詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」

2022-11-17 18:33:24 | 詩(雑誌・同人誌)

萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」(「ガーネット」98、2022年11月発行)

 詩を読んでいて、このことばは書いたひとは必要としていたんだろうなあ、ここに詩があると思って書いているだろうなあ、と感じてしまうのは、実は、私はそのことばがない方が詩だろうなあ、と思っているということである。
 ちょっと意地の悪い紹介の仕方をする。
 萩野なつみ「夏風琴」の一連目。

汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば僅かにゆがんで
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す

 ある一行にあった「形容動詞」を削除してみた。何か足りないだろうか。たぶん、萩野以外は「足りない」と感じないと思う。
 この一連目では、私は「僅かに」ということばにもつまずき、「僅かにゆがんで」でさらにつまずいたのだが。つまり、

汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す

 の方が詩になるなあ、と感じている。ことばが多い。萩野の作品に対する評価は、たぶん「触れれば僅かにゆがんで」という行の「僅かにゆがんで」という繊細な感覚、それをことばに定着させる力に対するものだと思う。そう理解した上でいうのだが、私は、そうした「繊細な感覚(あるいは修辞)」のあり方を、とても「古い」と感じてしまう。この「古い」というのは「定型」ということである。
 この「定型」というのは、とても難しくて……。
 萩野の年齢を私は知らないのだが、たぶん、萩野にとっては「古い定型」ではないのだ。私のような年齢には「古い定型」であるけれど。言い直すと、私が詩を書き始めたころ、萩野のつかっている「繊細さをあらわす修辞」というのはたくさん「共有」されていた。確立されていて、だれもが安心してつかっていた。そのことばを書けば「詩」になる、という感じ。それが「世代交代」でいったん失われた。その失われた「定型」を萩野は復活させたのかどうか、そのあたりの評価の感じは人によって違うだろうが、私は「復活させた」とも感じない。「古いまま」だから。「復活させる」ときは、何らかの「改良」が必要だと思うが、「改良」を感じることができないのである。
 「僅かにゆがんで」に、何か、新しいものがあるだろうか。「僅かに」という漢字のつかい方なんか、私は「明治」を感じてしまう。私の知っている「定型」よりもさらに古い、と。明治の詩を読んだことはないが。
 最初の引用には、最初に書いたように、さらにもうひとつ「形容動詞」があった。どこに、どんな形容動詞があったと思いますか? 想像できますか? 「僅かにゆがんで」は、まだ、つまずいただけだったが、その「形容動詞」には、私はちょっと我慢できないものを感じた。それで、省略したのだが。

 江夏名枝「澱と微風」は、とてもおもしろい詩だとおもった。でも、ある一行が、その詩を壊していると感じた。だから、その一行を省略して引用する。

それが、なにものでもなかったから
わたしは信じる
紫に痩せた蔓のようなもの、
着床する顔のない球根のようなもの、
屋根裏への粗末な梯子、
なにものにでもなく、それは
すいかずら、それは昼下がりに匿われる
眼の痛み
葉が染まり衰える光の砂
視覚の痛み、
私が信じられる
そこにはいない、
それが、なにものでもなかったから

 世界には「なにものでもないもの」は存在しないが、そこにあるものを「なにでもないもの」と定義したくなるときがある。それは、つまり「意味」になっていない「もの」そのものである。ここでは、たとえば「すいかずら」の「痩せた蔓」かもしれない。このときの「意味になっていないもの」とは「役に立たないもの」と言い直すことができる。「無意味(役に立たない/意味を生み出さない=はやりのことばでいえば「生産性を持たない)」が、「わたし」という存在に対して、それでは「わたしとは、どういう意味なのか、何の役に立つのか」という問いをつきつけ、「わたし」を解体しようとする。その瞬間に、「わたし」は「わたし」に気づく。その「気づき」を「信じる」ということばの運動だと思って私は読んだ。
 で、そう読むと、どうしても「邪魔」な一行があったのだ。そこには「意味」しかなかった。いや、ちゃんと前半にそのことばの「伏線」があると江夏はいうかもしれない。しかし、その「伏線」は、私には「技巧」にしか感じられない、とてもいやなことばの運動だった。だからこそ、よけいに、その一行を削除したくなったのだ。
 私が一行を削除したため、ことばの運動は、その前後で不安定になっているのだが、この不安定は詩を活性化させているかもしれない。詩は、論理がつかみにくいとき、あれ、これはどういうことかな、とことばを刺戟してくることがある。そのとき、わけのわからないものが動き始める。動き始めたら、それが「詩」なのだと、私は信じている。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇239)Obra, Joaquín Lloréns

2022-11-17 10:18:09 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
Técnica hierro óxido T. Entre dos Marés. (Paco de Lucía homenaje)


 Una palabra tiene un significado distinto al de su propia palabra. Una cosa tiene un significado distinto al propio suyo. Una palabra se definen por otras palabras, y una cosas refuerza su significado por otras cosas.
 El amor se describe con la palabra beso. El amor se describe con los dedos tocando los secretos del cuerpo. El amor se refuerza con una profunda conexión física. Los besos hablan de amor, las caricias hablan de amor, el sexo también habla de amor.
 Es una ola.Una ola tiene otro significado que una onda. Una forma de una onda tiene un significado distinto al de la onda; se define con palabras y formas distintas a la onda. 
 Dos olas que se acercan, se superponen lentamente, suben y bajan, repitiendo lo mismo una y otra vez. Por su danza, su ritmo, se convierte en una gran ola. Tocándose, superponiéndose, el amor se intensifica, y se enfada, preguntándose a otra ola: por qué no te entiendes cuando te quiero tanto. Más, más, más. Ámame hasta que deje de ser yo, estoy aquí, estoy aquí, mi corazón está gritando. Estoy gritando tanto que ahora sólo puedo escuchar mis propios gritos.
 Así es como el amor se consume, se quema y llega a la calma matutina. Al ver el cambio, todos conocen la fuerza del amor de la ola, pero la ola ésta sigue pensando que debe haber un amor real, y empieza a hincharse tranquilamente.

 ことばには、ことば以外の意味がある。ものには、もの以外の意味がある。ことばは、そのことば以外のことばによって定義され、ものは、そのもの以外のものによって意味を強める。愛はキスということばで語られる。愛は体の秘密に触れる指によって説明される。愛は肉体の深いつながりによって強くなる。キスは愛を語り、愛撫する指は愛を語り、セックスもまた愛を語る。それは波。波には、波以外の意味がある。波の形には,波の形以外の意味がある。波とその形は、波以外のことばと形によって定義される。波の形は近づいたふたつの波はおずおずと触れ合い、ゆっくり重なり、高く盛り上がり、くずれ、何度も同じことを繰り返す。そのダンス、そのリズムによって、波になる。触れ合い、重なり合い、愛は激しくなり、こんなに愛しているのになぜわかってくれないのか、と怒り出す。もっと、もっと、もっと。私が私でなくなるまで愛して、私はここにいる、私はここにいると、こころが叫んでいる。もう、自分の叫びしか聞こえないくらいに、私は叫んでいる。そうやって愛は燃え上がり、燃え尽き、静かな朝の凪を迎える。その変化を見ながら、だれもが波の愛の強さを知るのだが、波はまだほんとうの愛があるはずだと思い、静かにうねりだす。

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