詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」から「利己主義について」

2022-11-27 20:13:17 | 考える日記

 

簡単そうで、なかなか書けないテーマ。読むのも、かなり難解なところがある。
三木清は、ときどき、数学で言う「虚数」のようなものを「仮説」として持ち出す。つまり、否定するための「径路」。論理を強固にするための「手段」。

①「利己主義」ということばを、どんなときにつかうか。だれに対してつかうか。だれかを「利己主義」と思ったことはあるか。だれかから「利己主義」と批判されたことはあるか。
②「利己主義」と批判したときと、「利己主義」と批判されたときでは、どちらがいやな気持ちがするか。
③「利己主義」に似たことばはなにか。「利己主義」の反対のことばはなにか。

このことを話し合った後、読解に進んだ。

第一段落の次の文章はなかなか難解である。

いったい誰が取らないでただ与えるばかりであり得るほど有徳あるいはむしろ有力であり得るだろうか。逆にいったい誰が与えないでただ取るばかりであり得るほど有力あるいはむしろ有徳であり得るであろうか。純粋な英雄主義が稀であるように、純粋な利己主義もまた稀である。

「英雄主義」の文章は理解できる。「取らないで与えるだけ=有徳・有力」。しかし、「利己主義」はどうか。「与えないで取るだけ=有力・有徳」。「与えないで取るだけ」は「力があるもの」なら可能だろう。しかし、それがどうして「有徳」なのか。この「有徳」が「虚数」のようなものなのである。現実には存在しない。しかし、本当に「有徳」なひとがいれば、彼は何も取らなくても、多くの人が彼のところになにかを与えようとするだろう。語弊があるかもしれないが、ほんとうに「神」がいれば、多くのひとは何も期待せず、ただ感謝の気持ちとしてなにかを「与える」だろう。「返し」を期待しないで、ただ「与える」ということがあり得るだろう。

注意しなければならないのは、三木清がここで「純粋な」ということばをつかっていることである。「純粋な英雄主義」「純粋な利己主義」。この「純粋な」は「絶対的な(論理的に正しい)」と言い換えることができるだろう。

ことば(想像力)が、したがって、このあと問題になる。想像力とは、構想力のことである。ことばをつかって、どんなふうに世界を描写するか。ことばは、それを否定するための「仮説」である。ことばを何が否定するか。倫理(道徳)=行為が、ことばを否定するというか、ことばを超越する。「道」が「ことば」を超越する。行為によって「超越」されるために「ことば」はある、と三木清は考えているかどうか知らないが、私は、そう読み取っている。もちろん、「日本語の読解」なので、こういうことまでは語らないが。

二段落目の次の文章も厳しい集中力を払わないといけない。

 我々の生活を支配しているギブ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合は意識しないでそれに従っている。言い換えると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
 利己主義者が不気味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それゆえにまた利己主義者を苦しめるのは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。

ここでは「意識(する)」が「意識的」「自意識」という具合に、少しずつ変わっていく。この「変化」を見落とすと、何が書いてあるかわからなくなる。

哲学は、あることばを別のことばで定義することと言い直せると思うが、このとき、ことばの「ずれ」「ずらし」というのは非常に微妙であり、ことばだけではなく「文体」に注意しつづけることが重要である。最初に引用した文章では「取る/与える」が「与える/取る」とことばの順序がかわると、それにつづく「有徳/有力」は「有力/有徳」と順序をかえている。そのことに気づくなら、その後に出てくることばに「純粋な」という形容動詞がついていることにも気がつくだろう。この「純粋な」は、実は、その前に存在する文章(省略した文章)にもつかわれている。つまり、三木は「純粋な」論理問題として、論を進めていることになる。

倫理と哲学は別の学問かもしれないが、三木清は倫理と哲学を接近させてことばを動かしている。それが、彼の文書をを難しくしているし、おもしろくもしている。この三木清の文章を「好き」「おもしろい」といえる18歳のイタリア人というのは、すごいなあ、と私は感心している。

写真は、きょうつかったテキストのメモ。

 

 

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草野早苗『祝祭明け』

2022-11-27 17:30:03 | 詩集

 

草野早苗『祝祭明け』(思潮社、2022年09月30日行)

 草野早苗『祝祭明け』は、どの詩も「文体」が安定している。ことばの「出所」をしっかりとつかんでいるという印象がある。こういう書き方は、あまりにも抽象的かもしれない。どう言い直すことができるか。
 たとえば「石段」。

港へ直進する大通り
古い石造りの建物にある
薄日の射す石の階段
断りもせず下から八番目に座る

 なぜ「下から八番目」なのか。理由は書いていない。あとで書くのかもしれないが、一連目を読んだときはわからない。しかし、この「下から八番目」には、何かしら草野の「意識」があることがわかる。明確な意思があるから「断りもせず」に座るのである。
 この明確な意思は、書き出しの「直進する」という、かなり硬い響きのことばにも反映している。何かを見極めている人間の視線を感じるが、この「下から八番目」にこめられている意思とは、どんなものなのか。

港の岸壁から海に下りる石段
使われているのかいないのか
海水が行き場を失って諦めたように石段の足を洗い
私はその少し上の段に座る

 このとき、その石段の「下から八番目」に座ったのではないのかもしれない。もしかするのと「上から八番目」かもしれない。海の中に沈んでいる石段の数を確認して「八番目」を選んだとはいえないだろう。そうだとすれば、その位置を決めるのはなんなのか。
 「少し上の段」と草野は書く。
 この「少し」が草野の思想なのだ。距離の取り方。「少し」何かから離れる。しかし、完全に離れるのではない。距離を意識している。それは、たとえば「水」との距離ではない。「使われているのかいないのか」という行に注目すれば、草野は「人との距離」を意識しているのである。
 ある建物の階段。それが何段あるか知らないが「下から八番目」。途中である。侵入ではない。しかし、無視でもない。接近である。近づきながら、何かを確かめているのかもしれない。相手を確かめるというよりも、自分を確かめるのだろう。
 どういうことか。
 「告知」という詩が、巻頭にある。天使・ガブリエルがマリアに近づく。

告知方法その1
思い切って扉を開けて
蒼ざめた顔で座っている乙女に告げる
「あなたの体に神の子が宿っておられます」
懐に隠し持ってきた白百合を差し出し
聖母となる人に敬意を見せる
乙女は驚愕のうちに思わず花に手を伸ばすが
受け取る指がおぼつかない
どこかで鐘が鳴っている

告知方法その2
思い切って扉を開けて
蒼ざめた顔で座っている乙女に告げる
「あなたの体に神の子が宿っておられます」
両手を胸の上で交差する
それは乙女への深い思いやり
乙女は驚愕と不安を抱えつつ
謙虚に両手を胸の上で交差する
どこかで仔羊が鳴いている

 フラ・アンジェリコに託して書いた詩だが「敬意を見せる」「深い思いやり」ということばが、草野の「距離の取り方」なのである。この「敬意」と「思いやり」が草野のことばの「暴走」を抑制している。
 ガブリエルのしていることは、善でも悪でもなく、ひとつの「事実」(真実)である。真実であるけれど、やはりひとにそれを告げるとき、そこには「敬意/思いやり」のようなものが必要である。そのとき、そこに生まれる「距離」が、人間関係を支えているのである。草野には、そういう認識があると思う。
 この「告知」で繰り返される「どこかで」ということばは何気ないことばだが、やはり草野の思想をしっかりとあらわしている。「距離」(あるいは方向)が特定できない。けれど、「存在」は確実に「存在する」。それを信じることができる。だから「距離」も置くことができる。いま、それに直に触れていなければならないのではない。信じていれば触れることができる。けれど、触れるためには常に「ある距離」を保つようにして、それに近づいていなければならない。
 「湖」には、静かな一行がある。

いつか私を迎えに来てくれるといいのだけれど

 これは不安、願いというよりも、「いつか私を迎えに来てくれる」ものがいると確信していることば、ひとつの安らぎのことばである。それを待つために、草野は「距離」を守るのである。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇245)Obra, Javier Aranguren Ispizua

2022-11-27 16:11:48 | estoy loco por espana

Obra, Javier Aranguren Ispizua


¿Es la forma o el color lo que mira este pintor, Javier?
Creo que está mirando la "estructura".
Todos los edificios tienen alguna estructura común.
Esto también podría decirse de los seres humanos. La estructura de la inteligencia. La inteligencia humana tiene una estructura.
La estructura de la inteligencia humana se refleja en la arquitectura. Es la estructura del intelecto humano la que sustenta la arquitectura. La arquitectura se reconstruye en un cuadro. En ese momento, la "estructura del intelecto/estructura de la sensibilidad" de los seres humanos debe reflejarse allí.
Manhattan reflejada en el agua. La luz del crepúsculo. ¿El círculo que flota entre los edificios es la luna?
El hecho de que la luz y la luna estén integradas en el cuadro se debe probablemente a que su idea de "estructura" incluye el universo.


この画家が見ているのは、形だろうか色だろうか。
「構造」を見ている気がする。
どの建物にも、何か共通する構造がある。
それは人間についてもいえるかもしれない。「知性」の構造。人間の知性には、「構造」がある。それをたとえば「建築」が再現するのだとすれば、それを絵画に再構成するとき、そこには人間の「知性の構造/感性の構造」が反映されるに違いない。
水に映ったマンハッタン。夕暮れの光。ビルの中に浮かんだ円は月か。
光や月が絵の中に溶け込んでいるのは、かれの考える「構造」というものが宇宙をも含んでいるからだろう。

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