青柳俊哉「夕雲」、徳永孝「睡眠剤?」、緒方淑子「風の旅」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年02月07日)
受講生の作品。
夕雲 青柳俊哉
凍りつく清冽な水音と
白いちいさな無数の野花の響く
雪のふりしきる谷間に 心は移り 生きている
匂いのよい花をつみ 花をたべて 憩っている
青空はどこまでも 硬くすんで 寂しく
雪は空の鋼(はがね)の光沢を 溶けずにすべりおりて
氷河の底の 枯れ野の芽吹きの中にしずむ
冬のくらい夕雲のほとりを
光があんなに 悲しくうつくしく
灯しているのは
霊たちが昇華しているためだ
空のむこうの円環へと
[受講生]透明感があふれる詩。音が光に転換していく。その透明なイメージが展開し、その変化が美しい。「寂しく」ということばがあるが、そのことばとは対照的な感覚も感じる。寂しさと野の花の対比、枯れ野と芽吹きの対照的な存在もいい。
「匂いのよい花をつみ 花をたべて 憩っている」「雪は空の鋼の光沢を 溶けずにすべりおりて/氷河の底の 枯れ野の芽吹きの中にしずむ」が好き。「霊たちが昇華しているためだ」によって全体が引き立つという指摘。
私は「心は移り」とこころの運動を客観視していることばと、「灯している」という動詞のつかい方に注目した。特に「灯す」は「光が(略)灯している」という具合につながるが、「私が(あるいはだれかが)光を灯す」のではなく「光が、(光を)灯す」という形で展開していることに注目した。
「光が何かを照らす、というのが一般的」という声があったが、そのときの「違和感」が大事だと思う。「光が」と書き始めれば、私の場合「灯る」になる。自分とは違うことばのつかい方をしている。そこに、そのひと独自のことばがある。日本語だけれど、日本語というよりも「青柳語」がある。日本語に引っ張られて読むのではなく、「青柳語」を探して読む。
「光が(光を)灯している」。それは青柳の意思を超えた自然、宇宙の運動。青柳は、宇宙(世界)のなかで動いている、青柳の意思を超えた運動に共振しながらことばを動かしている。
たとえば「雪は空の鋼の光沢を 溶けずにすべりおりて」は現象の描写ではなく、雪と空(硬くすんだ鋼)の自己表出の運動なのである。雪は溶けずにすべり、それを空は鋼の硬さになることで支えている。ここにあるのは、存在の呼応である。存在が呼応しながら宇宙をつくっている。そのなかを精神が動いていく。存在の運動と精神の運動が重なる。
*
睡眠剤? 徳永孝
こ数晩良く寝れません
お医者さんは良く寝むれるように薬を処方してくれました
名前は「異邦人のための音楽」
何と不思議な薬の名前でしょう
異邦人よ
あなたは一人自分の部屋でその音楽を聞いているのですか?
それとも仲間と一緒にカフェで
故郷(ふるさと)の町を懐かしみながら
それともあなたはソングライターかも知れない
この町では異邦人である友のために
(もしかしてあなたの恋人?)
彼女を元気づけようとして歌を作る
それほどまでに優しいあなた
それともあなたはダンサーで
大きな青空市場に来ている
広場は世界中から集まったたくさんの人々でにぎわっている
大道芸人やミュージシャンやダンサーも
その芸を披露しようと来ている
あなたは色鮮やかな髪飾りに優雅なスカートで踊る
バックでは様々な東方の楽器が奏でられる
それともその音楽は・・・
先生!
わたしは今夜もまた寝れそうにありません
[受講生]薬の名前がいい。そこから世界がひろがり、結末までの展開構成がいい。豊かな空想力。四連目へ向かって情景がひろがり、自然にイメージ世界が厚みを増してくる。でも、難解。主語はどこにあるのか。「それともその音楽は・・・」が気になる。
「それとも・・・」のあとには別のイメージが広がる。そのイメージを作者が書いてしまうのではなく、読者にまかせているのでは? 「・・・」にすることで余韻のようなものが広がる、という声があった。徳永は「このあとも書こうと思ったけれど省略した」と説明した。
イメージの展開を楽しむ詩。講座では話すことができなかったが、「主語」の問題は、この詩では大事。
「わたし」は眠れない。だから睡眠導入剤を処方してもらう。その薬の名前が「異邦人のための音楽」。ここから「わたし」は異邦人を想像する。そして、想像した瞬間から「主役」が交代する。「わたし」の苦悩ではなく、「異邦人」が「主役」になって動き出す。もちろん、このとき「わたし」は「異邦人」になって「異邦人」であることを楽しんでいる。
「異邦人」はあくまで空想であるけれど、空想した瞬間に「わたし」は「異邦人」になって「異邦人」であることを楽しむ。
ことばは、主観/客観を瞬間的に超えてしまう。「わたし/異邦人」の一体感を楽しむ詩である。
青柳は「夕雲」を描写しながら「夕方の宇宙」と一体化する。緒方は「異邦人」を描写なしながら「異邦人」と一体化する。そのときの楽しさ。眠れなくなるのは、したがって、当然のことなのである。「わたし」は「わたし」ではなくなり、新しい人間「異邦人」として目覚めたのだから。
*
風の旅 緒方淑子
鹿はどうしているだろう
はるになったらまたきてください
この山道は桜花のトンネル 藤の花房地面に着くまで
橋から見えたあの池の草辺の君
まっすぐに見つめた君へ
今朝は会いに来ました
凍えた夜は眠れずに この陽光がまどろみの時
ひとりごとではあったのです
さればお耳のよいあなたのことだもの
声は翻る
翻る
声は
親(ちか)しく
翻り
[受講生]音の響きがいい。「されば」「草辺の君」というようなふだんつかわないことばが、声になり、詩になっている。詩の声、呼吸が心地よい。「草辺の君」に君への思いがあらわれている。「声は翻る」が印象的。韻律が強い。
でも、「さればお耳のよいあなたのことだもの/声は翻る」のつながりがわかりにくい、という指摘があった。
私も、そう思う。
「藤の花房地面に着くまで」や「凍えた夜は眠れずに この陽光がまどろみの時」ということばの動きを見れば、緒方には独特の緒方文法があり、「あなたのことだもの」のあとに省略されたことばがあることは推測できるが、それをこの詩一篇から推測することはむずかしい。
この詩には、別バージョンがある。緒方は二篇書いてきたが、講座で緒方が読んだのは先に引用したもの。比較のために読んだ作品のその後半は、こうなっている。
ひとりごとではあったのです
さればお耳のよいあなたのこと
聴いていましたね 声は親(ちか)しく翻り
親しく声は翻り
「聴いていましたね」が削除されている。
緒方は、「声は翻る」の部分について、鹿の耳が翻って、私のことばを聴いているのがわかった。風が翻るように声が翻るというのような説明をしたのだが。鹿との「対話」を強調したのだが。
私は緒方の書いていることを超えて、つまり鹿との対話という部分を超えて、その先を読んでみたい気持ちになる。詩が展開するに従った「鹿」が「君」になり「あなた」になる。この変化は、緒方のこころの変化であり、こころの変化が「現実(鹿)」を「鹿」ではないものに変えてしまうということだろう。鹿と対話しながら、鹿ではないものと対話する。
そして、対話が成立した瞬間、(緒方が言ったことばで説明直せば、鹿の耳が翻って、鹿が自分のことばを聞いている、鹿に自分の声が聞こえていると感じた瞬間)、何かが変わる。緒方は「鹿の耳が翻る」と言ったが、それは「聴いて、わかった」ということだと思うが、その「聴く」という動詞がないと「翻る」がよくわからない。
「翻る」とは「風が翻る」という形で緒方は説明し直したが、「葉っぱが翻る」の例がわかりやすいと思うが、表と裏がひっくり返るような、「逆転」のイメージがある。「鹿の耳が翻る」なら、鹿の耳の内側が見える感じだろうか。
この「逆転」ということを起点にして考えると。
この詩では話者(緒方と仮定しておく)が鹿と語り合っている。一連目、鹿「また来てください」、二連目、緒方「来ました」。この「声」はどちらも「こころの中の声」だろう。鹿は日本語を話さない。三連目は、緒方の「声」だが、その「語りかけ方」は微妙である。だからこそ、それを四連目で「ひとりごと」と説明している。ここに、この詩の大きな「秘密」のようなものがある。
鹿との対話の過程で、鹿は君、あなたにかわっている。この人称の変化を手がかりにすれば、「あなたの声」が聞こえたということだろう。緒方は「あなた」に語りかけた。そして、その語りかけは「あなたの声」になって緒方に聞こえてきた。それはもちろん、ここに書いてあるままのことばではないが、「ことば」を超えて、ただ「あなたの声」が聞こえたということだろう。「あなた」との対話がはじまったということだろう。「あなたの声」を思い出したということだろうと私は想像した。
「聴いていましたね」と緒方が言えるのは、緒方が「聴いているあなた」をよく知っているからだ、と想像した。
私が書いているのは、もちろん「妄想/誤読」なのだろうけれど、私は、そう読みたい。「語る」という動詞が「翻り」、聴いているはずの「あなた」が語り、語っているはずの「緒方」が聴く。そのとき「親しく」ということばが絶対に必要になる。「親しい」存在だからこそ、この交流が可能なのだ。「聴く」という動詞があった方が、それがわかりやすい。「声」の持ち主も、「聴く」を意識することで、「翻る(逆転する)」と読みたい。「翻る(逆転する)」のは「語る」という動詞にもあてはまる。「語る」は「聴く」に翻る。緒方が語る、「あなた」は聴く。それが、私は聴く、「あなた」が語る。その交代(逆転/翻り)が「声」のなかで起きる。
もちろん緒方が、ただ鹿との交流だけを意図しているのなら、それはそれでいいけれど。私は、鹿との対話に託された「相聞の詩」として読みたい。「相聞」なかに「聞く」という動詞があるが、そういう「ヒント」があった方が、緒方を知らない人にもことばが届きやすいだろうと思う。
ただ、ことばの「省略」の仕方に緒方の「詩文法」の基本があるということを出発点にして考えるならば「聴く(聞く)」という動詞は邪魔になるだろう。これは、どれだけ多くの緒方の詩を読んでいるかということとも関係してくるので、とてもむずかしい。詩集のなかで詩を読み直すのか、詩集を離れて一篇の詩として読むのかという問題とも関係してくる。
(補足)
緒方が詩の後半に展開した世界、「遠心・求心」の結晶としての存在の認識を言語世界として確立することをめざしているのだとしたら、これは私の考えでは俳句に近い。ただ、そこに世界がある。世界と融合して「私」という存在が「遠心・求心」の運動を生きる。世界というよりも「宇宙」と言った方がいいかもしれない。存在するものの、存在形式を言語運動として展開すれば、そこにおのずと「感情/精神」といったものが含まれる。そういう認識から出発して、詩を俳句に拮抗する言語運動にしたいというのが緒方のやりたいことなら、私が書いていることはまったく見当違いになる。
鹿を見て、対話したとき、鹿の耳が翻る。その翻りのなかに「親しく」ということばを感じたとき、緒方の「声」が翻り、だれかの「鹿」であり、「君」であり、「あなた」であり、「風」である存在の「声」になり、だれかは消えて、ただ「親しく」という感覚だけが動いている「声」になり、緒方の耳に届く。「鹿→君→あなた」という主観的運動を最後の瞬間に、禅問答(考案?)のように破壊し(突き破り?)、つまり、鹿と対話してきたときの主観的時間を客観的存在に展開し直して、言いなおすならば主観的運動を前面に出さず「鹿」「風」「声」の宇宙として結晶させる。「鹿→君→あなた」という主観的運動は、そのとき風にまたたく宇宙の星のようにきらきら輝いている。あるいは翻りながらきらめいている。
緒方の詩的意図、文学的意図、言語運動の意図は、緒方の説明を聞くことで理解できたが、この詩を初めて読んだ段階では、私にはまだいま理解していることをことばにする準備はできていなかった。以前読んだ「天気雨 AM」も、私は「相聞の詩」として読んでしまったが、緒方の意図としては「遠心・求心的存在世界」の言語的展開だったのだ。
(補足、追加)
たとえば、高屋窓秋に「山鳩よみればまはりに雪がふる」という俳句がある。この句の「山鳩よ」の「よ」は非常に主観的である。緒方の書いている「さればお耳のよいあなたのことだもの」の「だもの」に近い。俳句は短い詩形なので「よ」が非常に目立つ。(ふつうは、切れ字の「や」をつかうかもしれない。)だから、「あ、ここは客観ではなく、主観」だと感じたりするのだが、現代詩のように「定型」がない世界では「だもの」のひとことで「主観」の存在を明示し、さらにそれを「客観」描写で超越するというのは、よほどその作者の方法論を知っていないとわからないと思う。少なくとも、私はわからなかった。もちろん、わかる人もいるだろうとは思うが。さらにその「客観」のなかに「親しく」という「主観」のことばがあれば、なおむずかしい。もっとも、この問題に関しては、「だもの」と「親しく」という主観の呼応によって、「俳句」ではなく「詩」の世界へ帰るのだ、ということもできるから、そういう点から見れば、緒方の世界は完全に完璧に確立され、完成しているとも言える。
だからこそ、むずかしい。
「脱線」して言えば。
「山鳩よみればまはりに雪がふる」の場合、俳句の読者ではなく「詩」の読者である私の場合は、「よ」を頼りに、この「山鳩」は恋人かもしれない、あるいは作者自身かもしれないと、心情(主観)の方に傾きながら読む。そしてそういう読み方を私は「誤読」と自覚しているが、こういう読み方を緒方がどう感じるかが、非常に問題になる。
これは「カルチャー講座」という限定された場で起きる問題なのかもしれないが、もっと広い問題かもしれない。これも、私には、まだ考える準備ができていない。