詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「冬木立」、池田清子「頼もう!」、徳永孝「道を渡る」、青柳俊哉「胡桃の中の精霊」、永田アオ「雨」、木谷明「誘い」

2022-11-10 00:18:54 | 現代詩講座

杉惠美子「冬木立」、池田清子「頼もう!」、徳永孝「道を渡る」、青柳俊哉「胡桃の中の精霊」、永田アオ「雨」、木谷明「誘い」(朝日カルチャーセンター、2022年11月07日)

 受講生の作品。

冬木立  杉惠美子

深い木立の奥に
私が置き去りにした家がある
その家の縁側を温める
柔らかな陽射しも
炬燵のぬくもりも
確かに覚えているのに
二度と訪ねることなく
時が過ぎた

ある日のこと
私はふと、そこに戻った

ずっとずっと続く裸木の風景は
一体の空気感を創り出し
渾身の力を込めて
私に何かを伝えた

 ここに書かれている家は、森の中に一軒だけあるのだろうか。何軒かあったとしても、杉が思い出しているのは一軒である。風景描写ではなく、情景描写。「確かに覚えているのに」ということばを手がかりに読めば、それは「記憶の風景」ということだろう。そして、二連目の「そこに戻った」の「そこ」とは「記憶」のことだろう。「その家」の「その」に通じる「そこ」。家を意識する、「その意識」のことだろう。
 最終行の「何か」とは、何か。「ことばでは言えない何か」と言ってしまうと、「答え」になりすぎてしまうだろう。直前の「渾身の」という表現は、空気を張りつめさせ、透明にさせる。一連目の「温める」「ぬくもり」の対極にある。その変化が、とてもいい。詩のなかで(詩を書くことで)変わるものがある。その変化としっかり向き合っている強さがある。

頼もう!  池田清子

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
神様?
頼むのは
時?
時は神様?

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
音楽? 絵画? 本?

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
友達? 家族?
いつもじっと見守ってくれる人たち

はて
何に頼もうか

頼もう! 

 「自分の力ではどうにもならない時」が繰り返される。繰り返すたびに「頼む」対象が変化していく。三連目、「友達? 家族?」と自問した後、それを「いつもじっと見守ってくれる人たち」と言い直している。言い直すことで、不思議な変化が生まれる。具体的に「相手」が見えたせいかもしれない。ふいに池田の中に力が湧いてきたのかもしれない。「何に頼もうか」と悩むのは何も頼むものがなくなったから、でもある。本当に悩んでいたら「藁にもすがる」。そんなことはしなくていい。それよりも、この力が湧いてきた瞬間の、その力を試してみたい。最後の「頼もう!」には、道場破りに挑む侍の気概のようなものがある。明るい。
 「自分の力ではどうにもならない時」から、この「頼もう!」への変化がいい。

道を渡る  徳永孝

横断歩道の橋を渡って
対岸の歩道まで行こう
濁流に流木が荒々しく過ぎる

まず信号機を確認して
あれこれと気になるけれど
車と足もとだけを注視して歩を進める

やばい!
ナンバープレートの数字が気になる
2、5、3、9、11、7、13…で割り切れるかな
今は調べるのをがまんして数字だけを憶えておこう

やっと着いた対岸の歩道
これでひと安心
もう因数分解で遊んでいいよ

 道路を渡る前の不安、渡っているときの緊張感、緊張しているときほど考えてはいけないことを考えてしまう、ということはあるだろう。そのあとの、解放感。三連目の数字は、素数ということでもないようだし、因数分解と何か関係があるのかどうかもわからないが、わからないところがあるからいいのだと思う。
 途中に出てくる「あれこれと気になるけれど」の「あれこれ」と比較してみるといい。「あれこれ」も何かわからないが、この「わからなさ」は別のことばで言えば「わかりすぎる」あれこれである。言い換える必要、「あれこれ」とは何かを考えなくても納得してしまう。つまり、だれもが思い浮かべる「あれこれ」であって、三連目の数字はだれもが思い浮かべることのできないつながりである。
 

胡桃の中の精霊 -土偶のかたち-  青柳俊哉

草雲雀を追って 古代の森に紛れる 
マスカット色の大きな胡桃を 
桃の化石で割く 日焼けした
ハート形の顔の 二つのまん丸い眼に 
わたしの中の精霊がうつる わたしたちを
養ってきたいのちが透けて重なる

ある夜 わたしを越えて成長した
頭のうえに ピンポン玉のような
白い花を三つ四つつけて つよい乳の香りを
ながしつづけた 匂いのやむ朝
わたしは 彼女の長いねむりの中へ入り 
いのちの原形をもとめて 泳いでいった

 「わからない」「わかる」ということを考えたとき、二連目の「ピンポン玉のような」が私は全くわからなかった。一連目に登場する「胡桃」の花を思い浮かべようとしたが、どうにも思い浮かばない。栗の花のように、何か、長い房のようなものがぶら下がっていたように思う。ピンポン玉と重ならない。そのことについて受講生からも質問が出た。青柳によれば、一連目の胡桃と二連目と花は関係がないそうである。もう一か所、最後の「泳いでいった」にもどういう意味だろう、という疑問が出た。受講生に、では、どんなことばを考えるか質問してみたら「さまよった」「求めていった」「歩いていった」「入っていった」というようなことばが出た。一連目の、見つめている青柳から、動く青柳にかわっている。青柳は「投身する」というイメージがあったという。私は三行前の「ながし」に水を感じたので、「泳いでいった」と自然な感じて受け止めた。
 この詩は、「かわる」ということでいえば、一連目と二連目で、青柳の意識が向き合っている対象がかわっていて(青柳の説明)、それがわかりにくいのが問題だが、詩とは(あるいはことばとはといった方がいいかもしれない)、自分のことばなのだけれど、書いているうちにかわっていく(何か違うものに気づき始める)ときに、不思議なおもしろさがある。
 わからないけれど、そのわからないところを飛び越してしまえ、という声が自分の中から聞こえたら、それに従った方がいい。いつか、何かが、再び「わかる」という形でやってくるだろう。

雨  永田アオ

むかし たくさんの民族がいて
それぞれのことばを持っていた
それぞれのことばで愛や憎しみを語っていた
たくさんの民族は戦いが好きで
おおきなことや ちいさなことで殺し合った
たくさんの民族が殺し合って
たくさんの民族がいなくなった
いなくなった民族のことばはきえてしまった

いや
ことばはきえることなく
ひとびとの思いをかかえ
空にあがり風になり
雲になり雨になった
だから
こんな雨の日は何千もの何万もの
ことばが降ってくる
夥しいことばが
私に降ってくる
わたしは耳をふさぎ
体を丸めてしゃがみこむ
それでも 
みしらぬことばたちは
とぎれることなく
わたしを叩きつづける
わたしの悲鳴は音をもたない

 民族とことば。これは大きな問題なのだが、政治や歴史に踏み込まずに、神話風に提起した後、二連目で、世界がぱっと変化する。ことばが雨になり降ってくる。その雨がふたたびことばになって降ってくる。その変化の中に、たくさんの民族の戦いが関係している。こういう素早い変化も神話といえば神話の世界かもしれない。
 最後の「わたしの悲鳴は音をもたない」はこころを引っ張られることばである。これは、どういうことだろうか。「ことばにならない」「声にならない」「無力だ」。いろいろな意見が出た。
 もしかすると、その「悲鳴」は、民族の戦いのなかで消えてしまった「ことば」でなら表現できる「音」かもしれない。ほんとうは、永田には、それが聞こえる。だからこそ、「耳をふさぎ」聞かないようにしている。その結果、「悲鳴」を「音/ことば」にできないのだろう。
 少ないことばを何度も繰り返しながら、その繰り返しのなかで「意味」が融合し、そこから、それまで存在しなかった「悲鳴」ということばと「音」が新しい結晶のようにあらわれてくる。
 この変化は、とても新鮮だ。

誘い  木谷 明

もうすぐ高原へ行く
行きたくて行っていなかった あの高原へ
行ったことのないあの高原へ

日中暮らして今まで通り 午後の
風が冷たく吹いたら
すみれがかる空に出掛け
月はわらった左の頬で

もうすぐ高原へ行く

未だ日暮れは浅く 輝きは 焔い

 木谷の書く「あの高原」は、杉の書いた「その家」に似ているかもしれない。重要なのは「高原」「家」ではなく「あの」「その」という意識である。意識の中にあらわれてくる何かの「象徴」が「高原」であり「家」である。「高原」「家」は、象徴のままゆるぎがないが、「あの」や「その」は少しずつ別のことばにかわっていく。その「変化」のなかに詩が動く。
 この詩では「すみれがかる空に出掛け/月はわらった左の頬で」が印象的だ。一瞬、「高原」を忘れてしまう。だからこそ、私は言うのである。「高原」ではなく「あの」という意識こそがこの詩の中心である。その「あの」を別のことばで言い直したのが「すみれがかる空に出掛け/月はわらった左の頬で」という、書いた木谷にしかわからない(あるいは書いた木谷にもわからない)何かなのである。
 詩を朗読するとき、木谷は「月はわらった 左の頬で」と一呼吸の間を入れた。私は、ちょっと混乱した。私は「間」のないことばの運動を感じていた。月が左側の頬(だけ)で笑った(右の頬は笑っていない)と感じた。木谷の読み方では、木谷の左の頬の方で、と聞こえたのである。こういうことは、まあ、印象なので、ひとそれぞれによって違うと思うけれど。
 そういうことも含めて、詩のなかで、ことばが今までつかっていたことばと違うものになっていく(変化していく)のを楽しむのは、詩のいちばんの喜びだと思う。

 

 


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