詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「最も重要な隣国」と施政方針演説

2018-01-24 15:35:35 | 自民党憲法改正草案を読む
「最も重要な隣国」と施政方針演説
             自民党憲法改正草案を読む/番外169(情報の読み方)

 2018年1月24日の読売新聞(西部版・14版)の一面に、

首相 平昌五輪出席へ/開会式 日韓首脳会談 調整

 という見出し。
 あれ、出席しないと言い張っていたのでは?
 記事にこうある。

 安倍首相は、2月9日に韓国で開幕する平昌冬季五輪の開会式に出席する意向を固めた。訪韓中に文在寅大統領と会談する方向で調整している。慰安婦問題の日韓合意を巡る韓国側の対応に国内では反発が強いが、北朝鮮の核・ミサイル問題を踏まえ、日韓両国の連携維持を重視した。

 というよりも、北朝鮮の五輪参加(合同チーム)の「和平ムード」に取り残されまいとして必死なのだろう。
 対応が遅すぎる。
 それに。
 22日の「施政方針演説」では、日韓関係に触れた部分で、これまでつかってきた「最も重要な隣国」という表現をつかっていない。言い換えると「削除」した。これまでつかっていた表現をやめるというのは、それが定着して「常識」になったときと、その表現が気にくわなくなったときである。安倍の演説では、後者である。「慰安婦問題の日韓合意を巡る韓国側の対応に」苛立ち、「最も重要な隣国」をやめた。
 でも、これではまずいと思いなおして五輪に出席しようというのだろうが、ちぐはぐだねえ。何も考えずにことばをつかい、行動している。

 というのは、まあ、前置き。
 22日の安倍の「施政方針演説」。いろいろなポイントがあるが、「改憲」が一番のポイントだと思うので、そのことだけについて書いておく。
 二点ある。

(1)年末に向け、防衛大綱の見直しも進めてまいります。専守防衛は当然の大前提としながら、従来の延長線上ではなく国民を守るために真に必要な防衛力のあるべき姿を見定めてまいります。

 「専守防衛は当然の大前提としながら」と「従来の延長線上ではなく」は矛盾する。「従来の延長線でない」なら、それは「専守防衛」ではないだろう。攻撃されたら守るではなく、攻撃される前に攻める、だろう。「先制攻撃が最大の防御である」というのは、あらゆる「戦い」の原則のようなもの。そこへ踏み出す。
 安倍は「安全保障政策において、根幹となるのは、自らが行う努力であります。厳しさを増す安全保障環境の現実を直視し、イージス・アショア、スタンド・オフ・ミサイルを導入するなど、我が国防衛力を強化します。」と言うが、それは「防衛力」ではなく「攻撃力」の強化だろう。

(2)50年、100年先の未来を見据えた国創りを行う。国のかたち、理想の姿を語るのは憲法です。各党が憲法の具体的な案を国会に持ち寄り、憲法審査会において、議論を深め、前に進めていくことを期待しています。

 「各党が憲法の具体的な案を国会に持ち寄り」は、「わな」である。
 安倍は「改憲(特に自衛隊を憲法に書き加える)」を狙っている。そのことへの「対案」は「憲法を変えない」「自衛隊を憲法に書き加えない」である。つまり「対案なし」が一番の対案なのである。
 もし「対案」があるとするならば、「自衛隊の活動範囲は、日本の領空、領海、領土に限定される。それ以外の活動はいかなるものも禁止する」というしかないだろう。これは「戦争法(集団的自衛権)」を完全に否定する「案」である。
 しかし、私は、こういう「案」も「対案」として提出するのは、安倍の策略にのってしまうことだと考えている。
 少し前に、与野党の質問時間がとりざたされた。与党の議員が多いのに質問時間が少ない、議席数にあわせて配分すべきである、という「意見」である。暴論である。与党が提出してくる案に対して野党が質問する。質問と答弁は「半々」である。それなのに「質問時間」だけをとりあげて問題にすることは、民主主義を否定する。
 そして、このときの「意見」を踏まえて言うと。
 野党が「対案」を出した場合、与党が質問する。その質問時間は「与野党の議席配分」に比例したものになるかもしれない。審議時間の総量がかわらないなかで、与党の質問が増えるということは、逆に見れば野党の質問時間が減るということである。つまり、野党が「自民答案」の問題点を指摘する時間が減ってしまう。それなのに、「総量時間」を一定にしておいて、「〇時間審議した。議論は尽くした」という形で、「審議終了」になる。
 強行採決になる。
 これは、目に見えている。
 こういうことをさせないためにも、野党は「対案」など出してはいけない。自民党案の問題点を徹底的に追及しないといけない。
 自民党はすでに「案」を「しぼらせない」作戦、言い得ると批判の焦点を隠すという作戦を取り始めている。
 最初の「自民党改憲推進本部」では「たたき台」を出したのに、12月の会議では、9条改正に対する「案」を二案併記にしている。それも明確な「文言」を公表していない。
 憲法にかぎらず法律は「文言」である。それをどう解釈するか、どう運用するかが重要なのに、肝心の「文言」がない。これでは「議論」にならない。
 安倍は国民に議論をさせない作戦(沈黙作戦)を一貫して取り続けている。「権力を拘束するための憲法」さえも、かってに解釈し、その解釈に対する国民の批判を封じている。
 安倍の「沈黙作戦」に乗らないために(乗せられないために)、何をすべきなのか、そのことを考えないといけない。

 何度も書いているが、また書いておく。
 安倍は天皇に「天皇は国政に関する権能を有しない」ということを明言させ、沈黙させた。新年のことばも封印した。天皇さえ沈黙し安倍に従っている。国民は安倍の独裁を沈黙して受け入れるべきだと考えている。独裁を押しつけている。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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「天皇の悲鳴」(補足)

2018-01-24 09:53:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「天皇の悲鳴」(補足)
             自民党憲法改正草案を読む/番外168(情報の読み方)

 松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」を見ながら、言い残したこと、「天皇の悲鳴」で書き残したことを思い出した。
 2016年7月の参院選のあと、籾井NHKが「天皇生前退位の意向」をスクープした。「生前退位」ということばは、皇后が「胸が傷んだ」と悲鳴を上げるまで報道機関でつかわれつづけた。皇后の悲鳴のあと、突然「生前」がとれ、「退位」という表現になった。これは、とても重大な変化である。

 「生前退位」の「生前」の意味を考え直してみよう。
 「生前」ということばは、私は誰かが死んだとき、「生前はお世話になりました」と聞くくらいで、日常的には聞かない。「生前」は「生きていた以前は」という意味だろう。「死ぬ前は」という意味だが、「死ぬ」ということばを避けるために「生前」というのだろう。
 ということは。
 「生前退位」の「生前」ということばも「死ぬ前」という意味であり、「死ぬ」ということばを避けているということにならないか。
 何が言いたいかというと。
 「生前退位」ということばを思いついた人は、意識の中で天皇は「死んだ」と思っている。意識の中で天皇を殺しているのである。
 こういうことばは、天皇の周辺(皇室、宮内庁)からは出てこないだろうと思う。皇后も、「それまでに読んだことがなかった」と婉曲的に、そのことを語っている。
 つまり、天皇の生存、あるいは天皇の活動を「邪魔」と感じている人間の意識が、無意識に天皇を殺害し、「生前退位」ということばを思いついたのだ。
 天皇は、平成元年に即位するとき「国民とともに憲法を守る」と言っている。
 この「護憲」の姿勢が邪魔だと感じる人が、「生前退位」ということばを思いついたのだ。なぜ「護憲派天皇」が邪魔なのか。天皇が「護憲」の立場を示す(そういうことばを語る、あるいは行動をする)と、国民は「護憲」に傾くかもしれない。それでは困ると思う人がいる。
 だれか。安倍である。官邸である。
 ここからも、「生前退位の意向」のニュース源は官邸であるということがわかると思う。








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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」

2018-01-23 12:17:23 | 自民党憲法改正草案を読む
 松井久子監督「不思議なクニの憲法2018」のデモ版(サンプルムービー)が完成した。私もインタビューされている。
 それを見て、とても驚いた。
 撮影は大濠公園と自宅で約1時間半くらい。つかうのは1分くらいだろうなあと思っていた。宮崎美子は黒沢明監督の「乱」で「拘束三日、出演3分」とか言っていたし、実際にはもしかしたらあれが宮崎美子?というくらいの印象しかない。私は憲法学者でもないし、特に活動(運動)をしているわけでもない。
 なのに、けっこう長いのだ。
 さらに額のはげ上がり、顔のシミという「加齢」がとてもめだつ。
 ということよりも。

 「要約」(編集)がとても簡潔にまとまっている。
 「天皇の悲鳴」「憲法9条改正、これでいいのか」「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」に書いたようなことを語ったのだが、言いたいことが全部網羅されている。そうか、私はこういうことが言いたかったのだと、改めて思った次第。
 私はもっぱら一人で書いて(書きっぱなし)で、他人の手で「編集」されるという経験をしたことがない。「ひとりよがり」でことばを書いているだけだ。他人の意識を通り抜け、整理されることで「余分」がなくなった。
 その結果、言い漏らしていること、私がほんとうに言いたいことも明確に自覚できた。
 いまとりざたされている憲法改正(改悪)では、9条と自衛隊との関係が一番の焦点である。そしてもっぱら、「自衛隊」を憲法に書き加えるかどうかが重要視されている。しかし、私は、それと同時に問題にしなければならないことがあると思う。

 憲法改正には
(1)何を変えるか(何をつけくわえるか)
(2)どう変えるか(文言をどうするか)
という2点から点検していかないといけない。
(1)が重要視されるために、(2)は見落としがちになる。
 実際に改憲案が発議されたら、(2)はあまり議論の対象にはならないだろうと思う。(1)に意識が集中すると思う。
 でも(2)の方に、重大なものが含まれていることがある。
 9条に関して言えば、2017年7月の「自民党憲法改正推進本部」がまとめたたたき台では「9条」はそのままにしておいて、「9条の2」を追加するという案だった。
 その内容は

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。


 すでに書いてきたことなので簡略化して書くと。
 私が問題視するのは、「(国民は)解釈してはならない」「内閣総理大臣は、(略)自衛隊の最高の指揮監督権を有し」というような部分である。
 国民が「主語(主役)」の憲法に、突然「内閣総理大臣」が割り込んできて「解釈してはならない」「私が最高指揮官である」と主張している。
 これは「自衛隊」を「書き加える」かどうか以上に重要だ。
 総理大臣が、国民に対して「こう解釈してはならない」(こう考えてはいけない)というのは思想の自由、表現の自由を侵すことである。「独裁」である。
 この「文言」は「戦争時」だけではなく、あらゆるときに適用される危険がある。「戦争」にならなくても、「独裁」をできる、ということにつながる。
 文言にこそ、ことばの細部にこそ「思想」の本質がある。 
 安倍は国を守るためではなく、独裁を推し進めるために「戦争」を利用しようとしている。国民の平和や安全はどうでもよくて、ただ独裁者になりたいだけなのだ。
 「天皇の悲鳴」で書いたのも、そういうことだった。
 高齢になった天皇が、皇太子に天皇という「地位」を継いでもらい、「象徴としての務め」を果たしてもらいたいと願うことを、「譲位」ではなく「生前退位」と言うのはなぜなのか。だれが「生前退位」と言い始めたのか。(天皇ではないだろう。)
 さらに天皇が国民に語りかけるとき、どういうことばをつかったか。そのことばのなかに、天皇の「思想」が見える。さらに政府の「動き」が見える。
 天皇退位→皇太子の天皇即位という目に見える変化以上に重要なものがある。
 ことばには、もっともっとこだわらないといけないのだ。

 そういうことを、もっと書いていこうと思った。

 「不思議なクニの憲法2018」の公式サイトは
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 上映会情報ものっています。
 名古屋市東区桜坂の「名演小劇場」(052・931・1701)では、2月3日-2月16日まで公開です。

「天皇の悲鳴」はオンデマンド出版。一般書店では手に入りません。
下記のサイトから発注してください。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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小川三郎「帰路」

2018-01-23 11:15:13 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「帰路」(「Down Beat」11、2017年12月30日発行)

 小川三郎は、名前に癖がなさ過ぎて(?)、ちょっと見落としそうなところがある。作品もどういえばいいのか、「絢爛豪華」という感じがない。一見、癖がない、という感じで、どこから感想を書き始めようか私は悩んでしまう。
 「帰路」は、こうはじまる。

道のまん中に
大きな岩が転がっていて
それ以上は進めなかった。

 これは地震とか大雨のあととかに報道されるニュースの一こまのよう。何か災害があったのだろう、と想像する。平凡なことばで語られているので、「これが詩?」と思ってしまう。詩は「新奇なことば」で書かれている、という思いが私の肉体の中に残っているから、そう思ってしまう。
 二連目。

岩は
空から落ちてきたに違いなかった
昨夜あたり
きっとどーんと落ちてきたのだ。

 これは詩というより童話かな? 童話ならありそうな描写だ。昔の物語(昔話)にもあるかもしれない。岩が「空から」落ちてくる、というのは現実にはありえない、と私は思っている。
 三連目。

岩に近づいて
匂いを嗅いでみる。
鉄の青臭い匂いがする。

 おっ、と思う。
 ここで、「感想を書いてみたいなあ」と思う。
 岩の匂いを嗅ぐ、か。その匂いは近づくことで「わかる」匂いだ。「近づいて」が、そのことを語っている。匂いを嗅いで、それが鉄の匂いだと思う。どうして鉄の匂いだと思ったかというと「青臭い」からだ。この「青臭い」に小川の「肉体」が動いている。刃物を砥石で研いだあと、「青臭い」匂いがたしかにする。錆を落として、「生々しくなった」鉄、刃物の「生々しさ」の匂いだ。
 小川は、刃物を研いだことがあるのかな? 私はいなかの百姓の子供なので、鎌なんかをとがされた。包丁も研いだことがある。そのときの、いわば「危険」ととなりあわせの「生々しい」匂いを思い出す。「青臭い」と「青」が混じり込むのは、刃物の「青光り」のせいかもしれない。
 このあと、小川の詩は、また「展開」する。

とても人間的な匂いだ。
子供のころ
友達はみんな
こんな匂いをしていた。

 小川は「青臭い」を「人間的」と言いなおしている。さらにその「人間的」を「子供」と言いなおしている。「大人」のにおいではないのだ。「青臭い」は。
 未成熟な考えを「青臭い」というが、しかし、「子供」の「青臭い」は「未成熟」ではないだろうなあ。やはり、「生々しい」だろうなあ。「未成熟」以前なのだ。「未成熟」には「成熟」を感じさせるものがあって「未成熟」ということばになる。「未成熟」の「未」以前が「青臭い」なのだろう。
 私は、そんなことを考える。
 最終連は、また新しい展開である。

私と岩は
一緒にゆっくりと地面にめり込んでいった。

 あ、そうか。何かを思い出すということは、こういうことなのかと思う。思い出すというよりも、思い出にのめりこまれていく、思い出の中に沈んでいくというのが思い出すということなのか。
 岩から鉄の青臭い匂いがする。青臭い匂いは子供のころの友達の匂い。それを思い出すとき、小川は子供になっている。子供になって、その匂いを嗅いでいる。いま、小川は「子供の世界」にいる。
 これを小川が「子供の世界」に入っていったということもできるし、「子供の世界」が小川を包み込んだということもできる。でも、それでは何かが「不十分」だ。だから、小川はそれを「めり込んでいった」と言う。
 「青臭い」匂いの発見と同じように、この「めり込んでいった」(めり込む)という「動詞」が発見されているのだ。
 「一緒に」ということばも大事だ。小川は「岩」とも「青臭い匂い」とも「友達」とも「一体」になっている。何かと「一緒」(一体)になることを「めり込む」と言うのだ。
 これは三連目の「近づく」からはじまっている。小川の思想(肉体)のキーワードは「近づく」という動詞かもしれない。対象に「近づいて」「一緒になる」。そこから詩がはじまる。小川だけのことばが動く。

 同じ号の「夏下」も不思議な詩だ。どこか「俳句」に通じる「太さ」がある。目新しいというよりも、「いつもそこにある」という感じの「強さ」がある。ことばに「嘘」とか「見え」とかがない。
 

*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。

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象とY字路
小川 三郎
思潮社
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植村初子『SONG BOOK』

2018-01-22 08:43:58 | 詩集
植村初子『SONG BOOK』(土曜美術社出版販売、2017年12月25日発行)

 植村初子『SONG BOOK』は「物語(意味)」を展開する詩が書きたいのかもしれないが。
 私が読んでいて楽しいのは、たとえば「ねむれない夜のために」次のような部分。

まよなかに ねむれなくて
ほこりをみて いることがあるでしょう
電気スタンドに 吸われたり
吐きだされたりする ほこり       

 埃を見てる。けれど、電気スタンドを見ているかもしれない。吸ったり、吐いたりしている。それは植村かもしれない。「それ」というのは、電気スタンドであり、埃。区別がなくなる。

身じろぎすると それらがわきたち
むらがり
ひとつのほこりは ゆっくりせんかい
ひとつはなだれて くだったり上昇したり
光をのせて いるので
そんなものを みていたりするでしょう

 「身じろぎする」という植村の「肉体」が小さなものに響いている。埃の動きは植村の動きなのである。植村の肉体の中で何かが動いている。それが埃に反映している。光にも反映している。
 とりあえず「ほこり」と読んでいるが、「ほこり」ではなく、途中に出てくる「それら」。そのことばこそが植村の見ているものを指し示していると思う。「それら」と呼んでしまう何か。「それ」というのは植村にはわかっている「認識」、「それ」と思わずよぶしかないものである。「ほこり」という名詞で、「私とは違う存在」を指し示すのではなく、「それ」という形で「私とつながりのある何か」とし指し示すしかないもの。
 この「それら」は、また出てくる。

こういうとき あるでしょう
身をうごかすと ずっとあとで
ぬうっと ほこりがわきあがり
方々に焦点をおいて 銀河のようにまわり
やがて それらがいなくなる

 「それら」と同時に「こういうとき」がつかわれている。「こう」(これ)としか呼べないもの。自分にはとてもよくわかる。わかりすぎて、「名詞(具体的存在)」にできない。言おうとすると、「こう(これ)」が先に出てしまう。それは「私の外」にあるのではなく、むしろ「私の内」にある。「私の肉体」として動いている。

身をうごかすと ずっとあとで

 この「ずっとあとで」もおもしろい。「あと」になって「わかる」。「あと」になってことばが動く。「肉体」から出て、その直後(あるいは同時)ではなく、「あと」になって「わかる」。それらが「いなくなる(消えてしまう)」と、あ、こういうことがあったのだと「過去形」で「わかる」、そういう「現在」。
 「渚にそって走る」の次の部分も楽しい。

車窓のガラスからは
日が沈んだあとの
街が遠くまで見えてそれはちいさな大小の貝殻のようだった
そのさきのさきに続きのように
大きな開いた空がのこっていて うちよせる
雲は動かない波 息を止めたしぶきのようで
電車のなかから見るそれは ずっとつづいていた

 「それ」と呼んでしまうもの。「それ」と呼びなおしてしまうもの。その瞬間に、「世界」が植村独自のものになる。植村が「世界」の方へ出て行く。植村の見ているものが植村になる。
 こういう「世界」を「物語(意味)」にするには、主人公(登場人物)は「私」そのものになってしまう。その「私」に、どうとどまるか、という問題を植村は解決して書いてはいないような気がする。
 「五月・キツネの祠」は、この詩集の中では微妙な位置にある。「私」と「私の分離(私以外の人間になる)」の接点があり、書き出しがおもしろい。

あそこを通ると
いきなり 石段が招くように
あるので のぼっていった

どうしてのぼっていくのだろう
もう人の年月をかなりすごしてきたのだけれど
そこには時間がぽとぽとと
うすい木の陰ごとにおちている

 「あそこ」と突然はじまる。そして二連目に「そこ」が出てくると、「時間がぽとぽとと/うすい木の陰ごとにおちている」と、ことばでしか言えないものが書かれる。「それはちいさな大小の貝殻のようだった」は「ようだ」ということばで「直喩」と明確にわかるが、この「時間が……」も「比喩」なのである。
 「比喩」とは、こんなふうに「肉体」と強烈に結びついているとき、詩になる。


*


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石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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SONG BOOK
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田代田「ヒト」

2018-01-21 08:52:58 | 詩(雑誌・同人誌)
田代田「ヒト」(「孑孑」75、2018年01月01日発行)

 田代田「ヒト」を読みながら、私は、を、うさんくさい人だなあと思う。まあ、それが「魅力」なのだが。
 何がうさんくさいかと言うと。
 思っていることと、言うことが違う。いや、最後には思っていることを言ってしまうから、これは正しくない言い方なのだが。思っていることを、思っているままの状態で持続し、最後にそれを披露する。それを言うまでは、そのことをまるで考えていないようだが、ずーっと考えている。こういう、裏表の生き方がねえ。私は、うさんくさいと思う。別な言い方をすると、「強い」ということなんだろうけれど。
 抽象的に言ってもしようがない。「ヒト」は、こんな作品。

人間は実に厄介な生き物である
という新聞の見出しが飛び込んできたのだが、
扨、
どのあたりが厄介でどなたの記事か興味はわいても朝は実にせわしなく加えて
時間も切迫していて
窓際ベッドわきの床に今朝も
夥しく広がる
放尿でできた水溜まりと格闘せねばならない作業にとりかかっていたのだった
新聞をおき広げた新聞紙を吸い取り紙にしてせっせと床の尿を拭き取る
記事を読まずともこれだけで
人間は実に厄介な生き物である
と呟いてもいるアタシなのだった

 「アタシ」はどこかの施設で介護の仕事をしているのか。朝の仕事は、床に広がる放尿の水溜まりの掃除から始まる。その仕事は「やっかいだ」。新聞で見かけた「見出し」がそのまま「アタシ」の感想になる。
 でも、この「やっかいだ」というのは新聞に書いているあ「人間は実に厄介な生き物である」と一致するかどうかはわからない。新聞の記事(見出し)が定義している「厄介」は違うものかもしれない。たぶん「違う」だろう。
 「違う」を承知していながら、それに「口裏」をあわせるようにして、うん、やっかいだと言う。そして、自分の肉体が体験している「やっかい」を語り始める。認知症の人の排尿の世話をするのは「やっかい」だ。特に、あちこちに勝手に排尿したものを掃除するのは「やっかい」だ。この「やっかい」というのは、「批判」でもあるね。
 これを、田代はさらに詳しく、具体的に語り始める。

件のオクダイラさん(♀)はベッドに腰を掛け
あーら、ごくろうさんねえ
と声をかけて下さり静かに衣類をたたんでいる隣室の
カミカワさん(♂)はクローゼットの前が水漏れしていると訴えに今日も来た
厄介なのはトイレに入ったとしても事は同じということだ
カミワカさん(♂)は便器の蓋を開けない
付きっ切りでいるわけにもいかないので油断が厄介な時を運んでくれるのだった

 「人間は厄介な生き物である」の「人間」は、ここでは「他人」になっている。しかも、それは夜中に排尿する「他人」(痴呆症の他人)、あるいはトイレを自分ひとりできちんとできない「他人」と言いなおすことができる。「他人」を批判して「やっかい」と言っていることになる。
 「アタシ(自分)」を含んでいない。「人間」という「一般的」な定義は、ここでは適用されていない。
 これが、この詩の最初のポイント。
 排尿の後始末をするというのは「アタシ」にとって「やっかい」ではあるが、その「やっかい」と実は「他人」に起因している。それは「自分」に起因していない。「やっかい」な仕事をさせられる。そういう「やっかい」な仕事を生み出す人間を「やっかい」と呼ぶ。「自分(アタシ)」とは「違う」人間を「やっかい」と呼ぶのであって、「自分(アタシ)」自身は「厄介な人間」であるとは、田代は定義していない。
 このまま終われば、この詩は、まあ、介護の仕事をしているひとの「ぐち」になる。そして、同じように介護で苦労している人の「感想」のまとめになる。
 それはそれで、ひとつの世界なのだが、田代のことばは、ここで終わらない。
 認知症の人の排尿を描写したあと、突然、飛躍する。

人間の脳というものは夜中に活動し始めていたのだろうか本来は
いつ外的に襲われるか眠ってもいられなかったのが本来の脳の仕組みかもしれない
脳が弛緩すると本来が出てくる
一人目覚め二人目覚め三人目覚め薄明かりの中で夢遊病者のごとく
出口を探して歩き回るのだ

 夜中に歩き回る(そして排尿する)のは、夜に警戒する人間の「本来(本能)」の目覚めということになる。何も気にせずに眠り続けているのは「本能(本来)」とは違った状態である。人間らしくないということになる。
 認知症になる(脳が弛緩する)と、「本能」が目覚めてくる。夜中に目を覚ます。人間は「本来(本能)」にもどってしまう。
 この「本来(本能)」にもどってしまうことを、「アタシ」は「厄介」と捉えなおす。「厄介」だけれど、それを「本来(本能)」という形で「肯定」する。「批判」が突然消えてしまう。
 そして、その「批判」をかき消す「本来」に田代は乗り移る。「接続する」というよりも、乗っ取るという感じだ。

 田代は、ずーっと「肯定」を探していたのである。
 「人間は実に厄介な生き物である」というとき、その「厄介」には「肯定」の意味はみつけにくい。たぶん「否定」の意味を感じてしまう。
 そして実際、他人の排尿のあとしまつをするというのは「厄介」というとき、ところかまわず排尿する行為を「否定」している。それを「正しい」とは受け止めていない。少なくとも、そこに「排尿されている」ということは「否定」している。そこに尿があるということを「否定」するために、後片付けをしている。
 でも、後片付けをするのは、生きている人を「否定」するためではない。生きていることを支える(肯定する)ためである。人を介護するのは、その人のいのちを肯定しているからである。ないがしろにされるいのちを肯定する、もう一度輝かせるために介護する。いのちを肯定するのが「アタシ」の仕事である。
 ここから、「いのちを肯定すること」「いのちを発見してしまうこと」を「やっかい」と言いなおしてもかまわない。なぜ、「やっかい」か。そういうことを発見してしまえば、それをしなくてはならなくなる。気づいたからには、それをする。見逃してはいけない。見捨ててはいけない。背負い込まなければならない。仕事が増える。「やっかい」だ。で、そこから先にはまだまだ書かなければならないことがあるのだが、書き始めると面倒なので省略。

 私の書きたいことは、別のこと。
 「うさんくさい」にもどる。

 田代の、「やっかい」に対するとらえ方の変化、「否定」が「肯定」に変わるまでのことばの動き(口ぶり)を振り返ってみたい。

件のオクダイラさん(♀)はベッドに腰を掛け
あーら、ごくろうさんねえ
と声をかけて下さり静かに衣類をたたんでいる隣室の
カミカワさん(♂)はクローゼットの前が水漏れしていると訴えたに今日も来た

 ここには「批判(否定)」が含まれていない。「下さり」というのは「敬語」表現である。静かな「尊敬」がある。まあ、そこまで拡大解釈する必要はないのかもしれないが、ここでは田代は「他人のことば」を受け入れている。「何を言っているんだ」というような「さめた視線」がない。受け入れることは、その人を「肯定」することである。
 田代は他者を一度も非難しないのである。だから、「肯定」へと、ぐいと入っていくことができる。
 これを「うさんくさい」と言ってはいけないのだろう。たぶん人間の「深い知恵」を体得している、「いのちを愛する強い力」と呼ぶべきものなのだろう。
 でも、私にはそういうことができないなあと思う。田代は、私にはできないことをさらりとやってのける。その「さらり」を支えている力を「うさんくさい」と感じるのは、よくないことなのだが……。
 あ、この人は(田代は)、いろいろな人を見てきているのだなあ、いろいろな人を見た上で「人間に共通するいのち」をみつめようとしている。その「いろいろい」の「幅のひろさ」が、私と田代を隔てる。この「いろいろ」から私を見つめなおされるのは嫌かもしれない。いや、「嫌だなあ」。そういう気持ちになる。で、「うさんくさい」という思いが、ふっと、わいてくる。
 別な言い方をすると。
 こんな簡単に(?)「否定」から「肯定」へと移行するなら、「肯定」から「否定」へも楽々と移行するかもしれない。油断がならないぞ、とどこかで思ってしまう。私は単純な人間なので、私を油断させてくれる、私よりも単純な人が好きなのだ。無邪気な人が好きなのだ。
 あ、こういうことは詩の感想とは別のことなのかなあ。
 でも、いいか。書いてしまったのだから。



*


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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」

2018-01-20 12:22:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」(「something 」26、2017年12月30日発行)

 池田瑛子「坂」は書き出しがおもしろい。

ふと 時が立ちどまり
夜を抜けて
曲がりくねった
坂道を登っていく

 「時が立ちどまり」の「時」をどう読むか。
 「時間が止まったように感じられる」という表現がある。過ぎてゆくものが過ぎてゆかずに、異様にくっきりと見える。過ぎて行ってほしいものが過ぎていかずに、圧迫感を感じる。そのときの「主語」は「私」であり、「私は」「感じる」という動詞に結びついている。
 それに似ているが、何か違う。
 「立ちどまり」ということばには「立つ」という動詞が含まれている。この「立つ」は「とまる」を強調しているのだろうけれど、「強調」に私は「意思」を感じてしまう。「主体性」と言ってもいいかもしれない。「人間性」と言った方がいいのかもしれない。
 「時」という「概念(?)」が「立ちどまった」というよりも、「人」が「時」そのものになって、「立ちどまった」。「時」を「私(池田)」であると、私は「誤読」するのである。「立ちどまる」ことで、「時(間)」そのものになっていく。
 「時間」になるとは、どういうことか。

縄文広場に低い囁きがたちこめ
硬い芽が息をひそめる
木蓮の大きな裸木に手を振り
丘の斜辺に広がってゆく
墓地は雪が降り積もって
青い月の光に洗われている

 「時間」は一般的に「過去-現在-未来」へと動いていく。その「動き」そのものが意識される、意識と重なるということが「時間になる」ということだ。
 「縄文広場」というのは、それがほんとうにあるのかどうか知らないが、遠い「過去」を意識させる。「硬い芽」はやがて開くという「未来」を感じさせる。その「過去」と「未来」のあいだにあって、「今(現在)」は「青い月の光に洗われている」。これは、見方によっては文学の「定型」だなあと思う。あまりおもしろくはないのだが。

木蓮の大きな裸木に手を振り

 この一行が、不思議だ。
 「誰」が「手を振る」のか。
 私はここでも「誤読」するのである。「裸木に手を振る」とあるけれど、「裸木が手を振る」と読む。
 「時が(立ち)どまる」というとき、「時」を客観的に見ている「私」がいる。「時」と「私」は別個の存在。しかし、「時」となって「立ちどまる」ときは「時」は「主観」になる。他者であるべきものと「私」が「同一」のことを「主観的」というのかもしれない。「主観」によって「対象」が「対象」として認識されない。「主観」によって「対象」をゆがめてしまうことを「主観的」という。
 それと同じように、「裸木に手を振る」というとき、「裸木」と手を振る「誰か」は別個の存在だが、「主観」が木に乗り移り、木となって「自己描写」する。木は手を振るように枝を振り、その手(枝)を丘の斜面に広げてゆく。「客観的」には「広がってゆく」だが「主観的」には「広げてゆく」。
 「主観」と「客観」が、ときどき微妙に重なり、動いている。あるいは「客観」を装いながら「主観」の動きそのものを描いている。
 「時(間)」は「物理(科学)」の世界では「客観的」な単位だが、人間にとっては自在に伸び縮みする「主観」を映し出すものかもしれない。

地中深く埋められた蓮池が
妖しい風を生みながら
撓む竹林に抱かれて
顕れてくる

 これも「客観的描写」と読んだのでは、「文学定型」に終わってしまうが、ここに書かれている「もの」のすべてが、その瞬間瞬間の池田なのだと「誤読」すると、違った世界があらわれる。
 「蓮池」は埋められているが、埋めたのは池田であり、その埋められた「蓮池」は池田でもある。「蓮池」は「池」だが「蓮」そのものでもある。妖しい風を「生む」のは「(蓮)池」か「蓮」か、わからない。どちらでもなく、そのことばを動かしている池田自身である。池を埋めたはずの池田が、「池」になり「蓮」になり、風を「生み出す」。
 「撓む竹(林)」も「撓む」は竹を描写することばなのか、「竹」が「撓む」という「動詞」を呼び寄せているか、言い換えると「撓む」という「動詞」となってそこに存在しているか、「二重」に読む必要がある。
 「蓮池」「風」「竹林」を結びつける「抱かれる」という動詞も「抱く/抱かれる」の両方として読む必要がある。「抱く」というときの「主語」は「抱かれる対象」よりも大きいが、それは「見方」にすぎない。
 そういう「世界」が「見方」にすぎないというのは、

顕れてくる

 という動詞で、強く描かれている。
 それは「顕れ方」にすぎない。言い換えると「描写」の「手順」にすぎない。「客観」を基準にした「表現の形」にすぎない。
 それは「手順」であるにしても、あるいは「手順」だからこそ、その「手順」を生み出している「主体」へと視線を向ける必要がある。「顕れてくる」のは「客観的世界」ではなく、池田の「主観的世界」である。「顕れてくる」のではなく、「顕れるようにしている」、「顕す」、生み出しているのである。

 このあと、詩は、かなりつまらなくなるのだが、「時が立ちどまり」から「顕れてくる」までの「主観(主体)」と「客観(対象)」の交錯は、とても刺戟的だ。



 田島安江「ミミへの旅」。池田の作品と通じる部分がある。私は目が悪くて40分限定でパソコンに向かっているので、端折って書くしかないのだが。

だんだん何かが壊れていく気がする。ねえ、ここって、
駅からこんなに近かったかしら。ハシモトさんはけら
けらと笑う。そうか、知らないんだ。町はずっと少し
ずつ西に移動しているんだよ。駅からは遠すぎたから。
こんなに近づいたんだ。え、どうして。なぜって、気
持ちだよ。駅へと近づくなんて、気持ちが動くだろう。
いいんだ。このことは一部の人しか知らないんだ。

 「客観」ではなく「主観=気持ち」が動く。「主観」が動きながら「世界」を生み出していく。「主観」が「世界」になっていく。その「主観の世界」では「時間」や「空間(距離)」さえ「客観」ではない。

わたしは壁に貼られたメモをみる。途切れたレールの
先の止まらない列車。鉄橋を渡る列車は、行く先なん
て知らない。崩れていく感覚だけは残る。

 「残る」は、「主観」が「残る」のである。「客観」ではない。「客観」があるとしたら、その「ない」ということが「客観」だろう。
岸辺に
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小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
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岡野絵里子「Winterning」

2018-01-19 08:31:50 | 詩(雑誌・同人誌)
岡野絵里子「Winterning」(「彼方へ」、2017年12月20日発行)

 岡野絵里子「Winterning」は「星霜」と「果実」から構成されている。ことばがとても静かだ。

人の駅に列車が着き
待たれていた荷が降ろされると
声は一つ一つの上に積もる

 「人の駅」ということばが印象的だ。「固有名詞」ではないが、「一般名詞」というのでもない。「人」が主役の駅。「人」が集まってくる。でも、その人たちは駅を利用してどこかへ行くわけではない。利用はするが、利用の仕方が列車の移動に結びつかない。
 「待たれていた」がそのことを語る。「人」は待っている。それも「人」を待つのではなく「荷」を待っている。そこまで「人の駅」の意味がわかる。「荷物の駅」ではない、という意味なのだ。しかし、それは「荷物の駅」ではないけれど、「荷物の駅」だからこそ「人の駅」と呼ばれる。「荷物を受け取る人の駅」。「荷物」と「人」は切り離せない。「人が荷物を受け取るためにやってくる駅」を「人の駅」という。
 「荷物」の上に「人」はかがみ込む。「荷物」を識別する。そのときの描写が「声は一つ一つの上に積もる」なのだが、これは「人の声は、一つ一つの荷物の上に積もる」である。声を出して、確かめている。何かが書かれているかもしれない。それを読み上げているというこもあるだろう。何も書かれていなくても識別できるのかもしれない。
 たとえば、その「荷」が「牛」ならば、それを育てている人はそこに何も書かれていなくても自分の牛を識別できる。他人の牛も識別できる、ということでもある。

人の齢は厳しい暮らしの数で数えられ
「彼は七十もの冬を越えた」と
荷を運ぶ男たちは言い
昏い後ろ姿になって
牛舎に急ぐ

 牛ではなく、牛に関する何かかもしれない。わからないけれど、その私にはわからない「荷(物)」のまわりには、「人」の暮らしがあり、その暮らしを「人」が共有していることがわかる。「人」は「人」を互いに知っている。そしてその「人」は「人」だけではなく、「人」を含んだ暮らし全部である。

灯が地の影を渡り
月の長い指が触れる山の裾
そこでは
天を巡る星と 地に降りた霜で
人々は歳月を数え
脆くなった土を踏む
野菜は樽に漬けられて
春を待って並び
塩をまぶされた葉と茎は
みしみしと冷気の底で賑わう

 「月の長い指が触れる山の裾」がとても美しい。月を光を指と呼ぶ。そしてそれを「触れる」という動詞でひきついでいる。まるで「人」が「月の光」になって、「山の裾」に「触れる」感じ。
 「山の裾」には「人の暮らし」がある。その「暮らし」、「暮らしの人」そのものに「触れる」のだ。互いに「触れ合い」生きている。
 「人の駅」ということばのなかに、「人」と「荷(物)」の深いつながりがあったように、「触れる」ということばのなかには「人」と「暮らし」の切り離せないつながりがある。そういうことを感じさせる。
 すべてが「一体」になっている。
 「人」と「月の光」と「山の裾」の「暮らし」は、「触れる」ことで一つになっている。
 後半は、白菜漬けのことが書かれているのだろうか。「荷(物)」は「漬け物」に関係するものだったか。よくわからない。わからないが、そこに書かれている情景は「人」と「暮らし」を思い起こさせる。その「暮らし」を、そこに生きる人はみんなわかっている。白菜の「葉と茎」、さらに「塩」の関係もわかっている。
 それは「風景/情景」というよりも、「ひとりの肉体(自分自身の肉体)」のような感じだ。
 「月の光」を見れば、「肉体」は「月の光」になって、「山の裾」に触れることになるのだが、触れた瞬間から「肉体」は「山の裾」にもなっている。そこに続いている「暮らし」のすべてになって、新しく生まれている。
 こういう「変化」のすべてを総称して「賑わう」と言う。

秋の枝々から摘まれ
運ばれて来た果実はどれも今
光の底で静かだ
一房を掌に乗せる人は
その重みで季節を計り
夢に鎮まる土地の名を思い出す

 ここに描かれている「果実」はブドウかもしれない。「一房」ということばがブドウを思い出させる。
 この数行が美しいのは、ことばが互いに「往き来」しているからだ。ブドウを摘む手、ブドウを乗せる掌、そこで感じる重みはブドウそのものの重さであり、ブドウを育てたその人の歳月(季節)の重さ、その人自身の「働き」の重さでもある。すべては「ひとつ」になる。「夢」になる。その夢の特徴は「鎮まる」という動きにある。「夢」は遠くへいくのではない。ここから離れるのではない。ふつう、「夢」は現実から「離れる」もの、あるいは「離れる」ことだが、岡野の描いている「夢」は「離れない」。むしろ、「ひとつになる」。結晶する。定着する。静かになる。
 「土地」ということばは「土地」だけをあらわしているのではない。「人」を含めて指し示している。「夢」のなかで、それはひとつに「鎮まる」。
 


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福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』(2)

2018-01-18 08:21:05 | 詩集
福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』(2)(港の人、2018年1月11日発行)

 きのうは書かなかった「好きな詩」というのは、「船霊さん」。島のおばあさんが「ボートに乗る作法」を教えてくれたという。「乗るときはなぁ 船霊(ふなだま)さんにちゃんと頼まなあかんよ」という。でも、こういうことは福田には納得がゆかない。
 (原文は行頭がそろっていないのだが、そろえた形で引用する。)

船霊さん どこにお祀りするんだろう
小さな舟だから祭壇もないだろうし
神様とか 鳥居とか キツネや犬 うさぎとかの動物の絵が書いてあるのかな?

ほれはのぉ 知らんのよ 誰も
知ったらあかんのよ 誰も

 ここが詩になっているのは、福田が自分のことばを総動員しているからである。「頭」ではなく「肉体」で覚えていることを引っ張りだしてきている。「霊に頼む」ということを福田は自分自身でしたことがないかもしれないが、おばあさんの世代が祈っているのは見たことがあるだろう。
 おばあさんの「頼む」ということばを手がかりに、「お祀り」ということばを思い起こしている。「祀る」から「祭壇」を呼び起こし、「神様」を呼び起こし、「鳥居」「キツネ」とことばが動いていく。神社、稲荷神社のキツネという具合だ。犬はこまいぬか。「うさぎ」というのは「いなばのうさぎ」だろうか。それは「解説書(あんちょこ)」には登場しないものである。「あんちょこ」があるかもしれないが、福田はそういうものに頼らずに自分の覚えていることを動かしている。そして、尋ねている。
 おばあさんは「知らんのよ」と言ったあと「知ったらあかんのよ」と答えている。これに対して、福田は、その答えを受け入れている。知らないのに存在しているといえるのか、なぜ知ってはいけないのかというようなことを問い詰めていない。
 きのう読んだ詩では、自分のことばを「エートス」と要約し、その「要約」を答えのように掲げていてたが、ここでは「答えのことば」がない。「知ったらあかん」、ことばにしてはいけないことがある。それを「そのようなもの」として受け入れている。
 この詩の最後。

シノさんは小舟に向かって掌をあわせた
私もシノさんに倣って掌をあわせた

 「頼む」「祈る」が「掌をあわせる」と言いなおされている。そしてそれは「肉体」でとらえなおされている。「掌をあわせる」ことが「頼む」「祈る」ことであると、福田はわかっている。「知っている(知識)」ではなく、「わかっている」。
 だれかに「倣って」掌をあわせたのは、福田にとって、今回が初めてではないだろう。そういう「こと」を何回か繰り返していて、それを「覚えている」ので、(倣うことは、習うにつながる)、「掌をあわせる」ことが「頼む」こと、「祈る」ことだと「わかる」。「肉体」がことばを通り越して、いま起きていることを「わかる」。
 ことばは、そのことにまだ追いついていない。「掌をあわせた」と過去形で書いている。ことばは、遅れてやってくるのである。そして、ことばは「こと」に永遠に追いつけないし、追い越すこともできない。それでも書かざるを得ない。
 またこのときの「わかる」は、「頼む」「祈る」という「こと」を通り越して、おばあさん(シノさん)を「わかる」につながる。ひとつ何かが「わかる」と、そのひとつのこと(ここでは「頼む」「祈る」)をとおして、全部につながり、全部が「わかる」のだ。

 さて。
 きのうの詩。「エートス」ということばを福田は、この詩のおばあさんの「いのり」のように、福田自身の「肉体」で「倣った」かどうか。私は「倣った」と理解していない。福田は「頭」で「理解した」だけだと思う。「肉体」で「倣った」ことばなら、「肉体」が動くはずである。
 「放たれた、毀たれた」「触れている」という動詞は「水」を主語としているが、主語が水であっても、そういう動詞で「肉体」で「倣った」なら、それは「肉体」へ跳ね返ってきて、「肉体」そのものを変化させる。福田は、その「肉体の変化」をことばで追いなおすという手間を省いて「概念」で「要約」した。
 そういうものが私は大嫌いだと、言いなおしておく。

 詩集の最後の「入り江から」も美しい。南の島の風景を「ジャングル」とたとえ、そこから「太古の昔」に突き進む。それは語り尽くされた方法だが、そういう語り尽くされたとわかっていることをもう一度語る(倣う)のは、私は「手抜き」とは思わない。

この土地の人々は誰もがニライカナイに死後を託しているのか
砂の洞窟に設(しつら)えられた祭壇に
ささやかに供えられた泡盛のワンカップ

 と書く時、福田は「土地の人」になってワンカップを供えている。それだけではなくワンカップになっている。「祈り」そのものになっている。ニラカナイとも一体になっている。だから安心して出かけることができる。

ここから出かける
朽ちかけた浮桟橋の根元にひっそりと繋がれた小舟に乗って
ここから--

 繰り返してしまうが、「小舟に乗る」とき福田は「小舟」そのものでもある。「乗っている」だけではなく「小舟」になって「土地の人」を乗せているし、また「小舟」になることで「ニラカナイ」にもなっている。
 何かが「わかる」とき、「私」は「私」ではなくなるのである。「詩になる」のだ。

あけやらぬ みずのゆめ
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港の人



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石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
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川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』

2018-01-17 20:02:40 | 詩集
福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』(港の人、2018年1月11日発行)

 私は詩の好き嫌いが激しい。
 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』は、最初の詩でつまずいた。「ふりわけられし水」というタイトルから嫌いである。「ふりわけられし水」の「し」って何なのだ。こんなことばを、いま、福田はつかっているか。つかっていないだろう。たぶん詩だからつかったのだろう。つまり福田にとっては「ふりわけられし」の「し」が詩なのだ。
 この「し」は作品の最後に出てくる。そして、そのうえでだめ押しの「詩」が追加されている。

どこにいくのだろう
私たちのはかないゆめ
ふりわけられし水
の エートス*は

 *エートスethos
ここでは出発点、出現の意。あるいは芸術作品における気品。Ethos はギリシャ語で
 本来「いつもの場所」を意味し、一般的に習慣、特性を意味する。

 福田は「エートス」ということばを知っている。「ふりわけられし」の「し」と同じように知っている。そしてつかっている。同時に「エートス」については、読者がそのことばを知らないということも知っている。だから註釈をつけている。
 ここが、私は大嫌い。
 知らないことばをつかうひとを、私はうさんくさいと思ってみている。しかし、つかうならつかうでかまわないと思っている。ほんとうにそのことばしかないのなら、それをつかうしかない。ただし、そんなふうにしてつかわなければならないことば、大事なことばなら、それは必ず言いなおされるはずだ。その「言い直し」に触れることで、「知らないことば」の何かがわかるはずだ。
 福田は「言い直し」をどう展開しているか。
 この直前の連が、実は「先取り」の「言い直し」である。こう書いている。

放たれた、毀(こぼ)たれた、最期はいつも
見えないものに触れている
夢は陽炎となって天空にのぼり
急速に冷気に晒されて液体となる
陽炎の雨は天空にとどまり
六層の水にふりわけられる

 「水」の「輪廻転生」、その変化が描かれている。
 つまり、福田は「言いなおす」というよりも、あることがらを逆に「要約」する形で「エートス」という普通の人が知らないことば(知らないだろうと福田が判断していることば)をつかったのである。
 あなた方は知らないだろうけれど、こういうことを「エートス」と言うのですよ、というわけだ。

 ぎょっとするねえ。
 詩とはもともと完全に個人的なことば。何語にも翻訳できないことば。「日本語」に見えるが、実は「福田語」としかいえないものが詩だろう。それは、誰も知らないことばに決まっている。だからこそ、それに価値がある。そして、誰も知らないオリジナル言語(福田語)であるからこそ、何度もそれを言いなおすことで、読者と共有できるものにする。それが「詩作法」というものだろう。
 福田は、しかし、こういう方法をとらない。
 いくつかのことばの運動を展開したあとで、それを「要約」する。しかも、その「要約」に読者の知らないことば(なじみのないことば)を持ってきた上で、そのことばに註釈をつける。
 これは「解釈」の押し付けであると同時に「手抜き」である。言いたいことを言うために、よそからことばを借りてきて代弁させている。他人のことばに頼っている。「福田語」を生み出すことをやめてている。
 また、詩は作者のもの、作者が「意図」したとおりに読まなければならないという意識が生み出した「暴力」であるとも言える。

 こういう詩に対しては、私は語りふるされたことばで対抗したい。「美しい」ことを「美しい」ということばをつかわずに書くのが詩。言い換えると「エートス」を「エートス」ということばをつかわずに書くのが詩。「エートス」ということばをつかい、それに註釈までつけくわえるのは、詩ではなく、手抜きの解説文。いわゆる「あんちょこ」である。
 受験勉強をしたいわけではないのだから(どこかを受験するのではないのだから)、詩のことばは、完全に解放されていないといけないと私は考えている。

 詩集の後半、「入り江から」の作品群のなかにはとても興味深いものがあるのだが、最初の作品でいやな気持ちになったので、感想は省略。いまは、書く気持ちになれない。






*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
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あけやらぬ みずのゆめ
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ウディ・アレン監督「アニー・ホール」(★★★★★)

2018-01-17 11:45:09 | 午前十時の映画祭
監督 ウッディ・アレン 出演 ウッディ・アレン、ダイアン・キートン

 ウッディ・アレンとダイアン・キートン、なぜ別れたんだろうなあ。セラピーで、ウッディ「セックスは週に3回。少ないんだ」、ダイアン「セックスは週に3回。多いの」というのが二分割のスクリーンで展開される。このあたりが原因か。セックスしている途中で、ダイアンのこころがベッドから離れ、椅子に座ってふたりを眺めている、それにウッディが気づくというおもしろいシーンもある。
 こういうシーンに限らないが、いろんな場面で「ことば」が交錯する。ふたりの最初のデートでは、口で言っていることばと同時に、「こころの声」が字幕で表現される。つまり、のべつ幕なしで「しゃべっている」というのがこの映画だね。映画館の列で、後ろの男がうんちくをガールフレンドに語っているのをうんざりして聞いている、ついついダイアン相手にその男の批判をするとか、道行く人に「恋愛談義」をふっかける(答えを求める)というのも、まあ、ことば、ことば、ことばで人間の「多様性」を描いていて、おもしろい。うんざりする、という人もいるかもしれないけれど。
 で。
 そういうことと関係するのかもしれないが、私の一番好きなシーンは、ことばが切れた瞬間。二人が海老を茹でようとする。床で海老が動いている。それをつかんで鍋に入れる。この「騒動」の途中でダイアンが笑いだす。この「笑い」が、どうも演技ではない。途中で我慢できずに噴き出してしまう。リアル、なのだ。そのあとも芝居はつづいてゆき、ダイアンはウッディの写真を撮ったりするのだが。
 (このシーンは、別な女との間でも繰り返されるが、このとき女は笑わない。ウッディをばかにして見ている。男の癖に海老一匹もつかむことができないのか、という感じ。これもリアルだけれど、でも芝居だね。演技だね。)
 この、芝居ではなく、リアルというのはこのシーンだけだと思うが、他のシーンもそれを「狙っている」感じがする。映画ではなく、プライベートフィルムだね。その、なんともいえない無防備な感じが美しい。
 ダイアンの、おじいちゃんの古着(だと思っていたけれど、今回見たらおばあちゃんの古着と言っていたような気がする)を組み合わせたファッションも好きだなあ。黒いベストと白いシャツ、ネクタイ、ベージュのパンツ。とても「自然」な感じ、気取らない感じがプライベートフィルムを感じさせる。
 コカインを仲間と楽しむことになって、それを少し鼻先につけたら、むずむず。思わずくしゃみをしてしまって、コカインが空中に散ってしまう、というところまでゆくと、まあ、「やりすぎ(つくりすぎ)」という気もしないでもないが。でも、笑いだしてしまう。
 ラストシーン。ダイアンとの別れが決定的になって、そのあと。それまでの映画のシーンが断片的につなぎ合わされる。ここは海老で笑いだすダイアンのシーンと同じように大好きだ。「ニューシネマパラダイス」のラストで、検閲でカットされたキスシーンをつなぎ合わせたフィルムを上映し、見るシーンがあるが、あれと同じ。「幸福」はいつでも限りなく美しい。あ、いまもウッディの肉体のなかには、あのシーンが残っているのだ、それを忘れることは絶対にないのだとわかる。胸が熱くなる。
 いやあ、ほんとう、なぜ別れたんだろうなあ。
       (中洲大洋スクリーン3、2018年01月17日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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金堀則夫『ひの土』

2018-01-16 11:32:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
金堀則夫『ひの土』(澪標、2017年6月20日発行)

 金堀則夫『ひの土』には、ことばを「読み替える」(読み直す)作品が幾つかある。「わたし」には、こんな部分がある。

さあ、どうぞ
わたした わたしを
わたした 我がものを
あなたが どう捉えようと
漢字の〈私〉でない
ひらがなの〈わたし〉
わたす わたしでありたい

 「私」と「渡す」。漢字で区別してしまうと、そこから消えていくものがある。「わたし」は「私」なのか「渡し」なのか、「渡した」何かが「私」。「私た」は、強引に言ってしまえば「私」の「過去形」かもしれない。「私」であって「私」ではない。「私」であったもの。


腕は 手は
あなたにさしだしている
わたしのつくったものを
わたしている

 「わたしのつくったもの」に「つくった」という「過去形」が出てくる。「つくった」は過去形だが、しかし、「渡す」その瞬間はいつでも「わたしている」と現在形である。現在進行形ということもできる。
 つながっている、あるいはひろがっている。
 つながり、ひろがっていくものがある。
 だから、ことばは読み返さないといけないのだ。読み直さないといけないのだ。読み直すことは、ひろげ、「わたし」、つなげることなのだと思う。

 「正念」は、しかし、「読み直し」がむずかしい。

一にたって
両手を広げて土になる

 とはじまる。
 「一」は「地平線」(土)である。そこに自分の「肉体」で「十」の字をつくる。そのとき「一」が「土」になる。これは「両手を広げて立つとき、そこに土が生まれてくる」ということだろう。両手を広げて、立つ。無防備で立つ、ということかもしれない。それが「土」を生み出す。「生きている」ときの「場」を思い出すということかもしれない。
 このあと、詩は、こう展開する。

地に木をたてて
手をあわせたら
祈っていることばが
ことのはじめ
木に気が入り込んでいく
ねんじれば 枝も生えて
十になる

 木は最初は細い。両側から支えが必要かもしれない。やがて枝を広げるとその支えがとれて「十」の字になる。そうすると、また「土」という文字が生まれてくる。枝を広げるは根を張るかもしれない。「土地」がふたたび意識されている。

とうとう何もおこらないので
手をあわせなくなった
そんな棒切れに
気がぬけて棒立ちになる
いちがない
じゆうがない
土のないところに
わたしのたてた木
わたしから気がぬけた
両手で祈っただけ
お祓いした

 「いち」と「じゆう」。「じゅう」ではなく「じゆう」。
 枝を広げ、根を張る。そのとき「木」は動かない。けれど、それは「じゆう=自由」のひとつの形である。
 木は動かないと書いたが、枝は左右に伸びる、天にも伸びる。根も地へと伸びる。そこには運動がある。「自由」がある。
 そういうことを思っているのかもしれない。

 「非愛」の手紙の描写が美しい。

かつては
封を切ると
そこから ことばがにおい
漂ってくる
手書きの文字がうごいてくる

 「感想」のことばは動かない。何も書かなくていいということだ。あ、美しいなあ、となつかしく思い出すのである。そういうことがあった、と。





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ノーテンキすぎる「救出作戦」

2018-01-16 09:33:14 | 自民党憲法改正草案を読む
ノーテンキすぎる「救出作戦」
             自民党憲法改正草案を読む/番外167(情報の読み方)

 2018年1月16日読売新聞(西部版・14版)1面に、びっくりするニュースが載っている。

半島有事 対馬に一次退避 海自艦 釜山で米艦に横付け

 という見出し。
 記事には、こうある。

 日本政府は、朝鮮半島有事で韓国の空港が閉鎖された場合、在韓邦人・米国人らを釜山港から海上自衛隊艦船と米軍艦が協力して対馬(長崎県)に運び、一時退避させた後、九州に順次ピストン輸送する方向で検討に入った。韓国政府は自衛隊の派遣に同意していないが、釜山港に接岸した米軍艦の隣に海自艦を「横付け」し、邦人らを乗せる案が浮上している。

 米艦が釜山港に接岸し、その横(海側)に自衛艦を横付けし、いわば米艦を「橋」がわりにして邦人を自衛艦に乗り移らせ、それから対馬に向けて出航するということらしい。しかし、「韓国政府は自衛隊の派遣に同意していない」のなら、自衛艦は韓国の領海に入ることができるのか。できるわけがない。
 こんなできもしないことを可能であるかのように書きつらねていることに、私はびっくりしてしまった。

 このニュースのポイントはどこなのか。実現可能なことは何なのか。それを探して読まないといけない。

日本政府は、朝鮮半島有事で韓国の空港が閉鎖された場合、在韓邦人・米国人らを釜山港から海上自衛隊艦船と米軍艦が協力して対馬(長崎県)に運び

 この文章の「主語」は「日本政府は」になっているが、これを「米政府は」とすると、どうなるだろうか。私は読み替えてみる。

米政府は、朝鮮半島有事で韓国の空港が閉鎖された場合、在韓米国人・在韓日本人らを釜山港から米軍艦と日本の海上自衛隊艦船が協力して対馬(長崎県)に運び

 とならないか。これなら可能だ。とても「現実的」だ。
 在韓米国人をアメリカまで米軍艦が乗せていくことは効率的ではない。佐世保基地とか横須賀基地まで乗せていくのも効率が悪い。対馬にまでなら効率的に往復できる。一次退避の場所として対馬を利用するということではないのか。
 そしてこの「救出作戦」に自衛隊の艦船も動員されるということではないのか。米艦船のみが釜山港に接岸できるのなら、そしてそのとき仮に自衛隊の艦船が米艦船に横付けできるとしたら、そのときの「救出作戦」の指揮はだれがとるのか。自衛隊の艦長か。違うだろう。指揮はあくまで米の艦長だろう。米の艦長がどう判断するか知らないが、わざわざ日本人を優先させ、そのあとで米国人を非難させるということは想像できない。
 私は論理的に考えることは苦手だが、現実的になら考えることができる。私は、私にできること、私ならしそうなことを考える。具体的に考える。
 米艦船を「橋」にして自衛艦に日本人を乗せる。このとき、まず日本人を乗船させることが優先される。「奥」から人を乗せるのが効率的(現実的)である。そして出港するときはどうか。自衛艦が先に出港しないと、米艦は出港できない。自衛艦が「進路」の邪魔になる。そういうところに「時間」をとられていたらアメリカ人が犠牲になる。--私が米艦船の指揮者なら、そう考えるなあ。日本人を優先的に非難させる(日本人の安全を優先する)ということは考えない。
 私が米艦船の指揮者で、半島からアメリカ人を救出しなければならないのだとしたら、艦船に乗せたアメリカ人を米軍基地までつれていくのではなく、とりえあず「日本のどこか」に上陸させる。対馬を利用すれば、時間が短縮できる。釜山までの往復時間が短くなり、それだけ多くのアメリカ人を救出できる。対馬に上陸させてくれ、対馬を一次避難の場所としてつかわせてくれ、と要求するだろうなあ。

 この案は、アメリカの要請を受けて、日本に何ができるかを考えたときにでてきたものだろう。
 日本がこの「救出作戦」を実行するには、韓国側の了解が不可欠である。そのあと、アメリカの協力も必要になる。「韓国政府は自衛隊の派遣に同意していない」だけではなく、「同意する見込み」もないのに、こんなことを考えても意味がない。韓国との良好な関係を築くことが先決だろう。
 このニュースからわかる唯一のことは、半島有事の際、アメリカ政府は、アメリカ人の避難場所として想定しているということだけである。
 記事中には、

 すでに日本政府関係者が水面下で、対馬の現地視察を行い、ホテルなど宿泊施設の収容可能な人数や必要な水・食料の検討を始めている。

 とあるが、「ホテルなど宿泊施設」があまりにもノーテンキである。あっと言う間にいっぱいになるに決まっている。有事の際は、韓国人も避難してくるだろう。「難民キャンプ」が必須になる。「海外旅行」ではないのだ。これも、アメリカが、アメリカ人が宿泊できるホテルがどれだけあるか、水・食料を確保できるか調べろと日本政府に迫ったので、それを検討し始めたということだろう.
 「半島有事」の際の「当事者」は日本人だけではない。韓国にいるのは日本人だけではない。韓国人はもちろん、アメリカ人、日本人がいる。半島には北朝鮮の人もいる。だれもが戦場から離れ、安全な場所に避難したいと願う当事者である。
 韓国(および北朝鮮)と良好な関係が築けていないのに、日本人だけが「特権的」に「有事」から逃れられると考えるのは、あまりにも空想的である。こんな空想ができるのは、日本政府の関係者が、「アメリカ・ファースト」の思想に洗脳されてしまっているからだ。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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壱岐梢『一粒の』

2018-01-15 08:18:58 | 詩集
壱岐梢『一粒の』(土曜美術出版販売、2017年6月27日発行)

 壱岐梢『一粒の』は「碑門谷病院」という作品が印象に残る。

あ、と思ったとたん
車は
碑門谷病院の前を
通りすぎた

救急車に飛び乗り
母だけを見て
辿りついた場所場所
どこに在るかなんて
覚えていなかった

 「覚えていなかった」は「意識していなかった」。意識が母親だけに集中している。ほかのものが見えない。だからこれは「母だけを見て」の「見て」という動詞をつかって「見ていなかった」と言いなおすことができる。
 「見ていなかった」けれど、その場所を「肉体」は覚えている。
 「肉体」は何を「覚えている」のか。

母が温かいからだで入り
十時間ののち
冷たいからだで
出ていったところ
わたしが
ふいに
つまずいたところ

 「つまずいた」を覚えている。
 「温かいからだ」「冷たいからだ」は「肉体」で覚えているというよりも「意識」でおぼえていることだ。「十時間」ということばが「意識」を強く感じさせる。それは、あとから「意識」したことがらだ。
 「肉体」が覚えているのは「つまずいた」こと、「つまずいた」ところ。
 ここには書かれていないが、この「つまずいたところ」には「時間」が含まれていると思う。
 いつ、つまずいたのだろう。
 私は想像するだけだが、「入る」ときに「つまずいた」のだと思う。「つまずいて」、あっと思う。「つまずいた」瞬間、「肉体」が母親の「肉体」の何かとつながった。母親の「肉体」のなかの変化が、壱岐の「肉体」の遺伝子に響いて、壱岐の「肉体」が「つまずく」。非科学的なことというかもしれていが、そういうことが「肉親」の間ではおきるものである。「あっ」という感覚は、「肉体」の、ことばにできない変化である。絶対的なつながり(ひとつ)の感覚の発見である。
 「つまずいた」は「肉体」であると同時に「精神/意識」でもある。母親の「肉体」と伊木自身の「肉体」の「つながり」を意識したのである。

 車は何事もなく通りすぎたのだけれど、意識がそのとき「つまずいている」。その瞬間に母親の「肉体」が「見える」。

母がよく座った
となりの席に
洗剤や牛乳
なんか乗せて

車は走る

 車は、壱岐が運転しているのだろう。ここがどことは強く意識せずに車を走らせている。でも、意識しなかった何かがふいに「つまずかせる」。
 何かが見えなくて「つまずく」ということが起きるが、いまは、助手席の洗剤や牛乳が見える。そこには見える洗剤や牛乳ではなく、見えない母親もいる。目では見えないが「肉体」が感じる。そういうことも、起きていると思う。

 「肉体」の無意識の「反応」が、とても自然な形で書かれている。
一粒の
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*


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エリック・ポッペ監督「ヒトラーに屈しなかった国王」(★★★)

2018-01-14 21:34:00 | 映画
監督 エリック・ポッペ イェスパー・クリステンセン、アンドレス・バースモ・クリスティアンセン 

 ナチスが「中立国」ノルウェーに侵攻する。降伏を迫る。それに対して当時の国王がどう向き合い、どう判断したか。その三日間を描いている。
 結果的にいうと、国王は降伏を拒む。その結果、ナチスはさらに侵攻し、最終的には国王はイギリスに亡命、ノルウェーは降伏する。解放は第二次大戦の終結を待たなければならなかった。見方によっては、国王の決断がノルウェーの戦争被害を拡大したといえるかもしれない。戦力的に圧倒的に劣り、勝てる見込みがないのだから。
 でも、その国王の判断は国民から支持された。戦後、亡命先のイギリスから帰国し、再び王の位に就いたし、皇太子もそのあとを継いだ。いまは孫が王になっている。
 何が支持されたのか。なぜ、国王が慕われたのかが、この映画のポイントだ。
 王であるけれど、民主主義を貫いた、ということにつきる。自分は国民に選ばれた王である。国民が自分を支持してくれているのだからヒトラーの要求にしたがうわけにはいかない。その主張はまた、民主主義そのものへの「信頼」を語ることでもある。この民主主義について語る部分は、非常にすばらしい。力がみなぎっている。いま世界各地で極右勢力が台頭しつつあるが、それに対する「抵抗」がこのシーンにはこめられているかもしれない。
 ということを書き始めると、あまりおもしろくなくなるなあ。「意味/意義」は「意味/意義」として、わきにおいておいて。

 登場人物の「人間」の描き方が、なかなかおもしろい。国王は「腰痛」を抱えている。だから腰を折って、膝を抱えるような姿勢で痛みをこらえる。そういう不格好な姿も丁寧に描いている。人が来ればきちんとした姿勢をとるために苦労する姿も描いている。毅然とした態度しか人には見せないが、その毅然の背後に誰にでも起こりうる苦痛を抱えている。「精神」ではなく、「肉体」として、それを描いている。空爆から森へ逃げるときの右往左往も、ひとりの人間として描いている。最初は国王を守ろうとしている人がすぐそばにいるが、だんだんばらばらになる。森にたどりついたころには、国王のまわりには側近はいない。ひとは誰でも、それぞれが自分のいのちを守る。そういうことが「自然」に描かれている。
 逃げ込んだ森の中のシーンでは、幼い子供が木の影でうずくまっているのを見つけ、助けようとする(力づけようとする)エピソードがとてもいい。王は子供をかばう。空爆の合間に、母親が子供の名前を呼びながら子供を探している。母親の声を聞くと、子供は王の手を振りほどき、母親の方へかけだす。親子がしっかり抱きしめあう。それを王は、じっと見ている。家族がいっしょに生きているその「幸福」をあらためて実感している。王であることを忘れて、あるいは王であることを思い出して、かもしれない。王である、王でない、という区別がなくなり、「人間」として迫ってくる。国王は国王であるがゆえに、家族がいっしょにいられない。その決断をしたばかりなので、その親子の姿が胸に響くのだが、このシーンはなかなかおもしろい。
 一方で、ドイツ側の外交官の苦悩も丁寧に描いている。彼にも家族がある。妻がいて、子供がいる。家族を守りたい、家族といっしょにいたい。その気持ちが、ナチスによって邪魔される。仕事と家族との間で、苦悩し、苦悩を抱えたまま国王との交渉に当たる。このあたりの、なんというか、サラリーマンっぽい揺らぎが、気弱で、貧弱な(?)人相と相まって、簡単に拒絶できない。ドイツ人(悪)だから、どうなってもいいという感じにはならない。こういうドイツ人の描き方には、ノルウェー人の「度量」の大きさのようなものを感じた。
 生きているのは、いつでも「ひとりの人間」という視点が、映画全体を支えている。それがあって、国王の「民主主義」への信頼のスピーチが強く響く。
(KBCシネマ1、2018年1月14日)



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