萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」(「ガーネット」98、2022年11月発行)
詩を読んでいて、このことばは書いたひとは必要としていたんだろうなあ、ここに詩があると思って書いているだろうなあ、と感じてしまうのは、実は、私はそのことばがない方が詩だろうなあ、と思っているということである。
ちょっと意地の悪い紹介の仕方をする。
萩野なつみ「夏風琴」の一連目。
汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば僅かにゆがんで
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す
ある一行にあった「形容動詞」を削除してみた。何か足りないだろうか。たぶん、萩野以外は「足りない」と感じないと思う。
この一連目では、私は「僅かに」ということばにもつまずき、「僅かにゆがんで」でさらにつまずいたのだが。つまり、
汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す
の方が詩になるなあ、と感じている。ことばが多い。萩野の作品に対する評価は、たぶん「触れれば僅かにゆがんで」という行の「僅かにゆがんで」という繊細な感覚、それをことばに定着させる力に対するものだと思う。そう理解した上でいうのだが、私は、そうした「繊細な感覚(あるいは修辞)」のあり方を、とても「古い」と感じてしまう。この「古い」というのは「定型」ということである。
この「定型」というのは、とても難しくて……。
萩野の年齢を私は知らないのだが、たぶん、萩野にとっては「古い定型」ではないのだ。私のような年齢には「古い定型」であるけれど。言い直すと、私が詩を書き始めたころ、萩野のつかっている「繊細さをあらわす修辞」というのはたくさん「共有」されていた。確立されていて、だれもが安心してつかっていた。そのことばを書けば「詩」になる、という感じ。それが「世代交代」でいったん失われた。その失われた「定型」を萩野は復活させたのかどうか、そのあたりの評価の感じは人によって違うだろうが、私は「復活させた」とも感じない。「古いまま」だから。「復活させる」ときは、何らかの「改良」が必要だと思うが、「改良」を感じることができないのである。
「僅かにゆがんで」に、何か、新しいものがあるだろうか。「僅かに」という漢字のつかい方なんか、私は「明治」を感じてしまう。私の知っている「定型」よりもさらに古い、と。明治の詩を読んだことはないが。
最初の引用には、最初に書いたように、さらにもうひとつ「形容動詞」があった。どこに、どんな形容動詞があったと思いますか? 想像できますか? 「僅かにゆがんで」は、まだ、つまずいただけだったが、その「形容動詞」には、私はちょっと我慢できないものを感じた。それで、省略したのだが。
江夏名枝「澱と微風」は、とてもおもしろい詩だとおもった。でも、ある一行が、その詩を壊していると感じた。だから、その一行を省略して引用する。
それが、なにものでもなかったから
わたしは信じる
紫に痩せた蔓のようなもの、
着床する顔のない球根のようなもの、
屋根裏への粗末な梯子、
なにものにでもなく、それは
すいかずら、それは昼下がりに匿われる
眼の痛み
葉が染まり衰える光の砂
視覚の痛み、
私が信じられる
そこにはいない、
それが、なにものでもなかったから
世界には「なにものでもないもの」は存在しないが、そこにあるものを「なにでもないもの」と定義したくなるときがある。それは、つまり「意味」になっていない「もの」そのものである。ここでは、たとえば「すいかずら」の「痩せた蔓」かもしれない。このときの「意味になっていないもの」とは「役に立たないもの」と言い直すことができる。「無意味(役に立たない/意味を生み出さない=はやりのことばでいえば「生産性を持たない)」が、「わたし」という存在に対して、それでは「わたしとは、どういう意味なのか、何の役に立つのか」という問いをつきつけ、「わたし」を解体しようとする。その瞬間に、「わたし」は「わたし」に気づく。その「気づき」を「信じる」ということばの運動だと思って私は読んだ。
で、そう読むと、どうしても「邪魔」な一行があったのだ。そこには「意味」しかなかった。いや、ちゃんと前半にそのことばの「伏線」があると江夏はいうかもしれない。しかし、その「伏線」は、私には「技巧」にしか感じられない、とてもいやなことばの運動だった。だからこそ、よけいに、その一行を削除したくなったのだ。
私が一行を削除したため、ことばの運動は、その前後で不安定になっているのだが、この不安定は詩を活性化させているかもしれない。詩は、論理がつかみにくいとき、あれ、これはどういうことかな、とことばを刺戟してくることがある。そのとき、わけのわからないものが動き始める。動き始めたら、それが「詩」なのだと、私は信じている。
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