詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

どこで間違えたのだろう、

2014-12-17 01:24:32 | 
どこで間違えたのだろう、

どこで間違えたのだろう、
一階二階に四戸ずつのアパートなのに階段を上って歩きはじめると、廊下がどこまでものびてゆき、部屋にたどりつけない。

いつ間違えたのだろう、
明かりの消えた部屋の前をすぎて廊下が玄関のドアの前をとおると、まっすぐなはずの廊下が左へまがって、ホテルのように奥へ奥へと部屋がつづいている。

なぜ見えたのだろう、
冬の深夜なのに台所の窓があいていて女が見えないところで手を動かしている、と書いてある本がその奥の部屋の机の上にある。

夢のなかでも起きるはずがない、
アパートのまわりには一戸建ての家がひしめき、その路地のどこかから湯のにおいと化粧のにおいがするのを頭の中で思い描く私が布団の上であぐらをかいている。



*

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谷川俊太郎「1対1」

2014-12-16 17:13:45 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「1対1」(WEB版「朝日新聞」http://www.asahi.com/special/politas/tanikawa/)

 衆院選に合わせて、谷川俊太郎が詩を書いている。「1対1」。選挙の詩なのに、詩に対する谷川の考えが書かれている。

事前投票に行った
空いていて気持ちよかった
立ち会いの女性たちに優しくされた
会ったことのないたった一人の名前を書いた
書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが
無効になりそうだからやめた
投票は数で決まる
でも詩は数で決まらない質で決まる
作者と読者が1対1だ
投票も私と候補者が1対1だ
と勝手に考えて帰ってきた

 詩は「作者と読者が1対1だ」。その通りだと思う。その通り、というだけのために、私はきょうの「日記」を書いている。
いろいろな媒体でいろいろな批評が書かれている。そのなかに、ときどき非常に違和感を覚える批評がある。その詩とは関係ない(と、私には思える)外国の思想家のことばが引用され、詩の意味(思想?)が位置づけられる。その思想家が、その詩について(あるいはその詩が描いている事実について)何か発言しているなら、その詩への言及に思想家のことばが引用されるのはわかるけれど、そうでないなら、なぜ? なぜ引用し、そのことばで、詩と結び続けるのだろう。それでは詩そのものの評価というより、引用した思想家を頂点とするヒエラルキーにその詩を組み込んだだけということにならないか。詩と一対一で向き合うというより、思想家と徒党を組んで二対一で向き合うことにならないか。さらに二対一から「三」になることをもくろんでいないか。「多数決」を目指していないか。「三」になったから「一」の主張(評価)より正しい、という変なイデオロギーが潜んでいないか。
私の「誤読」かもしれないが。
さて、この詩。
「事前投票」。谷川さん、ことばが古いよ。いまは「期日前投票」と言うよ、と少し突っ込みを入れてみる。「立ち会いの女性たちに優しくされた」は本当かな? そう書いた方が、男のこころ(谷川のこころ)をくすぐるからかな? 谷川の声というより、「世間の声(常套句)」が聞こえる。シェークスピアは常套句だけで芝居を書いたといわれるけれど、谷川も「世間の声」で詩を書く。自分の声だけで書こうとはしていない。私にはそう思える。この詩で「谷川の声」と言えるのは「詩は数で決まらない質で決まる/作者と読者が1対1だ」だけで、あとは「世間の声」と言ってもいいと思う。
 「世間の声」に自分の声を紛れ込ませ、すーっと「世間」へ入って行くのが谷川なのだと思う。「書いた責任上自分の名前もサインすべきだと思ったが/無効になりそうだからやめた」というユーモアも「本当」というより「世間」へのサービス。笑うと、自然にそのあとのことばも笑わせてもらえるんじゃないかなと思って読んでしまうからね。
 最後の方の「投票も私と候補者が1対1だ」は、ちょっと切ない。「1対1」で希望をたくすのだけれど、それが「世間」にまで育つかどうか、わからない。わからないけれど、そうするしかない。


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御庄博実「目を取り換える」、稲川方人「やわらかいつちをふんで、」ほか

2014-12-16 11:52:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
御庄博実「目を取り換える」、稲川方人「やわらかいつちをふんで、」、稲葉真弓「金色の午後のこと」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 御庄博実「目を取り換える」(初出「いのちの籠」26、2月)は「意味(メッセージ)の強い作品。

目を取り換えて いま見えてきたものは何か
曖昧な画像と 混迷する原発隠し
曖昧な活字と 曖昧な報道の裏側
首相自らトップセールスを続ける「原発」
与野党協議と言う秘密保護法案
戦争への地均しが 報道管理のもとで進んでいる
二〇二〇年のオリンピックに浮かれていいか
国家安全保障(NSC)と言う外国への軍事派遣でいいか
TPP参加と言う この国の基本を突き崩していいか

目を取り換えろ
過去を振り返って未来を見つめる目だ
日本の近現代史をめくりなおさねばならん
戦争への道のヴェールをはがせ

 主張はわかるが、これでは安倍政権に利用されるだけだろう。「過去を振り返って未来を見つめる」、その結果「秘密保護法」が必要、「NSC」が必要という安倍は言っている。さらに原発再稼働が必要、オリンピックが必要と言っている。そして、多くのひとが民主党に期待していた「目を取り換えて」、安倍を見つめている。
 「目を取り換えろ」というだけではだめなのである。「目を取り換える」と何が見えるかを具体的に書かないと、他人には御庄の「見えているもの(見ているもの)」が見えない。
 今回の選挙で、民主党は安倍政権の嘘を攻撃していた。雇用者が増えているというけれど、正規雇用が減り非正規雇用が増えている。その結果、雇用者の総数が増えていると説明している。それは正しい。けれど、その先をもう一歩、攻撃しないといけない。正規雇用を減らし非正規雇用を増やすことで、企業の利益はどうなったか、を数字で示さないと批判にならない。50万円で正規雇用者50人をかかえている企業が、雇用形態を見直し正規雇用20人(1人60万円)非正規雇用40人(1人20万円)にした場合、会社の支払い賃金は50万円も節約できる。そういうことを明確にしないと、「正規雇用の賃金は増やしました、雇用者総数は増やしました、これで景気回復への期待できます」という論法に飲み込まれてしまう。
 「目」というのは「思想」であり、「思想」とは具体的なもの(ひとの数、賃金など)でできている。それは具体的に指摘しない限り、見えない。
 先の簡単な算数のつづきを書くと、節約した(50万円)はどこへ行ったのか。単に会社のオーナーが儲けただけなのか。そこから自民党へいくら流れたのか。そういうことまで追及しないと、「事実」はわからない。私は説明を簡単にするために「50人」という数字を例にしたが、これを「1000人」「3000人」にしたらどうなるか考えると、アベノミクスの本質が見える。格差拡大の「構造」が見えてくる。一般市民には調べられないことを資料をそろえて分析し、問題点を明確にするのが「国会議員(政党)」というものだろうと思う。
 あんな甘い追及の仕方だから、多くのひとが民主党を見限ったのだ。
 脱線したが、「目を取り換えろ」では、「メッセージ」にはならない、と私は思う。「意味」を伝えているつもりだろうが、具体的事実がないので、そのまま安倍政権に利用されてしまうと私は思う。



 稲川方人「やわらかいつちをふんで、」(初出「花椿」3月号)を読みながら不思議な気持ちになった。
 私は稲川の作品は苦手である。どの作品を読んでも、さっぱりわからない。ただし平出隆の作品を読んだあと、つづけて稲川の詩を読むと、「わかる」。「わかる」というよりも、あ、こんなことばの動かし方は平出のことばの動かし方から見ると「天才の仕事」に見えるだろうなあ、と「感じる」。平出のことばの動きが私の「肉体」のなかに残っていて、それが鳴り響いているときは、わからないのに「稲川のすごいなあ」と思ってしまう。
 どんなことばのなかにいたか、何を読んだあとか、ということによって詩の感想は違ってしまう。
 で、今回、御庄の「メッセージ」を読んだ直後に稲川の詩を読むと、それこそ「目が取り換えられた」ように新鮮に、美しく見える。センチメンタルな感じがくっきり伝わってくる。

草むらから若い花を摘んで声をあげた僕の母は
     坂道の空の 遠い蜃気楼  一途にプリズムの
      よう
           母のくれた小さなガラス玉が
   ずっと向こうの夜へ転がって行くから  僕は ね
        光りの射す絵の中に もうすぐ帰ろう

 「若い花」を摘んでいるのは「若い」母だろう。したがって「僕」もそのときは「若い(幼い)」。いまはその記憶が「ずっと向こうの夜」のように遠い。「僕」はその記憶を思い出している。そして、そのことを「記憶(光の射す絵)」の中へ「帰る」という動詞で語り直されている。
 へええっ、稲川ってこういう詩を書いていたのだっけ?
 私は稲川の詩は何も覚えていない。苦手だなあ、という印象だけを覚えているので驚いた。
 驚きながら、少し気持ち悪くも感じた。特に「ずっと向こうの夜へ転がって行くから  僕は ね」の、一呼吸おいたあとの「ね」の音が不気味である。そんなふうに粘っこく「肉体」を押しつけてこないでほしい、と身構えてしまった。センチメンタルは「精神」のなかだけを走り抜けるとなつかしい感じがするが、そこに「肉体(なまの声)」がからみついてくると、何だか気持ちが悪い。
 これは、単に私の「好み」の問題なのだろうけれど。



 稲葉真弓「金色の午後のこと」(初出『連作・志摩 ひかりへの旅』3月)は一瞬一瞬過ぎ去る「とき」のことを書いている。--その「とき」を稲葉は、「均一」に流れるものと要約している。ふつう、こんなふうに「要約」してしまうと味気なくなってしまうのだが……。

ぽかんと口を開いていた午睡のときにも
ときは均一に流れていて
ああ なんてのんきだったんだろうと思っても
もう遅い あの幸福な午後
かといって午睡以外になにができただろう
半島の庭のスズメたちの優しいついばみに魅入る目が
いつしか眠りに誘われたからといった

浜尾さんちのクレソンが一気に伸びた朝も
ビニールハウスのなかにときは流れ
窓辺にメジロの素早い飛翔が見えた朝も
翼はときの重力を必死にかきまぜていたのだ

 具体的に「スズメ」や「クレソン」「ビニールハウス」「メジロ」が書かれているので、その「均一」がそれぞれ「個別」に輝いて見える。「均一」は実は違うものの存在を意識するときに、その「奥」に存在するものとして見えてくる。「均一」というような「観念」は肉眼では見えないが、それがスズメ、クレソン、ビニールハウスという個別のものを凝視するときに、目をつきやぶって動く。
 そうか、稲葉には、スズメやクレソン、メジロの動きが見えるとき、この世界をささえている「とき」が見えるのだとわかる。
 稲葉の「目」を感じる。「肉眼」を感じる。それは稲葉の「肉体」を感じるということ、「思想」を感じるということ。

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御庄 博実
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階段を降りる

2014-12-16 01:07:54 | 
階段を降りる

地下鉄が突然止まった日、
エレベーターのなかで閉じ込められた人がいた。
それはあとで知ったことだ。
私はだひたすら私は階段を降りた。
もうひとつ下のホームからは別の地下鉄が動いている。
それに乗って、三つ先の駅で乗り換えるために階段を降りる。
エスカレーターでは人を何人も追い抜いた。
私は遅れてはならない。
私にとってはいちばん大事な日だ。
そんなことを知っているひとはいない。
エレベーターに人が閉じ込められていることを私が知らないように。
私は、あのひとならどう考えるだろうかと考えながら、
考えが考えにつまずいていると考えていらいらした。
さらに乗り換えの地下鉄に乗るために
さらにさらに深いホームを目指し、また階段を降りる。
この上には名前の知らない川の底がある。
その次の乗り換え駅の地上にはロータリーがあって
タクシーがぐるぐるまわっている。
その円を激しく拡大した環状の地下鉄に乗って
私はいかなければならない。
そう考えてまた階段を降りる。
もうどこまで深く降りたかわからない。
地上に出るために何段階段を上がらなければならないのか
考えると怖くなるので、また階段を降りる。


*

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中村和恵「氷湖」、中本道代「ふ ゆ」、北条裕子「無告」

2014-12-15 10:04:22 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中村和恵「氷湖」、中本道代「ふ ゆ」、北条裕子「無告」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中村和恵「氷湖」(初出『天気予報』2月)の書き出し。

雪が降るだけで南からきたひとは肩をすぼめるが
雪は はなやいでしずかなもの
雪の中なら何時間でもこうしていられる

 南からきたひとだった中村は、やがて雪の降る土地に住むようになる。雪に対する思いも変わっていく。その「時間」を次のように書く。

かれらのことばを話すことを習い覚え
でも湖に群れる鴨をつかまえようとするわたしの手はまぎれもなくひらがなのまるみにひらかれていて
ひらがなでもわかるのとわからないのはあるでしょう
もちろんそうです だいたいわからない
 だいたいはわたしの手の中で溶けてしまう
いつも一緒にいて四半世紀の時間が経って
それでも名も知らぬひとのまま
あなたは不思議な伴侶になった

 「伴侶」は人間か、あるいは「雪」のことをそう呼んでいるのかわからないが、書き出しが「ひと」なので「ひと」だろう。わかるようで、わからないが。
 その「わかるようで、わからない」という感じが「ひらがな」をめぐる行につまっている。その「わかる/わからない」のカギになっているのが「手」。
 鴨をつかまえる。そのとき手をどういう形にするか。これは「ことば」にするのが難しい。「ことば」にしないで、「肉体」で手本をみせて、その手本をまねる。ことばにしないで「肉体」でまねる。その「肉体」のなかに、「もう少し、こんなぐあいに」「いや、もっと丸く」というような、「その場」でしかわからないことが積みかさなる。ことばにはできないが、「肉体」で覚えてしまうことがある。
 「わかったのか」と聞かれれば、「だいたいわからない」のだが、「だいたいわからない」ということは、たいていの場合「ほとんどわかる」でもある。「肉体」は、まねした「肉体」のように動くのだから。動かせるだから。「だいたいわからない」と言ってしまうのは、教えてくれたひとの領域(?)にまでは達することができないからそう言うだけの「方便」である。何かの達人が、だいたいの仕事ができるひとに対して「まだまだだね」と言うのの裏返しだ。それはもう一度逆に言えば「だいたいわからない」と言えるくらいに中村の「手」の動きが、その土地のひとの動きに近づいているということでもある。わかればわかるほど「まだまだわからない(だいたいわからない)」と言うしかなくなる。
 そういうことが「ひらがな」ということばのまわりで書かれている。静かで、いい詩だなあ、と思った。



 中本道代「ふ ゆ」(初出「ユルトラ・パズル」22、2月)。私は、冬とか雪とかということばが出てくると、それだけで作品にひかれてしまう。

十二月の光が斜めに射して
白いカーテンで影絵が踊る
大気が冷えてもう何も暖めなくなった

 この3行目がいいなあ。北国の冬の、空気とものの関係が「もう何も暖めなくなった」に結晶のように硬く輝いている。
 でも、

ねずみが走る空き家の
窓辺に眠る幽霊
埃の積もった寝台で
何十年も前の夢をみ続け

水中で絡み合う根毛は
古い古い時代へ
原始の水を求めて伸びていく

 「空き家」のせいだろうか、「ねずみ」のせいだろうか。「暮らし」の感じが消えてしまって、空々しい。「大気が冷えてもう何も暖めなくなった」には、中村の書いていた「ひらがな」の感じがあったが、特に「もう」にはそれが濃厚に出ているのだが、2連目以降、その「ひらがな」の感じが消えてしまう。「絡み合う」ということばさえ、何にも絡みあっているようは感じられない。「観念」が「絡み合う」を偽装している。だから「原始」というような「何年前」かわからない「時」が出てくる。その1連前では「何十年」だったのが、次の連に行っただけで「原始」に変わる。こんな「時間旅行」は「肉体」にはできない。
 嘘っぽい--と私は感じる。
 タイトルを「ふゆ」ではなく「ふ ゆ」と1字あきにしたときから、中本の観念がことばをねじまげている。



 北条裕子「無告」(初出『花眼』)。

質問したいのです
光はいつまで黒いのですか?

 最終連の2行が印象的である。光はたいていの場合明るい。だから「黒い」というのは矛盾している。理不尽である。でも、そういう矛盾(理不尽)なことばを言わずにはいられない--というところへことばは動いている。
 「光はいつまで黒いのですか」という質問は、常識からすると「嘘」なのに、嘘っぽくない。中本は常識からすると嘘などひとことも書いていないのに(ねずみ、空き家、幽霊、埃という組み合わせは「常識」そのものであるし、「原始」という時代区分もちゃんとあるにもかかわらず)、嘘っぽいのと対照的である。
 なぜ、北条のことばは「非常識(光は黒い)」と書いても嘘にならないのか。

夕暮れて
歩いていたら
いつのまにか
見知らぬ原っぱに出た
「ここが世界の端っこです」と書かれた
立て札がたててある

それで供養のために 靴を 樹の枝にかけていると 百合が幾つもの方向に 顔を向けながら 乱れ咲いているに 気がついた 花のひとつと 目が合って この花にあうためにこれまで生きてきたことを 瞬時に 思い知らされる 冷たい刃で うっすらと 胸の奥をそがれる

 原っぱに「ここが世界の果てです」という立て札があるというのは、まあ、嘘である。本当にあったにしろ、そこが「世界の果て」であるわけではない。でも、その原っぱを「世界の果て」と思うことはできる。自分でそう思えば、自分にとってはそこが「世界の果て」である。北条は「主観」を生きているのである。「客観」を最初から無視して「主観」に忠実である。
 「主観」は嘘をつかない。嘘をつけないのが「主観」なのである。
 「主観」というのは「見通し」をもたない。その場その場で動くしかない。そういう状態が、「靴を 樹の枝にかけていると 百合が幾つもの方向に 顔を向けながら 乱れ咲いているに 気がついた」のなかに描かれている。「……していると、……と気がついた」。何かしながら、気持ちが変わっていく。何かしながら、それとは違う何かに「気づく」。この「いいかげんさ」(最初から、それに気づきたいわけではない、気づこうとしていたのではない、という意味だが……)が「主観」の動きの特徴なのだ。
 何かをしながら、別の何かに気がついていく。気づくとはもともとそういうことなのかもしれないが、それが自然にことばの運動になっている。だから、「光」が「黒い」と気がついても、変ではない。「光は黒くない」という「客観」など、北条は問題にしていない。
 百合に顔があり、目があるというのが北条の「主観」である。比喩のなかに「主観」の「思想」がある。
 「主観」の「正直」に会うのは、とてもうれしい。
 詩集で読んだときは、感動したという感じは残らなかったが、中本の詩のあとに読むと、北条の「正直」が伝わってきて、感動する。
 詩を読むのは、不思議な体験だ。
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小林坩堝「骨」、たかとう匡子「その音に閉じ込められて」ほか

2014-12-14 10:04:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
小林坩堝「骨」、たかとう匡子「その音に閉じ込められて」、手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 小林坩堝「骨」(初出「東京新聞」2月22日)は何を書いてあるのだろう。

おまえの白い骨
あらかじめあたりまえに担保された死の
時間いっぱいまで伸びきった骨

 生をまっとうしたひとの骨のことを書いているのか。その人を悼んでいるのか。「時間いっぱいまで伸びきった骨」は、まだ成長過程の骨(肉体)を感じさせて、とても美しい。けれど、その直前の「担保された」が、私には、よくわからない。
 小林は日常的にこういうことばをつかうのだろうか。私は政治家の口調を思い出してぎょっとする。「意味」の経済学が働きすぎている。詩は「意味」から遠いもの、「意味」を壊していくのもだと信じている。私はロマンチストなのである。
 で、そのロマンチストの私から見ると、

あゝ
帆をはって
凍てつく海の奥の奥のほうへ
ふたりで逃げても
よかった
おまえのぶんを
生きることなど出来はしない
のに そんな そんなこと
霧笛…………、

 これは甘すぎる。昔の歌謡曲みたい。「帆をはって/凍てつく海の奥の奥のほうへ」というのは「パイプくわえて/口笛吹けば」みたい。不可能ではないだろうけれど。白い骨、白く凍てつく海、その奥にある白い氷という具合に白が連鎖しているのだろうけれど。「のに そんな そんなこと」はことばのリズムに酔っている演歌みたいだなあ。

ひるがえるシイツの白さ
あけっぱなしにしておく為の
その為だけの
欠落が
ある

 「為の/その為だけの」の繰り返しも、小林の「愉悦」は感じるけれど、その「愉悦」がどんなものなのかはわからない。肉声で聞けば、その声がわかるかもしれないけれど、文字で読むと、ひとりで快感におぼれている感じがして、醒めてしまう。「シイツ」という表記にも「酔い」を感じる。ロマンチストの私は、でも、こういう「酔い」にはなじめない。ロマンチストだから、他人が「酔う」と酔えなくなってしまう。。



 たかとう匡子「その音に閉じ込められて」(初出「風の音」5、2月)は、どこから聞こえてくるのかわからない音について書いている。音が聞こえてくるのだが、何のことかわからないので、その音に閉じ込められている(とらえられている)感じがする、ということか……。

においも厚みもない
荒れ放題の猫じゃらし

時間が音立てて裂け目のむこうにこぼれていった
意識と無意識のあいだに立つ紙でできた木の幹にはさまれたまま

いったい私は何者なの?
いつだって水辺によって切断されている

ここが目蓋
そこが鼻孔

と言ったってまたしても聞こえてくる
奇異としか言いようのない途切れがちの空の空

 「荒れ放題の猫じゃらし」「時間」「意識/無意識」という自然と概念が交錯しながら「目蓋」「鼻孔」という「肉体」とぶつかる。「肉体」のなかに、美しい自然(荒々しい自然)と制御しきれない概念がぶつかり、それが「音」になって聞こえるということなのだろうか。
 一篇ではわからないが、詩集になったときに形になる何かがあるのかな?



 手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(初出『おやすみの先の、詩篇』2月)は詩集の感想を書いたと思うけれど……。そのときは違う詩を取り上げたかもしれないが。

目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、
のり越えなければならなかった視界は 暗碧の底にしずみ、
湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす
熱望のうちにも、日輪は 小さくなろうとする体内から、徐々に耀きわたってゆくのがわかる

 小林は読点「、」は書いているが句点「。」はつかっていない。また読点のほかに「1字空白」をつかって文字を読みやすくさせている。かるい息継ぎはあるが、ことばを「文章」として独立させるということを避けているように思える。「持続」を重視しているのかもしれない。
 「持続」にはいくつもの種類がある。
 「目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、」というのは一種の「矛盾」。目をつむれば、周辺の闇がどういう状態か見えない。その見えないものを想像力で存在させている。「つむる」と「ひらく」という、目にとっては反対の動き(動詞)が、その矛盾を結合させる。同じ「目」を主語とする「動詞」が「目(肉体)」のなかで絡み合う。「肉体」が新しく目覚める。こういうことばの動きは、私は好きである。
 「湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす」には、「湧き出る」と「過ぎる」という「動詞」がある。「持続」を中心から遠方へと拡大する動きがある。そしてそれは単なる拡大(拡張)ではなく、「ゆらす」という「動詞」といっしょにある。一直線の拡大/拡張を否定する。これも「矛盾」のひとつか。
 こういうことを「句点」(完全なる切断)を拒んだ形で動かしていく。そうして、

飛散する光の条(すじ)-- ここではりんかくに混じるのも、りんかくを跨ぐのも、お手のもの
あの孤悲(こい)びとのいた方角を見上げ、左右の隙間を大きく侵蝕して行きながら
脈絡のない物事のうちを漂い、縺れ合っていった

 次々にことばを「縺れ合わせる」。これは別種の「接続」。「脈絡」は関係がない。「脈絡」というのは「整然としたつながり(接続)」のことだが、句点という完全な「切断」がないとき、そこには「接続」も意識されることはない。「接続」という意識がないから「もつれる」のである。何かを切断しないことには接続は完結しない。切断と接続はひとつのセットである。「接続」も切断(何かを選択して切り離す)のひとつなのに、それがおこなわれていないから「縺れる」。
 で、そういう「縺れ合い」の象徴が「孤悲びと」という奇妙なことば。
 それは手塚に言わせれば「飛散する光の条」のような強烈なインスピレーションということになるのかもしれない。手塚の「選択(切断)」を超越したことばの「縺れ合い」が生み出した「事実」。つまり「詩」。
 「縺れ合い」が激しくなって、それが「結晶」のように固くなってのかもしれない。
 それはそれで、「思想(肉体)」のありかたとしてわかるけれど。わかったつもりになるけれど……。
 手塚がさらにどんなセンチメンタルなことばを生み出すのかわからないが、私は、こういう「文字」に頼ったことばは好きになれない。私は詩を音読するわけではないが、ことばは「音」だと思っている。「文字」はことばではない、と感じている。
 単なる「好み」の違いと言われればそれまでだが、私は「好み」を捨てられない。

でらしね
小林 坩堝
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何日かあとになって、

2014-12-14 01:26:56 | 
何日かあとになって、

道を混同したのか、季節を間違えたのか
何日もあとになって地下鉄の別の出口を思い出す。
階段をのぼりおわると正面にキンコーズ、
隣の四季を売る店ではトマトとレモンと何があっただろう。
そのひとはどこにもいなくて、
道路をわたった向こう側にはスターバックス、
通りの光がガラスを通って入ってくるのを見ていた。

道を混同したのか、季節を間違えたのか
何日かあとになって、
あのときと同じように地下鉄の通路の椅子に座って、
キオスクのバケツに無造作に花が投げ込まれているのを見ている。
別の階段を降りてきたところにあるキオスクの、



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金時鐘「朝に」、倉橋健一「パンの朝」、小池昌代「さかのぼる馬の首」

2014-12-13 10:24:17 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
金時鐘「朝に」、倉橋健一「パンの朝」、小池昌代「さかのぼる馬の首」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 金時鐘「朝に」(初出「朝日新聞」2月4日)は世界と詩人との「ずれ」のようなものを書いている。世界に溢れる映像(他人が見た世界の間接的表現)と詩人の認識の「ずれ」。それに向き合っている。

新年の三が日はどの番組からも
開年を言祝(ことほ)ぐお笑いがあふれ出ていた。
画面いっぱい共感をつのらせて
くっきり霊峰富士も映えていた。
裾野がかすむはるかな東北で
錆びついたブランコは垂れたまま
きしりひとつ立てなかった。
終日風が吹きすさび
男は彫像となって枯れ木の陰にいた。
頬のゆるんだ私が
見るともなくそれを見やっていた。

 ぼんやりした倦怠のようなものを感じる。「頬のゆるんだ私」が倦怠を感じさせるのかもしれない。自分の気持ちにあわない世界(他人が「定型」におしこめた世界)をみつめると、世界が自分から離れていって、倦怠感がただようのか。「開年」ということばは聞かないなあ、言わないなあ、「霊峰富士」という言い方はいやだなあ、と私は、行ったり来たりしながら、ちょっとつまずくのだが……。
 途中を省略して、

今に草木も萌え出る新春だ。
帰りつけない住処(すみか)ではあっても
蔓草(つるくさ)は延び 花は咲く。
羊歯(しだ)が生い茂った中生代までも
あるいは持ち越さねばならない空漠の時間が
そのことろで滞っている。

 あ、ぼんやりとテレビを見るふりをしながら、ぼんやりのなかに「既成」の視点を捨てていたのか。テレビが伝える「定型」をくぐりながら、「定型」を捨てていたのか。「定型」を捨てて「時間」をつかみ取っているのか。
 人為を超えて、繰り返す自然の「時間」が「蔓草」「羊歯」という「野生」の強い草花を通って動きはじめる。そして、

私は水仙のような懸念をまたひとつ
胸にかかえて
風のなかをさざめいている

 この3行のあとに、もう1行あるのだが、それを無視して、私はここで「誤読」する。この3行が美しいと思う。
 蔓草や羊歯の生命力に気づいた詩人が、それに呼応するように胸のなかに水仙を咲かせている。自分のなかに花開いたものをかかえている。それは「懸念」と表現されているが、「正しい懸念」(希望につながる懸念)であるだろう。
 「意味」をさがそうとは思わない。「意味」は何とでも書くことができる。「水仙」は象徴である。何の象徴かは考えず、象徴とだけわかればいい。そして、その「水仙」が見えれば、それでいいと思う。
 このとき詩人の頬は「ゆるんで」いないと私は感じる。既成の「定型」を破って、突然花開く1行--そこに詩の不思議さがあると思う。



倉橋健一「パンの朝」(初出『唐辛子になった赤ん坊』2月)は「文体」が詩である。

砂浜に降りていってしゃがみ込んで
<曾(ひい)>の字を書いて遊んでいたら
椿の杖をついた媼が近づいて
おまえのひばばだよ、ひばばだよ、
ついて来な、という
もぐもぐする口元は
よく生きていたな、生きていたな、
といっているようにも見える
そこでわたしは立ち上がるが
おばばの胸のあたりでぴたりととまってしまった
背伸びしても伸びないのだ

 昔話(民話)風の不条理な世界。「曾の字を書いて遊ぶ」などということを、誰もしない(だろう)。そこからすでに不条理なのだが、ことばが隠れている「現実」を引き出すということはある。ことばにすることは、最近あちこちでみかける概念をつかって言えば「分節」すること。「分節」によって「世界」の見え方は違う。どういうことばをつかうかによって、世界が変わってしまうのはあたりまえのことなのだ。だから「曾」から「いま」の世界とは違う世界がはじまっても不思議はない。「遊び」なら、なおさらである。「いま」と「永遠(普遍/真実)」を攪拌して「いま」ではないものを生きるのが「遊び」だ。
 「よく生きていたな、生きていたな」は老婆が「もぐもぐ」言っていることばなのだが、それは「わたし(倉橋)」が老婆に感じていることそのものである。年老いた女がこどもに向かって「よく生きていたな」というのは時系列からいうと変なのだが、「こんなに幼くてよく生きていられる」という驚き(自分は苦労して生きてきたという思い)が、ことばの「意味」をを「逆転」させるのだろう。その「逆転」のなかで、幼い倉橋と老婆が「一体」になる。「よく生きていたな」はどちらのことばにもなる。
 「一体」になってしまったから、「わたし」が立ち上がっても、老婆の思い描いている「曾孫」のままの大きさより大きくはなれない。
 この先、詩はさらに不条理の世界へ進んで行くが、ことばはゆるぎがない。「悪夢」を「分節」しつづける。



 小池昌代「さかのぼる馬の首」(初出「樹林」2月号)は、倉橋が「一体感」の悪夢として「民話」風のことばにしているものを、「現代」のまま描こうとしているようにも読むことができる。--「文体」として、という意味だが……。

宿り木を見たのはある詩人の庭だった
世界のなかに世界 木のなかにもう一本の木
存在の畸型に 胸を打たれた
あなたに昨日、木のおもかげが走ったように
あるとき木にあなたのおもかげが 素早く横切っても不思議はない

 「木のおもかげ」「あなかのおもかげ」が「あなた」と「木」のあいだで交代する。そのときの突然の変化、「分節」の崩壊の「場」に詩がある。「分節の崩壊」という「詩/新しい分節の方向」を小池は「民話」にならないように動かしていこうとしている。「畸型」を「分節」しなおして、「正しい形(?)」にしようとしている。「正しい論理」にしようとしている。

止まるところを探してはぐれた鳥が
ある日
木の腕から落ちてきた
石に次々に翼が生え 鳥になった民話がどこかにあったが
翼をもったものが
石となって 落下し続ける山峡もあるという
地獄だが
それは落ちることによって地獄なのではなく
落ちる生というものが
永遠に続くことによって地獄なのである

 「民話」ということばを出しているのは、「民話があった」と書くことでそこへ近づくのではなく、そこから離れようとする意図があるからだ。そこに「いま」を書こうとする小池の意思も感じられるのだが、なんだかことばが「理詰め」すぎる。リズムも先を急ぎすぎて乱れているように感じる。
 詩ではなく、小説にすると落ち着くかもしれないと思った。

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何度も思い返すのだが、

2014-12-13 00:51:47 | 
何度も思い返すのだが、

何度も思い返すのだが、思い返すたびに同じ場所を通ってしまう。
靴屋の明るいウインドーを左手に見ながら角を曲がる。
「蔦が二階まで這い上り、
もう上には何もないとわかってしかたなく横に広がったみたい」
蔦の真ん中で四角い窓が夕陽をななめに反射させている。
その光のためになかは見えないように
そのひとは横顔で片方の目を反対側に隠していた。
こころは見えなかったと思いたいけれど、
しかたなくということばが冷たく反射していると気づいた。
何度も思い返すのだが、
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長谷川龍生「途上(みち)」、荒川洋治「錫」ほか

2014-12-12 11:25:40 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
長谷川龍生「途上(みち)」、荒川洋治「錫」、加納由将「空に」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 長谷川龍生「途上(みち)」(初出「愛媛新聞」1月1日)は「途上」を「みち」と読ませている。そして、そこに「みち」という表記もでてくる。

瀬戸内の弓削島から
宇和内の日振島まで
中世水軍の海の途上(みち)を追う
胸いっぱいエネルギーが湧く

古代湖沼のみち 古墳へのみち
湯のみち 戦乱のみち
遍路のみち 百姓一揆のみち
鉱山へのみち 自由民権へのみち
俳聖へのみち

正岡子規から河東碧梧桐 高浜虚子へ
別のみちが走っている 種田山頭火

 1連目の「途上(みち)」は、水軍がとおった水路(海路)というよりも、水軍が大暴れしながら勢力を拡大していった「歴史」という感じなのだろうか。海のうえを通りながら長谷川の思いは、単なる「水路」というよりも歴史を呼吸している。だから「途上」なのだろうか。
 そうすると2連目は?
 「肉体」で追認せず、ただ想像力で追いかけている「みち」? さまざまな「みち(道)」があるなあとは思っても、それを「途上」として肉体に引きつけて具合的に感じてはいない、ということか。
 「肉体(胸)」で感じるものと、「頭」で感じるものを区別しているのだろうか。
 違うなあ、きっと。
 3連目は、「俳句」とひとことでいってしまうけれど、その「俳句」にもいろいろな「みち」がある。「別のみち」と書いているのがおもしろい。「同じ」にみえても、ほんとうは「別」のみち。
 子規、碧梧桐、虚子、山頭火にも、それぞれ「途上」という感覚はあっただろう。長谷川は、いろいろな「みち」を「途上」として確かめられたらおもしろいだろうと考えているのだろう。
 「途上」というのは、「途中」。それこそ「胸いっぱいエネルギーが湧く」感じだ。それが爆発して「途上」をつきやぶって、確立される。それが「みち」かな?
 だとしたら「みち」よりも、「途上」の方がおもしろいかも。どこで爆発する? 爆発したらどうなる? わからない、わくわく。
 「みち」を「途上」にかえて、追体験する。追体験をとおして、新しい「みち」になるまで自分を暴走させる--というのは楽しいだろう。

愛媛という場所は不思議だ
飽きない歴史が積みかさなっている
二十一世紀のはじめ
新しい途上(みち)は 何か
老いも 若きも 身を震わしている



 荒川洋治「錫」(初出「奥の細道」1、2月)は、2連目が非常におもしろい。

女性の店員が
急に視角をはずれ
厨房のかげで
練習をはじめる
「いらっしゃいませ」
「………………」
「ご注文の品、これで
おそろいでしょうか」
何回か繰り返し
特別な店ではないのに
出てくるものは なにもかもおいしく

 どこの店だろう。詩のつづきを読むと「大垣」という地名が出てくる。「大垣の内側にいる」という行が最後の行だ。きっと「大垣」にある店。あまり客も多くないのかもしれないけれど、あ、そこへ行ってみたい。店員が「練習」しているのを聞いてみたいと思う。
 きっと何を食べてもおいしい。
 「おいしい」のなかには「人間」がいる。食べ物をつくって、出してくれるひとがいる。そういうひとと「出会う」という感じが「おいしい」。
 最終行の「内側」とは、そういうひとの動き。何かをつくりだす「動き」。
 荒川は、それを「ありきたり」の感じ、「無意識」の感じにまでならして(ことばの技巧、いいかえると「わざと」を消して)、ことばにする。
 ほかの連にもいろいろなことが書いてあるのだが、2連目だけで私は「満腹」になる。「とてもおいしい」と満足してしまう。


 
 加納由将「空に」(初出『夢見の丘へ』2月)。

縁に
座って
ぼんやり考える

あの空の向こうには
何かが
隠れている気がする

空の向こうに
鋭い
獣の
視線を感じて
睨み返す
それは大きい
空白なのか

 「獣の鋭い視線」ではなく「鋭い獣の視線」。「鋭い」という「印象」が最初に加納をつかまえている。「鋭い」をそのあとで「獣」「視線」とつないでゆく。見えない何か(隠れているもの)をさがそうとする意識の動きが、そのことばの動きのなかにあって、ここが詩のハイライトだなと思うのだが、「それは大きい/空白なのか」は、私の感じでは「嘘っぽい」。「獣」と「空白」は、どうもなじまない。私が「固定観念」にとらわれているのかもしれないが。

空には
きりがなくて
箱庭の対話が広がっていく

 この最終連は、とてもつまらない。「箱庭」はほんとうの「箱庭」か、自分の家の庭を「箱庭」と比喩にしたのかわからないが、空の向こうと対話しきれずに「箱庭」にもどってしまうのだったら、空の向こうを見る必要もないだろう。
 空の向こうへの「途上」を突き破って、空の向こう側に行ってしまうのが詩ではないのだろうか。空の向こう側を「内側」にしてしまうのが詩ではないのだろうか。


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雨の降った日、

2014-12-12 01:34:36 | 
雨の降った日、

雨の降った日、
天神から六本松へ向かうバスを降りて歩きはじめる。
もしかしたらこの道だったかもしれない。
ただそう思いたいだけのために雨に濡れるのだ。
舗道に置かれた金属の丸いテーブルや金網でできた椅子のように。

それから記憶を新しくするために古いレコードを売っている店に入る。
知っているレコードが昔のままのジャケットに入って
売れ残っているのを確かめる。
気が楽になるのだった。理由もなく。
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瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」ほか

2014-12-11 11:52:09 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
吉田文憲「隕石が」、瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」、中村稔「原発建屋のある風景」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 吉田文憲「隕石が」(初出「東京新聞」13年12月28日)は、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。「そのとき、ああ隕石が降ってくる、と私は思った」という行があるので、この「隕石」は比喩かもしれない。しかし、何の比喩なのか。

目覚めたとき、絨毯のうえには手の形をしたふたつの影が動いていた。そこに朝の光が流れていた。

どのような時が過ぎつつあったのだろうか--

だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか--

 朝、目覚めて、きのうの夜を思い出しているのだろうか。「だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか」はセックスを感じさせておもしろいけれど、肝心のセックスが見えてこない。宇宙とのセックスを書いているかな?



 瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」(初出「LEIDEN雷電」5、1月)は文体が強靱である。朔太郎を冒頭に引用したあと、

「太陽は美しく輝き……」と私は記したいのだ。けれどいま空はこのとおり暗いのだから、
私はただ「太陽が美しく輝くことを願い……」と書きつけることしかできない。

 と、はじまる。「記したい」ことがある。けれど、それは「事実(現実)」とは違うので、自分の欲望を抑えて(否定して)、というか、「欲望」の形を「願い」ということばで補足して「現実の世界」だけではなく、自分の「真理の世界」を「事実」として書いていく。
 「事実」とは「現象」と「心理」を合体させたところに生まれる。そういう意識がことばの運動を制御している。その制御する力が瀬尾の「文体」である。瀬尾のことばには、ことばを制御して「事実」を確立するという意思の力が働いている。

私たちがある決意によって互いの手をかたく組み合わせ、
誰にも気づかれることなく山に向かって歩いていった。
それはほんらい深い過去の時制で語られるべきできごとだったが、
その決意へとあの日私たちを誘いかけたものが何だったのか、
いま私はそれを物語的現在によって語ろうと思う。

 「深い過去の時制」。これは、ヨーロッパの言語にみられる「大過去」のようなもの、「過去完了形」のようなものだろうか。日本語の時制は、私にはとてもあいまいなものにみえる。
 小説を読んでいても、たとえば山登りの描写で、「険しい崖をのぼった。(過去)頂上に着いた。(過去)遠い海が見える。(現在)風が吹いてくる。(現在)気持ちがいい。(現在)」という具合に、「過去」のできごとなのに、感覚が動き回るとき、突然、その動きが「現在形」として書かれることがある。
 そういう日本語の「時制」の問題を意識した上で

そう、たとえそれが何で「ある」にもせよ、その同じ声に
二人がともに誘われて「いる」ということを動かしようのない事実として、
私はいまも信じて「いる」。誘いの声の「現在」を知らない人たちは、
鳥が鳴いているね、それらはこれからもずっと鳴き続けるだろうよ
草木が囁いているね、それらはこのさきも変わることなく囁き続けるのだよ
などと言うであろう。「そのとき」のことを私は「いま」と言うのだが、
「いま」私たちは、世界のなかで鳥が鳴くのはもうこれっきりだ
草木の囁き続けるのを聴くのはもうこれっきりだ、という意志によってかたく結び合わせれるまま、
それら無辺広大の讃歌を聴いていたのだ。

 と、つづける。
 瀬尾は、ここでは「何を」語るかではなく、「どう語るか」をテーマにしている。「意志」ということばがでてくるが、瀬尾にとっては、ことばは「意志」なのだ。
 すべてを「ある」「いる」という「現在(存在論)」から出発して世界を確立させる。そういう「意志」が働いている。「存在論」への「意志」が動いている。
 で、この詩にしても、私には「何が」書いてあるのか、わからないのだけれど、ある「意志」で書かれていることがわかる。瀬尾は「書く」ことの「意志」について考え、そのなかでことばを制御している、ということが「わかる」。(私の「わかる」は「誤読できる」という意味だが……。)
 そして、瀬尾は制御しつづける、という「暴走」をする。
 過去時制で書いていた文を、感動のあまり現在時制にかえてしまうというのは、日本人にはごく普通のことであって、そこに「意志」が働いている(文学の技法が意識されている)とはなかなか思わないものである。この例は、瀬尾がここで書いている「時制」についての適切な例ではないかもしれないが--、そのふつう、ひとがなかなか思わないことを、あくまでも思いつづける。考えつづけ、ことばをどこまでもゆるぎのない形で動かすというのが瀬尾の姿勢である。その「持続」(あるいは、統一、といった方が瀬尾を理解するのには有効かも……)の力がゆるまない。力がゆるまないから、それを私は「暴走」と感じてしまう。
 かっこいい。
 この文体は真似してみたい。
 「深い過去の時制」という表現から、私は、瀬尾はこういう文体を「深い過去の時制」をもつ「言語」を読むことで身に着けたのだと想像する。外国の文体に触れることで、日本の文体がもたない「細部の意識」を手に入れたのだと思う。日本人が意識しない部分にまで意識をめぐらせ、そこからことばを動かすという方法を自分のものにしたのだと思う。
 外国のことばを読むことで、そのことばによって書かれた「意味」ではなく、「意味」以前の「文体のなかの意識」(ことばの肉体)をつかみ取り、それを瀬尾は自分のものにしている。
 だから、かっこよく、美しい。



 中村稔「原発建屋のある風景」(初出「ユリイカ」1月号)には「永遠」ということばがでてくる。

海は凪ぎ、波がうち寄せ、うち返し、
波がうち寄せ、うち返し、永遠が海辺に停止している。
なかば屋根の破れた壁や破れた建屋を白い風が吹き抜ける。
建屋の床に散乱する瓦礫、溶解した金属類など。

 この「永遠」は「絶対的な美しさ」のようにひとを引きつける何かではない。どうすることもできない「不可能」である。「不可能」が「停止している」。そして、この「停止している」も単に「止まっている」とも違う。それは、何かを「疎外している(妨害している)」。何をか。ふつう、私たちが「永遠」ということばで思い描く絶対的な正しい「真理」のようなものを邪魔している。それの正反対のものがそこにあって、それがあるために私たちは「理想の永遠」に近づけない。拒まれている。
 ことばが、流通している「意味」とは違うものをかかえながら動くとき、そこにそのことばを動かす詩人の「意志」があらわれる。「意志」があらわれる詩は強い。
 詩は志を述べるもの--とは考えないけれど、私は、こういう「意志」をもった「文体」が好きである。「意味」よりも、「文体」に「正直」を感じる。「肉体(思想)」を感じる。

アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
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六本松一号公園

2014-12-11 00:21:12 | 
六本松一号公園

六本松一号公園には背もたれと座面が木でできたベンチが二つ。
雨に洗われ、日に灼かれ、風に晒されて頑固な木目が浮かび上がっている。
この公園にも時間が通って行ったのだとわかる。
ことばは、冬の日に背中を温めながら、そこで本を開く。
ときどき奥のやぶの方をみつめる。それから、
本のなかのことばと共通の過去について話し合う。
どうやって抜け出してきたか、そしてここからどうやって抜け出すか。
奥の砂場で犬が寝転んで砂浴びをする。こどもが笑う。
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城戸朱理「白のFRAGILE」ほか

2014-12-10 23:00:18 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
城戸朱理「白のFRAGILE」、倉田比羽子「追憶の国 ひとりの夜に--」、福間健二「彼女に会いに行く」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 城戸朱理「白のFRAGILE」(初出「江古田文学」84、13年12月)は「抒情」に城戸自身が夢中になっている感じがする。そうか、こんなふうにことばに酔うのか。

春雨は巻き毛のような若葉をじっとりと濡らすが
秋の雨は、あたりをただ白くけぶらせていく

手を伸ばすなら、指まで染まりそうな紅葉

 「春雨」に対して「秋雨」ではなく「秋の雨」。これは「音」の差異なのか、「意味」の差異なのか。その差異を選んだ「肉体」が見えない。私は、まず、ここでつまずく。対になった行で、書き出しのことばが対を装いながら、微妙にずれる。
 これは技巧? 何のための?
 わけのわからない「違和感」が残る。そのためだろうか。2連目の「手を伸ばすなら」の「なら」にも、あれっと思う。
 書かれている「意味」はわかる。いや、わかったつもりになるけれど、実はわからないといった方がいいのだと思う。
 私なら「手を伸ばせば」と常套句にしてしまう。「手を伸ばせば、指まで染まる」。そのとき、手は想像力のなかで、もう伸びて、紅葉に指先が触れている。
 「伸ばすなら」でも「意味」は同じなのか。
 「春雨」が次の行の「秋の雨」と対になっていることへの「違和感」に通じるものが「手を伸ばすなら」に残ってしまう。
 だいたい何かに感動したとき(強い印象を受けたとき)、ことばは短くなるのがふつうである。「伸ばすなら」よりも「伸ばせば」の方が音が少ない。それだけ速く動く。あざやかな紅葉にびっくりしているなら、それが「常套句」と批判されようと、私は「常套句」を選ぶなあ。「常套句」というのは考えずにすむ。それだけことばが速く動く。
 なぜ「伸ばすなら」とまわり道をして、しかもそのあとに読点「、」まであるのだろう。
 ことばに酔う、「抒情」に酔って、そこから離れたくないという感じがする。そんなに長い詩ではないのに、この2連だけでとても長い感じがしてしまう。
 このあと「白」は「紅く」はならずに、「白いシーツ」「しろい肌」へと動き、「赤らみ」ということばも経るけれど、さらに「白い花」へと動いている。「白い花」はきっと「死」を飾る花だろう。「死」に色はないが、「白い死」なんだろうなあ。さらに「白」を省略した形で、最後の2連。

三日もすれば 冬になる
きっと 雪が降るだろう

そして、わたしは
雪の匂いがする手紙を受け取るだろう

 その手紙は白い便箋に書かれているのだろう。
 この最後の2連では、私はまたまた違和感を覚えた。最初の2連とリズムが違いすぎる。別の作品という感じ。「意味」は「白(雪/便箋)」でつながっている。でも、ことばのリズムはつながっていない。「春雨」「秋の雨」のように。
 私は、こういうリズムの変化は苦手だ。「意味」は「頭」でわかるが(わかったつもりになるが)、「肉体」がついていけない。



 倉田比羽子「追憶の国 ひとりの夜に--」(初出「詩客」13年12月20日)は情報量が多いなあ。ことばが多いなあ、とまず感じてしまう。

時がたち 小高い丘の上の墓地では骨の人はこころを粉々に砕いた
一片一片、無数のこころのしこりを刃にして
魂を振りあげながら墓の下から転がりでてくる
無言の「強要」に謎めいた叫びをあげる異形の野犬や梟や黒カラスを引きつれる
贖われることのないままに阿鼻叫喚の墓標がつぎつぎ新しく取り替えられるまえに
光なき星の声に導かれるように満月に骨身を透かし 吐息は人類不在の風に乗り

 つぎつぎにあらわれることば。多すぎて、イメージが拡散する。拡散させたいのかもしれないけれど、ことばの数に酔っているようにも感じる。酔っている感じはわかるが、勝手に(?)酔われると、ちょっと気持ちが覚めてしまう。同じようには酔えない。
 特に

無言の「強要」に

 ということばの、わざわざ括弧付きで書いてある部分に、あ、わかりません、と言いたくなる。倉田には「意味」があるのだろうけれど、記号(カギ括弧)で「意味」を代弁させずに、もっと「肉体」をくぐらせたことばで書いてほしいなあと思う。
 そう思っていると、2連目は3字下げで……。(引用は3字下げずにするが。)

「花一つ、花一つさえ
この身をおさめた柩にそなえるな。
友一人、友一人さえ、
悲しみの野辺の送りに従うな。
人知れぬ山奥の地に、この身を
埋めておくれ、
墓を見てまことの愛に泣くものを
避けるために。」---

 あ、いいなあ。対句はリズムもしっかり踏まえているし、起承転結もある。--と思ったら、シェイクスピア『十二夜』(小田島雄志訳)と注にある。
 シェイクスピアと比較してはいけないのかもしれないけれど、私はシェイクスピアの、口に出して気持ちよくなる音の方が好きだなあ。情報は少ない方がうれしいなあ。「追憶」なら、とくにことばは少ない方が切実に響くのでは、と思う。



 福間健二「彼女に会いに行く」(初出「江古田文学」84、13年12月)は、比喩と意味の関係がよくわからない。

彼女に会いに行く。
自分のものだと言い切りたい。
労働の音を、全身でアレンジして
彼女の好きな
迷子のうた
脱水に入った
洗濯機のようにうなりながら

 「脱水に入った/洗濯機のようにうなりながら」という比喩は、「比喩」であることを忘れてしまって「もの(洗濯機)」が見える。とても気持ちがいい。というか、「納得」してしまう。福間がどういうつもりで書いたのかわからないが、そこに書かれていることが「わかる」。(誤読できる。)でも、

労働の音

 って、何? 福間が(と仮定しておく)働いているときの、福間自身の「肉体」のたてる音? 福間が働いているとき「頭」が動く音? それとも福間の周囲にある何かが動く音? 引用しなかったが、その前にでてくる「搾取の手を動かして」ということと関係があるのかな? 搾取の音?
 「労働の音」が比喩になりきれていない。「意味」だけを伝えようとしている。そのくせ「意味」にもなっていない。「論理」が見えてこない。比喩を書こうとしてるということだけ、わかる。(この「わかる」は勘違いなのだろうけれど。)

なにが食べたい?
ラーメン
ライスの小をつけて
しまりにくい蓋のかわりというわけじゃないよ。

 この最終連も、何のことかわからない。ラーメンを食べたいのは福間? それとも彼女?
 詩に「意味」を求めるわけじゃないけれど、「意味」がないのも、どうかなあ。「意味」が書いてあって、しかし、「意味」を超える何かに引きつけられ、「意味」を忘れてしまうというのが詩ではないのかな?

漂流物
城戸 朱理
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北川透『現代詩論集成1』(14)

2014-12-10 11:37:29 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(14)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十三 意味の偏向 比喩論の位相

 「荒地」の総論として、この「意味の偏向」という指摘はとてもおもしろかった。「荒地」の比喩論の重視は経験を新しくする、経験をひろげるという態度から起きていると書いたあと、北川はつづける。

詩の言語に即して言えば、比喩によって、ことばの意味の転位・拡充・強調をめざすということになろうか。                      ( 294ページ)

 ここに幾つかの問題が視えてくるだろう。意味の比較の過程を、<のような>によって明らかにしている直喩の形式においても、意味論だけで考えることは不十分だということが一つである。あるいは次に検討する暗喩も、意味論で解こうとした「荒地」派の偏向は、比喩を重視しつつも、それを不自由にしたのではないか、ということが考えられる。
                                ( 296ページ)

 私が引用している部分だけでは「意味(論理)」がわかりにくいかもしれないが、私の「日記」は北川の論の紹介ではなくて、北川のことばを読んで私が何を考えたかを書いているので、わかりにくさを承知で書きつづけると……。
 私は「比喩(直喩/暗喩)」を「意味」で解くという指摘から、その逆のことを考えた。逆というのは、「読む」ではなく「書く」方から北川の書いていることを言いなおすと、「荒地」は「意味」を「比喩」で書こうとしたのではないか。(もっとも、これは私の考えというよりも、北川の視点だと思う。私の引用した部分は、たまたま詩の「比喩を読み解く」という部分のことばの運動について書いているだけで、「詩を書く」という視点から言えば、必然的に「意味を比喩で書く」になると思う。)
 「意味(論理)」というものは、ひとに共有されることで成立し、世界を支配していくものだから、無数に見えても意外と単純な何かに還元されてしまう。「戦争はいけない」とか「人を殺してはいけない」とか、「労働に支払われる対価が少ないのは許せない」とか。その「意味(論理)」はいくら「真実」であっても、なかなかひろがらない。また、逆の言い方もできる。「意味」はどうとでもこじつけることができる。「戦争はいけいないというが、誰かが侵略してきて、あなたの大切な人を殺そうとしたら、それを見ているだけでいいのか。あなたの大切なひとを守るために、侵略者と戦わないのはなぜなのか」。「意味(論理)」は「真実」ではなく、ひとを動かす(支配する)「方便」なのである。
 「ない」ものを考える。「ない」が「ある」と考えることができると、考えた古代ギリシャの時代から「論理(意味)」というのは、常に「反対の意味」をひきつれて動いている。どうとも言えるのが「意味」であり、どうとも言えるからこそ「弁論」というものも生まれたのだろう。
 で、詩は、そういう「意味」から逸脱しようとする行為のように私には思える。
 「意味」を個人的なものに染め上げてしまう。個人的な体験や、個人的な「感覚」で染め上げてしまう。「意味」と「個人的体験/感覚(非論理)」が結びついたとき、それは「思想(肉体)」になる。「荒地」の詩人たちは、私の「感覚(直観)の意見」では、「意味」を「比喩」で語ることで、その「意味」を「肉体」にかえたのだと思う。
 「肉体」を「文体」と言いかえるといいのかもしれない。「荒地」の詩人たちは、それまでの詩の「文体」とは違った、独特の「文体」をつくりあげた。「意味」を「意味」のまま語るのではなく、「比喩」として語る。「比喩」はそれまで存在しなかった「ことばの運動の形式」だ。その詩人独自の「ことばの動き」。「意味」ではなく、その「独特の動き」を見せる。「独特の動き」が「私である(私という固体、肉体は存在する)」と主張する。
 それは「永遠」のように見える。「真実」のように見える。--と、書いてしまうと、飛躍しすぎるが、私には、そう感じられる。
 言いなおすと。
 北村太郎の「管のごとき存在」という「比喩」は、その比喩によって「意味」を逸脱して、「意味」以上に意味になる。そこに北村自身がでてきて、「意味」を北村のなかに隠してしまう。そういうことが人間にはできる。そういう「運動」の仕方、ことばの動かし方の可能性が「永遠の真実」として迫ってくる。そういうことばの運動を自分でも動かしてみたい、動かせるのだということを気持ちを引き起こさせる。「意味」ではなく、「私になる(なりたい)」という「欲望」がそのとき「共有」される(伝染する)。「本能」が共有される。「本能」こそが「永遠の真実」である。「肉体の真実」である、と私は思うのだが、これも「直観の意見」。「意味」がつたわるようには、私には、まだ書くことができないことだけれど……。

 私が書いたことを、強引に、北川の書いている文章に結びつけてしまうと。
 北川は田村隆一の「繃帯をして雨は曲がつていつた」という行を取り上げて、こう書いている。

わたしには、雨が繃帯をしているイメージの直接性のうちに、田村の戦後現実があったのだと思う。                           ( 297ページ)

 この文章の「直接性」が「肉体(思想)」。それは「切り離せない」。「意味」のように簡単には他者と共有できない。愛するか、憎むか。いっしょにいるときに、どんなふうにふるまうかが問題になってくる。「意味」のように、それだけを取り出して、その「意味」のもとに団結する(支配する)という具合には動かない、一種の「うらぎり」のような、わがまま。
 人間は「意味」ではなく、自分とは切り離せない何かを生きている。「意味」を媒介にせずに、「世界」と「直接」触れている。
 その触れ方を「比喩」として表現し、「比喩」こそが「思想(肉体)」なのだと「荒地」の詩人は主張したのかもしれない。

「荒地」の意味への偏向は、ほんとうは単なる言語の指示機能としての意味ではなく、いわば存在の意味ともいうべき、より根源的な意味へ通じるものであっただろう。
                                ( 303ページ)

 北川の書いている「根源的な意味」を、私は、そんなふうに読んだ。(長い間をあけてしまったので、前に書いた感想と関連性が弱くなってしまった、かも。)

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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