詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

竹中優子『冬が終わるとき』

2022-11-08 22:07:05 | 詩集

竹中優子『冬が終わるとき』(思潮社、2022年10月31日発行)

 詩のなかの、どのことばを好きになるか。これは人によって違うのだが、私は、どうも私の好みは他の人とは随分違うだろうなあ、と最近思うようになった。竹中優子『冬が終わるとき』の「なぞる」という詩。

昼の十二時から夜の九時まで忠臣蔵が流れ続けている一月二日
父の友人たちが集まって同じ姿勢のまま酒を飲んでいる、時々チャンネルを
駅伝に変えて
会話は同じところをなぞる

 私は、この「なぞる」という動詞の使い方がとても好きだ。そうか、「なぞる」か、と何度も読み返してしまう。ふつうは何と言うか。たぶん「繰り返す」である。
 むかし、確かに正月に忠臣蔵を放送していた。私は時代劇が大嫌いだから、それがたまらなくいやだったことを思い出す。だいたい忠臣蔵なんて、みんな知っている。(私は知らないくせに、そう思っていた。)そんなものを何度も何度も見て、何かおもしろいんだろう。で、テレビを見ているおとなたちもストーリーは知っているから、ときどき箱根駅伝を見て、順位を確認して、また忠臣蔵にもどるという、テキトウな見方をしている。で、そのときの会話だが、代わり映えがしない。「やっぱり、まだ〇〇がトップか」というのか、「忠臣蔵は長いなあ」というのか、知らない。あるいは、テレビなどそっちのけにして、そこにはいない「父の友人」の話を繰り返すのかもしれない。この「繰り返す」を「なぞる」という。どこが、違うのか。話している本人に「なぞる」という気持ちはあるのか、ないのか。わからないが、「なぞる」には、あえて、いままで話したことから「ずれない」(密着している)という感覚がある。「繰り返している」うちに、話が変わっていくのではなく、「なぞっている」ので話は変わらない。忠臣蔵のストーリーのように。
 なぜか。
 「なぞる」には「意識」だけではなく「肉体」が動いている。たいていの場合「手で、なぞる」。もちろん会話だから、「手」が入ってくることはないのだが、どこかに「手で、なぞる」という感じがして、この「手」の感じが生々しい。「繰り返す」にはない「肉体感覚」。これが、とっても好き。
 竹中は、父たちの会話を、単にことばの動きとして聞いているのではない。そこに「肉体がある」という感じで聞いている。きっと、このとき竹中には、話している内容ではなく、話している「声」で、それがだれの発言かわかっただろう。これは、あたりまえのことなのだけれど、このあたりまえを現実ではなく、詩(文学)のなかで把握するのは難しい。「同じところをなぞる」のは「同じ声」なのだ。ほかの人の「声」はほかの人の「声」でほかの「同じところをなぞる」。それが、顔を見なくてもわかる。

会話は同じところをなぞる
兄と私は硬貨を並べて遊ぶ

 お年玉の硬貨か。まあ、どうでもいいが、このとき竹中と兄は父たちの顔を見ていない。話だって、きちんとは聞いていない。しかし、「声」は識別できる。そして、それが「同じ声」が「同じところ」を「なぞる」のを、まるで、自分の肉体がなぞられているように感じる。で、ここから、変な「共感」のようなものが生まれる。「肉体の接触」(なぞる)は、意識を超えて、意識とは関係ない力で動くときがある。

電気屋を辞めてタクシー運転手になった友達の噂話になり、
(というのも電気屋をやっていた父の友人はみんな電気屋だったから)
退屈したのか
山ちゃんは私を外に連れ出すと
父の車に自分のトラックをぶつけはじめた
ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っていると
何しよるんと父と母と兄が後から外にやってきた

 ここにある「退屈したから」の「主語」は「やまちゃん」なのだが、竹中も「退屈している」。その「退屈」と「退屈」が、融合している。くっついている。区別がつかない。これは変な言い方だが、セックスのとき、自分の快楽と相手の快楽の区別がなくなるのに似ている。肉体の接触は、何か、そういう力を持っている。それが「なぞる」からつづいている。
 セックスが、何と言うか、肉体が一致してしまうと、とんでもないことをしてしまうように、ここでは「山ちゃん」が「父の車に自分のトラックをぶつけはじめた」。しかも「ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っている」。だが「ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っている」のはだれ? 山ちゃん? それとも竹中? わからないというか、二人で笑っているのかもしれない。この、どうすることもできない「逸脱」。それが「なぞる」という不思議なことばからはじまっている。「なぞる」がなければ、このふたりの「笑い」に共感できない。「なぞる」があるかとこそ、そういうことってある、と思ってしまう。
 この詩の最後。

父が死ぬことになったので
ずいぶん久しぶりに父の顔を見に行く、私は中年になっている
山ちゃんは どうしているの と聞いた
死んだんやろうか 父は笑った
白い布に包まれて
優子はお金を持ってるけ、すきなものねだりよと兄が子どもたちに語りか
けている

 ここで、私はまた「なぞる」を思い出すのである。「優子はお金を持ってるけ、すきなものねだりよ」は兄が、あにの子どもたちに言ったことばであるが、それはきっと兄の「オリジナル」ではない。兄は、だれかのことばを「なぞっている」のである。父のことばかもしれない。母のことばかもしれない。あるいは「山ちゃん」のことばかもしれない。「山ちゃん」はまさか「優子にねだれ」とは言っていないだろうが「〇〇はお金持っているから、ねだるとよい(〇〇は金を持っているから、おごらせろ)」というようなことを、父の友人たちが集まったとき言っていたのかもしれない。正月の「飲み会」はどうも竹中の父の家で開かれてゐらしいが、それは他の友人たちに比べて竹中の父が金持ちだったからかもしれない。
 なんとなく無意識に「肉体」にしみついて、それをなぞってしまうことばというものがある。それは、他人との間で「共有」される何かである。
 詩集のタイトルは『なぞる』の方がよかったかもしれない、と私は思う。その方が、何と言うか、不気味である。少なくとも、私は「なぞる」ということばの方に引っ張り込まれる。『冬が終わるとき』という、ちょっと「肉体」から遠いことばを読んだときは、なんだか詩集を読むのが面倒な気がした。でも、今は、もう一度読み返したい気持ちになっている。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇233)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-11-08 08:09:15 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes
"MARLEN"

 En cuanto ví esta obra, me acordé de pinturas como las de las ruinas egipcias. Siento una belleza clásica, una belleza estilística intemporal. Aunque se trata de una obra que acaba de finalizar.
 La tridimensionalidad de la cara, captada de lado, es maravillosa. En las pinturas egipcias, los contornos del rostro se pintan de lado y los ojos de frente, pero Belmonte ha hecho ambos de lado, con precisión. Es muy tranquilo, y no hay soltura en las formas. No hay exceso. Cada contorno  hay una sensación de velocidad en cada contorno. 
 Esa fuerza se corresponde perfectamente con la juventud de modelo y su fuerza vital de modelo. La potencia (energía) del cuerpo empuja hacia arriba los cuerpos (contornos) de la mujer y del perro desde el interior. Los contornos no envuelven el interior, sino que la vida que se mueve en el interior emerge como contornos. La fuerza viva interior está creando los contornos de su flema de carne.
 El espíritu de la mujer y del perro salen al mundo desde sus ojos firmemente abiertos. Ojos puros y sinceros. Son ojos que, una vez vistos, no me puedo olvidar. Esto es lo que convierte la obra de Belmonte en un nuevo clásico más allá de la pintura egipcia.

 この作品を見た瞬間、エジプトの遺跡にあるような絵画を思い出した。古典的な美しさ、時間を超える様式美を感じる。いま完成したばかりの作品なのに。
 真横からとらえた顔の立体感がすばらしい。エジプトの絵画では、顔の輪郭は横から、目は正面から描くが、Belmonteは、両方とも真横から、正確に表現する。とても静かで、形にゆるぎがない。余分がない。どの輪郭(?)にもスピード感がある。一気に対象を把握して、離さない力がある。
 その強さは、モデルの若さ、生きている力とぴったり一致する。肉体の持っている力(エネルギー)が、女性と犬の肉体(輪郭)を、内側から押し上げている。輪郭が内部を包むのではなく、内部で動いている命が輪郭となって出現してきている。
 しっかり開かれた目からは、女性の精神、犬の精神が世界に向かって噴出している。純粋で、真摯な目。この目は一度見たら忘れることのできない目だ。これがBelmonteの作品を、エジプトの絵画を超える新しい古典にしている。
 esta obra, me acordé de pinturas como las de las ruinas egipcias. Siento una belleza clásica, una belleza estilística intemporal. Aunque se trata de una obra que acaba de finalizar.
 La tridimensionalidad de la cara, captada de lado, es maravillosa. En las pinturas egipcias, los contornos del rostro se pintan de lado y los ojos de frente, pero Belmonte ha hecho ambos de lado, con precisión. Es muy tranquilo, y no hay soltura en las formas. No hay exceso. Cada contorno  hay una sensación de velocidad en cada contorno. 
 Esa fuerza se corresponde perfectamente con la juventud de modelo y su fuerza vital de modelo. La potencia (energía) del cuerpo empuja hacia arriba los cuerpos (contornos) de la mujer y del perro desde el interior. Los contornos no envuelven el interior, sino que la vida que se mueve en el interior emerge como contornos. La fuerza viva interior está creando los contornos de su flema de carne.
 El espíritu de la mujer y del perro salen al mundo desde sus ojos firmemente abiertos. Ojos puros y sinceros. Son ojos que, una vez vistos, no me puedo olvidar. Esto es lo que convierte la obra de Belmonte en un nuevo clásico más allá de la pintura egipcia.

 この作品を見た瞬間、エジプトの遺跡にあるような絵画を思い出した。古典的な美しさ、時間を超える様式美を感じる。いま完成したばかりの作品なのに。
 真横からとらえた顔の立体感がすばらしい。エジプトの絵画では、顔の輪郭は横から、目は正面から描くが、Belmonteは、両方とも真横から、正確に表現する。とても静かで、形にゆるぎがない。余分がない。どの輪郭(?)にもスピード感がある。一気に対象を把握して、離さない力がある。
 その強さは、モデルの若さ、生きている力とぴったり一致する。肉体の持っている力(エネルギー)が、女性と犬の肉体(輪郭)を、内側から押し上げている。輪郭が内部を包むのではなく、内部で動いている命が輪郭となって出現してきている。
 しっかり開かれた目からは、女性の精神、犬の精神が世界に向かって噴出している。純粋で、真摯な目。この目は一度見たら忘れることのできない目だ。これがBelmonteの作品を、エジプトの絵画を超える新しい古典にしている。

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