかもしれないが、その「ことば」自身も、実は、見かけ上は区別できるが、ほんとうに区別できているかどうかわからない。
あ、何を書いているんだろう。
こういうことを書きたいのだ。
「おれは、滅多にいない二枚目のいい男で、どこにいても、女たちが、放っておかない」という「ことば」が、たとえば「一生」の主人公(?)の「おれ」にだけしか発することができないことばかというと、そうではない。むしろ、それは「常套句」のようなもの。だれもが言いそうなこと。そして、きっとだれかが言ったことでもある。このことばを頼りに、「おれ」の独自性を証明することはできない。「おれのことば」のなかに「他人のことば」が動いている。「他人のことば」が動いていなければ、そのことばは「他人」にはつたわらない。だから、ことばは必ず「他人のことば」を通らないといけない。そして「他人のことば」を通った瞬間、それは「他人のことば」か「おれのことば」かわからない。
別なことばで言いなおせば、粕谷が書いたことばなのに、私は粕谷が書いたことばであことを忘れ、私のなかのことばが粕谷の用意した運動にしたがって動いているように感じてしまう。その動きを、私のことばも、私の肉体も、無抵抗で受け入れている。まるで見えない「法則/論理」があって、そのなかを論理にしたがってことばが自然に動いているだけ。
「おれ」とか「他人」とかの区別はなくて、ただ「ことばの肉体」というものがあるのだ、「ことばの肉体」を動かす「真理」があるのだ--と、私は、唐突に、そういうことを考える。「私の肉体」「他人の肉体」があるのではなく、ただ「人間(いのち)の肉体」があるというのに似ている。
どこが似ている? と言われそうだが。自他の区別を認識しながら、自他を超えてしまう瞬間がある。
まあ、いい。私にもよくわからないこと、考えるしかないことを、ことばで動かして、ことばがどこまで動くかだけを、私は知りたいのだから。私はそれを知りたいと思っているし、知ることができるとも思っているが、それは知ることはできない何かなのだ、知りたいという欲望が間違っているのだと納得したときが「死ぬ」ということかな、とも思うが。死んだら何もかもがなくなるが、これは逆に言えば何もかもをなくしてしまわないと死ねないということでもあるから、何がなんだかわからないが。
自他の区別を超越するということを考えると、なんだか、私には、粕谷栄一は「死ぬ練習」をしている、「死ぬ練習」のために詩を書いていると思ってしまうのである。どの詩を読んでも、「肉体」と「ことば」が「私」と「他人」のあいだを行き来し、どっちを先に消すことができるかを求めて、正確に、ただ正確なリズムに従ってことばを動かしているように感じられる。
この不思議な引力、あるいは重力と呼べばいのかわからないものに、引きつけられて、私のことばは歪む。その歪む瞬間が、私には、うれしい。
この問題を「整理」するには、テキトウな思いついたままの比喩をつかえば、アインシュタインが提唱した相対性理論のようなもの、ことばの運動の通説をひっくり返すような論理を想起する必要があるのだけれど、私が実感できるのは身の回りの、つぎつぎに歪んでいくことばしかないので、私はどんな「理論」にもたどりつけない。それはきっと、ただ「ある」だけのものであって、そのなかで私のことばが歪んでいくなあ、というのを私は実感しながら傍観するしかない。