宮城ま咲『一品足りない居酒屋』(待望社、2022年01月24日発行)
宮城ま咲『一品足りない居酒屋』。詩集のタイトルは少しうるさい。「一品足りない」か「居酒屋」のどちらかならすっきりする。ふたつのことばが重なると、「説明」を感じてしまう。つまり、読まなくてもわかったという気持ちになってしまう。たぶん、宮城には「説明癖」のようなものがあるのだろう。
その「説明癖」がいい方向に動いている作品もある。「説明」が「説明であることをやめる」。巻頭の「ぺそり ぽそり」。
うらがOK
おもてがOKなら
オールOK
というわけでもなく
とはじまる。「というわけでもなく」が「説明」へ踏み込む一歩なのだが、「なく(ない)」という否定のことばが象徴的するように、ここからすでに逸脱がはじまっている。肯定は一定の方向を指し示すが、否定はあらゆる方向を指し示しながら、同時に拒否する性格(性質、かも)をもっている。
わたしらには
奥行きがあって
わたしらには
見えない部分があって
本心なんかがあって
「奥行き」は「見えない部分」と言いなおされ、さらに「本心」と言いなおされるわけだが、この「本心」は断定されずに「本心なんか」とはぐらかされる。
そのうえで、
だけど
とつづいていく。この「だけど」はきのう読んだ以倉紘平の「そして」「しかし」とつなげて考えると「しかし」に近いと言えるかもしれない。「逆接」だね。つまり、いままで「説明」してきたことを肯定していくのではなく、否定してことばが動くための踏み台。
だけど
時として わたしらは
見えてる部分がすべてだと
おもわれたりなんかして
おもったりなんかして
言えないことばが
いえないまんまだったりして
「おもわれたりなんかして/おもったりなんかして」には主語のいれかわりがある。客体のいれかわりがある。最初に書かれていた「うら」と「おもて」が、ここで復活している。つまり説明が深まっていくはずなのだけれど、逆に、あいまいになっていく。こいういことばの動きがとてもいい。ここでも「なんか」がとても重要な働きをしている。
「説明」の反対の領域、「あいまい」が広がっていく。「説明」は何かを明確にするはずなのに、ここでは「あいまい」が増えてくるのである。
「なんかして」「なんかして」と「あいまい」を繰り返しておいて「だったりして」とずれていくのもいい。
言いなおせば「説明」がずれていくのである。「説明」でなくなっていくのである。
そして、
洗ったお皿は
おもてが乾いて
うらの糸底にも水気がなければ
すぐに使えるけど
わたしら、
うらでもおもてでもないところ
雫がひそんでたりなんかして
突然、皿のおもて、うらの糸底という具体的なものが出てきて、「説明」の抽象を具体で叩き壊してしまう。雫をもちだしてきて、おしまいにしてしまう。
この「暴力」がなんともいえずに気持ちがいい。「ことば」にしかできない暴走、「ことば」なのに抽象ではなく「具体」。「具体」といいながら……。
「……たりなんかして」
具体をあいまいにしてしまう。
おもわれたりなんかして
おもったりなんかして
言えないことばが
いえないまんまだったりして
の「ずれ」がいりみだれて、復活している。
これは、とてもおもしろい。
「わたしらには」ではなく「わたしら、」という読点の「切れ」も強い響きがあり、おもわずうなってしまう。とてもいい。
「捨てたくないよ」は、「ぺそり ぽそり」とは逆に、「説明が完結する」ことで一種の感動を呼ぶ起こす作品、「ほんとうにそうだよね」といいたくなる作品だけれど、はっきり「ほんとうにそうだよね」といってしまえる作品よりも、私は、「何がいいたいんだ、はっきり言えよ」と叱りつけたくなる作品の方が好きである。
「結論」なんてあるはずがない、ただことばが動いていくだけだ。