五月女素夫『五月女素夫 詩選集』(空とぶキリン社、2022年11月15日発行)
五月女素夫。「詩学」に投稿していたのか、「現代詩手帖」に投稿していたのか、はっきりとは記憶していないが、どちらかの「投稿欄」にいっしょに投稿していた時代がある。その『詩選集』。
巻頭に「恋」という詩。最初の詩集でも巻頭にあったのかどうか、憶えていない。しかし、この詩は五月女の詩のひとつの特徴をあらわしていると思う。
日本間の部屋の鏡台には
海がうつっている
廊下の ぼおっとくらい すみのほうで
こまかな鼠花火のひのこが舞う
それは狂躁の子供の わすれられた噴水だ
わたしの眸はどこもみていない はるかに
わたしの眸は なにもみない
花のない紫陽花の陰で 雷鳴がなっている
ゆうぐれの海をあがってくると
おまえから わたしの異国がはじまる
「わたしの眸はどこもみていない はるかに/わたしの眸は なにもみない」という二行が非常に印象に残るが、ほんとうに「みていない」「みない」のか。
たしかに、「海」を見ていない。見ているのは「鏡」のなかの海である。つまり、鏡は見るが、海は見ない。「鼠花火」は見たかと思ったら、「わすれられた噴水」によってかき消され、比喩の背後に消えていく。「見る」ことを拒んでいると言える。
しかし、「花のない紫陽花」ということばに注目すれば、五月女が見ているのは「ない」としかいかない何かだとわかる。「ない」を見るのが五月女のことばの運動なのだ。それは、詩の最終行にもあらわれる。
おまえから わたしの異国がはじまる
「異国」は、ここには「ない」。ここでは「ない」。だから「異国」なのだ。「ない」ものを存在させる、ことばによって出現させるのが詩である、ということか。
逆に言えば、「見えない」ものを「見る」のが五月女のことばの動きである。
「海沿いのみち」。
海沿いの 崖のうえへでるみちには
活きた海老をいれる水槽のある漁師組合と
ふるびた氷小屋
バラック建ての珈琲店がたっている
その夏の晩は
あらしふくみの晩で
あやういゆめにみちていた
人が、人をひめて 死地へ赴くようにも
すれちがうひとたちが 今宵
どうしておとなしいなみだを誘うのだろう
海は
あめまじりの天気だ
堤防に腰おろしていた娘がはなしかける
宿の二階 欄干のある窓から歓声があがる
対岸の妻良の港に 花火がうちあげられたのだ
この作品で、いちばん「見えない」ものは「人が、人をひめて」ということばの、「ひめられた人」だろう。それは、姿か、こころか。肉眼では見えないものを、五月女は見るのである。
だから引用した最後の行の「対岸の妻良の港に 花火がうちあげられた」の「花火」も、実は、堤防にいる五月女からは見えない。何かが邪魔している。しかし、宿の二階からは見える。その「歓声」が聞こえる。きっと花火を打ち上げるときの「音」も聞こえただろう。しかし、花火そのものは見えない。見えないの「ない」を意識するものだけが、「人が、人をひめて」いる、人のなかに、ひめられた人が「ある」をつかみとることができる。
「ない」の反対の「ある」は、こんなふうにつかわれている。「道」という作品。
さびしい気持で見たゆめ
道というのは そんなふうにして
ある
この「ある」は、ほんとうに「道」なのか。「さびしい気持」のように、私は感じてしまう。「気持」だから、それはあくまで五月女のこころのなかに「ある」。つまり、現実にはない。
雨がふり 午さがりの水銀灯がともろうとする
憶いの淵のようなところ
樹木は
雨にぬれて立っている
(略)
幾十年かまえの梅雨のころ
しろいうすいグレーのひとと ひかる雨のしたを
いちど 歩いた
ずいぶんと歩いてくれたこと--
これを話してしまったら
わたしには あとは話すことはなにもない
ちいさな雑木林に挟まれて 道はあった
肩にかかるこまかな葉は 息も止まりそうにしたたっていたろう
雨がふっている
家並みも変わり 樹木はもうないが
道は
その時間からずっとつづいて
ここへ 来ている
最終連で「ない」と「ある」が交錯する。「ある」は「あった」にかわり、「ない」になる。そしてこの「ない」は「ここへ 来ている」という別の動詞、「来る」になってなまなましく動く。
「ない」は「ある」。「ない」と「ある」をつなぐ動詞が「来る」なのだ。そのとき「ここ」とは「気持/憶い」である。私のことばで言い直せば「こころ」に「ここにない」ものが「来る」。そして、それが「ある」なる。「こころ」のなかに何かが「ある」とき、それは「こころ」へ「やって来た」なのだ。いつでも、何かがやって「来る」。それをことばにするとき、そこに詩が生まれる。
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