うるし山千尋『ライトケージ』(七月堂、2021年12月28日発行)
うるし山千尋『ライトケージ』の表題作「ライトケージ」は、こうはじまる。
二十年ぶりに
弦を巻く
サイレントギターという
音の鳴らないギターに
弦を巻く
やわらかい
弦は
空気のような他人の
風景のような
音が混じる
「弦を巻く」を繰り返し、その間にサイレントギターの説明を閉じ込めてしまう。これを技法と呼んでいいのかどうかよくわからないが、とてもうまい。説明を閉じ込めた上で、その説明の中に残っている「鳴らない音」を展開していく。
空気のような他人の
この一行が非常におもしろい。
学校文法でいう「論理」になっていない。「空気のような他人、の」と読めばそれなりの「意味」になるが、「他人の」は次の行の
風景のような
につながっているように見える。
行渡り。
切れているのに、次の行と強靱に結びついている。「切断」を装いながら「接続」が奇妙な形で(学校文法からはみ出した形で)動いている。
ここには説明できない(説明すると、めんどうくさい)意識の動きがある。
「撞着語」という「文法用語(?)」があるらしい。「明るい闇」とか「冷たい炎」という類である。「空気のような他人の」という一行は「撞着語/撞着行」というものではないかもしれないが、何かしら、私の意識を「攪拌」してくる。
「撞着語」というのは何か、強烈な幻想、私は体験したことがないのだが、たとえば麻薬による幻覚のようなイメージがある。ふつうの感覚では体験できないが、錯乱だけがつかみうる真実というような強烈なイメージがある。
しかし、うるし山のことばは、そういう「幻覚」とは逆に、なにかゆるやかなものがある。「ゆるやかな撞着語(行)」という感じ。
これは「海辺に不良を数えながら」の次のような展開に、非常に巧みに表現されている。
わたしたちは
たくさん数えたけれど
たくさん数えすぎて
どこまで数えたかわからなくなって
たくさん
忘れてしまった
むしろ群れているのは
わたしたちの
たくさん数えてきたという その
たくさんの意味で
「たくさん」が「数える」「忘れる」という動詞のなかにで集まってきて、離れていく。そしてそれは、そのふたつの動詞のあいだにある「わからなくなる」と結びついている。「数える」「わかる→わからなくなる」「忘れる」。撞着語として「「わかる→わからなくなる」という動き(動詞)が非常に奥深いところに隠されている。そして、その全体の動きを「その」というなんでもないような指示詞によって呼び出してみせる。
あ、これはいいなあ、と思わず声に出してしまう。
この「その」とか「あれ」とか、意識そのものの存在をさらりと「表」に露顕させるときの「動詞」をうるし山は、別のことばで、こう書いている。
どうする?
とおまえが訊いたので
しばらく考えて
どうしよう
と返すと
なんだかフェリーこわいね
とおまえは言った 「いつかのフェエリー」
嘘言ってみろよ
とおまえが急に言う
そんなに急に嘘はつけない
と言うと
嘘つけ、嘘はいつでもつけるはずだ
と返してくる 「詫びる」
「返す」。それは、いつでも「反撃」なのだ。反対の方からやってくる。「撞着語」が反対の方から突然あらわれて、それまでのことばの向きを逆転させるように。
うるし山は、詩とは「意識の裏切り/反撃」だと知っている。自覚している。何への「裏切り/反逆」なのか。「学校文法」への「裏切り/反逆」である。
全面的にそれを展開するのではなく、そっと隠して実行している。隠された時限爆弾が、この詩集のなかにはある。