詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇242)Obra, Joaquín Lloréns

2022-11-20 22:22:01 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇242)Obra, Joaquín Lloréns
2022年11月20日(日曜日)

Obra, Joaquín Lloréns
T.Hierro 1.17x60x42 S.M.N


 Lo que siempre siento, cuando veo el trabajo de Joaquín, es el poder de sus manos. Como la obra es de hierro, no sería posible crear la forma sólo con la fuerza de las manos. Sin embargo, creo que los sutiles toques finales se ajustan con la fuerza de la mano. Siento la paciencia y la tenacidad de sus manos. 
 Me imagino que Joaquín dice al hirro: "Hemos vivido juntos muchos tiempos, puedes inclinarte un poco más". El hierro puede contestarle: "Pero esta curva es más bonita". 
 Me siento como si Joaquín estuviera dialogando con el hierro, creando la obra en colaboración con él. Siento su cálido intercambio.
 Me pregunto cómo se procesará la superficie de la obra después. ¿Se quedará como está? ¿Será de color? Me encantan las obras de hierro oxidado de Joaquín. Creo que este trabajo será aún más cálido cuando se oxide.

 Joaquinの作品を見て感じるのは、いつも手の力である。鉄の作品だから、手の力だけで形をつくることはできないだろう。しかし、微妙な最後の仕上げは手の力で調整しているように感じる。手の根気と、粘り強さを感じる。「これまでいっしょに生きてきたじゃないか、もう少し丸く曲がってくれよ」と言いながらつくっているところを想像してしまう。鉄は鉄で「でも、このカーブの方が美しいよ」と言っているかもしれない。鉄と対話しながら、鉄と共同で作品を作り上げている感じがする。温かい交流を感じる。
 このあと作品の表面はどう加工されるのだろう。このまま、だろうか。色が塗られるのだろうか。私は Joaquinの錆びた鉄の作品が大好きだ。この作品も錆びた姿になると、さらに温かみが増すと思う。

 

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三木清「人生論ノート」から「噂について」

2022-11-20 20:50:50 | 詩集

 

  「噂について」には、非常に難しい部分がある。

 噂は評判として一つの批評であるといふが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従つて本来なんら批評でなく、きわめて不安定で不確定である。(285ページ)

 ここでは、「評判」と「批評」が対比されている。三木清は「評判」には「基準」がなく、「批評」には「基準」があるといいたいのだが、「その批評には如何なる基準もなく」と書いている。そのため、イタリア人青年は「批評には基準がない」と書いているため、よくわからない、というのである。これは「批評」という強いことば(名詞)にひっぱられて、その直前の「その」を見落としているためである。
 三木清は「噂は評判として一つの批評である」と定義するところからはじめている。「評判=批評」。そして、その定義を受けて「その批評」と書いている。したがって「その批評」とは「評判」のことである。これが最初の「難関」といえる。
 私が感心したのは、この「つまずかなければならないところ」で、きちんとつまずき、そこがわからないといえる読解力である。日本の高校生といっしょに三木清を読んでいたと仮定して、この部分で、「ここがわからない」と質問する高校生が何人いるだろうか。イタリアの青年はネイティブではない。日本語の学習者である。しかも、2年も学習しているわけではない。

 噂はあらゆる情念から出てくる(略)ものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。--熱情をもつて語られた噂は噂としては受け取られないであらう。--そこにはいはば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行はれる。(286ページ)

 この部分は、その後の「歴史」の問題(歴史と神話の違い)へとつながっていくのだが、「情念の観念化作用」を把握するのが難しい。「情念」はあくまで「個人的」で基準を持たないのに対し、「観念」は何らかの共有できる「基準」のようなもの、理性を持っている。
 だからこそ、この部分は、こう言い直される。

 噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この不動的なものに我々が次から次へと移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化していく結果になる。(286ページ)

 「情念や合理化による加工」という表現に注目すれば「情念」と「観念化作用」が対比されていたように、ここでは「情念」と「合理化による加工」が対比されていることがわかる。つまり「観念化作用」とは「合理化による加工」のことである。そこには「合理化」という基準があり、それゆえに共有される。前の文章にあった「神話への転化」は「神話化」という短縮形で言い直されている。
 どのことばが、どう言い直されているか。これを、「誘い水」を向けると、ちゃんと答えることができる。その結果として、文意を把握できる。
 最後の方に、こういう文章がある。

 噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。(288ページ)

 この部分だけ読んだのでは、誰にも意味がわからない。「物理的確率」と「歴史的確率」の違いを説明できるひとはいないだろう。しかし、「基準」ということばを参照し、ことばを補うと、きちんと説明ができる。
 ここでは詳しく書かないが、イタリアの青年(18歳)には、それができる。
 いっしょに三木清を読んでいて、とても楽しい。何よりも、三木清の文章が大好きといってくれるのが、とても嬉しい。

 私は三木清が大好きだが、だれか、三木清の文章が好きなひといます? 三木清読書会のようなものを始めたいと思っているのだけれど。

 

 

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小松正二郎『聲』

2022-11-20 17:16:01 | 詩集

 

小松正二郎『聲』(モノクローム・プロジェクト、2022年10月20日発行)

 小松正二郎『聲』は強い声に満ちている。詩集のタイトルになった「聲」の書き出し。
「聲がする。あなたの弟の血が大地からわたしに叫んでいる。」

この一日に終わりは来ないだろう
陽は垂直に上昇し再び帰らないだろう
明け染める紅は東天の栄光を返上するだろう
日も月も年も円環の巡りを放棄するだろう

 これは「現実」の描写ではない。では、何を描写しているのか。「だろう」ということばに注目すれば「未来」である。つまり、これは「予言」である。「予言」なのだが、「だろう」が「予言」を隠している。現代において「予言」は効力を失っていて、どうしてれ「推測」に終わってしまう。それを再び「予言」にするには、ことばに強い響きが必要である。たとえば「陽は垂直に上昇し再び帰らない」。このことばが象徴的だが、これは私たちの知っている「日常(現実)」の法則を超えている。だからこそ、「予言」でもあるのだ。
 すべての行から「だろう」を取り去って

この一日に終わりは来ない
陽は垂直に上昇し再び帰らない
明け染める紅は東天の栄光を返上する
日も月も年も円環の巡りを放棄する

 でもいいのだが、それでは「空想」になる。だから「だろう」を小松は補っている。ということは、それにつづくことば「だろう」を補って読むと、小松の書いていることが明確になる。
 「だろう」を補って引用してみる。

もう肩車もできないだろう
ぼくは
こどもたちが怖がらないように
そっと後ろから近づくだろう

 「だろう」がない原文よりも「リアリティ」が強くなることがわかる。
 「予言」は「言う」ということであり、「言う」とは「ことばを存在させる」ということである。「ことば」が「できごと」を「事実」そのものに高めていく。
 「天使論」の書き出し。

基督教グノーシスの一派はエデンの蛇にイエスを視たと言う。

 この「言う」は「証言」である。「証言」であることによって、「予言」になる。ことばの強さが「時間を超える」のである。
 あらゆる動詞の最後に「だろう」「と言う」を補って読むと、小松の詩はわかりやすくなる。ここに書かれているのは、事実の報告ではなく、「事実」をことばによって「真実」に変えるという行為、あるいは「真実」を「事実」にひきもどすという行為である。
 そして、そこには「事実」や「真実」があるのではなく、「事実」「真実」を語る人間が存在するということがある。「予言」が「予言者」を必要とするように、この詩集のことばは、小松という詩人を必要とした。そういう詩集である。

 

 

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