詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇235)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-11-13 22:38:39 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
Serie " Entelequias" mixta Allá por los noventa

  Cada persona tiene su propia "perspectiva".
 La educación escolar trata de corregir y ajustar esta "perspectiva personal". Enseña a captar racionalmente el tamaño de la existencia y la distancia entre los seres dentro de un único "campo de visión" e intenta establecer reglas para la relación entre "visión" y "percepción"
 El artista tiene la prerrogativa de romper estas reglas y establecer su propia "perspectiva" personal.
 Jesús superpone y conecta repetidamente múltiples cosas. Yo lo llamaba "perspectiva de la memoria". También podría llamarse "perspectiva del tiempo". Recordamos tiempos lejanos (recuerdos) en el mismo momento. Se superponen o coexisten. Esta es la característica estructural de las pinturas de Jesús.
 Utiliza el negro como "pegamento". Este negro puede parecer verdaderamente negro en algunas zonas, pero también puede aparecer como un negro que se oculta secretamente en todos los colores. (Todos los colores parecen tener un poco de negro).
 Al ver este negro, de repente me siento tentado a llamarlo "perspectiva secreta". Entre lo pintado y lo representado por el color negro hay algo que no se puede pintar. No es un "secreto de Jesús", quiero llmarlo que es un "secreto  caído del cielo", un "secreto como revelación".
 Puede ser una especie de "pausa" repentina en la música. Una "pausa" en la melodía. ¿Pero no hay "sonido" en el pausa? Tal vez haya una especie de premonición del momento en que nazca un sonido puro, que no puede expresarse en sonido conocido.
 En la parte negra tiene un "secreto absoluto" que ni siquiera Jesús puede entender. Un "secreto" que hace que el color exista, o más bien un "secreto" para la creación de nuevos colores. Esto es lo que da a Jesús un extraño sentido de la perspectiva en sus cuadros. Me siento algo más allá de la conciencia individual de la "memoria". No sé si es correcto llamarlo "secreto", pero es un "secreto" en el sentido de que nadie puede saberlo.
 Hay un "secreto" en la obra de Jesús que sólo la pintura puede conocer.
 (Lo que escribo es ilógico, pero creo que hay cosas en el mundo que no se pueden escribir en lenguaje lógico. Hay "secretos" que no se pueden escribir en el lenguaje que nos enseñan en la escuela").

 ひとはだれでも独自の「遠近法」を持っている。
 学校教育は、この「遠近法」を修正し、整えようとする。存在の大きさ、存在と存在との距離を、ひとつの「視界」のなかで合理的に把握する方法を教え、「視覚」と「認識」の関係をルール化しようとする。
 このルールを破壊し、自分だけの「遠近法」を確立するのは、芸術家の特権だ。
 Jesus は、重ねる、つなげるを繰り返す。しかも、そこには異質なものがまじりこむ。私はこれまで、それを「記憶の遠近法」と呼んでいた。「時間の遠近法」と呼んでもいい。かけ離れた時間(記憶)を、同じ瞬間に、思い出してしまう。それを重ね、あるいは併存させている。そこにJesus の絵の構造的特徴がある。
 その「接着剤」として黒をつかっている。この黒は、本当に黒く見える部分もあるが、どの色にもひそかに隠された黒としてあらわれることもある。(どの色にも、黒が少し含まれているように見える。)
 その黒を見ていて、私は、突然、それを「秘密の遠近法」と名づけてみたくなった。何か、描くことのできないものが、描かれたものとものとの間にあって、それを黒い色で表している。それは「Jesus の秘密」というよりも、「天」から降ってきたような「秘密」、「天啓としての秘密」である。
 音楽のなかの、突然の「休止」のようなものかもしれない。メロディーのなかの「休止」。しかし、そのなかに「音」はないのか。もしかすると、音では表現できない純粋な音が生まれてくる瞬間の予感のようなものがあるかもしれない。
 黒い部分にはそれはJesus にも理解できない「絶対的な秘密」がある。色を存在させる「秘密」というか、新しい色を生み出すための「秘密」。それがJesus に絵に不思議な遠近感を生み出している。「記憶」という個人の意識を超えるものを感じた。それを「秘密」と呼ぶのが正しいことかどうかわからないが、だれも知ることができないという意味での「秘密」である。
 絵というものだけが知っている「秘密」が、Jesus の作品の中にある。
 (私の書いていることは、非論理的なことだが、世界には論理的なことばでは書けないこともあるのだと思う。学校で教えてくれることばでは、書けない「秘密」がある。)

 

 

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三木清「人生論ノート」の「瞑想について」

2022-11-13 21:03:41 | 考える日記

三木清講読。「瞑想について」。
この文章は非常に難しい。ふつう、人が考えるような「瞑想」とは違うことを考えている。
瞑想というと、こころを落ち着かせる( 安定させる) を想像するが、三木清は「思索」「思想」「瞑想」を比較している。
いきなり読んでも、つまずくばかりなので、最初に雑談をした。
「瞑想したことがある? 」
「ない」
「じゃあ、1 分、瞑想してみようか」
ということろから、はじめた。

「瞑想できた? 」
「できない」
「どうやっていた? 」
「目をつむっていた」
「何か考えた? 」
「いろいろ、1 分たったらタイマーが鳴ると言うので、いつ鳴るかなとか考えた」
「そういうのを、雑念というのだけれど、瞑想ってむずかしいね」「どうしても何か考える」
「どうやって、考えた? 」
「えっ」
「何をつかって考えた?」
「頭をつかって」
「うーん、たとえばピカソは絵の具をつかって絵を描く。モーツァルトは?」
「ピアノをつかって。音符をつかって」
「考えるときは?」
「ことばをつかって」

 そのあと、連想ゲーム。瞑想から思いつくことば、瞑想ということばが似合う人、似合わない人、いつ瞑想できるか、どんなふうにするか。どんな時瞑想できないか。
 どうも、瞑想は黙ったまま、静かな状態でするもの、ということがわかってくる。
 そして、その「静かな状態」というのは「黙って」するもの、ということを共通の認識としてもつことができた。
 最初にやった「瞑想」疑似体験から考えたことと重ね合わせると、瞑想は「ことば」とは縁がない、むしろ「無(心)」に近いということがわかる。そのイメージを共有して、三木清が「ことば」と「瞑想」「思索」「思想」をどう定義しているかに注目しながら読み進んだ。

 書き出しの「たとえば対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。」という文章の「対談」とはどういうことか。ことばをつかって、二人が話すこと。「黙り込む」とはどういうことか。ことばを話さないこと。「瞑想」は「黙り込むこと(沈黙)」と何か関係がある、ということになる。「黙り込む」のはなぜだろう。ことばが思い浮かばないからかもしれない。ことばをつかわずに、考えているのかもしれない……、という具合。
 二時間で、なんとか「読了」できたが、とてもむずかしかった。それは、結局、瞑想をしてみるという体験がないからだ。頭では瞑想ということばを知っているが、肉体で体験したことがない。そういうことは、考えることもむずかしいし、理解することもむずかしい。
 それがわかったのが、今回の「収穫」かもしれない。

 

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