以倉紘平「平家物語 敦盛最期」(「アリゼ」206、2021年12月31日発行)
以倉紘平「平家物語 敦盛最期」は、平敦盛の最期の描写を引用しながらことばを動かしている。以倉は、
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、しかし私は感動する。
と率直に書いている。そして、このとき、「しかし」ということばを補っている。
「しかし」は敦盛にもあてはめることができる。
敦盛は熊谷次郎直実の扇の招きを無視し(拒否し)、逃げることができた。しかし、逃げずに引き返した。そして首を取られた。
しかし。
このふたつの「しかし」はかなり意味合いが違う。
敦盛の「しかし」は逆の行為をするわけだから、「しかし」は必然である。そして必然であるから、「しかし」ということばは書かれることはない。
以倉の書いている「しかし」には、そういう「論理的必然」がない。
「論理的必然」としての「しかし」にするためには、多くのことばを補わないといけない。
逃げることができるのに逃げずに引き返した。そして、その結果、戦いに敗れ、死んでしまう。これは予想できたことである。そして、その予想通りになった。いや、予想以上のことが起きた。助けようとする直実に自分は敵であると名乗り、首を差し出している。これは「生きる」ということを人間の最善の願いだと考えるならば、愚かしい行為である。生きるとことができるのに、生きるを選ばなかった。
「しかし」。
以倉は「感動する」。
ここにも多くのことばが省略されている。
単に「生きる」ではなく、「どう生きるか」。その決断を人間は、どうやって下すのか。「逃げる」のではなく引き返し、戦って、敗れ、「殺される」という「生き方(むかしは、死にざま、と言った。いまは「生きざま」という、気持ちの悪いことばがのさばっている)」を選んだのはなぜか。そのことを考えると感動する。「しかし」は、いろいろ考えると、含んでいる。
でも、「いろいろ」って何?
以倉は、こう言いなおしている。
そして何よりも詩を感じる。
とって引き返す。そして、戦う。そして、敗れる。そして、詩を残す。その詩に感動する。
こう書き続けてわかるのだが、以倉のつかっている「そして」には、強い「肯定」がある。
「肯定」を支えているのは、「詩」という存在である。
「何よりも」ということばがそれを強調している。この「何よりも」は学校文法的には「詩」を修飾することばだが、私には「そして」を補強することばのようにも思える。「そして=何よりも」という感じで響いてくる。この「そして」と「何よりも」は切り離せない強い力で結びついている。
敦盛は死んだ。そして、詩を残した。そして、以倉は、その詩に感動した。
以倉は、こういう文章も書き加えている。
詩とは何であろう。詩とは、大いなる矛盾を秘めたものではなかろうか。
以倉が指摘していることは、「論理」的には、生と死の矛盾である。「生き方」を「死にざま」と呼ぶような何かである。どのように死んだかということが、どのように生きたかといういちばん確かな証明である。
私は、この、以倉が「矛盾」と呼んでいるものを「しかし」と「そして」ということばに結びつけて考えたいのである。
「しかし」は逆接、「そして」は順接。
以倉は、こういう風に書くこともできたはずだ。
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、「そして」私は感動する。何よりも詩を感じる「からだ」。
「から(だ)」ということばで、私は以倉の「心理/こころの動き」を補ってみた。そして、こころの動きを補ってみればわかることだが、ひとのこころは「逆接」にみえても、「逆接」を超越して、いつでも「順接」で動いている。まっすぐに動いている。けっして引き返さない。「引き返した」ように見えるのは、こころの視点で見ていないからだ。いわゆる「客観」で見ているからだ。「主観」で世界を見るとき、そこには「順接」しかない。まっすぐな道しかない。
この「そして」は必然である。だから、省略しても、何も問題はない。
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、私は感動する。何よりも詩を感じる「からだ」。
しかし、以倉は、こう書いていた。
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、しかし私は感動する。そして何よりも詩を感じる。
短い文章のなかにあらわれた「しかし」と「そして」。
そこから見えてくるものは、とても多い。
「逆接」「順接」「矛盾」。
「矛盾」は「客観的指摘」である。主観には「矛盾」はない。「逆」も「順」もまた主観であり、主観には「順接」も「逆接」もない。ただ主観が動くだけである。
「主観の共鳴」ということばが、ふいに、浮かんできた。