詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

まだ書かなければならないことが、

2014-12-24 01:29:06 | 
まだ書かなければならないことが、

まだ書かなければならないことが残っているが、
書き直すことにした。
冬の堀に裁判所への橋が逆さに映っている、という描写を消して
一本だけ残っているハスの実の影に。
水に映っている影ではなく、空中の弱い光のなかに立っている影に。

その人と私が見ているものは違っている。
わかっているが、違ったものを見ていると気づいたと書くのはもっと後にしたい。
もう少し同じものを見ていた、と書きたい。
「アシナガバチの巣のようだ」
どうして、ここで、そんなことばを言うのだろう。

何を考えているのかわからなくなったのはいつからだろう。
そこで立ち止まりたい。
背後に止まったバスから行き先を告げるテープの音が聞こえる。
聞こえただろうか、その人にも。
枯れた葉っぱの黒い影を水がゆすっている。




*

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高柳誠「叔父さんの鳥」、原満三寿「白骨の山手線」、吉野弘「噴水昂然」

2014-12-23 13:22:15 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
高柳誠「叔父さんの鳥」、原満三寿「白骨の山手線」、吉野弘「噴水昂然」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 高柳誠「叔父さんの鳥」(初出『月の裏側に住む』4月)は「文体」がしっかりしている。(『月の裏側に住む』については、別の詩を取り上げて感想を書いた。それと重なるかも知れないが……。)

ぼくの叔父さんは、頭のなかに鳥を飼っている。鳥のすが
たは、ぼくにはみえない。でも、叔父さんは、その鳥のこ
とを、ぼくだけにそっと教えてくれる。そう、ぼくと叔父
さんの、ふたりだけのひみつなのだ。

 この「文体がしっかりしている」という印象はどこからくるか。2行目の「その鳥のことを」の「その」からくる。この「その」は英語で言えば定冠詞「the 」である。「頭のなかに鳥を飼っている」の「鳥」の前には不定冠詞「a 」が省略されている。不定冠詞から定冠詞へと冠詞が変わっている。日本語には冠詞の意識がないので、「その」を「支持詞」と混同してしまうが(混同してもいいのだが、便宜上、そう書いておく)、この不定冠詞から定冠詞へ切り替わるときの「意識の持続性」(持続の印象)、これが高柳の「文体」の強さである。何を書いても現実から脱線しないという印象がここから生まれる。
 頭のなかに鳥を飼っている--ということ自体、現実からは切断された世界である。いわば、寓話。脱線。れを現実と接続させてしまうのが、高柳の「意識の持続性(あるいは連続性)」である。
 寓話のなかに起きている「こと」を読ませるふりをして、寓話(ことば)を接続させつづける意識の連続性そのものを高柳は読ませている。
 頭のなかに鳥を飼っている--この非現実的なことを、どこまで現実として書きつづけることができるか。書きつづける「意思(意識)」のなかに、詩がある。
 これは、「その」を省略した文章を想像してみると、わかる。

叔父さんは、鳥のことを、ぼくだけにそっと教えてくれる。

 「その」がなくても、だれも、叔父さんの頭のなかに飼っている鳥以外の鳥を想像しない。「その」は、ない方がことばを速く読める。ない方が、日本語の「経済学」からいうと「合理的(経済的)」である。
 けれど、高柳は、「その」を書く。
 「その」を書くことによって、「事実」が「高柳の意識の事実」に変わっていくのである。
 この「その」は、前半部分に「その声」「その歌」とつづけざまに繰り返されている。繰り返されるたびに、「意識の持続性」が強くなる。つまり、そこに書かれていることが「事実」というよりも「意識」の色合いが強くなる。
 「意識」であるからこそ、最後には、「意識」がすべてをのみこんでしまう。「事実」があって「意識」があるのではなく、「意識」があって「事実」が書かれる。「ぼくの意識」が「叔父さんの事実」をおおってしまい、「ぼく」と「叔父さん」が入れ代わるということが起きてしまう。
 叔父さんは、最近、鳥の話をしない。

                       頭のな
かの鳥は死んでしまったのだろうか。ぼくにできることな
ら、かわりの鳥をさがしてきてあげたいのだが、どんな鳥
が叔父さんの気に入るかがわからない。ぼくは途方にくれ
て、ますます鳥のようにとがってきた叔父さんの頭を、そ
おっとなでるしかないのだ。むかし、よく、叔父さんがそ
うしてくれたように…。

 「意識」のなかで「主客」が入れ代わる、意識が「事実」を追い越してしまって、そのときに「物語」は完結する。そこまで意識は持続しつづける。



 原満三寿「白骨の山手線」(初出『白骨を生きる』)も「寓話性」が強い。山手線に乗っている。向かい側に座った男が、こちらを見ている。それは「窓に映った自分の姿かもしれない」。

 こらえきれなくなって漢を見やるとその顔は白骨だっ
た。眼窩は闇に深くとけこんで皮肉っぽく薄く笑って見つ
めかえしていた。見渡すと乗客はすべて白骨で白骨の指で
いじいじとスマホをのぞいたりたたいたりしていた。

 原の詩にも「その」は出てくる。これもまた「定冠詞」と言えるのだけれど、高柳の「その」ほど「意識の連続性」は強くない。とういより、原には「その」よりも強い「意識の連続性」がある。ことばの運動で持続をつくりだしていくのではなく、すでにある精神の存在が持続を主張して、ことばと現実を動かしていく。

 --白骨に仏性のありや無しや--

 禅の公案のような「意識」が、ことば全体を支配している。その「意識」によって、ことばの全体がととのえられている。それが原の詩を「寓話」ではないものにしている。
 逆に、禅の公案について思いめぐらす習慣のようなものがあるために、原の現実を、ふつうの人の現実とは違うものにしているともいえるかもしれないが。
 この詩が、わざとらしくない、清潔な感じがするのは、ことばが「禅(公案)」という絶対的な「意識」と向き合っているからかもしれない。「絶対的な意識」があって、それが「世界」を支えている(つくっている)という「哲学」が書かれているのかもしれない。これは原のことばの動かし方の「習慣」なのかもしれない。



 原満三寿「白骨の山手線」(初出「埼玉新聞」95年10月17日/『吉野弘全集 増補新版』4月)のことばも「意味」が強い。「意味」を考える意識によって世界そのものが提示される。ただし、吉野は「絶対的な意味」を求めない。むしろ、「意味」を相対化して、世界を活性化するという方法をとる。

ひたすら低い方へ地面を流れる水を見て
フランスの或る詩人が言いました。
<向上に反対するのが
水のモットーらしい>と。

しかし、噴水には
このモットーが当てはまりません
向上に賛成し、そのあと落下し
それを繰り返しているからです。

<君は、水のモットーに違反しているね>
と、私が噴水に言ったところ
噴水が昂然として、こう答えました。
<水が水蒸気に姿を変えて空に昇るのを
ご存知でしょう
一度、空に昇ったあと地上に降る水
向上と落下、二つの性質を合わせ持つ水
その形象化が噴水なのです
モットーだけでは
物の真相が見えません>

 このあとさらに「意味」は展開するのだが、「意味」というのは「方便」だからなんとでも言える。(と書いてしまうと、吉野の詩を否定することになってしまうかもしれないが……。)このなんとでも書けるところ、矛盾する「意味」で世界を切断し、接続するという「方便」が「世界の活性化」につながるのだけれど。
 その「意味」の変化よりも、私は、この詩では、

向上と落下、二つの性質を合わせ持つ水
その形象化が噴水なのです

 この2行に出てくることばに注目した。「二つ」と「形象化」。吉野は「世界」をひとつの視点でとらえない。常に複数(二つ)の視点で見つめ、相対化する。そして、その「二つ」を「ひとつ」の運動として描く。そうするといままでそこに存在しなかったものが「形象化」する。形のあるものに見えてくる。
 何が「形象化」された?
 「意識」が「形象化」されたのだと思う。「意味」が「形象化」されるのだと思う。日常的に見るもののなかに。
 逆に言うと日常的に見ることができるもの(水/噴水/雨)という形のあるものが、「意味」の運動として再確認される--それを「形象化」と言えるのかもしれない。吉野は、そういうことを、日常、人が話すことばをととのえる形で書いている。


月の裏側に住む
高柳 誠
書肆山田

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詩を書くために、

2014-12-23 01:20:07 | 
詩を書くために、

詩を書くために、
赤坂公園のまわりを新しい道から入ってきて
石垣の乱れを見ていると、どの石も六個の石と接していると気づく。
藪はサザンカを一本残して枯れている。

詩を詩らしくするためには
気づいたことは書かずに他人に語らせる
のがいいのだが、ことばの隣はぼんやりとつづく坂道の広さ。
右のマンションの窓はまだ明かりがついていない。

犬をつれた人が、ふたり
朝の私のように坂の上から坂の下へと歩いてくる。
夕刊のつづきを読むように新しい惣菜屋について話しながら。
まるで女のように。

詩を書くためには、
男のことばを捨てて女の呼吸を盗まなくてはならない、
と思ってみるが、これも男の考えに過ぎないか。
振り返ると犬が石垣の乱れに片足をあげている。



*

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安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」

2014-12-22 09:30:01 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安藤元雄「アリアドネの糸」、川口晴美「越えて」、高貝弘也「白雲母」(「現代詩手帖」2014年12月号)


 安藤元雄「アリアドネの糸」(初出「花椿」4月号)に「魂」ということばが出てくる。私は、自分から「魂」ということばをつかった記憶がない。「魂」というものを信じていないので、つかいにくいのである。他人が「魂」ということばをつかっているとき、何を指しているのかよくわからないのだが……。

乾いた道の上を
ちっぽけな一つの魂が
どこまでもころげて行く
吹く風に押され
追いやられるままに
よろめいて行く

ころげながら 魂は
少しずつほどけて
ひとすじの糸を
あとへ残す
あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を
手つかずに保ったまま

 安藤は「魂」をギリシャ神話を踏まえて「アリアドネの糸」(迷宮から脱出するための手がかり、頼みの手段)の「塊(毛糸をまるく固めたボールのようなもの)」と「比喩」にしている。
 一瞬「魂」と「塊」の区別がつかなくなり、私は思わず辞書を引いて「漢字」を確かめてしまった。安藤が「塊」という文字に触発されて「魂」を「糸の塊」と思ったのかどうかわからないが、私は詩を転写しながら、一瞬混乱した。
 その混乱のなかにあらわれてくる、2連目の「あれほど泣いたり笑ったりした痕跡を/手つかずに保ったまま」が、非常に印象に残る。私は、その「痕跡」をたとえばセーターをほどいたあとの毛糸の「乱れ」のように思い浮かべた。編むことでできる複雑なねじれ、その痕跡。毛糸のボールは、その痕跡をのばすために丸められるのだろうけれど、丸めたりのばしたりしても、まだ残っているねじれ。消えない何か。
 その「ねじれ(痕跡)」が「魂」というのなら、それは、「わかるなあ」と感じた。
 これは私の「誤読」なのだが。
 私は「魂」というものを見たことがないし、信じていないが、一度編まれたセーターをほどいたときの毛糸に残っている「ねじれ(痕跡)」が「魂」というもの「比喩」なら、その「比喩」はわかる、知っている、と感じた。
 それは、毛糸を見た記憶、そのまえのセーターを見た記憶、そのねじれ(痕跡)にさわった手の記憶である。--私は、「魂」は「肉眼」や「手」なのだと思いながら、安藤の詩を読もうとした。
 けれど、4連目。

そう しかしいずれ
糸は尽き果て
魂もそこに鎮まり
私は途方にくれるほかなくなりそうだ
こんな見知らぬ街の
四つ辻にただ立ち尽くして

 糸は尽きて、「魂」は「鎮ま」るのか。
 うーん、わからない。想像できない。私には、やはり「魂」というものが、わからない。安藤は私の知らないことを書いている、ということが「わかる」だけである。
 安藤がギリシャ神話と魂を結びつけていることも、「わからない」の理由かもしれない。私はギリシャ神話になじみがない。何かを考えるとき、ギリシャ神話を「比喩」にしようと思ったことがない。ことばの「習慣」が違うために、「わからない」が起きている。そういうことも、ふと考えた。



 川口晴美「越えて」(初出「風鐸」4、4月)は線をひく喜びを書いている。こどものとき、校庭に線をひいて、

線を引いていく最初と最後をぐるりつないだらほら大きな島だ
線の外側は海
やわらかい土のうえ歪な花のようにひらいたぼくたちの島に
たからものを隠して休み時間のあいだじゅう
おたがいを海に落っことそうと体をぶつけあった

 そのときの記憶、「体」が覚えていること(覚える、ときの体の何か)が、私には「魂」かなあ、と感じる。「肉体」のなかにしみ込んだ一続きの動き。線を引き、内側を島、外側を海と名づけること。名づけた瞬間に、そこに「海」が出現し、そこへ体をぶつけあった相手を突き落とそうとした、突き落とすという「こと」が「比喩」を通り越して、「肉体」には「海」が「現実」として出現した--そういう「ねじれ」。セーターを編んだときの毛糸に残る「ねじれ」。
 こういうことをていねいに書いていけることばはいいなあ、と思う。
 でも、

それで見上げたら頭上はるか飛行機雲が伸びていたりするんだ
あれはきっと空を切り開くためにしるされた線

 この「飛行機雲」の「比喩」には、私はついてゆけなかった。「飛行機雲」のあとにつづく「痛い」世界--それが川口の書きたいことかもしれないけれど、私は、ふいに何かを見失ってしまう。川口がわからなくなる。
 校庭の「線」は自分の「肉体」で引くことができる。私には校庭に線を引いた記憶がある。肉体が、そのときの土の硬さを覚えていたりする。けれど「飛行機雲」は自分の肉体で引いた線ではないので、それを島と海の区切り(校庭に切り開かれた何か)や何かのようには「実感」できない。
 「魂」は、どうも、私の「実感」とは遠いところにある。
 こんな読み方をしてしまうと、きっと川口の書きたいこととは関係なくなってしまうのだが、安藤の詩を読んだあとなので、そんなことを考えた。



 高貝弘也「白雲母」(「午前」5、4月)は、「肉体」で読む詩とは違う詩。安藤や川口の詩も「肉体」とは違うもので読んだらよかったのかもしれない。
 では、何で読むのか。

そうして水皺(みじわ)、
白雲母(しろうんも)



乳酪いろの、平石
子手鞠

 自分自身の「肉体」ではなく、「ことばの肉体」。「日本語の肉体」。「文学の肉体」の方がいいのかな? あることばが「書かれる」(つかわれる)。そのときの、そのことばの「場」の記憶。「水皺」ということばがつかわれるときの、「水」全体、あるいは、そのときの光、それを見つめる人間の思いが「ひとつの場」をつくる。その「言語空間」と呼吸する別の「言語空間」。その「呼吸」としての、「ことばの肉体」。それが高貝のことばを出現させている。
 こういう「抽象的」な言い方は、あまりよくないかもしれない。
 具体的ではないから、どうとでも言える。
 「感覚的」な論理であり、検証のしようがない。
 でも、まあ、強引に「検証」してみれば……。

うすい幼魚
白雲母と水の層のあいだで、

泣いている
泣いている

 「うすい」は「弱い」。だから「幼」ということばとなんとなく呼吸しあっているのがわかる。「うすい」は「白」にも重なり合う。「濃い」白というものもあるだろうけれど、ほかの色に比べると「白」は「うすい」。「雲母」自体も「うすい」層でできている。「水」が「雲母」のように、いくつもの「うすい」層でできていて、そこに「幼い(弱い)」魚がいる。そして、その魚は「泣いている」。「弱い」から「泣いている」。「強い」こども(幼い子)は泣かない。
 何かが「共通」する。「ことばの共通感覚」がある。
 で、これが次のように変化する。

--わたしは 死んでいるのか
  生とのあいだ 漂っているのか

性のない子が、
いっせいに 目を閉じて

 「うすい」(よわい)は「はっきりしない」。「あいだ」があいまい。川口の書いている詩のように「線」が明確ではない。「水の層のあいだ」が生と死の「あいだ」と通い合い、その「あいだ」そのものが「漂う」ようにも感じられる。
 「うすい」(はっきりしない)は「性のない子」(性の区別がない、はっきりしない子)になって、何かを見るのではなく、「目を閉じて」いる。明確な識別を避けている。
 という具合に、揺らぐ。
 この揺らぎの「呼吸」が高貝の「ことばの肉体」そのもの。

 --と、書いてきて、安藤元雄の詩は、「日本語の肉体」ではなく「外国語の肉体」から読み直せば、また違ったところへ感想が動いていくかもしれないとも思った。ギリシャ神話を含む「ヨーロッパのことばの肉体」から読み直せば「魂」も違って見えるかもしれない。

高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
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本のなかを、

2014-12-22 00:54:36 | 
本のなかを、

本のなかを走っている鉄道を八時間かけてたどりついた冬の朝、
ことばは、ホテルのベッドに横たわっている男を書きはじめる。
突然降りはじめた雨が窓の外側を流れている。
その向こうで葉を落とした梢が激しく揺れ、影が乱れた。
ことばは、音楽会に行くべきかどうか思案している男を書くべきかどうか迷っている。
男はまったく希望を持っていない--二度手術をしたあとの父のように。
そう書くのに音楽会と雨は似つかわしいのかどうか。

しかし、それはあしたの朝のことであって、いまは夜。
枕元のスタンドの黄色い光は、広げたノートのうえに鉛筆が小さな影をつくっている。
書こうとして書けないことの、




*

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深作欣二監督「仁義なき戦い」(★★★★★)

2014-12-21 13:34:52 | 映画
監督 深作欣二 出演 菅原文太、金子信雄、松方弘樹

 40年ぶり(?)に見た。あのときは年上の、一匹狼的なやくざに見えた菅原文太が、年下の純粋な男に見える。目が純粋だ。鯉の入れ墨を見せながらのセックスシーンは、うぶで、へたくそだ。最後の「弾はまだ残っている」という台詞がかっこいい。
 純粋、へたくそ、かっこいい--というのは、なんだかばらばらな感想だが、意外とそうではないのかもしれない。純粋だから(自分の気持ちしか考えていないから)、生き方がへたくそ(上手に相手をリードできない)、そしてそういうとき行為やことばに、抑えきれない激情があふれる。ほんとうは別なことがしたい。でも、いまはそうしないで、自分を抑制している。それは描かれることはない別の「事件」を予想させる。その予想を観客は生きる。妄想を予想(予感)のなかで暴走させ、カタルシスを自分の肉体のなかに抱え込む。
 そうすると。
 映画館を出るとき、まるで菅原文太になっている!
 何も「仁義なき戦い」だけがそうなのではなく、やくざ映画はたいていがそういうものなのだろうけれど。
 どこが、ほかのやくざ映画と違うのだろう。なぜ、40年前、夢中になり、いまもこの映画に夢中になるのか。
 映像が、特にはじまりの映像がドキュメンタリー風だからである。戦後の混乱した闇街(?)でちんぴらが暴れる。手持ちのカメラが、揺れながら、その動きを追う。この「カメラの演技」がすごい。まるで、その混乱のなかに引き込まれたような感じ。
 でも、これはあくまで「カメラの演技」。実際にその場にいたら、人間の視線はしっかり対象を見つめていて、ぶれることはない。走って逃げるとき、道路が(地平線)が揺れるわけではない。肉眼は揺れを自動修正してしまう。ところがカメラはこの自動修正がきかない。だから激しく揺れる。そんな「映像の揺れ」は肉眼(自分の目)では体験でできない。そのために、まるで、それを「他人の実感」として感じてしまう。映像を見ながら「他人」になってしまう。「他人になる」というより、「他人に乗っ取られる」といった方がいいかもしれない。「感情移入」するのではなく、役者の感情(感覚)が観客の感覚を乗っ取ってしまう。
 このとき菅原文太の純粋な目、透明な目の輝きが生きてくる。極道になりながら、自分は「純粋」だと信じることができる。純粋に友達のことを思い、やむにやまれず復讐する。それはう犯罪かもしれないが、そうしないことには自分の気持ち(純粋)を守れない。復讐しなければ、行為は「純粋」(無罪)でいられるかもしれないが、こころは「極道」になる。
 菅原文太は行動は「極道」でも、こころは「純粋」を守る。言ったことは実行する。「仁義」(親をいちばん大切にする)は守る。こころの「純粋」を貫けば貫くほど、周囲の「汚れ(精神の極道)」が次々に見えてくる。「ずるい」動きが見えてくる。
 この「ずるい動き」をカメラは「揺れず」、しっかりととらえる。カメラはそこでは演技をせずに、役者に演技をさせている。この対比もおもしろい。この対比が、映画に奥行きを与えているということがわかる。
 たとえば最初の殴り込みをかけようと相談しているとき、田中邦衛は、突然泣き出す。「女房が妊娠している。自分の身に何かがあったら、残される妻とこどもが心配だ」という。それを菅原文太は醒めた目で見ているが、そのときカメラは揺れない。あるいは、田中邦衛が松方弘樹の隠れているホテルを地図で示すとき、その示し方を見ながら菅原文太が気づく。警察に梅宮辰夫を売ったのは田中邦衛だと。このとき、カメラは揺れない。
 カメラが揺れる演技をするのは、あくまで「肉体」が激しく動いているときであって、こころは動いていない。こころは一途に思っていることを思いつづけている。カメラが静止しているとき、その映像のなかでは、こころが動いている。こころが何かを発見している。
 何度か、カメラが止まり、役者の動きも止まる瞬間がある。ある瞬間の断面が、流れる映像のまま固定され、字幕で人物が紹介される。あるいは、誰それが死んだ、ということが語られる。これは、いわば「客観的事実」。菅原文太の(あるいは、そこに登場している人物の)こころとは関係がない。その動かしがたい「事実」を途中途中にはさみこむことで、この映画は菅原文太のこころと行為を「主観」の強さのまま観客にぶつけてくる。
 「カメラの演技」を考え抜いた映画だ。カメラが演技する--ということを、この映画で私は初めて知ったのだと思う。いま、思い返すと。
              (2014年12月20日、「午前十時の映画祭」天神東宝6)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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三つ目の信号を、

2014-12-21 01:28:16 | 
三つ目の信号を、

三つ目の信号を、という文字の上に傍線を引き、交差点を三回渡ったときと書き直し、さらに横断歩道を三回渡ったと書き直そうとしたとき、

タンクローリーがクラクションを鳴らした。
交差点の東西南北が入れ代わりビルが脱皮する蛇のようになまめく。
裸のアメリカスズカケの梢がコンビニエンスストアの自動ドアのなかで逆立ちする。

三つ目の信号を、という文字の上に傍線を引き、交差点を三回渡ったときと書き直し、さらに横断歩道を三回渡ったと書き直そうとしたとき、

灰色のアスファルトの上にひかれた白い線の上に光が落ちてきて、
何のカギだろうか、複雑な輪郭をもった小さな金属を反射させた。その反射に誘われ、
角の花屋の黄色い花の色がすぐそばまでやってくる。
ことばは、その瞬間のカケラを書きたいと思う。

けれど、だれの目がそれを見たと書けばいいのだろう。そのあとにつづく惨劇を、だれに押しつければ、いちばん美しい空白ができるのだろう。歩いている人の足がとまり、まるい円を描くために集まってくる、その空白が。




*

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藤井優子「たがいちがいの空」、四方田犬彦「翼」ほか

2014-12-20 08:53:40 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤井優子「たがいちがいの空」、四方田犬彦「翼」、和合亮一「散髪雪達磨」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤井優子「たがいちがいの空」(初出『たがいちがいの空』3月)は不思議なエロチシズムがある。

声がした
ごく近いあたりで
閉てた襖の奥からでも
縁側の向こうからでもなかった

母の声ではなかったが それでも
わたしははっと鏡からおりた
--空遊びをしていたのだ
仰向けに置いた鏡に映る
冷たい空のうえを歩く
飛翔と墜落のひとり遊び
それを危ないと禁じた母は
ほんとうは
恍惚とした娘の顔を見たくなかったのだろう

 「空遊び(鏡遊び?)」の視覚、飛翔/墜落という矛盾した動きの「恍惚」。それと「声」の関係がおもしろい。
 1連目が「声」の特徴をよくあらわしている。「声」は「見えない」ところからも聞こえてくる。たてた襖、縁側の向こう側(縁側と部屋のあいだには障子があるかもしれない)、何かさえぎるものがあっても、そのさえぎるものを越えて聞こえてくる。視覚はさえぎるものがあると、そのさえぎるものしか見えない。「声」は障害物を越えて、肉体に入ってくる。
 この愉悦は、視覚の愉悦よりも強い。
 セックスは聴覚でするものかもしれない。たとえ、何かの理由があって、声を殺してセックスするときでも、互いに「殺した声」を「肉体」で聞きあっている。
 「声がした/ごく近いあたりで」は、この「肉体」で聞いてしまう「声」である。「母の声ではなかった」なら、藤井自身の肉体のなかの「声」だろう。
 自分で遊んでいるのに、自分で「禁じる」のは矛盾したことかもしれないが、それが矛盾だからこそ、そこに詩がある。矛盾は危険だが、危険だからこそ、詩がある。愉悦がある。

そういえばあの声は
おまえのせいだ と言ったのではなかったか

記憶のなかで時が微妙にくいちがい
たがいの言葉がすりかわってもぐり込む
そのどれもが真実になろうとして
もどかしく結末をさぐる

 「声(ことば)」はあらわれては消える。その「あらわれた瞬間」は「くいちがう」というよりも、「時系列」を無視して「いま」「ここ」とつながるのだと思う。「あらわれた瞬間」、それは「真実」になるのだが、それは「時間」のなかに定着させておくことはできない。だれが言ったことば(声)であろうと、聞いた瞬間、それは「肉体」のなかで自分のものにすりかわる。「だれかのもの」として固定化できない。いりみだれて、快楽/恍惚/エクスタシー(自分の外へでてしまうこと/自分が自分でなくなること)を求めて動いてしまう。
 自分の思う通りにならない、この「もどかしさ(うれしさ)」もセックスに似ているなあ。



 四方田犬彦「翼」(初出『わが煉獄』3月)はセルビアを旅したときのことを書いているのだと思う。「シュピタルはアルバニア人を軽蔑的に呼ぶ際のセルビア語」という注釈が詩のおわりについているので、勝手に想像するだけだが。
 その2連目。

フロントガラスの向こう側の暗闇から
雪片がひっきりなしに窓に固着し、
光に反射して 黄金に輝いている。
ひとしきり 眩暈のような紋様が現われてしまうと、
窓の向うは深い暗闇となった。
ときおり遠くの野原で 誰かが火を焚いている。

 バスのなかから見た風景。バスの「窓」の風景(情景)。それは何かの象徴だろうか。何かの「意味」を背負わされたことばだろうか。
 「意味」を背負わされているかもしれないが(「固着」という表現が「意味」を背負わされているという印象を強くするが)、「意味」とは無関係に「もの」にふれている感じがする。「もの」の感じが直接伝わってくる。余分な「意味」がない。それが美しくて、強い。
 そして3連目。

ぼくは翼のことを考えている。
翼はより高く飛ぶためにあるのではない。
翼は高みを見究めた後、
無事に着地をはたすために 与えられているのだ。
けれども そう信じてみたものの、
いったいどこに着地をすればいいのだろう。

 ここでは「意味」だけが書かれている。「翼」は「比喩」。四方田は人間であり、鳥ではないので、「翼」では空を飛べない。だから、着地もできない。鳥のことを心配して書いているわけでもない--と私は思う。で、「翼」を「比喩」だと考える。
 何の「比喩」? 何の「象徴」? 「思想」とか「ことば」というものをすぐに思いつくが、そのことは、もう書かない。(「意味」はどうとでも書ける、「意味」は平気で嘘をつくから……。)
 この3連目と2連目を比較すると、3連目は意味が強すぎて、味気ない。2連目の方が意味がなくておもしろい。とはいうものの、3連目のような「意味」を考えることばが2連目のことばのすぐ隣にあるから、2連目のことばは無意味でも強靱なままでいられるのかもしれない。
 私は「ぼくは……考えている」というようなことばの、自己主張にはあまり興味がないが、こういう自己主張と「もの/こと」の直接的な描写を並列させる(共存させる)のが四方田の方法なのだろう。共存によって「描写」に奥行きを与えているのだろう。



 和合亮一「散髪雪達磨」(初出「ウルトラ」15、3月)は雪の日に散髪する詩。髪を切られながら耳を澄ますと雪の降る音が聞こえる。気になるのは東京電力福島原子力発電所のことである。

あまりもの雪で、原子力発電所の屋外の作業が困難を極めている、
その情報がテレビで告げられた、水漏れを食い止める作業などは中断するしかない、
雪は容赦がない、人類がこうして滅んでいくのならば、私の髪よ、
伸びるのは止めにしてもらいたいものだ、髪は落ちていく、奈落へと、

雪が、残酷な意味をつづけている、わたしたちが死んでからも、
水は漏れていくのか、こうしている間にも、逃げているのだ、

 「意味」ということばが出てくる。「意味」とはそこに存在するものではなく、つくりあげて形をととのえるものだろう。東京電力福島原子力発電所の汚染水は「わたしたちが死んでからも、/水は漏れていくのか」、つまり福島を、日本を、世界(地球)を汚染しつづけるのかという具合に、時間と空間のなかへひろがっていく。
 それはそれでいいのだけれど、そのとき「意味」は「わたし」という「個人」を置き去りにしないか。「わたしたち(人類)」のなかの「わたし」は、そのときも、「意味」といっしょに生きているのだろうか。
 私は、疑問に思っている。
 1連目の「作業が困難を極めている」のような抽象的なことばのなかに、すでに、「わたし」はいない。テレビニュースことばの「他人」(私とは無関係)がいるだけだ。「意味」(ことばをより有効に動かして、経済学的に、合理的に他人を支配する方法)が個人(わたし)を切り捨ててしまっている。
 どんなときにも四方田か書いていたような「雪片」を描写するようなことばがないと、「意味」だけが動いてしまう。「意味」が人間を支配してしまう。「意味」が人間を支配することに加担してしまう、と思う。
 和合もそう意識しているから、後半は白髪染めの個人的な体験を書くのかもしれないが、書き出しのことばとの「落差」が気になるなあ。「東京電力」ということばを省略しているところは、すでに安倍政権の「意味」に加担しているといえるのではない。わかっているから省略したという言い方もあるが、わかっているから絶対に省略しないという「主義(思想/肉体)」もある。


わが煉獄
四方田 犬彦
港の人

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本棚の上に

2014-12-20 00:39:56 | 
本棚の上に

本棚の上にある壁を、
窓から入ってきた光が染めて素早く動いていく。
天井には光の影が走る。

本棚のあいたところには写真立て。
何の写真だったか思い出そうとするが、
表面のガラスをすべっていく白い色に邪魔されてしまう。

きょうは、もうこれ以上書くことがない。
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常木みふ子「壁画」、田原「風を抱く人」、平田俊子「こころ」

2014-12-19 10:55:07 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
常木みふ子「壁画」、田原「風を抱く人」、平田俊子「こころ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 常木みふ子「壁画」(初出『星の降る夜』3月)は文体が控え目だ。

サーミア・ハラビー 一九三六年生まれ
あなたは ニューヨーク在住の美術家
黒く太い眉を持つ アメリカ国籍のパレスチナ人
一九四八年まで 家族は代々エルサレムに住んでいた

 この書き出しには、何の特徴もないかもしれない。サーミア・ハラビーという美術家がニューヨークにいる。彼女は以前はパレスチナに住んでいた。「事実」だけがわかる。その「事実」は常木が自分で直接調べたものか、誰かが何かで紹介してることの要約なのかわからないが、「事実」として共有されていることがらであろう。
 常木は、まず、そういう「事実」を大切にして、そこからことばを動かしはじめる。「共有された事実」を「事実」として共有する。その姿勢が「控え目」で、ことばを落ち着かせている。
 ここから出発して、常木はサーミア・ハラビーの壁画を描写しはじめる。パレスチナのオリーブの巨木が描かれている。

私は オリーヴの
深く捩じれた太い幹と静かに向き合い
サーミアのうたう詩(うた)を聞く

オリーヴの樹の縦糸 サーミアの紡ぐ横糸
この豊穰の大地に
神より前に人は住み
降る星の下 人は睦み合った
うねる歴史の中の 人々の声が聞こえる
人々の魂に 深い皺となって刻まれる歳月と祈りを
サーミアは紡ぎ出す

 オリーブの木が描かれている。そこまでは「事実」。そこにサーミアのうたう詩がある(聞こえる/聞く)というは常木の感覚。印象。
 壁画がサーミアが書いた。そこにサーミアの思いが反映しているのは「事実」かどうか、かなかむずかしいけれど、一般的に作品にはその人の「思い」が反映していると考えていいと思う。「事実」から出発して、常木は「事実」になりきれていない(?)もの、「事実」として共有されていないもの(ことばになって共有されていないもの)を追い求めている。サーミアは何を思ってこの壁画を描いたのか。そこにはどんな思いがこめられているのか。
 そうして、常木はパレスチナの人を思い、歴史を思うのだが、このとき、サーミアの「思い」に常木が加わっていく。サーミアの絵を「縦糸」にして、常木のことばを「横糸」にして布を織るような感じ。組み合わさって「ひとつ」になる感じ。こういうとき「強い自己主張」は「織物」を壊してしまう。縦糸の強さに横糸の調子をあわせないといけない。そうしないと乱れる。
 常木は、だから、どこまでもサーミアの絵を壊さないように控え目にことばを動かす。この感じが、とてもいい。



 田原「風を抱く人」(初出『現代詩文庫・田原詩集』3月)は、「風を抱く人」の訃報に接したときのことを書いている。田原も、常木がサーミア・ハラビーに寄り添って控え目にことばを動かしたように、控え目なことばで「風を抱く人」を書きはじめるが、2連目から変化する。

中国からの小さな訃報は
異国のニュースの数十秒しか占めなかったが
私の心を震えさせた
背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するようで
時間を引き裂く見えない手が
目の前で長くなるのを感じた

テレビを消して 窓を開け
空に大声を張り上げたかったが
声は喉に引っ掛かって死んでしまった
目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が
黙々と流れ黄河と揚子江になった

 田原は自分の「肉体」のなかで起きたことを書く。自分の「事実」を書きはじめる。その「事実」のなかに、「背骨が熱くてまるで溶岩が噴出するよう」という、日本人には思いつかないようなことばが動く。日本語で書かれているが、これは「中国語」である。田原は中国人であるという「事実」が動いて、ことばになっている。次の「時間を引き裂く見えない手が/目の前で長くなるのを感じた」も強烈である。
 この田原のなかに存在する中国が「目を閉じた 二筋の熱い憤怒の涙が/黙々と流れ黄河と揚子江になった」という、私たちの知っている中国の「河/固有名詞」に還っていく。そして、そのとき田原は「風を抱く人」と「一体」になっていること、こころから追悼していることがわかる。そして、「大声を張り上げたかったが/声は喉に引っ掛かって死んでしまった」という人間に共通する「肉体」へと引き返してきて、私を感動させる。
 田原は日本人がニュースで伝えることを客観的な「事実」としてしか認識できないが、田原は「中国」そのものの悲しみとして「肉体」で感じているということがわかる。
 1連省略して、5連目。

彼はかつて黄河の北岸に昇ったわずかな紫色の日射しだ
世界は彼の光芒を浴びた
彼はかつて中国大地でゆらゆらと揺れた紫陽花だ
民衆は彼の芳香を嗅いだ

 「紫」がとても美しい。田原が「風を抱く人」を「紫」の色として見ていたことが、わかる。



 平田俊子「こころ」(「読売新聞」3月17日)は谷川俊太郎の『こころ』の「競作」? 

ある時はまなざし
ある時はゆびさき
また ある時はコップの水に
こころは隠れているのかもしれない

 そう思う。けれど、

こころというもの
ひとというもの
狡さ 儚さ
危うさというもの
こころを信じたいこころ
ひとのこころの温もりというもの

 と「概念」で「意味」を語られてしまうと、私のこころは離れてしまうなあ。
 ことばは「もの/こと」に寄り添うと、詩が生まれる。

田原詩集 (現代詩文庫)
田 原
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ことばを書こうとして、

2014-12-19 01:31:33 | 
ことばを書こうとして、

ことばを書こうとして、ことばが見つからず
握りつづけていた鉛筆が生ぬるくなってくる。

書いているときはことばがことばであることを忘れて書いているのに、
書けないときは、ことばがことばであることを忘れることができない。

ねっとり脂がにじんだ鉛筆をティッシュで拭いていると、
自慰をしながらの射精できないときのように頭がいらいらする。




*

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杉本徹「ルウ、ルウ」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」ほか

2014-12-18 10:18:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
杉本徹「ルウ、ルウ」、高階杞一「今朝の問題」、田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 杉本徹「ルウ、ルウ」(初出『ルウ、ルウ』3月)に印象的な行がある。

私は薄青い、ほそい歌を吊る。

私は薄青い、ほそい歌を吊る。

 「歌」が印象的である。「薄青い」を、もう一度「ほそい」と言いなおすところ、あるいはことばをつけくわえ補強するところが印象的で、その「いいなおし」あるいは「補強」が「歌」そのものであるようにも思える。
 「薄青い」と「ほそい」は「意味」が違う。けれど、どこかに「共通する感覚」がある。「薄い」も「ほそい(細い)」も「弱い」印象がある。(もちろん薄くて細いものにも強靱なものはあるだろうが。)だから、そのことばが繰り返されたとき、「薄い」「ほそい」は消えて、何か違ったものになる。「共通する」新しい感覚になる。似通ったことばが繰り返されることで、まだことばにならない何かが「ことば」として動くのが感じられる。繰り返されると、ことばが何かを探している印象が強くなる。それは「ことば」というより「感情」なのかもしれない。「抒情」といってもいいかもしれない。で、その「ことばにならない感情(抒情)」が「歌」。
 どういうことかと言うと……。

地方銀行の漆喰の壁。さわぐ糸杉、の横貌。

明治通り、屋上の輪郭、寒暖計、マンホールの漣、……先
の知れない横断歩道を渡っていった。ガードレール、古着
屋、裁縫機械、西にひらく本の表紙。

 たとえばこの4行に「意味(ストーリー/脈絡)」はあるのか。あるかもしれない。でも、それは「書かれていない」。ストーリーはない。ただ、ことばが並べられている。ほとんどは名詞だが、名詞以外もある。
 そして「意味」のかわりに「音」がある。
 この「音」が「歌」なのである。「意味」とは無関係に響き、ひろがってくる音。その快感が「歌」である。
 この「音」には最初に引用した「薄青い」「ほそい」とは別の「共通する感覚」がある。音の通い合いがある。広がりながらつくり出すメロディー、あるいは和音がある。「ちほうぎんこう」という音のなかにある「おう」の響きが随所に反響する。「ぎんこう」のなかの「濁音」も形をかえながら動いている。しかし、あまり「音」を強調し「音楽(器楽演奏)」にしてしまうのではなく、「声」で自然に再現できる「肉体の快感」にしているところが「歌」なんだなあ、と思う。(楽器の演奏も肉体でするから、そこにも肉体の快感はあるかもしれないが、自分の声を音楽にする快感とは別なものだと思う。)
 どの「音」も読みやすい。私は音読をするわけではないが、読みやすく感じる。自然に喉や口蓋、舌、鼻腔が刺戟される。
 聞いたことはないが、杉本は、きっといい声をしているにちがいない。張りのある艶やかな声をしているのだろう、と想像した。



 高階杞一「今朝の問題」(初出『千鶴さんの脚』3月)は「意味」はわからないが、書かれている一行一行にわからないことは何も書かれていない。

今朝はこの子にしてみよう
服を脱がせて
床に横たえ
その上に
黒い石を置いていく
まず右の太ももにひとつ
左の太ももにもひとつ
小さなかわいいお臍の上にもひとつ

 「石」は何かの象徴か。わからない。ただ服を脱がせた少女(少年?)の上に石を置いていくという「動き」はわかる。何のために、そうするのか、それはわからないけれど。まあ、わからなくてもいいのが詩なのだから、これでいいのだろう。
 高階は、意味よりもむしろ「もの/こと」を音のまま書き留めようとしているのかもしれない。「もの/こと」をことばにするときの、「肉体」への反響(反作用)のようなものを書こうとしているのかもしれない。「臍」ではなく「お臍」というときの「視線」のようなものをていねいに追っているのかもしれない。
 で、この詩--好きか嫌いか。
 私は、嫌い。特に、次の展開で嫌になった。

ここからが
今朝の問題
電車が次の駅に着く前に
僕が少しでも君にふれたら僕の負け
ひとつでも石を落としたら君の負け

 何だかレールの上に横たわって、電車が通過するのを待っている感じ。僕が君をレールの外にひっぱり出すのか(君にふれる)のか、君が自分から石を落として逃げ出すのか。そういう「チキンレース」を思い起こさせる。
 何を思い起こさせてもいいのだろうけれど、「問題」を出したというのは、どこかで「答え」を用意しているということ。それが、なんとなく気に食わない。嫌い。
 私(高階)は「答え」を知っている、だから「問題」を出してみた、という感じが嫌い。



 田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。」(初出『ゲイ・ポエムズ』3月)の最後の部分。

                      ●言葉●
言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃな
かった●言葉以上に言葉だった!

 「言葉以上に言葉」とはどういう「意味」だろう。わからないけれど、わかる。印象が強い。一度そのことばに出会ってしまうと、そのことばから離れられなくなる。ことばが「肉体」になってしまう、と私なら書く。「答え」は「肉体」になってしまっている。「問題」は出す前に、田中のなかで「答え」といっしょになって、区別ができなくなっている。どこまでが「問題」でどこからが「答え」なのか、もうわからない。
 「意味」の句読点が消えてしまっている。そして、意味の句読点のかわりに「●」がある。「区別のない区切り」がある。「区別のない区切り」とは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、それが詩なのである。
 で、私は、さらに自分勝手に「誤読」する。
 他人のことばが自分の「肉体」になってしまう。それを切り離すことは自分の「肉体」を傷つけることになる。痛い。切り離すと、痛い。この感じ。

           ●最近は●ぼくのほうばかり●幸
せにしてもらっているような気がします●あっちゃん●幸
せだよ●ずっといっしょだよ●愛してるよ●こんな言葉を
●ぼくはふつうに受けとめていました●ぜんぜんふつうの
ことじゃなかったのに●恋人の言葉に見合うだけの思いを
もって恋人に接していたか●いや●接していなかった●恋
人はその言葉どおりの思いをもって接してくれていたとい
うのに●そう思うと●自分が情けなくて●涙が落ちました
     
 田中は「涙が落ちました」と、その「痛み」をはっきり書いている。

ゲイ・ポエムズ
田中 宏輔
株式会社思潮社
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冬の朝

2014-12-18 01:10:41 | 
冬の朝

最初に見つけたのはだれだろう、
ケヤキ、モミジと枯れた枝を飛び移りながら
あんなにもせわしなく情報交換をするみたいにさえずりあっていたのに、

いまは何を話していたのか忘れてしまったように無口になって、
ベランダに置かれた半分のミカンをつついているメジロが二羽。
私は、その夢中から何重も外側にいる。
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ベネディクト・エルリングソン監督「馬々と人間たち」(★★★★)

2014-12-17 21:45:14 | 映画
監督 ベネディクト・エルリングソン 出演 馬、イングバール・E・シーグルズソン、シャーロッテ・ボービング、ステイン・アルマン・マグノソン



 馬と人間を、馬から描いている。まず馬が登場し、その目のなかに人間がいる。あるいは人間がつくった何か(柵とかロープとか)が見える。その人間と馬とのいくつかのエピソードが映画を構成する。
 この映画のいちばんの特徴は、人間は死ぬが馬は死なないということである。馬の死も描かれるが、それはどちらも人間が殺す。馬は殺されて死ぬのであって、人間のように欲望に暴走して死ぬ(自滅)するのではない。また、殺されることに対して馬は不平を言わない。死を受け入れる。(受け入れているように見える。)馬は死ぬことによって、人間を生かすのである。
 象徴的なのが、スペイン語圏の旅行者と馬の関係。馬に乗って荒野を歩き回る。彼だけがはぐれてしまう。雪がふる。夜になる。彼は馬を殺して、内臓を取り出し、馬の体を「寝袋」にして寒さからのがれ、生き延びる。馬は死んで、人間は生きる。
 この死と生の関係から、映画を思い出し直すと、最初の馬の死も、やはり人間を生かしているのだとわかる。独身の男がいる。自慢の白馬がいる。それに乗って、ちょっと気になる未亡人の家へ訪問する。どうも、日課らしい。近所(といっても、かなり離れている)のひとは、彼が未亡人を訪問するのを双眼鏡で見ている。未亡人も彼のことを気にいっているらしい。ふたりは何とかセックスをしたいと思っている。(らしい)
 ところが、二人がセックスをする前に、二人の飼っている馬、男の白馬、女の黒い馬が先にセックスをしてしまう。男が未亡人を訪問した帰り道、白馬が道の真ん中で立ち止まり、黒い馬が男が乗っているのを無視して交尾する。(男が雌の馬、女が雄の馬を飼っている、男と女が、人間と馬では逆になっているのがなんともおもしろい。)それも、近所のひと全員にみられてしまう。
 男はかってに(?)交尾した白馬を射殺する。馬は殺される。(黒い馬の方は去勢される。)この馬の死が人間を生かすこととどういう関係かあるかというと……。簡単に言うと、最後に男と女はセックスをする。ついに自分たちの愛を確認する。女が男を誘い、荒野(谷間)でセックスをする。もちろん、これもひとに見られてしまう。見ても、しかし、ひとはそれに口出しをするわけではないが……。
 これも馬の死が、男と女を結びつけ、人間を「生かした」と言える。

 こんなに人間より(?)の馬なのに……。
 最初のシーンは、いささか変わっている。独身男の飼っている馬。これが、なかなか手綱をつけさせない。いったん、手綱をつけ、鞍を置き、男が乗ってしまうと洒落た走り方をするのに、なかなか面倒くさい。男の言うことを、素直に聞くわけではない。その「反抗」の最大のものが、男を載せたままの交尾。馬は男に「飼われている」という感覚はないようなのだ。黒い馬の方も、男が「あっちへゆけ」というのを無視して交尾する。男が乗っていて邪魔だともいわない。人間の存在を気にしていない。
 変だな、と思う。
 この「変」は最後になって「原因」がわかる。
 村人がそろって馬に乗って荒野に出掛ける。ピクニック? いや、そうではなくて、野生の馬をつかまえにゆくのである。三班に別れ、荒野にいる馬を集めてまわる。(この過程で、独身男と未亡人は二人だけになり、セックスをする。家を訪問してセックスをすれば、近所のひとに目撃されるが、荒野なら見られない。実際は見られてしまうのだけれど……。)集めた馬を一か所に集め、「競り」なのか「配分」なのかわからないが、それぞれが自分の好みの馬を選ぶ。その馬をつかって、この村の住民は旅行者相手に「乗馬ピクニック」のようなことをして生計を立てているらしい。あるいは、その乗馬クラブに馬を提供することで生計を立てているらしい。--これは私の想像で、映画で、そう説明されるわけではないが。
 で、私は馬のことを知らないのだが、この映画に登場する馬を見た瞬間、馬が「小型」だなあと感じた。見た感じがサラブレッドのように大きくない。競馬の乗り手が小さいからサラブレッドが大きく見えるのかなあ、とも思ったが、どうも違う。そして、その「小型」の理由が、やはり最後になってわかった。「野生の馬」なのだ。アイスランドの野生の馬。厳しい冬の寒さに絶えて生き延びる馬。人間によって改良されていないから「小型」なのだ。
 「野生」だから、人間の言うことを聞かない。交尾したくなれば、だれが見ていようがしてしまう。本能だから。本能で生きている。(野生だから、この映画に登場する馬は厳寒の海を泳ぐこともできる。この海を泳ぐ馬は、男のためにロシア船まで泳ぎ、男にウオツカよりも強い酒をもたらす。その酒が原因で男は死ぬが、馬は死なない。)
 この本能のまま、自由に生きている馬から見れば、人間はおろかしい。セックスしたくても、人目をはばかる。隠れて酒を飲んだり、ここは自分の土地と柵をつくったり、荒野を自由に歩き回る権利を奪うなと柵を壊したり、まあ、軋轢をかかえて生きている。映画の途中で、何度か家のガラスがピカリと光るが、あれは他人の目を意識しているから、他人が見ているように感じてしまうことの象徴である。でも、そういう人間も、この映画の人間側の主人公であるらしい独身男と未亡人のように、本能のままに生きれば自由と喜びを手に入れることができる。
 馬は、そんなふうに見ている--と映画を見終わったとき、感じる。そして、アイルランドへ行って馬にあってみたい、馬の目を見てみたいと思う。
 アイスランドの映画ははじめてみたので、そこに描かれるものすべてがおもしろかった。
                     (2014年12月17日、KBCシネマ2)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/




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新川和江「つのぐむ」ほか

2014-12-17 10:00:43 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
長田弘「冬の金木犀」、岸田将幸「Find the river、石狩」、新川和江「つのぐむ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 長田弘「冬の金木犀」(「文藝春秋」3月号)は珍しい視点。金木犀というと、どうしても秋を思い出すが、その後を書いている。

人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる。
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる、
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 「金色の雪片のように降り積もる」は美しい比喩だ。予感のようにして、冬を呼び込み、そのまま冬へ動いていく。そして、そのあとに「静かな緑の沈黙の長くつづく」と視線が少しずれる。金木犀の香りでも、その香りをはなつ花でもなく、ひとが(私だけかもしれないが)見すごしている緑へと。私は金木犀の存在を香りが強い秋以外に感じたことがないので、そうか、金木犀は常緑樹だったのかと驚き、また、その緑を静かに見つめている長田にも驚く。花の咲いていない(香りのない)金木犀を長田は見ている。その木が金木犀とわかって、その緑と一体になっている。一体になって、「ひたすら緑の充実を生きる」。
 これは、長田と詩の関係のことを自ら語っているようにも思える。完成された詩は、秋の金木犀のよう。ひとの注目をひく。けれど、ことばは、詩の形だけで存在するわけではない。詩にならないときも、ことばの「沈黙」を生きている。「沈黙の充実」を生きている。ことばもまた「詩」という花を咲かせ、「香り」を発するかたちになるまで、沈黙し、力を充実させている。充実するという「自由」を生きている。
 「行為じゃない。生の自由は存在なんだと。」という行は、金木犀(樹木)は動かない。行為しないということに対する感想なのだろうか。動かない(行為しない)けれど、そこに存在する、そして生きている。存在しながら、花を咲かせ、香りをはなつまで、ただ「沈黙」している。「沈黙」しているときも、そこに「生きる」ことが充実している。
 「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばが、金木犀という存在となって、そこに「ある」ように感じる。「沈黙」「充実」「生きる」「自由」ということばの接続と断絶の仕方が、「融合」している、というか……。それぞれのことばは何かを「分節」してきているのだが、「分節」はことばが発せられる瞬間だけのことであり、ことばになったあとすぐに「未分節」の世界へかえっていく。そしてその「未分節」の「場」でとけあっている。そういう「未分節」が存在ということか。そうであるなら「行為(する)」とは「分節(する)」こと……。
 あ、これ以上書くと、「意味」になってしまう。「意味」にしないで、ぼんやりと、ここでことばを止めておこう。



 岸田将幸「Find the river、石狩」(初出「midnight Press Web」9、3月)は、ことばに誘われて、肉体が肉体を裏切るようなおもしろい瞬間を書いている。

国道二三一号線沿いのセイコーマートで、来札というところはどこですか、と尋ね、
ガソリンスタンドを曲がって----、そのまま真っすぐゆくと、川に行ってしまうから-----、
あまり人の行かないところなのですね、----ト
(果たして、人の行き着くところとは、<人>であってほしい)
僕はそのまま真っすぐゆこうと思った、あまり人のゆかないところへゆこうと思った
僕はとうとう、いや僕もとうとう、そのような川へ来てしまう

 道を尋ねて、そのときの「答え」に誘われて、目的地を忘れてしまう。目的地よりも、そこからそれた「脇道」にそれてしまう。それを「僕はとうとう」と言ったあと「僕もとうとう」と言いなおす。この言いなおすときの「接続」と「切断」がおもしろい。
 ひとはあらゆる瞬間に「切断/接続」を繰り返している。それは、私には「分節/未分節」を往復しているようにも見える。「分節」された何かは「目的地」、この詩で言えば「来札」ということになる。そこへ向かってはいるのだが、「分節」されたもの、「限定的」なものを、行動の「経済学」のままに実現するのはおもしろくない(かもしれない)。それよりも「分節」(目的地)までの行動がわかったなら、それを別な形で「分節」しなおせないか。教えられた道をまっすぐに、「正しく」進むのではなく、そこからそれて、もう一度「ここ(道の場所)」から「分節」できないか。間違うふりをして「新しい」道をみつけられないか。「分節」しなおせないか。
 そういう「むだ」(不経済)を岸田は書いている。「不経済」のなかに詩がある、と書いているように思う。
 このあと岸田は「リヤカーで薪を運ぶ小父」にまた道を尋ねるのだが、人との出会いによって「分節」が再度おこなわれるときの、その不思議なおもしろさ。不合理というか、不条理というか、「非経済学」的な行動のなかで、ことばが、少しずつ揺らぎ、ことばではなくなってゆく。その崩壊。さらに、崩壊しながら、崩壊の中に姿をあらわす岸田の肉体--そういうものが、おもしろい。不思議に「抒情」というものを刺戟する。「抒情」はたいてい「敗北する精神」の形でセンチメンタルを刺戟するのだが、岸田の場合、ことばが「不経済」なのでセンチメンタルにならない。「合理的」にならない感じ、「精神」ではなく、「なまの肉体」という感じで、体温があるところが魅力的だ。
 --こんな抽象的な書き方では、岸田のことばの魅力を説明したことにならないだろうけれど、岸田が書いていることばの「分節/未分節」のあり方は、説明しようとすれば何十枚ものページが必要だ。だから、端折って、私はテキトウに「感覚の意見」のまま、書いておく。いわば、メモである。



 新川和江「つのむぐ」(「初出阿由多」15、3月)。私は「つのぐむ」ということばを知らない。辞書を引けばいいのかもしれないが、私は辞書をあまり信じていない。辞書よりも、そこに書かれていることばを、そのまわりのことばと関連づけて読んでいけばいいと思っている。大事なことは、ひとは何度でも言いなおす。きっと、その言い直しの中に「意味」の手がかりがある。
 で、知らないまま、読んでいくと、

二はしらの神が
国産みの仕事もまだお始めにならぬうちに
混沌(どろどろ)の中から最初にかたちをあらわしたのは
つのぐむ葦でありました
あざやかな緑の錐は
萌えあがる力をもって世界の中心をさしたと
いにしえの書物はしるしています

 頼りになることばは「葦」。それから「かたちをあらわす」「緑の錐」「萌えあがる」。葦が「混沌(どろどろ)」から形をあらわすなら、そしてそれが緑色で錐の形をしていて、萌えあがるなら、それは「芽ぶく/芽を出す」だろう。「芽」を「つの」にかえると、「つのぶく」。「つの」は「角」であり、それは先がとがった「錐」の形。
 「芽ぶく」よりも「つのぶく」の方が音がゆっくりしていて、古い感じがする。この「古い」は「原始的(根源的)」という感じでもある。
 それにしてもおもしろいなあ。「芽」よりも先に「つの(角)」がことばとしてあったのか。「混沌」という観念的なことばのまえには「どろどろ」があった。(「どろどろ」というルビが「混沌」を「混沌」ということばになる前の世界に引き戻す。)これはなんとなくわかる。こどものは「どろどろ」ということばを先に知る。「混沌」はもっとあとからだ。観念で世界をととのえることを覚えてからだ。「どろどろ」は最初は「泥泥」かもしれないが、生きているあいだに「泥」よりももっと「肉体」的なもの、肉体の内部にあるもの、「感情のどろどろ」にかわっていく。おとなになってしまうと「泥」とは遊ばなくなり、もっぱら感情(人間関係)の「どろどろ」にからまれてしまう。そして、その「感情」には「怒る」ということも含まれる。「怒る」は「角を出す」ともいう。「つのぶく」には、何か、そういうものを感じさせる力もある。我慢しきれなくなって、激情が噴出する。その「激情」を感じさせるものがある。
 「芽ぶく」ということばなら、こんな寄り道(ことばの不経済/くだくだとした思いめぐらし)はしない。奇妙な寄り道をすると、自分の「肉体」の内部が揺り動かされた感じがする。その揺らぎの中に「いにしえの書物」(古事記?)につながるものがあるのだと感じる。人間はみんな「つのぶく」ということをするのだ、と思う。--こういう「余分」な寄り道、どうでもいい思い(思い間違い?)のなかに詩はあるんだろうなあ、と私は感じる。そういうことをおもしろいなあと感じながら読み進む。
 で、そのあと。

それから春は数えきれないほどめぐって
この国もすっかり年をとりました

 これは「流通言語(ことばの経済学にのっとったことば)」で言いなおせば、古事記(神話?)の時代から何年もたったということに過ぎないが、「つのぶく」で寄り道をした私は、またさらに寄り道(脱線)をする。
 「春を数える」(春を繰り返す)ということばのなかに、「肉体」が何度も「つのぶく」を「見る」という「動詞」が重なって動く。そして「見る」には当然自分自身の「肉体」が重なるので、「この国もすっかり年をとりました」は「私もすっかり年をとりました」という「実感」と重なる。この「重なり」がおもしろいのは、古事記から現代までの「時間」と自分自身の「年取ったというときの時間」では「長さ」がまったく違うのに、その「長さ」の違いが抜け落ちて、「つのぶく」「めぐる」という「動詞」のなかで「重なる」ということが起きることだ。
 「時間」、「時の間」「時と時の間」は、あって、ないのだ。「いま」だけがあって、「いま」古事記の過去を思い、「いま」自分の過去、生きてきた時間を思うとき、ふたつの過去は数字(年数)で客観的に言うことはできても、「実感」としては「いま/思い出す」という「瞬間」にのみこまれて、区別がない。
 時間に区別がないなら。
 と、私は、ここで「飛躍」する。「誤読」する。ことばを暴走させる。
 「つのぶく葦」と「私(新川)」もまた区別がない。新川は古事記を読んで葦のことを思い出しているだけではない。自分の「生きてきた時間」を思い出している。生き方をも思い出している。
 葦は生まれて、何をしたか。

萌えあがる力をもって世界の中心をさした

 あ、すごい。
 ひとは、生きるとき「世界の中心をさす」のだ。さそうとするのだ。そして、その「さす」ものが「つの(尖った感情/怒り/激情)」なのか。
 ひとは年を取ると「まるくなる」というが、そんなことはないのかもしれない。

でも春ごとに萌えだす草が
もののはじめのあの葦のように
どの葦も どの葦も
世界の中心をさそうと背のびしているのは
なんと嬉しいことでしょう
 
 いいなあ。この希望の力はいいなあ、と思う。新川のことば自体が「中心」をさして「つのぶいている」。
 「中心」というと、何かの真ん中なのだが、葦の芽(つの)が指しているのは、「どろどろ/泥/大地」とは正反対の「天(空/宙)」。えっ、「世界の中心」は「天」?
 「論理」が一気に逆転する。自分の根を張って生きている大地(泥)が、突然、世界の端っこに押しやられる。中心は自分の生きている場所とははるかに遠い「宇宙」。
 この瞬間、不思議な開放を感じる。「世界」がひろがった感じ。「どろどろ」がきれいさっぱり消えてしまう感じ。
 これ以上ことばを動かすと「倫理」になってしまいそう。だから、もう書かない。
 ただ、ひとこと。もしこの詩が「芽ぶく」というタイトルで、途中に出てくることばが「芽ぶく」だったら、私はきっとこんなふうには感じなかった。「つのぶく」が私の考えた通りの意味なのかどうかはわからないが、私はこういう「誤読」が好きなのだ。「誤読」をしたくて詩を読むのだとあらためて思った。

ブック・エンド
新川 和江
思潮社
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