受講生の作品。
Gifted Being 徳永孝
風の音に耳をすます
深い森の木々と奏でるコントラバスの響き
家のひさしを過ぎて行くポリフォニー
ビルの谷間でスイングするジャズ
雨の中たたずみ頭を挙げる
顔にかかる雨粒の感触
空から地上へ川から海へふたたび空の雲へ
変容し地上を循環するあまたの水を思う
月の無い夜友人と空を見上げる
幾千万の星々かすむ銀河
星座を形作る明るい星達またたきもせずゆっくりと巡る惑星
時おりの流れ星は宇宙からの手紙
それらを感じている私の魂(たましい)
美しさおどろき喜び
当てもなく彷徨う思考
満ち足りて
その心の働きは
人に対する
神様の贈り物(ギフト)
かも知れない
Rachel Carson "The Sens of Wonder"より
風の吹く森からはじまり、世界が次々に語られる。一連目は音楽(空気の振動、風)、二連目は水の循環、三連目は宇宙。四連目は、そうした世界を「魂」「思考」に収斂させ、最終連で「神様の贈り物」とまとめる。四連目の「満ち足りて」ということばが美しいが、書いていることが多すぎて、「意味」を読まされている感じになる。美しい世界が「神様(から)の贈り物」というのではなく、美しいと感じる心こそが「神様(から)の贈り物」という主張はわかるが、「心の働き」を「要約」しすぎている感じがする。
*
生きてる 池田清子
「ちゃんと食べてる?」と
一人暮らしの兄に聞いた
「自分の場合 栄養がどうのより
食べるか食べないかの問題」
そうか
生きてるから
食べてるのよね
生きているということは、食べている、ということ。電話(?)で兄が応対するなら、それは生きているのであり、生きているなら食べている。「食べているから、生きている」のではなく「生きているなら、食べている(証拠)」。論理がちょっとねじれている。そして、その論理のねじれに作者は説得されてる。説得させられたことを、そのまま書いている。
最終連の「納得感」を納得できるかどうかによって、感想が変わってくるだろう。
私は、「栄養がどうのより」という表現に、少しつまずいた。意味はわかるが、私は、こうは言わない。「栄養がどうのこうのより」と「こうの」を入れる。意識的に省略したのか、無意識にそう書いたのか。受講生に、どういうか聞いてみた。九州で暮らしている受講生は「どうのより」と「こうの」を含めない形でつかうということだった。
*
ドーナツの夕方 永田アオ
ドーナツを食べて
真ん中の空洞は残して
ポケットに入れて家を出た
やっと体の中の隙間が閉じたので
飲みこんであげることはできないんだ
歩道橋を上がって
下を見たら
道がハの形になってて
その両側の信号がずっとずっと
向こうまで向こうまで赤だった
空洞に見せてあげようと
ポケットからだしたら
空洞は
手の中でちょっと揺れてから
すうっと空に昇って
夕方の白い薄っぺらい月になった
しばらく
ハの形の赤い点描の向こうの
しらっちゃけた月を見ていた
淋しくなったので
歩道橋を降りた
信号が青になったかどうかは
知らない
今回の講座では、受講生が、わからないところを「考える(想像する)」のではなく、作者に質問する、という形で語り合った。「道がハの形になって、というのはどういうことですか?」「一点透視の遠近法で描かれた絵のように」というやりとりはあったが、「ドーナツを食べて/真ん中の空洞は残しては、どういうことですか?」という質問はなかった。この書き出しを読んだとき、そういう質問が出るだろうと想定して、今回の講座のスタイルをかえたのだが、誰も質問しなかったということに、私はちょっと驚いた。
ドーナツは、ふつうは、真ん中が空っぽ。それを食べ残すことはできない。でも、詩では、それを書いてしまうことができる。具体的なものではなく、ことばだけの運動がはじまる。「空洞に見せてあげようと」から「夕方の白い薄っぺらい月になった」までは、ことばのなかだけにしかない世界。だれも、永田の書いている「空洞」を見ることはできないし、触ることもできない。いわば、非現実、虚構。簡単に言えば、嘘。
この講座をはじめたとき、どこまで嘘を書けるか、嘘を書いてみようというようなことを私は受講生に言った。谷川俊太郎は、赤ん坊でもなければ、女子高校生でもない。しかし、平気で赤ん坊の気持ちや女子高校生の気持ちを「ぼく」「わたし」の形で書く。嘘を書く。でも、ことばの動きそのものに、嘘を感じない。ここに、詩の秘密がある。
書かれていることが「真実」であるとか、「美しい」とかではなく、そしてそれが「現実」かどうかではなく、ことばの動きが「ほんとう」に感じられるかどうか。「ほんとう」に感じられれば、それが詩。
みんなが、永田のことばの運動、特にドーナツの空洞に疑問を持たなかったというのは、永田のことばが詩として受講生に受け入れられたということだ。
*
落ち葉 杉恵美子
うらとおもて
月あかりに影をつくり
夜の膨らみの中で
静かな音をたてる
螺旋を描いて
心の中に落ち葉が
ひとつ
虚と実が見える
あと少しだけ
生きられるとしたら
あの人に手紙を書こう
杉は、ずばり「虚と実が見える」が見える、と書く。しかし、人間に実際に見えるものは「虚」ではなく、「実ではない」が直感できるということ(あるいは証明できるということ)であって、「虚」は見えない。見ないからこそ「虚」という。「虚と実」は「うらとおもて」と書き出されている。人間の(だれかの)、行動の裏が見える。いま、そこには、ないものが見える。「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシャ人らしいけれど、この「ない」を「ある」ように書くのが詩かもしれない。
この作品では、最終連をどう読むかが話題になった。飛躍している(論理的ではない)という意見があったが、私は、飛躍が、ここでは詩だと思った。
「虚と実が見える」というのは、「虚が見えた」ということかもしれない。しかし、それを否定するのではなく、受け止めて、手紙を書く。つまり批判の手紙ではなく、別の種類の手紙を書く。その手紙を書くという行為の中に、作者の「実」がある。私は、こういう「実」を「正直」と呼んでいる。どんな手紙を書いたか書いていないが、そこでは「実」の「こころ」が動くはずだ。
そういうことを感じさせる。
*
三島の青のり緑いろ 木谷明
三島食品が品質に自信をもってお届けしてきた
すじ青のりを伝統の青いパッケージで作る事が
できなくなりました。国内産地での記録的な不漁が続いた為です。
陸上養殖をふくめ原料確保につとめていますが
しばらく時間がかかりそうです。
その間、今できる精一杯の
青のりを準備しました。
でも待っていてください。
必ず帰ってきますから。
と、じっと読んでしまう緑のパッケージの裏書き。
まるで花束をもらったときのような
やさしい気持ちをあなたに
これはトイレットペーパーの袋。
こんな世の中がいい
実際に作者が見た(読んだ)ことばを引用し、そのあと、瞬間的に「見た(読んだ)」報告し、最後に感想を言う。このことばの関係を、行の空き(一行と二行をつかいわけている)で示す。これは、なかなか度胸のいることである。読者がわかってくれるかどうか、どこにも保障はない。
でも、私は、それでいいのだと思う。こんなふうに書きたい、という「意思」のなかに詩がある。詩は、いつでも読者にとどくとは限らない。
とどいたらいいなあ、くらいの気持ちがことばを自由にすると思う。
*
暁 青柳俊哉
光をむかえるために
空は赤く澄みわたって
稲妻に草の穂が明るむ
あざやかに鶏鳴が飛び立つ
空をうつす田の
薄い氷に新月がそそいでいる
地平線へ伸びる
ひとすじの野の道
背を吹く風の灯
わたしは空と地に引かれ
広大な無限の弧となって
暁へ解放されるのか
「あざやかに鶏鳴が飛び立つ、というのは実際に目撃した(体験した)ものですか」「季節はいつですか」という質問が受講生から出た。青柳は「鶏鳴を聞いただけ。ことばと季節の整合性は考えない」と答えた。ことばは現実をそのまま書いているのではない、ということになる。青柳の場合は、ことばの運動なのか、イメージの運動なのか、区別がつきにくい。もちろん区別をしなくてもいいものである。ことばとイメージが一体になって運動している。ただ、イメージの方が「視覚的」なので、印象が強いから、イメージが豊かな詩という感想が生まれるのだと思う。
青柳は、こころ(精神、意識、頭)に浮かんだイメージこそが「ほんもの」、それをあらわすことばこそが「ほんもの」という世界を描いている。最初に読んだ徳永がつかっていることばで言えば「心の働き」。「心の働き」は「ことば」でしか表現できない。「ことばの働き」というかわりに、そのとき実際に動いたことばを書くと、詩が自然に、ことばのなかからあらわれてくると思う。
この詩では、最終行の「のか」をめぐって意見が交わされた。「のか」と疑問にするのではなく、「解放される」で終わった方がいいのでは。疑問だと弱くなる、という意見である。私は「のか」という疑問は、単純な疑問ではなく、読者の「答え」を待っている「問いかけ」だと読んだ。「もちろん、解放されるだ」という答えを期待している。
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