詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇142)Obra J Jose Enrique Melero Blazquez

2022-02-22 18:17:24 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez
Nudo libre

 

No sólo quiero mirarlo, quiero tocarlo.
Me pregunto ......., 
Cuando lo toque, el hierro comenzará a moverse con la misma flexibilidad que el cuerpo de una mujer.

Huirá de mí?
O me llevará a un lugar que no conozco?

見るだけではなく、触ってみたくなる。
触ったとき、この鉄は女のからだのように、しなやかに動き始めるだろうか。
それは私から逃げていくのか。
それとも私を私の知らないところへ連れて行くのか。

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以倉紘平「平家物語 敦盛最期」

2022-02-22 12:13:56 | 詩(雑誌・同人誌)

以倉紘平「平家物語 敦盛最期」(「アリゼ」206、2021年12月31日発行)

 以倉紘平「平家物語 敦盛最期」は、平敦盛の最期の描写を引用しながらことばを動かしている。以倉は、

〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、しかし私は感動する。

 と率直に書いている。そして、このとき、「しかし」ということばを補っている。
 「しかし」は敦盛にもあてはめることができる。
 敦盛は熊谷次郎直実の扇の招きを無視し(拒否し)、逃げることができた。しかし、逃げずに引き返した。そして首を取られた。
 しかし。
 このふたつの「しかし」はかなり意味合いが違う。
 敦盛の「しかし」は逆の行為をするわけだから、「しかし」は必然である。そして必然であるから、「しかし」ということばは書かれることはない。
 以倉の書いている「しかし」には、そういう「論理的必然」がない。
 「論理的必然」としての「しかし」にするためには、多くのことばを補わないといけない。
 逃げることができるのに逃げずに引き返した。そして、その結果、戦いに敗れ、死んでしまう。これは予想できたことである。そして、その予想通りになった。いや、予想以上のことが起きた。助けようとする直実に自分は敵であると名乗り、首を差し出している。これは「生きる」ということを人間の最善の願いだと考えるならば、愚かしい行為である。生きるとことができるのに、生きるを選ばなかった。
 「しかし」。
 以倉は「感動する」。
 ここにも多くのことばが省略されている。
 単に「生きる」ではなく、「どう生きるか」。その決断を人間は、どうやって下すのか。「逃げる」のではなく引き返し、戦って、敗れ、「殺される」という「生き方(むかしは、死にざま、と言った。いまは「生きざま」という、気持ちの悪いことばがのさばっている)」を選んだのはなぜか。そのことを考えると感動する。「しかし」は、いろいろ考えると、含んでいる。
 でも、「いろいろ」って何?

 以倉は、こう言いなおしている。

そして何よりも詩を感じる。

 とって引き返す。そして、戦う。そして、敗れる。そして、詩を残す。その詩に感動する。
 こう書き続けてわかるのだが、以倉のつかっている「そして」には、強い「肯定」がある。
 「肯定」を支えているのは、「詩」という存在である。
 「何よりも」ということばがそれを強調している。この「何よりも」は学校文法的には「詩」を修飾することばだが、私には「そして」を補強することばのようにも思える。「そして=何よりも」という感じで響いてくる。この「そして」と「何よりも」は切り離せない強い力で結びついている。
 敦盛は死んだ。そして、詩を残した。そして、以倉は、その詩に感動した。

 以倉は、こういう文章も書き加えている。

詩とは何であろう。詩とは、大いなる矛盾を秘めたものではなかろうか。

 以倉が指摘していることは、「論理」的には、生と死の矛盾である。「生き方」を「死にざま」と呼ぶような何かである。どのように死んだかということが、どのように生きたかといういちばん確かな証明である。
 私は、この、以倉が「矛盾」と呼んでいるものを「しかし」と「そして」ということばに結びつけて考えたいのである。
 「しかし」は逆接、「そして」は順接。
 以倉は、こういう風に書くこともできたはずだ。

〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、「そして」私は感動する。何よりも詩を感じる「からだ」。

 「から(だ)」ということばで、私は以倉の「心理/こころの動き」を補ってみた。そして、こころの動きを補ってみればわかることだが、ひとのこころは「逆接」にみえても、「逆接」を超越して、いつでも「順接」で動いている。まっすぐに動いている。けっして引き返さない。「引き返した」ように見えるのは、こころの視点で見ていないからだ。いわゆる「客観」で見ているからだ。「主観」で世界を見るとき、そこには「順接」しかない。まっすぐな道しかない。
 この「そして」は必然である。だから、省略しても、何も問題はない。

〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、私は感動する。何よりも詩を感じる「からだ」。
 しかし、以倉は、こう書いていた。

〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、しかし私は感動する。そして何よりも詩を感じる。

 短い文章のなかにあらわれた「しかし」と「そして」。
 そこから見えてくるものは、とても多い。
 「逆接」「順接」「矛盾」。

 「矛盾」は「客観的指摘」である。主観には「矛盾」はない。「逆」も「順」もまた主観であり、主観には「順接」も「逆接」もない。ただ主観が動くだけである。
 「主観の共鳴」ということばが、ふいに、浮かんできた。

 

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