詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子『おまえはわたしをかえていく』、緒方淑子「梅の木の横で」、青柳俊哉「満点の海」、徳永孝「光」

2022-02-07 15:39:15 | 現代詩講座

池田清子『おまえはわたしをかえていく』、緒方淑子「梅の木の横で」、青柳俊哉「満点の海」、徳永孝「光」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年01月31日)

 受講生の作品。

『おまえはわたしを変えていく』  池田清子

中学1,2年の頃書いた詩を見つけた

おまえって誰?
勉強から遊びから わたしを離してしまう
中学生らしいなあ

いつでも どこでも 現われて
わたしの心に入ってしまう
未知の世界へ
淡い感情の世界へ
時には強い情熱の世界へ
わたしを送り込んでしまう

先生とか好きになってたなあ
どんな世界だ

おまえを憎み 恨んでる
だけど いつでもどこでも現われるのを待っている

それで
一体 おまえはわたしを変えたのかい?
変えられて数十年
どこが変わった?
変えたのは
自分ではなく 人 だったような気がするけれど

 「おまえ」とはだれか。「わたし」のなかの「もうひとりのわたし」と読むのがふつうだろうと思うが、「詩かな、と思って読んだ」という意見があった。とてもおもしろい視点である。これに通じるのが「詩の中の自分」「詩を書いていた自分」という指摘。
 この感想が出てきた段階で、もう、この詩について語ることはないかもしれない。
 さらに、これを発展させる形で「おまえ=詩は、変っていきたかったのか。自分(わたし)ではなく、詩の方が」と感想は広がった。「最後の二行の読み方がわからない」という意見が出た。
 世界には「わたし」がいる。「おまえ」がいる。そして、最後に突然出てくる「人」がいる。「人」に通じる存在は「先生」という形で登場してきてはいるが、「変わる/変える」という動詞とは少し離れている。
 さあ、どう読むんだろう。どう読めば、納得できるか。作者を理解するというよりも、自分を理解する、ということが大切だと思う。詩は、書かれてしまって、発表されたら、作者のものであると同時に読者のもの。作者の説明を聞いても納得できないことがあるだろう。納得というのは、自分でするものだからである。
 この作品では「おまえを憎み 恨んでる」に対しても、「わからない」という声が出た。この一行は、つぎの「だけど いつでもどこでも現われるのを待っている」と対になっている。一行ではなく、二行でひとつの世界をつくっているので、組み合わせとして読む必要があると思う。
 「憎む 恨む」と「待っている」はふつうは相反する気持ちである。「憎む 恨む」相手は消えてほしい。でも「待っている」。「おまえ」の方が「わたし」よりも何かを知っているのかもしれない。「わたし」の知らない何か。
 ふつうに考えて、相いれないことばの結びつきを「撞着語」と言う。「冷たい太陽」「明るい闇」のような表現。「憎み 恨んでいる」でも「待っている」というのは、「撞着語」に似ている。そういう感情のからみあった状態は、だれもが経験したことがあると思う。「勉強しなければ/でも遊びたい」「遊びたい/でも勉強しなければ」。
 どちらの「声」が正しいのか、だれも知らない。その知らない何かが「わたしを変えたのか」「わたしは変えられたのか」、それとももっと別の「自分ではない(く)(他)人」が「わたしを変えた」のか。このとき「(他)人」というのは、世間(常識)かもしれない。
 でも。
 あるいは、ここで「わたし」が「(他)人」を変えたのだと飛躍して読んでみるのも楽しいかもしれない。社会は動いている。ひとりの人間が生きるとき、そのひとは社会から影響を受けるだけではなく、小さな形かもしれないけれど、社会にも影響を与えている。だれかが「あ、池田さんはこういう人だったんだ」と気づく。それは社会の変化には見えないかもしれないけれど、どこかでひとを動かしていくなら、それはやっぱり社会を変えたことになる。
 こういうことは、答えを出さなくていい、と私は考えている。ただ考えてみる。思ってみる。そのために、詩を読む。
 

梅の木の横で  緒方淑子

あったかいよね あったかいよね
 長期予報で酷寒とかさ
  あんまりびくびくして暮したくないな

お天気なんかはいてるつっかけ
 ポーンと放って 占いたい
  つっかけってあんま云わないね
   草履、はもっと。

たいてい西の空だった 缶蹴りなんかと一緒よ

裏でも表でも あしたてんきになあれ
もう片方も
あしたてんきになあれ 晴れでも雨でも
しまいは はだし

 一連目、二行目の「長期予報、酷寒」という現実から、過去に戻っていき、その過去がなつかしい。幼いころに戻っていく感じが、あたたかい。二連目が解放感があっていい。最終連で「あしたてんきになあれ」が繰り返されているけれど、「裏でも表でも あしたてんきになあれ」「あしたてんきになあれ 晴れでも雨でも」と順序が交代していところがおもしろい。
 タイトルがとてもいい。タイトルにだけ梅の木が出てくるのだけれど、それによって情景が浮かぶという指摘もあった。
 緒方は「梅の木も、はだしも地面についている。地面でつながっていることをあらわした」と語った。

満天の海  青柳俊哉

満天の海を 枯野(からの)の船が行く
太刀魚の剣のような竿 大きな蛍袋のシュラフ
きょうは銀白の大鰤(ぶり)を穫(と)る 水仙の絵皿に
ウニやミル貝 刺身を盛り 酒に浸して食す
豊玉姫が天に尾をひるがえす
 荒磯ノ鰤彦612・1・7
星の光に 釣った魚の名と日付をしるす
 夕凪ノ糸縒(いとより)姫 745・8・3
光が船の歳月を 速く遠くへはこぶ
 朝潮ノ鰰(はたはた)介 879・2・6
空が 風が 波をきる音がうつくしい
満天の 年齢(とし)のない少年のまま---

   枯野の船:近畿から淡路島まで日の影を伸ばす高樹を
        切って作った船。非常に速く行くとされる。 
   豊玉姫:わだつみ(海神)の娘 

 「612・1・7」などの数字は何なのか。直後に「日付」ということばがあるので日付だと推測できるが、どう読むべきなのか、読者は悩むと思う。講座では、作者がまず朗読する。それから感想を語り合うので、この問題は即座に解消するが、やはり……。
 日付の読み方に注目した、というのが最初の感想だった。(青柳は「612・1・7」を六百十二年一月七日と読んだ。)そこからはじまって、時間のうつりかわりから、生命力を感じる、海と天(星)が呼応している感じがする。海の匂い、潮の匂いを感じだという声。
 後半の「星の光に」「光が」「空が」ということばの並べ方が印象的という指摘があった。
 青柳は「イメージの組み合わせ」に注意して書いたと言った。
 私は「光が船の歳月を 速く遠くへはこぶ」がこの詩の世界全体を象徴しているように感じた。「速く」と「遠く」へ「はこぶ」。ことばが、私たちを、「速く遠くへはこぶ」。そのスピードが、そのまま世界の広さと拡大する。そこでは誰もが「年齢のない少年」になる。
 「戻る」のではなく、新しい少年に生まれ変わると読みたい。生まれ変わるために、詩はある。生まれかえさせるために、詩はある。

光  徳永孝

夕日に照らされて
突如現われた光の王国

オレンジ色に光る建物
燃えるような朱の街路樹
街を歩く黄金(きん)色に輝く人々
ざわめきを抜けて
子供達の遊ぶ声が浮かび上ってくる

やがて光は家々の明かりに引きつがれ
それが窓からもれてくる
闇に負けない力強さと暖かさ
夕食を共にしながら
今日一日の出来事を話し合う声がする

温かいおふろに入ったら
深い眠りにつくだろう

今夜はもう夢も見ないで済みそうだ

 夕方の散歩。時間の流れが、自然でいい。「光の王国」からはじまる夕方の情景にインパクトがある。精神的なイメージが眠りまで貫いている。外の情景だけではなく、家の中の、人の様子も描かれ、その人たちと重ね合わせる形で自分の幸福が描かれている。一日がむくわれる感じ。
 私は三連目の「引きつがれ(る)」という動詞に注目した。外の光が、家の内部の光に引き継がれる。それは「闇に負けない力強さと暖かさ」となって家の中にある。三連目から世界が「外部」から「家の内部」に転換するのだけれど、その転換が「引きつがれる」という動詞でつながっていくのがとてもいい感じだ。これは、実は、だれかによって引き継がれているののではなく、徳永のことばが「引き継いでいる」のである。
 ことばによって、世界を引き受ける。それは世界を生み出すということでもある。

 

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