岩佐なを「責任」(「孔雀船」99、2022年01月15日発行)
岩佐なを「責任」は、いいかげんに始まる。
いとをかしの
暮れ方だった
なんのことか、わからないでしょ? この、なんのことかわからなさを、私は「いいかげん」と呼ぶ。そして、それが「いいかげん」と言う限りは、私のなかに何らかの了解がある。つまりわかっていることがある。
仕事でだれかがミスをする。その説明をする。「それ、違うだろう」とわかっているとき「いいかげんなことを言うな」というでしょ? 仕事でなくても、子供を叱るときもよくいうよなあ。
では、私に何がわかっているのか。「いとをかし」が「ことば」としてわかっている。「枕草子」あたりに出てきたかも。そういう感じ。岩佐が実際に何を伝えたいのかわからないけれど、まあ、あの「いとをかし」なんだろうなあ、と思う。そして、いま書いた「あの、いとをかし」の、「あの」と名指されたものが、この瞬間、私と岩佐とのあいだで共有されたことになる。いや、共有といっても、私が勝手に「共有」しているつもりになっているだが。
岩佐さん、あの、いとをかし、ですね。(これは、念押し。)
もちろん返事はない。だから、「いいかげん」なのは岩佐ではなく私の方なのだが、私はもともと「誤読」をめざしているのだから、これくらいのいいかげんさがないと先へ進めない。
さて。
いいかんげんというのは、ほうっておくと、どんどん加速していくものである。こんな具合。
かれこれ昭和も枯れて
外では行く手のけしきもすけすけの頃
黒電話が
どすをきかせて鳴った
黒いジュワッキをとると
耳を当てるところから声がした
いいなあ。「ジュワッキ」。もう、何も読まなくてもいい。この詩は「ジュワッキ」を読めば、もう、あとはテキトウ。「ジュワッキ」が好き、につきてしまう。
そんないいかんげな、と言われそうだが、私はもともといいかげん。いいかげんさでは、岩佐には負けない、と自慢しても始まらないが、何がいいとか、どうして好きとか、そういうことは「後出しジャンケン」で何とでも言えることだから、「論理」のようなものには意味なんかない。価値なんか、ない。瞬間的に、「これだ」と思った、そのときの「踏み出し」にだけ生きているときの不思議さがある。
「枯れて」とか「すけすけ」とか「どす」とか、いろいろ「をかし」に似たことばがあるが、そういうものを叩き壊して「ジュワッキ」。一気に、「いいかげん」を突き破って「現実」になる。「真実」になる。この、鍵括弧付きの「現実/真実」というのは、いいかげんな言い方で言いなおすと、「ジュワッキ」って「シュワッチ」とかなんとか、変身ごっこの掛け声みたいでしょ? つまり「ジュワッキ」という音を聞いた瞬間、私は私ではなく、ヒーローに変身してしまう。年取ったヒーローだから、昔のヒーローのようには活躍できないし、解決しな消さばならない問題も、子供の夢から見れば「ばかみたい」なのなにか。
ほら。
あなたのお骨が出ましたから責任をもって
引き取りに来てください。という
すぐれない気分さ。
岩佐が書いているように、変身ヒーローのようにかっこよくいかない。「すぐれない気分」になるだけ。
でもね、詩だから、いい。どんな気分だろうと。詩だから。
あとは、もう、この「いいかげん」な「すぐれない気分」を、どれだけ持続するか、ことばの運動を維持するかだけ。
途中には「いい加減なサテンのあるじは自称詩人で」と「いい加減」ということばが出てきて、私はついつい「岩佐さん、いいかげんというのは私が岩佐さんの詩に向かっていったことばなんだから、勝手にこんなところでつかわないでください」と言いそうになってしまう。岩佐の詩が先にあって、私がその感想を書いているということを忘れてしまいそうになる。
シンクロというよりも、完全な勘違い。
そういうことを誘い出すものが岩佐のことばのなかを動いている。
書きそびれたけれど。「耳を当てるところから声がした」という行も大好きだなあ。ことばのスピードがなんともゆるい。「ジュワッキ」のスピードを裏切り、「ジュワッキ」がここでは「じゅわあああき」になってしまいそう。渡辺のジュースの素を手のひらに出して、その上につばを落とすと粉末が「じゅわあああ」と溶けていくときの「じゅわあああ」。
で、「書きそびれた」と書いたのは、ほんとうは嘘で。
「耳を当てるところから声がした」という行読んだ瞬間、「ジュワッキ」が「じゅわあああき」になったということを書いていると、ことばがどこまで暴走していくかわからなくなりそうな予感がしたので、やめてしまったのだ。渡辺のジュースの素だけではとまらなくなりそうなので、やめたのだ。
やめてしまったけれど、やっぱり書いておきたい気がして、追加したのだ。