池田清子「グラウンド」、徳永孝「違い」、青柳俊哉「河童」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年02月21日)
受講生の作品。
グラウンド 池田清子
夕方 歩いていると 時々
小学校の側を通る
少年野球の練習が見える
木かげで数人のお母さん達がおしゃべりをしている
私も 立っていた
ベンチの脇に
一年間 野球は命でさえあったのに
終わると すぐにパタンと閉じてしまった
へりくつの楽しい息子が小2で寡黙になった
体罰も パワハラも そんなものだと
監督、コーチ、OBへの気配りも当然だと
我が子の代が 前の代に劣らぬようにと
張りつめていた
平日の練習は日が暮れるまで
土日は 練習試合、大会、イベント
中2の姉はいつも家に一人
もっと冷静に広く見えていたらと
後悔ばかりが ふたをした
本物はあった
大きなすいかを何個も海に浮かべ 砂浜ですいか割り
一人のお父さんが会社で作った焼き肉用の大きな鉄板
まっさらな鉄は 輝いていて美しかった
もう三十年以上経つ
たくさんの大人たちに見守られた野球少年達は 高校球児になった
野球以外の経験も沢山積んだ 笑ってた
姉は一人の時間をちゃんと作っていたらしい
ふたを はずそう
六連目、「本物はあった」と突然、ことばが転調するが、この六連目が生き生きしてる。書かれていることが「具体的」だからである。他の連の、子供の「パタンと閉じてしまった」「寡黙になった」は「説明」であって「描写」ではない。おなじ意味で「後悔」もまた「説明(抽象的な、整理、要約)」。せっかく「ふた」という比喩をつかっているのだから、そこから具体的な動きを語るようにすると世界は違ってくると思う。
「本物はあった」は「後悔」が抽象的なのに比べて、「歓喜」が具体的だから印象に残る。野球チームの夏休みだと思う。砂浜でのスイカ割り、鉄板焼き。「お父さんが会社で作った」ということばのなかに、家族ぐるみの交流が含まれていて、それが楽しい。「まっさら」ということばも、とても効果的だ。作りたての鉄板が夏の光をはじいている感じが鮮烈だ。
詩は、要約できるものではなく、要約からはみだしていく「リアリティ」のなかにある。
「ふたを はずそう」。その蓋を外したあとの視点で見た世界を読みたい。
*
違い 徳永孝
男は強い
でも多くの男は女のアスリートに負ける
女は優しい繊細
雑な女も多い
男は論理的 女は感性的情緒的
でも世界初のコンピューター・プログラマーは
女のオーガスタ・エイダ・バイロン
昔は画家や音楽家は男の仕事だった
男は社会的だリーダーに向いている
女は内助の功
でも話し好きで社交的なのは女
異なる意見を調整交渉し
まとめ上げるリーダーは女が向いているのでは?
本音は自分のペースで家事をし
嫁ぐ人を支えたいと願う男もいるのでは?
女は生む
これは確か
でも男がいなければ子供は出来ない
おっぱいで子育てをする
ミルクで育てる親も多い
子を生む以外
平均値の差
一人一人の個人は
女か男かだけでは分からない
この作品も「説明」が中心になっている。考えが「整理」されすぎている。徳永の主張は、「男女の違い」よりも「ひとりひとり(個人)の違い」の方が大きいから、「平均化」して世界をみつめてはいけない、ということだと思う。
その具体例が「世界初のコンピューター・プログラマーは/女のオーガスタ・エイダ・バイロン」だけでは、「具体」が少なすぎる。徳永自身はいろいろな例を知っていて、それをひとつに代表させたのだと思うが、ひとつだけでは世界が具体的に見えてこない。読者が思わず、「そういえば誰それも……」と連想させるところまで具体的に書いた方がいい。「要約」は読者に任せればいい。
池田の書いていた「体罰」「気配り」「野球以外の経験」もおなじである。「要約」されすぎている。「意味」はわかるが、「意味」は詩ではない。
「意味」は、読んだ人にまかせればいい。
*
河童 青柳俊哉
大きな蓮の葉のうえで 酒に酔う
老いた河童 赤らむ頬に睫毛の長いかげが動く
枯れたブドウやクルミを 厚い黄色い嘴で啄む
蓮の花はバラに似ているとおもう それは
密集する花弁の束の 天国の平面図である
きのう友の河童を見舞う かれは白いバラを食べていた
かれにリルケの水盤のバラの詩をおくる バラの内部の光は
かれの中をめぐりつづける 風にとじられた光の形が
水面に捩(よじ)れて砕けた それはどこまで細かく砕けるのか
水中の 風のかけらに吸われて天の永劫にひらけるのか
水面に 枯れた白い花の糸が垂れる
頬の 深い睫毛のかげがふるえる
青柳の作品には「意見」がない。青柳に、「意図」はあるだろうけれど、それは簡単にはわからない。
池田の詩は、息子が野球チームに入っていたときのこと、そのとき娘(息子の姉)に寂しい思いをさせたかもしれないという後悔を書いている。徳永の詩は、世の中では男女の違いが「定式化/定型化」して語られているが、ほんとうは違うのではない、男か女かの違いではなくひとりひとりの違いに目を向けるべきだと主張している。そう「要約」できる。
それに比べると、青柳の詩は「要約」ができない。河童がバラを食べていることを描写していると「要約」してみても、どこに河童がいる? 河童は空想の動物だとだれかがいえば「要約」は根底から崩れてしまう。「意味」がなくなってしまう。
このときの「意味」とは、社会全体で(多くの人が)共有できる「意識」ということである。池田の詩ならば、子育てはむずかしい。徳永の詩ならば、男女の違いを平均化して語るのは差別だ、ということになるかもしれない。(要約は、人によって違うだろうが。)
青柳のこの詩には、そういう「意味」がない。でも、おもしろい。
「河童」はたしかに架空の動物かもしれない。しかし、ここに書かれている河童を「架空の動物」と意識しながら読む人間が何人いるだろうか。「河童」を河童と意識しないで、むしろ、それは自分かもしれない(あるいは青柳かもしれない)と思って読むのではないだろうか。「意味」を、自分でつくりだしながら読むのではないだろうか。
河童以外のことばが、すべて現実に存在するものであり、また、そこに書かれている動詞も、人間が体験していることだからではないだろうか。こういうことを「具体」という。「意味/要約/抽象」ではなく、「具体」と言う。「架空/空想」と「抽象」は違うのである。「架空/空想」であっても「具体」ということがある。
この詩では、この「架空/空想」と「具体」との絡み合いが、
水面に捩れて砕けた それはどこまで細かく砕けるのか
水中の 風のかけらに吸われて天の永劫にひらけるのか
という二行で頂点に達する。白熱する。
それまでの描写はすべて「肯定」である。「断定」である。「酒に酔う」「かげが動く」「嘴で啄む」。二連目で「おもう」ということばを起点にして「平面図である」から空想に拍車がかかるが「食べていた」「おくる」「めぐりつづける」も「断定」である。「事実」として書いている。
しかし私が注目した二行は「肯定/断定」から踏み出し「のか」という「疑問」で終わっている。
そしてこの「疑問」は「そうではない」という「否定」ではなく「肯定」を導くための反語的表現なのである。「どこまで細かく砕けるのか」は「どこまでも細かく細かくさらに細かく砕けるにちがいない」と確信するためのことばである。「天にひらかれるのか」は「もちろん天にひらかれるにきまっている」というより強い「肯定/断定」のことばである。
このとき「空想」は「確信」にかわる。
そして、「空想」が詩なのではなく、この「確信」こそが詩なのである。「確信」は「絶対にそう思う」であり、その「絶対」が詩なのである。「絶対」とは言い換えがきかないということであり、言い換えがきかないということは「具体」ということなのである。
反語的疑問のあと、空想は「具体的」な確信にかわる。それは、書いた青柳、そのことばを読んだ人間の「具体」ということである。「気持ち」はいつでも「具体的」なものなのである。要約できないもの、要約したら、消えてしまうものなのである。
それは、また、「書けないもの」と言いなおすこともできる。
「どこまでも細かく細かくさらに細かく砕けるにちがいない」「もちろん天にひらかれるにきまっている」とは青柳は書かないし、書けない。そして書かないからこそ、それがことばを超えてつたわってくる。
この激しい精神的興奮のあと、詩は静かにとじられる。まるでそういうことがなかったかのように、知らん顔して一連目の「睫毛のかげ」に戻っていく。「動く」を「ふるえる」にかえて、余韻をもってとじられる。あ、あの「動く」は「ふるえる」ということだったのか、と発見して終わる。
青柳の詩は、多くの場合、イメージがどこまでも拡散し、乱反射していくのだが、この詩では「かげ」と「光の形」に焦点がしぼられ、その周辺(河童の外部)でバラや水、風が動き、空間を広げると同時に河童の内面を広げている。外部と内部が融合し、「宇宙」をつくっている。
「のか」「のか」の二行が、その融合をしっかり支えている。