谷川俊太郎「偶然の言葉」ほか(「午前」20、2021年10月15日発行)
谷川俊太郎「偶然の言葉」は「偶然の言葉」が前書きなのか、「『偶然の人』に寄せて」が副題なのか、タイトルが二行になっている。
饒舌に与せず
沈黙に堕することなく
寡黙のうちに
詩を生むのは難儀だ
日常茶飯にひそむ詩は
人間には創れない
懐胎を予感し
臨月を待つのみ
これは、何だろう。よくわからない。「饒舌」「沈黙」「寡黙」。「寡黙」は「饒舌」と「沈黙」のあいだにあるのかな? 詩は「饒舌」でもなく「沈黙」でもなく、「寡黙」。少ないことば。でも、それは「人間には創れない」。生まれてくるのを待つだけ。
生まれてきたものが
ヒトの体をなしていない
鬼っ子だとしても
嘆くまい
言葉はすでに
私と別れて
幽明のうちに
点滅する
そのほのかな光に
浮かぶ面影に
私たちが捧げるものは
やはり詩 ひとつの
「ほのかな光」は「寡黙」に通じるだろうなあ。強い光が「饒舌」、消えてしまった光が「沈黙」だとすれば。その前には「幽明」と書かれている。「幽明」が「ほのかな光」。そのなかで「点滅する」のは「面影」、「面影」が「点滅する」。
これに捧げることば、詩は、やはり「ほのか」に通じるものだろう。
気になるのは「私と別れて」の「別れる」という動詞である。それは、もう「私のもの」ではない。「私」ではない。
この「別れる」と「人間には創れない」が響きあっているような感じがある。でも、その「響きあい」の「響き」があまりに小さくて聞こえない。「ほのか」のなかに「点滅する」何かのように。
そういう印象を、そのままにして「午前」を読んでいくと、山崎剛太郎の「偶然の人」という作品がある。17号に掲載された作品の再掲である。20号は山崎剛太郎の追悼特集を組んでいる。そのための再掲である。
あ、そうすると谷川の作品は、追悼詩だったのか、と私はやっと気がつく。
山崎の詩は、こういう詩である。
好きな散歩をしていると雨が降ってきた。傘を持た
ない私は、目の前の軒下に身を寄せた。私に続いて
四十才位の女性が並んで立った。「せっかくのドレス
が雨では困りますね」その店は喫茶店だった。「中に
入ってひと休みしませんか私がご馳走します」私た
ちは、小さなテーブルに向い合って腰をおろした。
私はコーヒーを彼女は紅茶を。
「世の中は偶然だらけですね私の人生もそうでした、
就職も失業も結婚も」雨はこやみになった。店でビ
ニール傘を二本買って、私たちは外に出た。その一
本を彼女に渡して「思い出にどうぞ」、彼女は傘を開
きながら美しい笑顔をみせた。「人生お別れだけが必
然ですね。ふりかえった傘の中から美しい笑顔を見
せた。彼女の後姿を見ながら、その言葉をかみしめた。
ここに「別れ」が出てくる。そして、それは「必然」と定義されている。この定義を借りるならば、詩とは「私と別れて」別の生を生きていく。それは「必然」なのだ。この「必然」のためには「偶然」が必要であり、「偶然」は「人間には創れない」ということだろう。
山崎は「偶然」の出会いと別れをことばにした。そのとき詩が生まれた。しかし、その詩は、やはり山崎を別れて生きている。これを別なことばで言えば、山崎は「偶然の人」というタイトルで谷川が追悼詩を書くとは思っていない。「偶然の人」が追悼詩の素材になるとは思っていない。そういうことは、いつでも、どこでも起きる。これは「偶然」だけれど、「必然」でもあるのだ。予想とは違うことが起きる。それだけが「必然」である。そして、その「必然」は、いつでも「別れ」を含んでいる。
さて、そうだとすれば。
詩に限ることではないが、私たちは、どう生きることができるだろうか。谷川は、詩を書いて生きる。何かできることがあるとすれば「詩を捧げる」こと。だれに? 「別れ」という「必然」に。つまり、究極的には「死」に、ということか。
よくわからない。だから、私はここでもこれ以上書かない。保留にしておく。いつか気がついたら、また戻ってくる。(いま、こうやって、何か月か前に読んだ「午前」を引っ張りだしてきて、読んでいるように。)
谷川の詩と山崎の詩を、結びつけることは「保留」にしておいて、山崎の詩にだけ目を向ける。そうすると、最初に見えてくるのが、
好きな散歩をしていると
この書き出しの「好きな」ということばである。なぜ、山崎は「好きな」ということばを書いたのだろう。「いつもの」ではない。散歩に出たとき、山崎のこころはすでに動いているのだ。何かしら「好き」に向かって歩いているのだ。「好き」が偶然見つける何かは、すでに「偶然」だけではなく「好き」につながる「必然」を持っている。「好き」ではないものを見ても、それは目に留まらないだろう。「好き」なものだけが私たちを動かしていく。
この詩でいえば、山崎は喫茶店が好き、コーヒーが好きということがわかる。八百屋でも、本屋でも、電器店でもデパートでもなく、喫茶店を選んで雨宿りをしている。偶然だけれど、そこには「好き」の「必然」も動いている。それは同じ喫茶店の軒下で雨宿りした女性も同じ。でも、彼女は、紅茶が好きだった。
二連目の「世の中は」ということばはだれのことばか。たぶん、山崎だろう。「中に入って」と声をかけたのも山崎。ここでも山崎から語りかけているのだろう。でも、とっても不思議な会話。見ず知らずの人に「私の人生」を語る人がいるだろうか。もし語るとすれば、そこにはやっぱり「好き」が動いている。「思い出にどうぞ」にも、「好き」が動いている。「思い出にどうぞ」は「思い出してください」と同じ意味だ。「嫌い」なのものは、わざわざ思い出したりはしない。そういう「好き」の動きを感じるからこそ、女は「お別れ」とはっきり口に出していう。
山崎は「饒舌」、女性は「寡黙」。
書いているうちに、また、谷川の詩に戻ってしまった。(こういうことを書くつもりはなかったのだが、知らずに、こうなった。これは「偶然」か「必然」かは、考えても仕方がない。)
そして、山崎は、自分の「饒舌」よりも、女性の「寡黙」が「好き」なのだろう。でも、それを書いてしまうのは「饒舌」というものかもしれない。しかし、途中まで書いて中断しているから「寡黙」といえるかもしれない。
どっちでもいいね。
谷川は、そんなことを考えただろうか。
わからないけれど、山崎の詩は、偶然会った女性に「捧げた詩」と感じただろうと思う。山崎には、女性にその詩を捧げなければならない「必然」があるということだ、というのは私の考えだが、谷川もそう考えただろうと考えてしまう。
「考えただろうか」と考えることは、すでに「そう考えただろう」の方に傾いていることばである。
ことばは、いつでも、どこかへ傾いていく。「好き」というのは、そういうことかもしれない。