詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇241)Obra, Joaquín Lloréns

2022-11-19 20:26:22 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns
Técnica hierro 88x18x18 Privada


 El trabajo de Joaquín es a veces muy rústico y sencillo. Esta pieza está formada por seis tablas de la misma forma unidas. Las seis tablas tienen extremos redondeados en los lados cortos de una forma trapezoidal. Sus lados cortos están orientados en diferentes direcciones, mientras que los lados largos están orientados hacia el centro. Apuntan alto, al tiempo que unifican sus intenciones. Me recuerdo a la fiesta española de Los castells. Una torre humana creada por hombres y mujeres de todas las edades. Sólo una o dos personas se encuentran en la cima, pero los corazones de todos están subiendo hacia la cima. Cuando la torre (o el castillo) está terminada, la gente corriente se felicita. Los sentimientos de todos se convierten en uno. Me puedo escuchar el sonido de la alegría en ese momento.


 Joaquinの作品は、ときどき、とても素朴でシンプルである。この作品は、同じ形の6 枚の板が組み合わされている。台形の短い辺の両端が丸い6枚。その短い辺は、それぞれの方向を向いているが、長辺は中心を向いている。意思を統一しながら、高さを目指している。それはスペインのお祭り、Los castellsを思い起こさせる。老若男女がつくりだす人間の塔。てっぺんにたつ人は、一人か二人だが、みんなの気持ちが頂点を目指してのぼっていく。塔(あるいは城か)が完成したとき、普通のひとが、普通のひとを祝福する。みんなの気持ちが一つになる。そのときの、喜びの声が聞こえてくる。

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五月女素夫『五月女素夫 詩選集』

2022-11-19 14:44:30 | 詩集

五月女素夫『五月女素夫 詩選集』(空とぶキリン社、2022年11月15日発行)

 五月女素夫。「詩学」に投稿していたのか、「現代詩手帖」に投稿していたのか、はっきりとは記憶していないが、どちらかの「投稿欄」にいっしょに投稿していた時代がある。その『詩選集』。
 巻頭に「恋」という詩。最初の詩集でも巻頭にあったのかどうか、憶えていない。しかし、この詩は五月女の詩のひとつの特徴をあらわしていると思う。

日本間の部屋の鏡台には
海がうつっている
廊下の ぼおっとくらい すみのほうで
こまかな鼠花火のひのこが舞う
それは狂躁の子供の わすれられた噴水だ
わたしの眸はどこもみていない はるかに
わたしの眸は なにもみない
花のない紫陽花の陰で 雷鳴がなっている
ゆうぐれの海をあがってくると
おまえから わたしの異国がはじまる

 「わたしの眸はどこもみていない はるかに/わたしの眸は なにもみない」という二行が非常に印象に残るが、ほんとうに「みていない」「みない」のか。
 たしかに、「海」を見ていない。見ているのは「鏡」のなかの海である。つまり、鏡は見るが、海は見ない。「鼠花火」は見たかと思ったら、「わすれられた噴水」によってかき消され、比喩の背後に消えていく。「見る」ことを拒んでいると言える。
 しかし、「花のない紫陽花」ということばに注目すれば、五月女が見ているのは「ない」としかいかない何かだとわかる。「ない」を見るのが五月女のことばの運動なのだ。それは、詩の最終行にもあらわれる。

おまえから わたしの異国がはじまる

 「異国」は、ここには「ない」。ここでは「ない」。だから「異国」なのだ。「ない」ものを存在させる、ことばによって出現させるのが詩である、ということか。
 逆に言えば、「見えない」ものを「見る」のが五月女のことばの動きである。
 「海沿いのみち」。

海沿いの 崖のうえへでるみちには
活きた海老をいれる水槽のある漁師組合と
ふるびた氷小屋
バラック建ての珈琲店がたっている
その夏の晩は
あらしふくみの晩で
あやういゆめにみちていた
人が、人をひめて 死地へ赴くようにも
すれちがうひとたちが 今宵
どうしておとなしいなみだを誘うのだろう
海は
あめまじりの天気だ
堤防に腰おろしていた娘がはなしかける
宿の二階 欄干のある窓から歓声があがる
対岸の妻良の港に 花火がうちあげられたのだ

 この作品で、いちばん「見えない」ものは「人が、人をひめて」ということばの、「ひめられた人」だろう。それは、姿か、こころか。肉眼では見えないものを、五月女は見るのである。
 だから引用した最後の行の「対岸の妻良の港に 花火がうちあげられた」の「花火」も、実は、堤防にいる五月女からは見えない。何かが邪魔している。しかし、宿の二階からは見える。その「歓声」が聞こえる。きっと花火を打ち上げるときの「音」も聞こえただろう。しかし、花火そのものは見えない。見えないの「ない」を意識するものだけが、「人が、人をひめて」いる、人のなかに、ひめられた人が「ある」をつかみとることができる。
 「ない」の反対の「ある」は、こんなふうにつかわれている。「道」という作品。

さびしい気持で見たゆめ
道というのは そんなふうにして
ある

 この「ある」は、ほんとうに「道」なのか。「さびしい気持」のように、私は感じてしまう。「気持」だから、それはあくまで五月女のこころのなかに「ある」。つまり、現実にはない。

雨がふり 午さがりの水銀灯がともろうとする
憶いの淵のようなところ
樹木は
雨にぬれて立っている

(略)

幾十年かまえの梅雨のころ
しろいうすいグレーのひとと ひかる雨のしたを
いちど 歩いた

ずいぶんと歩いてくれたこと--

これを話してしまったら
わたしには あとは話すことはなにもない
ちいさな雑木林に挟まれて 道はあった
肩にかかるこまかな葉は 息も止まりそうにしたたっていたろう
雨がふっている
家並みも変わり 樹木はもうないが
道は
その時間からずっとつづいて
ここへ 来ている

 最終連で「ない」と「ある」が交錯する。「ある」は「あった」にかわり、「ない」になる。そしてこの「ない」は「ここへ 来ている」という別の動詞、「来る」になってなまなましく動く。
 「ない」は「ある」。「ない」と「ある」をつなぐ動詞が「来る」なのだ。そのとき「ここ」とは「気持/憶い」である。私のことばで言い直せば「こころ」に「ここにない」ものが「来る」。そして、それが「ある」なる。「こころ」のなかに何かが「ある」とき、それは「こころ」へ「やって来た」なのだ。いつでも、何かがやって「来る」。それをことばにするとき、そこに詩が生まれる。

 

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇240)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-11-19 09:22:02 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes
"Abrir los ojos duele, pero en el Arte ese dolor es muy necesario".

 En mis palabras, el deseo de escribir chocó rápidamente con el deseo de que no debía escribir.
 Tal vez sea una obra sobre la que no debería escribir mis pensamientos. Por eso debo escribirlo.

 Lo primero que me sorprendió fue ver el pájaro completamente suspendido en el aire. No está en el mismo plano que la mujer que mira de reojo. Está justo delante del ojo derecho de la mujer. Y está completamente suspendido en el aire. La "tridimensionalidad" vacía del espacio se expresa de forma perfecta. Aquí hay un "objeto tridimensional llamado espacio".
 Aunque se trata de una obra de relieve semidimensional, aquí se expresa el espacio como un objeto tridimensional completo.
 Lo diré de otra manera.
 Resulta que estoy mirando a la mujer desde un lado. Así que no puedo ver la mitad del espacio tridimensional. Si cambio de posición, puedo ver un espacio "tridimensional" diferente desde la parte delantera de la mujer. Este "espacio como objeto tridimensional" por el que me puedo mover se reproduce aquí. El espacio vacío, el espacio invisible, no sólo es visible, sino que se transmite a todo el cuerpo. Esto no es algo ordinario.

 Sin embargo, atraído por el realismo de este "espacio", es el mundo de la alegoría en el que me adentro.
 El pájaro flota en el aire no sólo porque hay espacio en él. No es sólo el aire lo que sostiene al pájaro. No es sólo la flotabilidad causada por el batir de sus alas. El pico del pájaro. Empuja los párpados de la mujer para que se abran. También parece que atraviesa los globos oculares. El pico como punto de contacto entre la mujer y el pájaro mantiene al pájaro en el aire. Si el pico del pájaro no hubiera tocado a la mujer, el pájaro podría caer.

 ¿Qué está mirando la mujer en este momento? ¿Es el interior de la boca del pájaro? ¿O es el mundo más allá del pájaro? ¿Sintió la mujer miedo cuando se le abrieron los párpados? ¿No sintió que le iban a comer los ojos? ¿Qué le pide el pájaro a la mujer que vea? ¿Qué está tratando de mostrarle?
 No lo puedo saber.
 No lo sé, pero es algo que hay que ver. Y ver es perder los ojos, por ejemplo. Ver algo nuevo es perder el mundo que solías ver. En el momento en que ves algo nuevo, significa que el pájaro te ha sacado los ojos.
 La maravilla es.
 Los ojos de la mujer son sinceros. Son puros. Acepta el mundo tal y como es y lo que sucederá en el futuro, sin pensar. La suave curva que va del cuello a los hombros y de los hombros a la espalda me indica que su cuerpo no está tenso.
 ¿Puedo ver el mundo como ella?

  私のことばのなかで、早く書きたいという気持ちと、書いてはいけないという気持ちがぶつかり合った。
 感想を書いてはいけない作品なのかもしれない。書いてはいけないからこそ、書かなければならない。
 Belmonteは、こう書いている。"Abrir los ojos duele, pero en el Arte ese dolor es muy necesario"もう、それ以上言うことはない。
 でも、書きたい。

 私はまず、鳥が完全に宙に浮いていることに驚いた。横を向いた女と同じ平面にはいない。女の右目の正面にいる。そして、完全に宙に浮いている。空間という何もない「立体」が、完璧な形で表現されている。ここには「空間という立体」がある。
 レリーフという半立体の作品なのに、完全な立体としての空間がここに表現されている。
 言い方を変える。
 私は偶然、女を真横から見ている。だから立体の半分は見えない。もし私が位置を変えれば、女の正面から見れば違った「立体」が見える。そういう、私が移動可能な「立体としての空間」がここには再現されている。女と鳥よりも、その何もない空間、見えない空間が見えるだけではなく、肉体全体につたわってくる。これは、ただごとではない。

 この「空間」のリアリズムにひきずられて、しかし、私が踏み込むのは寓意の世界である。
 鳥が宙に浮いているのは、そこに空間があるからだけではない。鳥を支えているのは、空気だけではない。羽ばたきが引き起こす浮力だけではない。鳥の嘴。それは女の瞼を押し開いている。眼球に突き刺さっているようにも見える。女と鳥の接点としての嘴が鳥を宙に浮かせている。もし鳥の嘴が女に触れていなければ、鳥は落下するかもしれない。
 このとき女は何を見ているだろうか。鳥の口の中だろうか。それとも、鳥の向こう側にある世界だろうか。瞼を押し開かれたとき、女は恐怖を感じただろうか。眼球が食べられてしまうと感じなかっただろうか。鳥は、女に何を見ろと訴えているのか。何を見せようとしているか。
 わからない。
 わからないが、それは見なければならないものである。そして、その見るということは、たとえば自分の目を失うことでもある。新しい何かを見ることは、今まで見ていた世界を失うことだ。新しい何かが見えた瞬間、それは鳥に、目をえぐり取られたということになるのです。
 不思議なのは。
 女の目が、真摯であること。純粋であること。無心に、いまある世界、これからおきることを受け入れている。首から肩、肩から背中に書けてのなだらかなカーブは、女の肉体が緊張していないことを教えてくれる。
 私は、彼女のように、世界を見ることができるだろうか。

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