詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

徳永孝「Gifted Being」、池田清子「生きてる」、永田アオ「ドーナツの夕方」、杉恵美子「落ち葉」、木谷明「三島の青のり緑いろ」、青柳俊哉「暁」

2022-11-04 21:04:11 | 現代詩講座

 受講生の作品。

Gifted Being  徳永孝

風の音に耳をすます
深い森の木々と奏でるコントラバスの響き
家のひさしを過ぎて行くポリフォニー
ビルの谷間でスイングするジャズ

雨の中たたずみ頭を挙げる
顔にかかる雨粒の感触
空から地上へ川から海へふたたび空の雲へ
変容し地上を循環するあまたの水を思う

月の無い夜友人と空を見上げる
幾千万の星々かすむ銀河
星座を形作る明るい星達またたきもせずゆっくりと巡る惑星
時おりの流れ星は宇宙からの手紙

それらを感じている私の魂(たましい)
美しさおどろき喜び
当てもなく彷徨う思考
満ち足りて

その心の働きは
人に対する
神様の贈り物(ギフト)
かも知れない

                   Rachel Carson "The Sens of Wonder"より

 風の吹く森からはじまり、世界が次々に語られる。一連目は音楽(空気の振動、風)、二連目は水の循環、三連目は宇宙。四連目は、そうした世界を「魂」「思考」に収斂させ、最終連で「神様の贈り物」とまとめる。四連目の「満ち足りて」ということばが美しいが、書いていることが多すぎて、「意味」を読まされている感じになる。美しい世界が「神様(から)の贈り物」というのではなく、美しいと感じる心こそが「神様(から)の贈り物」という主張はわかるが、「心の働き」を「要約」しすぎている感じがする。

生きてる  池田清子

「ちゃんと食べてる?」と
一人暮らしの兄に聞いた

「自分の場合 栄養がどうのより
食べるか食べないかの問題」

そうか
生きてるから
食べてるのよね

 生きているということは、食べている、ということ。電話(?)で兄が応対するなら、それは生きているのであり、生きているなら食べている。「食べているから、生きている」のではなく「生きているなら、食べている(証拠)」。論理がちょっとねじれている。そして、その論理のねじれに作者は説得されてる。説得させられたことを、そのまま書いている。
 最終連の「納得感」を納得できるかどうかによって、感想が変わってくるだろう。
 私は、「栄養がどうのより」という表現に、少しつまずいた。意味はわかるが、私は、こうは言わない。「栄養がどうのこうのより」と「こうの」を入れる。意識的に省略したのか、無意識にそう書いたのか。受講生に、どういうか聞いてみた。九州で暮らしている受講生は「どうのより」と「こうの」を含めない形でつかうということだった。

ドーナツの夕方  永田アオ

ドーナツを食べて
真ん中の空洞は残して
ポケットに入れて家を出た
やっと体の中の隙間が閉じたので
飲みこんであげることはできないんだ
歩道橋を上がって
下を見たら
道がハの形になってて
その両側の信号がずっとずっと
向こうまで向こうまで赤だった
空洞に見せてあげようと
ポケットからだしたら
空洞は
手の中でちょっと揺れてから
すうっと空に昇って
夕方の白い薄っぺらい月になった
しばらく
ハの形の赤い点描の向こうの
しらっちゃけた月を見ていた
淋しくなったので
歩道橋を降りた
信号が青になったかどうかは
知らない

 今回の講座では、受講生が、わからないところを「考える(想像する)」のではなく、作者に質問する、という形で語り合った。「道がハの形になって、というのはどういうことですか?」「一点透視の遠近法で描かれた絵のように」というやりとりはあったが、「ドーナツを食べて/真ん中の空洞は残しては、どういうことですか?」という質問はなかった。この書き出しを読んだとき、そういう質問が出るだろうと想定して、今回の講座のスタイルをかえたのだが、誰も質問しなかったということに、私はちょっと驚いた。
 ドーナツは、ふつうは、真ん中が空っぽ。それを食べ残すことはできない。でも、詩では、それを書いてしまうことができる。具体的なものではなく、ことばだけの運動がはじまる。「空洞に見せてあげようと」から「夕方の白い薄っぺらい月になった」までは、ことばのなかだけにしかない世界。だれも、永田の書いている「空洞」を見ることはできないし、触ることもできない。いわば、非現実、虚構。簡単に言えば、嘘。
 この講座をはじめたとき、どこまで嘘を書けるか、嘘を書いてみようというようなことを私は受講生に言った。谷川俊太郎は、赤ん坊でもなければ、女子高校生でもない。しかし、平気で赤ん坊の気持ちや女子高校生の気持ちを「ぼく」「わたし」の形で書く。嘘を書く。でも、ことばの動きそのものに、嘘を感じない。ここに、詩の秘密がある。
 書かれていることが「真実」であるとか、「美しい」とかではなく、そしてそれが「現実」かどうかではなく、ことばの動きが「ほんとう」に感じられるかどうか。「ほんとう」に感じられれば、それが詩。
 みんなが、永田のことばの運動、特にドーナツの空洞に疑問を持たなかったというのは、永田のことばが詩として受講生に受け入れられたということだ。

落ち葉  杉恵美子

うらとおもて
月あかりに影をつくり
夜の膨らみの中で
静かな音をたてる

螺旋を描いて
心の中に落ち葉が
ひとつ

虚と実が見える

あと少しだけ
生きられるとしたら
あの人に手紙を書こう

 杉は、ずばり「虚と実が見える」が見える、と書く。しかし、人間に実際に見えるものは「虚」ではなく、「実ではない」が直感できるということ(あるいは証明できるということ)であって、「虚」は見えない。見ないからこそ「虚」という。「虚と実」は「うらとおもて」と書き出されている。人間の(だれかの)、行動の裏が見える。いま、そこには、ないものが見える。「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシャ人らしいけれど、この「ない」を「ある」ように書くのが詩かもしれない。
 この作品では、最終連をどう読むかが話題になった。飛躍している(論理的ではない)という意見があったが、私は、飛躍が、ここでは詩だと思った。
 「虚と実が見える」というのは、「虚が見えた」ということかもしれない。しかし、それを否定するのではなく、受け止めて、手紙を書く。つまり批判の手紙ではなく、別の種類の手紙を書く。その手紙を書くという行為の中に、作者の「実」がある。私は、こういう「実」を「正直」と呼んでいる。どんな手紙を書いたか書いていないが、そこでは「実」の「こころ」が動くはずだ。
 そういうことを感じさせる。

三島の青のり緑いろ  木谷明

三島食品が品質に自信をもってお届けしてきた
すじ青のりを伝統の青いパッケージで作る事が
できなくなりました。国内産地での記録的な不漁が続いた為です。
陸上養殖をふくめ原料確保につとめていますが
しばらく時間がかかりそうです。
その間、今できる精一杯の
青のりを準備しました。
でも待っていてください。
必ず帰ってきますから。

と、じっと読んでしまう緑のパッケージの裏書き。


まるで花束をもらったときのような
やさしい気持ちをあなたに

これはトイレットペーパーの袋。


こんな世の中がいい

 実際に作者が見た(読んだ)ことばを引用し、そのあと、瞬間的に「見た(読んだ)」報告し、最後に感想を言う。このことばの関係を、行の空き(一行と二行をつかいわけている)で示す。これは、なかなか度胸のいることである。読者がわかってくれるかどうか、どこにも保障はない。
 でも、私は、それでいいのだと思う。こんなふうに書きたい、という「意思」のなかに詩がある。詩は、いつでも読者にとどくとは限らない。
 とどいたらいいなあ、くらいの気持ちがことばを自由にすると思う。

暁    青柳俊哉

光をむかえるために
空は赤く澄みわたって
稲妻に草の穂が明るむ
あざやかに鶏鳴が飛び立つ

空をうつす田の
薄い氷に新月がそそいでいる

地平線へ伸びる 
ひとすじの野の道
背を吹く風の灯

わたしは空と地に引かれ
広大な無限の弧となって
暁へ解放されるのか

 「あざやかに鶏鳴が飛び立つ、というのは実際に目撃した(体験した)ものですか」「季節はいつですか」という質問が受講生から出た。青柳は「鶏鳴を聞いただけ。ことばと季節の整合性は考えない」と答えた。ことばは現実をそのまま書いているのではない、ということになる。青柳の場合は、ことばの運動なのか、イメージの運動なのか、区別がつきにくい。もちろん区別をしなくてもいいものである。ことばとイメージが一体になって運動している。ただ、イメージの方が「視覚的」なので、印象が強いから、イメージが豊かな詩という感想が生まれるのだと思う。
 青柳は、こころ(精神、意識、頭)に浮かんだイメージこそが「ほんもの」、それをあらわすことばこそが「ほんもの」という世界を描いている。最初に読んだ徳永がつかっていることばで言えば「心の働き」。「心の働き」は「ことば」でしか表現できない。「ことばの働き」というかわりに、そのとき実際に動いたことばを書くと、詩が自然に、ことばのなかからあらわれてくると思う。
 この詩では、最終行の「のか」をめぐって意見が交わされた。「のか」と疑問にするのではなく、「解放される」で終わった方がいいのでは。疑問だと弱くなる、という意見である。私は「のか」という疑問は、単純な疑問ではなく、読者の「答え」を待っている「問いかけ」だと読んだ。「もちろん、解放されるだ」という答えを期待している。

 

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