詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カヴァフィス全集を読む

2018-01-14 19:38:42 | 詩集



ブログで連載した「中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』を読む」を一冊にまとめました。
1篇の詩の紹介を見開き2ページでおさめています。
B5版で396ページ。(簡易装丁ですが、そのまま立ちます。)
大特価(赤字必至)の2500円(送料450円)です。

オンデマンド出版なので、注文してからお手許に届くまでには1週間ほどかかります。
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開いたページの右側に「定価」が表示されています。その下の「製本のご注文はこちらから」のボタンを押すと手続きができます。

「詩はどこにあるか」11月号、12月号、詩集「誤読」、評論「天皇の悲鳴」も発売中です。

中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』を読む(2500円)(送料450円)
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天皇の悲鳴(1000円)(送料250円)
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天皇報道の変化

2018-01-14 00:21:33 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇報道の変化
             自民党憲法改正草案を読む/番外166(情報の読み方)

 2018年1月13日読売新聞(西部版・14版)2社の見出し。

両陛下 3月沖縄訪問/初の与那国島も/宮内庁検討

 記事の内容は見出しの通り。
 私が気になったのは、この記事がなぜ1面ではないのかということ。
 12日の「尖閣接続水域 中国潜水艦か」よりも注目に値するニュースだと思う。
 なぜ、注目に値するか。
 記事にこう書いてある。

天皇陛下は19年4月30日に退位されるため、天皇としての沖縄訪問は最後になる。

 ここがポイント。天皇は沖縄を忘れてはいないというアピールをしたいのだ。天皇は、沖縄戦終結の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦の日を「記憶しなければならない日」と語っていた。沖縄には未解決の問題がある。基地の問題がある。そのことを思い起こさせるためでもあるだろう。
 これから開かれる国会で「改憲」が議題になる。自衛隊を憲法に書き加えることもテーマになる。天皇は「国政に関する権能を有しない」、つまり発言はできない。だから、「ことば」ではなく「行動」で憲法に対する「姿勢」を示すだと思う。

 この記事が一面に載らなかったのは、いわゆる「忖度」というものだろう。
 安倍は、憲法改正を狙っている。安倍は、護憲派の天皇は、なんとしても存在を「隠したい」と思っている。即位するとき「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い」と語った天皇が国民の目の前に姿をあらわしていると、改憲が進めにくい。
 「天皇隠し」がはじまっている。それに同調している、と読むのは「深読み」だろうか。

 全国の新聞は知らないが、福岡市で発行されている新聞では毎日新聞が一面にこの記事を載せていた。

*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」

2018-01-13 09:09:55 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」(「橄欖」108、2017年12月20日発行)

 吉田修「養石」が非常におもしろい。私はカタカナが苦手で読めない。だから(?)読み違えているかもしれない。引用も間違えているかもしれないが。あるいはカタカナが読めないから、漢字だけをつないで勝手に想像しているのかもしれないが。

養石トイウ言葉ガアル

イワユル造語ノ類デアル

ヒタスラ日々、養ウガゴトク

花モ咲カナイ庭ノ石ニ

水ヤリヲスルノデアル

 「養石」は「造語」であるという。ということは「養石」というものは、ない。単なる「ことば」にすぎない。それなのに「ことば」にした瞬間から「造語」の方から何かが働きかけてくる。
 「養石」ということばのなかの「養う」という動詞に引っ張られて、ことばを発した人(吉田?)は石を養うことになる。
 でも、石を養うって?
 石は養わなくてもそこにある。それを養うということはどういうことか。
 わからないけれど、「石」を「花モ咲カナイ」と言いなおしたときから「花」が「養う」ということばに影響してくる。「花を養う(養花)」なら、なんとなく、わかる。「肉体」が覚えていることがある。花は水をやらないと枯れてしまう。水をやることが花を養うということだ。それにならって、吉田は石に水をやり始める。
 何か間違っている。
 でも、間違っていることの中に、もしかすると「ほんとう」があるかもしれない
 ことばのなかには、かならず「ほんとう」があるのだ。
 ひとの言っていることなど、全部が「わかる」わけがない。けれど、そのなかの「ひとつ」でも「わかる」と感じたなら、それは「全部」が「わかったこと」になる。何かが「つながってしまう」。「つながってしまう」ということが「わかる」ということなのだ。
 「養石」にもどって言いなおせば、「養石」のなかには「養う」ということばがある。そして、ひとは「養う」ということがどういうことか「わかっている」。「育てる」というような「働き」があると同時に、「死なせない」というような「働き」もある。そして、それはいろいろなものにつながっている。
 花を育てる。花を死なせない。そのためには「水をやる」。「水をやる」ということが、そのまま「石を育てる(養う)」ことにはならないかもしれないが、そういう「ことばの働き」がある日、瞬間的に、「世界」を切り開く。そういうことが、「養石」ということばといっしょに、ここに生まれてきている。
 吉田の書いていることはわからないが、わからないまま、吉田はいまこの瞬間「世界」を「了解している」と感じた。「わかる」を通り越して、「悟る」という感じかなあ。もし、何かを「悟る」ということがあるとすれば、それはきっとこんな感じだなあ。
 「こんな感じ」というのは、「養石」ということばにふれて、「養う」という「動詞」と、その「働き」、その「変化」を「肉体」で反芻し、生きるということ。
 石に水をやっても、それで石が育つわけではない、とは言い切れない。水をやらなければ花のように死んでしまう。というようなことは、「ことば」だけの世界だが、しかし、ことばによってそういう「世界」が出現してしまうという不思議なことが起きる。
 「造語」と吉田は書いているが、「ことば」をつくることは「世界」をつくること、「世界」を生み出すことなのだ。

 「現代詩」がやっているのは、こういうことなのだ。
 私は、そう納得した。



 大西美千代「途中下車」は後半がおもしろい。

地下鉄に乗る
清潔な車内のさっきと同じ席に座れば
何事もなかったかのように
電車は動き出す

向かい側に座っていたのは
こんなような人だった
いやこの人だったか

 「こんなような人」の「こんなような」は説明されない。「いやこの人だった」の「この」も説明されない。言いなおされていない。それなのに「こんなような」「この」と言いなおされただけで、何かが「わかる」。
 「こんなような」と言ってしまうときに「起きていること」が「わかる」。「この」と言ってしまうときに「わかる」何かがある。「こんなような」「この」と言うときの、「意識」と「世界」のかかわり方がある。
 「造語」のように、それは「世界」をつくりだす。その「つくりだし方」が「肉体」の奥をぐいっと押す。
*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。





*


詩集『誤読』を発売しています。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
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アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」

2018-01-12 11:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」(イナン・オネル訳)(「ミて」141、2017年12月31日発行)

 アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」の一連目。

暖かく、友情のような何かを考えさせられる
馴染みのベッドが待っている
ある子供の顔が微笑む、思い出の中から

 一行目の「考えさせられる」に思わず傍線を引いた。「意味」は「わかる」、わかったつもりになる。でも何か違和感がある。「考える」と、こういうときにつかうだろうか。私はつかわない。「感じる」かなあ、と思う。
 「感じる」と「考える」は、どこが違うか。
 「感じる」にはたぶんことばはいらない。「考える」にはことばが必要だ。ことばを動かして「考える」。「感じた」ことをことばにしようとして「考える」。そういう違いがあると思う。
 「何か」としか言えないもの(「何か」と感じたもの)を、ことばにしようとしているのだろう。
 「暖かく、友情のようなもの」というのもことばではあるのだけれど、それをさらに言いなおそうとしている。「考える」とは「言いなおす」ことでもある。どう言いなおすか。「馴染みのあるベッド」。ベッドはたしかに「暖かい」、「友情」は、そして「馴染みがある(なつかしい)」。しかもそれが「待っている」。「待っている」ということばのなかで全部がひとつになる。そう詩人は「考えた」。そして、その「考え」をことばにした。
 さらにそれを「ある子供の顔が微笑む、思い出の中から」と言いなおすのだが、この一行はとてもおもしろい。「ある子供」とは誰なのか。アタオル・ベフラモールではなく別なひとと想像することもできるが、アタオル・ベフラモール自身かもしれない。ベッドで微笑んだことを覚えていて、それを思い出している。自分の笑顔は見えないはずだけれど、思い出の中でなら「見える」。思い出すというのは実際に見るのではなく、意識を動かして見ることだからね。
 一行目は、よく読み直すと「考える」ではなく、「考えさせられる」。「使役」になっている。誰が「考えさせて」いるのか。あるいは何が「考えさせて」いるのか。ことばを動かすことを詩人に求めているのか。「思い出」だろうか。この街(馴染みのある街)に住んだ思い出が、肉体のなかでうごめきだし、「ことばにして」と呼びかけている。それを感じて、詩人はことばを生み出そうとしている。あるいは「感じ」そのものが「考えさせている」のだろう。
 詩は、こう続いていく。

友情の街、恋人の、母の街
様々な苦痛を、様々な幸福を味わった、それぞれにおいて
恐れを知らない喜びに満ちて、街道を通ったこともあった
糧染みに満ちた日もあった、狂いそうになりながら

永遠のコマのフィルムのように
人生が記憶を過(よぎ)る
繰り返しているように感じる
総てをはじめから

ある朝、馴染みの街に入る時
悲しく、不思議な何かを考えさせられる
その街だけではなく
自分も変化しているように感じて

 「感じる」が二回出てくる。「感じる」とはどういうことなのか。「考える」とはどういうことなのか。「感じる」から見つめなおしてみる。
 「感じる」ということばは同じようにつかわれている。同じつかい方をしている。直前に「ように」ということばがある。「ように」とは言いなおすと「比喩」。何かを言いなおしたもの。「そのもの」を直接「考える」のではなく、「比喩」がわりこむと、それを「感じる」と言っていることになる
 「ように」は一行目にもあった。「暖かく、友情のような何か」。これは「暖かく、友情のように感じる何か」と「感じる」を補うことができる。やはり「感じる」が「考えさせている」のである。
 さらに、その「ように」の直前のことばを見ると、そこにも共通するものがある。「繰り返している」「変化している」という「動詞」を引き継いで「ように」と言っている。「動いている(止まっていない)から「ように」と「あいまい」にとらえる。「断定」しないのだ。
 一行目の「暖かい」「友情」もまた変化するということを暗示しているのかもしれない。変化するもの、動くものから、「固定したもの」(動かないもの)への移行が「感じる」から「考える」への動きの中にある。
 これは「考える」ときの対象と比較すると明らかにある。「暖かい何か」「友情につながる何か」は「馴染みのベッド」と言いなおされ、「子供の微笑む顔」と言いなおされている。正確には「子供の顔が微笑む」だが、それは「子供の微笑み」と言いなおしてもいいだろう。
 「動く」ものを「感じる」とは、「感じる」とは「動くこと」である。「肉体」のなかで「感じ」が「動く」。それは固定化されない。悲しみも喜びも「変化する」。
 「考える」は何かを「固定化」することである。
 「子供の顔が微笑む」は、このことを考える時、いろいろなことを「考えさせてくれる」。「子供」そのものは生長し、変化する。微笑みも変化する。ところが、それを思い出す時、子供は子供のまま、笑顔は笑顔のまま、そこにあったときのまま、「時間」さえ固定化してあらわれる。変化してしまうものも、固定化してことばにすることが「考える」ということになるかもしれない。
 「馴染みの街に入る」。その街はすでに変化している。「自分が変死しているように」、「馴染みのある街も変化している」。「は(が)」」と「も」は主語を入れ替える時にいっしょに交代する。ところが「ことば」としてとらえなおすとき、そこにあらわれるものは「固定化」している。「固定化」された「過去」と「いま」を比較するとき、その比較の中に「変化」があらわれる。

 トルコ語では「考える」と「感じる」は、どうつかいわけるのかわからないが、翻訳をとおして、そういうことを考えた。
 「感じる」「感じさせられる」ではなく「考える」「考えさせられる」ということばではじまったところから、詩が生まれている。





*


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川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
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「接続水域」の航行(情報の読み方)

2018-01-12 10:16:33 | 自民党憲法改正草案を読む
「接続水域」の航行(情報の読み方)
             自民党憲法改正草案を読む/番外165

 2018年1月12日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

尖閣接続水域 中国潜水艦か/軍艦1隻が随伴/日本、厳重注意

 記事には、こう書いてある。

 政府は11日、沖縄県の尖閣諸島周辺の接続水域内を外国籍の潜水艦1隻が航行したと発表した。国籍は公表されていないが、中国軍艦1隻が随伴しており、潜水艦も中国海軍の所属とみられる。いずれも領海侵入はなく、11日午前に接続水域に入り、数時間後の11日午後に出た。日本政府は中国側に厳重抗議するとともに、航行の意図などについて分析を進めている。
 尖閣諸島周辺の接続水域で外国籍の潜水艦が確認されたのは初めて。この水域での中国軍艦の航行は2016年6月以来、2回目。

 疑問点がふたつある。
(1)日本の領海の「接続水域」(領海の外側)を中国の潜水艦、軍艦が航行することは何に違反するのか。読売新聞の記事は「他国の軍艦や潜水艦であっても、日本の領海を航行することは、敵対的な行動を取らない限り、国際法上認められている」と書いている。つまり、航行自体に問題はない。
 さらに、こうも書いている。

今回は領海外の接続水域での航行となるが、尖閣諸島は中国が領有権を主張している。日本政府は中国軍艦などの航行を「一方的に緊張を高める行為」として容認していない。特に潜水艦が先行しており、安全保障上の懸念も大きい。

 その通りなのだろうが、これはあくまで「日本政府」の主張。中国側は違うだろう。逆に言うだろう。

中国「自らの領土近く」主張

 という見出しで、中国外務省の主張も併記されている。(これは省略)
 「国際法上認められている」行為なので、これは決着がつかない。
 ここから二つ目の問題が浮かび上がる。
(2)なぜ、このニュースが一面のトップなのか。
 「尖閣諸島周辺の接続水域で外国籍の潜水艦が確認されたのは初めて。この水域での中国軍艦の航行は2016年6月以来、2回目。」とあるが、1回目のときは、読売新聞ではどう報じられたのだろうか。資料が手元にないのでわからないが、やはり一面のトップだったのだろうか。
 記事の末尾に「中国の潜水艦をめぐっては、04年11月に沖縄県の多良間島周辺の領海に侵入し、海上警備行動が発令されたことがある」とある。このときの報道はどうだったのだろうか。
 なぜ「報道」を問題にするかというと。
 日本政府の誰が発言したのか明記されていないが、中国の行動を、

「一方的に緊張を高める行為」

 と、わざわざその主張を紹介しているからである。
 直前まで、安倍は北朝鮮の核ミサイル問題を重視していた。「国難」とまで呼んでいた。
 ところが韓国での冬季五輪を控え、朝鮮半島は「和平ムード」が高まっている。北朝鮮が五輪に参加する。常識的に考えて、五輪が終わるまでは「緊張」というものがなくなる。
 安倍は、憲法改正(自衛隊を憲法に加える)や軍備の拡大を主張する「根拠」を、その間、失ってしまう。
 朝鮮半島が「平和」なら、日本も平和。北朝鮮が核ミサイル攻撃をしてくるわけがない。当然、ミサイル迎撃システムなども急いで構築する必要はない。国民に対する「説得力」がなくなる。五輪をきっかけに和平、南北交流への取り組みが進むなら、「緊張」はさらに減ることになる。
 だから、今度は、中国を「仮想敵国」に仕立て、緊張をあおっているのである。
 安倍は、

近隣諸国との緊張を一方的に宣伝すること

 で、「政権維持」を狙っているということだ。
 読売新聞の記事は、潜水艦の国籍を特定していない。その上で、

(潜水艦の)国籍は「探知能力を露呈する」(防衛省幹部)として公表していない。

 と書いている。
 日本周辺で起きていること、そのすべての「事実」を公表することを防省は避けている。どこまで「事実」を把握しているか公表することは、防衛の即応能力がどれくらいあるかを公表することだからである。軍事力(軍事作戦)は「秘密」の方が効果的である。
 ということは。
 今回の「尖閣接続水域」に中国潜水艦(?)と軍艦があらわれたということも、特に「公表」する必要もなかったということにならないか。防衛省、自衛隊が「事実」を把握し、対処するだけで、何の問題もない。だいたい「国際法上認められている」行動があっただけであって、それは国民にとって「危険」でもなんでもない。しっかり自衛隊(防衛省)で対応ができている。
 
 だからこそ、問題点(2)が重要なのだ。
 これは国民一人一人が認識し、対応しなければなければならない問題なのかどうか。特に知らなくてもいい情報だとしたら、それを一面のトップで報道する理由は何なのか。

 南北会談、北朝鮮の五輪参加は、北朝鮮(金正恩)にとって「大勝利」だろう。北朝鮮は単に戦争を引き起こすことを狙っているだけではない。平和について考えている。平和の祭典(五輪)に選手団を派遣する。このことを全世界にアピールした。もちろん、その期間中にこっそりさらに核ミサイル開発を推し進めるということもあるだろうが、そういう「見えない」行動よりも、五輪に参加する姿の方がアピール力は大きい。
 一方、安倍は「慰安婦問題」が障碍になり、五輪開会式にも出席しない。日本国内向けには手を尽くして言い訳を宣伝するだろうが、韓国国民に対するアピール力はまったくないだろう。安倍のことを韓国国民はまったく信頼しないだろう。韓国の信頼がなければ、日本の安全なんかない。

 今回の「接続水域」を中国軍艦が航行したというニュースは、安倍が積極的に公開したニュースということになる。






 「不思議のクニの憲法2018」は2月3日公開。
  「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)はアマゾンで発売中。
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#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
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米側が難色、の意味は?(情報の読み方)

2018-01-11 16:13:13 | 自民党憲法改正草案を読む
 2018年1月11日読売新聞(西部版・14版)の一面。

海自イージス 照準情報共有/北の波状攻撃に対応/政府 新システム運用へ

 という見出し。見出しだけでは、軍事作戦にうとい私には何のことかわからない。前文にはこう書いてある。

 政府は、北朝鮮が弾道ミサイルによる波状攻撃を仕掛けてきた際の対処能力を向上させるため、2019~20年度に配備する海上自衛隊の新型イージス艦2隻で、新たな迎撃システムを運用する方向で調整に入った。日本海で対処するイージス艦が迎撃ミサイルを撃ち尽くして弾切れになっても、別のイージス艦が日本海にいる艦のレーダー情報で照準を合わせ、迎撃可能となる。

イメージ図も掲載されている。防衛体制を強化するということらしい。
その記事で私が気になったのは、この「防衛強化」のシステムではなく、次の部分。

 防衛省は、将来的に海自と米海軍のイージス艦同士を新システムでつなぎ、照準情報を共有する案を検討している。しかし、海自艦の照準情報に基づき米艦が迎撃することには、米側が指揮権を日本に委ねる形ともなるため、難色を示す可能性がある。このため、政府は慎重に米側の意向を探る考えだ。

特に、後段が気になる。
「海自艦の照準情報に基づき米艦が迎撃することには、米側が指揮権を日本に委ねる形ともなるため、難色を示す可能性がある。」
これは当たり前だね。
 だから逆に読んでみる必要がある。

米イージス艦の照準情報に基づき自衛隊のイージス艦が迎撃することにすれば、米側に指揮権があることになる。自衛隊が米側の指揮下に入ることに対しては、米側は難色を示さないのではないか。アメリカべったりの安倍は、もちろん喜んで米側に指揮権をゆだねるだろう。日米の「軍事協力」に貢献できるからだ。

であるなら、米側が開発した新システムを、米が日本に売り込み、安倍が喜んでそれを買う、そうすることでアメリカの指揮権のもとにはいるということだろう。
記事には、こういうことも書いてある。

新システムは「遠隔交戦(エンゲージ・オン・リモート)」と称され、米国が開発した。高度な情報システムにより、ミサイル発射地点の近くにいるイージス艦のレーダー情報に基づいて別のイージス艦が照準を合わせ、迎撃ミサイルを発射する仕組みだ。米海軍イージス艦に順次導入される予定だ。

ほら。
米軍にも導入されていないものを、率先して導入するのは、自衛隊を米軍の指揮下に入りやすくするためのものだ。
 「自衛(国防)」のことなど安倍は考えていない。
北朝鮮がミサイル攻撃をしかけてくるなら、日本にある米軍基地。米軍基地が機能しなくなったとき、どうやって米軍を自衛隊が補完するか、そのことが研究されている。それをあたかも「自衛(国防)」の強化を装って宣伝している。
 安倍は、こういうことが非常に得意だ。

本当の情報は、「見出し」になっていないところにある。

『天皇の悲鳴』
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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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喜多昭夫『いとしい一日』

2018-01-11 01:01:48 | 詩集
喜多昭夫『いとしい一日』(Brand new day、2017年11月25日発行)

 喜多昭夫『いとしい一日』は歌集。歌集の感想を書くのはむずかしい。ことばの「意味」とか「テーマ(内容)」とかではなく、「音」が重要だからかもしれない。そして、この「音」というのが、自分が暮らしてきた「場」と強い関係がある。「耳」で聞いたことがあるかどうか。それが影響してくるようだ。

壁に投げ跳ね返りたる軟球をわれの知らない女体と思う

マイクテスト、マイクテスト といいながらマイクの故障に気づいてしまう

 この二首は、テーマも違えば歌の構造というのか、ことばのつかい方もまったく違う。けれど、何と言えばいいのか、私にはどちらも「聞いた」ことがある音だ。たぶん喜多が石川県の人間であり、私が富山で生まれ育ったということが関係するのだと思う。
 「壁に」の歌は、歌い始めの「音」は「あ」を含んでいる。これが「軟球を」の「を」経たあと「女体と思う」と「お」の音が増えて、静かに「う」で終わる。「お」は特に「と」に隠れている「お」が不思議。それが「お」もうと変化していくとき、あ、これは「北陸の音」だなあと感じてしまう。「暗さ」と「芯」がある。前半は「あ」が多いのに解放感につながらず、最後には閉じてしまう。これが「北陸の音」。
 「マイク」の歌では、「故障に気づいてしまう」の「に」がやはり北陸の音だなあと思う。ほかの地方のひとは、では、どういうことばをつかうのか。わからない。わからないけれど、何か、有無をいわせないものがある。自分で世界を閉ざしてしまう。
 困ったなあ、と思う。

変でない 変です 変でる 変ですと 火星人の変の活用形

 「変(でない)」と「変」をもってくるところも、新しいようで、閉塞感がある。開かれていかない。「マイクテスト」もそうだが、新しいくせに、ぶっ飛んでいない。妙におとなしい。
 「変ですと」の「と」は音の数を合わせるためのもの(リズムをととのえるためのもの)なのかもしれないが、うーんとうなってしまう。
 「変でる」ということばがあるのだから「変です」を繰り返さずに「変でれば」という具合にすることもできるし、「変です」をつかっても「変ですね」と上の句と下の句をたたききることもできるはずなのに、「と」でつなぐ、「論理」にしてしまうところに「北陸」の律儀さを感じてしまう。「論理」は「音」ではなく、むしろ「意味」なのかもしれないけれど、その「意味」を引っ張るときの「音」が気になる。

抱かれてからが勝負というような真利子の遠いまなざしだった

 この歌では「ような」が、開くためのことばではなく、閉じるための「音」だね。
 私もきっとこんな「音」でことばを動かしているんだろうなあと思ってしまう。

オバちゃんであることをまず確認しプレイボーイをそっと差し出す

 妙に「粘着力」がある。さらっとしていない。軽くなりきれない。
 ここがたぶん、いまはやりの短歌と喜多の短歌の違いだろうなあ。「北陸」の「音」なんだろうなあ。
 もちろんその「音」を捨てる必要はない。このままでいいのだと思うのだが、私にはちょっとつらい。「嫌い」ではないが、「好き」とは言いづらい。
 「誤読」しているかもしれないが、「わかる」感じが苦しい。
 「顔」に地域の特徴があるように、「音」にも地域の特徴がある。どこがどうとは言えないが、これは「聞き覚えのある音」と感じてしまうと、啄木の

故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く

 とはまったく逆の気持ちに襲われる。ふるさとの「音」を聞いて、思わずそっと離れたい気持ちになる。「わかる」から「なつかしい」のではなく、「わかる」から少し面倒だなあという気持ちになる。

 感想になっていないなあ。

ティッシュ箱より抜きとりし雲なれば鼻先までふわわんとせり

 この歌は好きなんだけれど、この「好き」を言いなおそうとすると、めんどうなんだなあ。歌われている「こと」、あるいはその「イメージ(情景)」ではなく、「音」がからみついてくる。「抜きとりし」の「し」と、「ふわわんとせり」の「と」が「係り結び(?)」のように全体をしめつける。「ふわわん」が全然「ふわわん」としないのだ。大きさがないのだ。

 北陸以外のひとは、どう聞くかな、この喜多の音を。

逢いにゆく旅―建と修司
クリエーター情報なし
ながらみ書房


*


「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか12月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。





*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

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「詩はどこにあるか」12月号

2018-01-10 17:20:09 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」12月号の発売を開始しました。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072997

URLをコピーして、ページを開いてください。
128ページ。1750円。(別途送料がかかります。)

取り上げている作品(目次)

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122




また、以下の本も発売中です。

「詩はどこにあるか」11月号
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072862


詩集『誤読』
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

『天皇の悲鳴』
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



いずれもオンデマンド出版なので、お手許に届くまでに1週間ほどかかります。





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伊武トーマ「反時代的ラブソング」

2018-01-10 10:25:49 | 詩(雑誌・同人誌)
伊武トーマ「反時代的ラブソング」(「みらいらん」1、2018年01月20日発行)

 伊武トーマ「反時代的ラブソング」は2011年3月11日から書き起こされている。「二〇一一年 月 日 (瓦礫の街)」という作品。そこに「日付」はない。この詩で、私は何度も立ち止まる。

まだ
沢山の人々が瓦礫の下にとり残されている。
けれど避難指示区域に助けは来ない。
中学生や高校生
年寄りも関係ない。
残った男たちは皆自力で瓦礫を片づける。
食料も水もなく、
互いに声を掛けようにも声が出ない。

 食料や水がなくなったように、「声」もなくなったのだ。「声」を使い果たしたのだ。ひとを呼び続けて。その「声が出ない」ということを、ことばにするまでに七年以上、八年近くかかった。「出来事は遅れてあらわれる」と季村敏夫は『日々の、すみか』で書いた。遅れてあらわれて、いまを突き破って、未来へと動いていく。
 「声」は次のように言いなおされる。

チビ、デブ、ヤセ、ハゲ、ブス、バカ、カス、デクノボウ……
誰もが一度はどれかと呼ばれ、
誰もがどんなに愛おしく、
誰もがどんなに美しく、
かけがえのないこの街で、
誰ひとりいなくていい者はいなかった。

 呼ばれること、呼ぶこと、声を出し、声を聞くこと。それがどんなにすばらしいことか。声をなくして、わかる。「チビ、デブ、ヤセ、ハゲ、ブス、バカ、カス、デクノボウ」。どれでもいいが、そうののししあうことができたら、どんなにいいだろう。「おまえなんか、死じまえ(いなくなってしまえ)」と言ってしまうのは、いっしょにいたいからなのだ。自分の言いたいことを言える相手、自分の声を受け止めてくれるひとがいることほどすばらしいことはない。
 この連につづいて、

傘もなく
雨に打たれ妊婦が海辺に立っている。
白い息をはずませ、
突き出たお腹をさすりながら
遥か沖
漂う船をみつめている。

 ふいに「情景」がかわる。このとき妊婦は何も言っていない。彼女も「声」を失っている。使い果たしている。しかし、「声」が聞こえる。それは「ことば」にはできない。「ことば」にはならない。その「声」に自分の「声」で再現しようとすると、「肉体」の奥から使い果たしたはずの「自分の声」が飛び出してくる。「自分の声」になってしまう。
 「互いに声を掛けようにも声が出ない」のは、それが「相手」にかける「声」ではなく、自分が、ただ「叫びたい声」になってしまうからだ。

生徒は先生をバカにしていた。
先生も腫れものに触るように生徒と接していた。
(略)
差別のないはずの社会で差別があったことも、
いじめがないはずの学校でいじめがあったことも、
虐待がないはずの家で虐待があったことも、
すべては瓦礫の下に埋もれ、
もはや謝ることも赦しを乞うこともできない。

 「声」のなくし方(失い方)には、もうひとつあったのだ。大声でいないひとの名前を呼び続け、声がかすれて出なくなったというだけではない。「声」をはりあげ、叫んでいるときは気がつかない。
 ひとを大声で呼ぶのは、大声で呼べば聞こえるかもしれないと思うからだ。
 でも、ひとは大声を張り上げるだけではない。ときには静かな声でひとと向き合うこともある。その「静かな声」を出す「機会」そのもの、それが「奪われた」のだ。それを失ったのだ。

 「二〇一一年 月 日  (名もなき人びと)」は

流された家。
屑鉄となった車。
打ち上げられた船。

瓦礫を押しやり道を開かなければならない。
向こう岸へと橋を架け直さなければならない。
陥没した道路を掘り、
水が噴き出す排水管を塞がなければならない。

 と、「ならない」が繰り返してはじまり、その最終連。

ニュースにもならない。
テレビにも映らない。
物語の外で人であることの温もりをつないだ
ヒーローでもヒロインでもない、
名もなき人びとのことを決して忘れてはならない。

 忘れないために、いま、伊武は「声」を書いている。

 
a=a
クリエーター情報なし
思潮社

*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
(12月号は、いま制作中です。完成次第、お知らせします。)

詩はどこにあるか11月号注文
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オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

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安倍の天皇政策(沈黙押し付け作戦)

2018-01-09 16:38:07 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の天皇政策(沈黙押し付け作戦)
自民党憲法改正草案を読む・番外篇(情報の読み方164)

 2018年1月9日読売新聞夕刊(西部版・4版)の一面見出し。

退位儀式 3月に方針/政府 準備委が初会合

 2019年4月30日の天皇退位、5月1日の皇太子即位の式典をどう進めるか、その準備委が開かれたという内容。
 この記事で注目したのは、次の部分。

 最大の焦点は、象徴天皇制の下で初となる退位の儀式の形式だ。政府は憲法に基づく国事行為とする方向で、天皇の政治的関与を禁じた憲法4条との兼ね合いが課題となる。1817年の光格天皇以前の退位の儀式は、天皇と新天皇が同席して皇室に由緒ある品々を譲り渡す形式が多いが、政府内では「自らの意思で皇位を譲ると受け止められる形式は憲法上問題がある」(首相官邸関係者)との見方が強い。

 後半の、「憲法上問題がある」に私は違和感を覚える。発言内容は、ごく当たり前のこと(当然のこと)だが、発言者が「首相官邸関係者」となっている。
 憲法学者をはじめとする識者の発言なら、憲法に配慮する必要があると指摘しているととらえることができるが、「首相官邸関係者」では事情が違う。
 安倍は、あくまで「譲位」を否定したい。天皇の意思を否定したい。天皇から「意思」というものを剥奪し、天皇を「沈黙」させようとしている。
 これは「生前退位」報道が籾井NHKによって報道された時から一貫している。
 天皇(宮内庁)関係者の間では、「生前退位」ということばが使われていなかった。これは皇后が誕生日の談話で「証言(告発)」している。天皇が目指していたのは、あくまで「譲位」であり、「象徴としての務め」を皇太子に継承させることだ。年末に九州豪雨の被災地や鹿児島の離島を訪問し、国民に声をかけたのも、その「実践」である。こうしたことを皇太子に引き継いでもらいたい、という意思表示であり、また国民にその実践を印象づけるためでもあったと思う。
 安倍は、こういう実践が大嫌いである。天皇と国民が触れ合い、天皇の「人柄(思想)」が国民に支持されては、憲法を改正し、戦争を引き起こし、「最高責任者(最高監督官)」として軍隊を指揮できない。国民を「御霊」にすることができない。

 天皇は国政に関する権能を有しない。政治的行為をしてはならない。これは当然だが、憲法を逆に読み返してみる必要がある。天皇が国政に関する権能を有しないなら、天皇を国政に利用してはならないのではないのか。天皇は何もできないが、権力は天皇を利用できるというのでは、あまりにも理不尽である。
 安倍はいつでも天皇を利用している。天皇が「譲位」の意向を語ったのは、参院選後が初めてではない。それ以前に、意向を政府側に伝えていたが、政府は選挙作戦(選挙を有利に進めるため)に封印していた。参院選で大勝したから、今なら公表してもいいと判断して公表させたのである。19年の退位、即位も、「統一地方選」が不利にならないようにするために日程が調整された。

なお、読売新聞にある「首相官邸関係者」の声は朝日新聞(西部版・4版)にはない。現行憲法ではなじめてのことなので、

退位の儀式を国事行為と位置づけるかなど憲法との整合性について慎重に検討する。

とのみ書いている。
読売新聞の方が、「首相官邸関係者」の思いを直接的に伝えている、安倍の本音を伝えていると読むべきだろう。
 新聞は「細部」にこだわって読むとおもしろいねえ。

 ぜひ「天皇の悲鳴」を読み、そうした経緯を確認してみてください。
http://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
オンデマンド出版なので、注文してからお手元に届くまでに約1週間かかります。
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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「天皇の悲鳴」大好評

2018-01-09 12:24:54 | 自民党憲法改正草案を読む
「天皇の悲鳴」は「天皇の生前退位」をめぐる「裏側」を天皇のことば、皇后のことば、安倍のことばを比較しながら、政局と関係づけて書いたものです。

実際の天皇と安倍との攻防は明らかになっていませんが、新聞などで報道されたものから推測できることを書いています。
憲法改正を強行しようとする安倍が、その裏側で何をしているか。

憲法改正の動きが活発化しているいま、ぜひ、読んで、何が起きているかを考えてください。

ここをクリックして、「製本注文」のボタンお押すと購入手続きフォームがでてきます。
オンデマンド出版(土曜、日曜、祝日は休業)です。一週間ほどでお手許にとどきます。
1000円+送料で販売しています。

1500円(送料込み)で発売していましたが、ひとりでも多くのひとに読んでいただきたく思い、値下げしました。
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伊藤浩子「帰心」

2018-01-09 11:20:49 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「帰心」(「現代詩手帖」2018年1月号)

 伊藤浩子「帰心」を読みながら、私は妙な気持ちになる。

湖底でオルガンを奏でる死んだ尼僧にさした月光が一輪の青薔
薇のように揺れている今夜にも、少年は裸足になりながら樹上
で草笛を単調に鳴らしつつ、そう言えば、幼かったころに繰り
返し伯母にせがんだ絵本の一節を思い出しながら、昨日までの
恥ずべき背徳行為に赤面し(同時にほくそ笑んでは)、そもそ
も自分に過去などなかったと胸を痛めるCm9がいっそう囂し
い。

 これが書き出し。文章が絡み合っている。絡み合うことで幻想(?)をつくりだしている。未整理の虚構、虚構の未整理のことばを読んでいる感じになる。ことばが「肉体」をくぐり抜けていない感じがして、落ち着かない。「幻想」になりきれない、「虚構」になりきれていない、と感じてしまう。
 「湖底でオルガンを奏でる」はすでに「現実」ではない。それを「死んだ尼僧」とつづけるとき、それは「死んだ尼僧が湖底でオルガンを奏でる」ということになる。「死んだ」と「湖底」を省略すると「尼僧がオルガンを奏でる」になる。これは「現実」としてありえる。実際に尼僧がオルガンを弾くところを私は見たことがないが、ひとがオルガンを弾くところは見たことがある。だから、その覚えていることに重ねるようにして「尼僧がオルガンを奏でる」をつかみ取る。それに「死んだ」と「湖底で」を重ねる。「死んだ」人間を見たことがある。「湖底」も「水の底」と「わかる」。両方とも「知っている」。私が思い出しているいろいろなもの(伊藤がことばで提示しているもの)は完全には一致しないだろうが、ここまではことばを追いかけていくことができる。
 このあと「主語」が交代する。
 「尼僧にさした月光が一輪の青薔薇のように揺れている」。「月光」が主語になる。「月光さしている」。そしてその「さしている」対象が「尼僧」である。この「月光」はただ尼僧にさし、尼僧を浮かび上がらせているだけではなく、「揺れている」。この「揺れる」という動きを「一輪の青薔薇のように」と比喩で描写している。こういう比喩の部分が、たぶん「幻想」をいちばん「幻想らしく」する。揺れているのは「月光」なのか「薔薇」なのか、断定を拒む。固定化するのではなく、両方が同時に起きているとつかみとることが必要だ。(このとき、また「青薔薇」の「青」は薔薇そのものが青いとつかみ取るだけではなく、尼僧を照らす月光が薔薇にもさしていて、その月光の光が青いのだとつかみ取ること、青を薔薇に固定するのではなく、月光そのものの本質ととらえ、それが尼僧をも、さらには湖の水、オルガンをも青く染めているととらえるべきだろう。)
 「主語」が交代するだけではなく、描写につかわれていることばが自在に他の存在に浸透してゆく。このとき、たとえば「青」という「属性」こそが「本質」なのだとつかみとりなおすことも、幻想に加担し(幻想を追体験し、共有する)、それを「真実」にまで強めるためには必要なことだ。
 伊藤のことばは、そういうことを読者に要求している。
 ここまでは、私は、まだ納得ができる。だが、それ以後が、どうもことばの運動としておかしい。私の「肉体」は納得できない。
 「月光が/揺れている」までを「今夜」の「情景」にして「少年」が新しい主語(ほんとうの主語?)として登場する。最初にあらわれた主語はつぎつぎに交代し、「情景を構成する脇役」になっていく。(この「交代劇」の連続性が、伊藤の「幻想」の特徴である、とつけくわえておこう。)
 で、その「少年」は、いくつもの「動詞」をひきつれている。少年は、つまり、いくつもの動きをするということである。ここでは「肉体」が「主語」であり、「肉体」が「動詞」をつなぎとめている。「主語」は交代せず、「動詞」が交代するというのが、「少年」が登場したあとに起こることである。
 「少年」は何を「する」か。「樹に上る(樹上にいる)」「草笛を鳴らす」(これは湖底で演奏する尼僧の音楽と響きあっている。和音をつくっている)「幼いころを思い出す(伯母に絵本を読んでくれるようにせがむ/そのときの絵本の一節を思い出す)」「昨日までの恥ずべき背徳行為に赤面し(恥ずかしい行為をした、という動詞を含む)」「ほくそ笑む」。
 さらに「自分に過去などなかったと胸を痛める」のだが、ここからまた「転調」する。「主語」が「ずれる」。
 「少年は/胸を痛める」と読みたいのだが、「少年」は「主語」にとどまってくれない。「Cm9」が「主語」になる。Cm9と何のことなのか。音楽のことはわからないが、「オルガン」「草笛」とつづいているから音楽何かをさしているのだろう。「音」そのものをさしているかもしれない。「音楽/音」が「かまびすしい」という「形容詞」で引き継がれる。「形容詞」は「用言」なので、私は「動詞」として読み直す。(私のワープロは、「かまびすしい」という漢字を正しく「表記」できないかもしれないので、ここはひらがなで代用する。口ふたつを横に並べて、下に頁、その下にさらに口ふたつという感じの漢字。)
 で。この

Cm9がいっそう囂しい。

 とは、どういうことなのか。「かまびすしい」ということばを私はつかわないのでよくわからないが(私の周辺のひともつかわないので、わからないが)、「うるさい」と同義のことばだと思っている。
 「うるさい」は「音」そのものの属性だが(あるいは本質かもしれないが)、それは聞くひと(人間、人間の肉体、耳)がいて動くことばである。「音」を人間が受け止める。そのときの人間の反応が「うるさい」と「感じる」(うるさく、聞こえる)。人間に「共有」されて「うるさい」ということばが初めて動く。
 さて、それではこのときの「うるさい」と感じている人間はだれ?
 「少年」か。「少年」が主語のままなら、「かまびすしく感じる」というような形にして「感じる」を補わないと「動詞」として成立しない。「かまびすしい」ならば、ここには明確には書かれていないが、伊藤が主語ということになる。
 そうであるなら、これはすべて伊藤が「音(?)」を聞きながら感じ取ったものを「ストーリー」にしたものと言える。「音」を視覚化し、それに「時間」を組み合わせて、幻想風にしたてたことばということになる。

 ああ、めんどうくさい、と私は本をほうりだしそうになる。
 いったい伊藤は、途中で「主語」として登場してきた「少年」に何を語らせようとしたのか。その「語ること」が現在とどういう関係にあるのか。
 関係がなくてもいいのかもしれないけれど、伊藤の「いま」がどうなっているのか、「いま」なぜこのことばなのか、その手がかりのようなもの、書きたい「欲望」を感じられない。
 どうでもいいか(どうでもよくないと思っているから書いてしまうのかもしれないが)、「恥ずべき」ということばも気になった。私は自分ではつかったことがないからわからないのだが、「恥ずべき」っていう表現は普通? 「べき(べし)」は「動詞の終止形」+「べし(べき)」ではないのか。「……するべき」という形が一般的なのではないのか。
 「動詞+主語」という「倒置形(?)」を多用しながら「主語」を交代させる文体でことばを動かすなら、こういう部分の「動詞」のつかい方にも気を配ってもらいたい。「動詞」のつかい方が、どうも「頭」だけの操作に思えてしまう。

 あ、脱線したかな?
 第一段落(?)の最後、「かまびすしい」で、主語として「書き手(伊藤)」があらわれたのかどうか、「少年」は「情景」になってしまったのかどうか、私にはわからないが、どうもおかしい。
 次の段落には、また「少年」が「主語」のようにして登場する。

時間に逸れた孤蝶が波影になんども翻り、祖父たちの声は透か
し葉になって少年を包み込み、さらなる深みへと誘うから、寂
しさに似た北風に、震え始める指先を吐息で温め、乾いた唇を
慰める角砂糖の清潔さと、獅子座流星群の灰色の痕跡が等しく
いじらしい。

 主語は「蝶」から「父祖」、「祖父の声」と変わり、「少年を包む」「深みへ誘う」という動詞でいったんしめくくられ、そこから「少年」が主語として明記されないまま、つまり「少年は」という形で表記されないまま、動き始める。指先を吐息で「温める」、乾いた唇を角砂糖で「慰める」のは「少年」だろう。
 で、これがまた、最終的には「獅子座流星群の灰色の痕跡が等しくいじらしい」と「主語」を欠いた形で閉じられる。形式的には「流星群の痕跡」が「主語」として存在するのだけれど、「いじらしい」と感じているのはだれなのか、その「ほんとうの主語」がまた書かれていない。

 どうも納得ができないのである。
 「現代詩」はことばの冒険。日本語の「文体」に囚われる必要はない、既成の文体を破壊しながら新しい文体をつくりだすということなのかもしれないが、そういうときでも「動詞」が基本にならないと人間は動けない。
 「動詞」を名詞を修飾するだけのものにして、あるいは名詞(存在)の内部を構造化し、その内部構造の中に時間(歴史)を噴出させ、「名詞」を積み重ねて言語構造物をつくってみても、私には、それは「借り物」だなあと見えてしまう。動詞で終わるのが基本形の日本語で、どんな「構築言語」が可能なのかよくわからないが、こんな奇妙な日本語を書くのなら、外国語(特に「枠構造」の強いドイツ語)でことばを動かし、自分自身の「肉体」を「外国人」にしてしまえばいいのに、と思ってしまう。

未知への逸脱のために
クリエーター情報なし
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カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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堤美代「尾っぽ」

2018-01-08 10:31:37 | 詩(雑誌・同人誌)
堤美代「尾っぽ」(「ゆりすか」115、2018年1月1日発行)

 堤美代「尾っぽ」を読み終わった瞬間、あ、堤が切れたトカゲになった、と思った。実際にはそういうことを書いていないのだが。
 どうしてか。

鳳仙花の
赤い茎の間をくぐって
尾っぽの切れたトカゲが
するりと葉陰に消えた
羊葉の薄緑の壁が
かすかに揺れた

着られた尾っぽが
いつのまにか生えて
青鈍(あおにび)色にギラリと光った

トカゲの尾っぽきり
 キノウワタシモオヲキラレタ
あとから生えた尾には
骨がないのだという
まだ腰から上には脊椎があり首がある
 なかにはこころとなづけるものさえ

ゆうべは莟だったのに
朝 とつぜん咲いた
鳳仙花
言葉より たしかな
切られた尾っぽの 青鈍
どんなに耳をますしても
きこえない
いつのまにか伸びる
足の指の爪が十本
アタシにもあった

 最終連の「どんなに耳をますしても/きこえない」がとても印象的だ。何が「聞こえない」のか。「聞こえない」だから「音」だろう。何の音か。「いつのまにか伸びる/足の指の爪」の「音」だろう。
 足だけに限らないが、爪は伸びる。トカゲで言えば、爪は尾っぽのようなもの。切っても切っても、のびてくる(生えてくる)。でも、その伸びる音は聞こえない。「どんなに耳をますしても」。
 あたりまえのことだが、そのあたりまえをなぜ書くのか。
 「耳をすまして」聞きたいのだ。
 鳳仙花は音を立てて開くか。いや、確か種に触れると音を立ててはじけるのだったと思うが。(花が開くとき音がするのは蓮だ。)ものには「変化」するとき音を立てるものがあるということを「肉体」がどこかで覚えている。それが鳳仙花といっしょに動いている。「ゆうべは莟だったのに/朝 とつぜん咲いた」。そのとき「音」を立てたかもしれない。「音」は鳳仙花の「生長」(時間の経過)をあらわす。
 尾っぽの切れたトカゲからあたらしい尾っぽが伸びるとき(生長するとき)、どうだろう。「音」を立てるか。私にはわからないが、トカゲはもしかするとその「音」を肉体で聞いているかもしれない。肉体の内部で、そういう「音」が生まれているかもしれない。でも爪の伸びる音を堤は聞くことができない。
 こんなことを思うのは。(詩を後ろから前へ遡るように読んでしまうのだが。)
 三連目に「なかにはこころとなづけるものさえ」ということばがあるからだ。この「なか」というのは、トカゲの「肉体」の「なか」である。トカゲは「キノウワタシモオヲキラレタ」と言っている。後から生えた尾っぽを「肉体」につけながら、きのうを思い出している。だれに言っているのか。もう一匹のトカゲか。それとも堤にか。もう一匹のトカゲに対して(ついさっき尾っぽを切られたトカゲに対して)言っているにしろ、それが聞こえたということは、堤に対して言っているということになる。トカゲはもちろん日本語など話さないから、この声を堤が聞いたとしたらそれは実際にはトカゲの声ではなく、トカゲのこころの声である。トカゲのこころと堤のこころが重なっている。こころが重なっているとき、「肉体」もまた重なっている。ひとつになっている。トカゲと堤は区別のつかない存在である。
 どうして、こんなことが起きるのか。
 また詩は遡るのだが、一連目に出てくる尾っぽの切れたトカゲは、実は堤が踏みつけるか何かして尾っぽが切れた。尾っぽを切ったのは堤だ。「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」というのは「重なっている」。ひとつのことを、トカゲと堤からみつめると「尾っぽが切れた/尾っぽを切った」という形でいうことができるが、いい方(ことば)が「ふたつ」あるからといって「事実(こと)」が「ふたつ」あるわけではない。「事実」は「ひとつ」だ。
 この「ひとつ」のなかで、「ふたつ」が動いている。「ひとつ」のなかから「ふたつ」がそれぞれ「ひとつ」としてあらわれてきて動いている。
 トカゲと堤はまったく違った存在だが、しかし、それは「入れ替わり可能」なのだ。いや「入れ替え」しながら、それは「ひとつ」であるとつかみとらないと「世界/事実」というものが存在しない。堤は堤の肉体とトカゲの肉体を入れ替えながら、「世界/事実」そのものになっている。

 何かが「わかる」ということは、たぶん、そういうことなのだ。

 トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった。それが「ひとつ」のことであると「わかる」瞬間、世界のすべてが「わかる」。トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまったは、トカゲの尾っぽを切ってしまった/トカゲの尾っぽは切れた、でもある。「世界」の区切りがなくなる。
 「鳳仙花」がこの詩には出てくる。それは単なる「背景」のようだが、実はそうではない。「トカゲの尾っぽが切れた、トカゲの尾っぽを切ってしまった」が「ひとつ」のこととしてわかった瞬間、「世界」が拡大し(ビッグバンのように爆発し)、鳳仙花まで「世界」のなかにのみこんでしまったのだ。あるいは「ビッグバン」が鳳仙花をも生み出したのだ。鳳仙花が花を開く。書かれていないが、それはやがて種になってはじける。同じように、切られたトカゲの尾っぽはやがてふたたび生えてくる。同じように、堤の足の爪ものびてくる。「無意識」のそういう時間の変化、自然そのものの不思議が「ひとつ」として「わかる」。

 「わかる」瞬間、何かが透明になる。「世界」が透明になるということかもしれない。それは「耳をすます」の「澄ます」に通じる透明である。「透明」になって、「世界」のすみずみにまで「ひとつ」が広がっていくけれど、広がりながら、同時にそこには「わからない」もある。たとえば「爪の伸びる音」は「わからない/聞こえない」ものとして、そこにある。「爪の伸びる音」は「聞こえない/わからない」から、それも「透明/透き通ってしまった/障碍ではなくなった」と読み直すこともできるかもしれない。でも「わからないもの/聞こえないもの」として、そこに「ある」という感じの方が、「抵抗感」があって温かいと思う。

 あ、なんだか、わけのわからない感想になってしまったが、トカゲと堤の「肉体」がひとつになる、その「なり方」がおもしろいなあと思う。

百年の百合
クリエーター情報なし
榛名まほろば出版

*


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(12月号は、いま制作中です。完成次第、お知らせします。)

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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


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松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」(インタビューについて考える)

2018-01-08 08:24:22 | その他(音楽、小説etc)


 1月7日、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」のインタビュー撮影があった。「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)「天皇の悲鳴」(オンデマンド出版)を読んで、取材してみようと思い立ったとのこと。

 取材を受けて感じたのは、語ることのむずかしさである。
 新聞の取材でも感じることだが、書くことと、聞かれて語ることは、まったく違う。取材されるときは「リハーサル」がない。そのために、とてもとまどう。
 「書く」ことにもリハーサルはないと言われるかもしれない。私は詩、小説、映画の感想を書くとき、「結論」を決めて、その結論に向けてことばを動かすわけではない。つまり「構想」もなしに書き始めるので、書くことにもリハーサルがないと考えていたのだが、実はそうではなかったということに気づいた。
 「読む」「見る」が実は「リハーサル」だったのだ。
 あ、このことばは印象的だなあ、このシーンはいいなあと思う。その「思う」瞬間がリハーサル。「思う」「考える」はことばをつかって「思う/考える」ということ。「思う/考える」瞬間、すでにことばは動いている。書くときは、その「思った」ことを思い出しながら、ことばにする。それは「リハーサルの復習」であり、「実演」なのだ。
 ところがインタビューを受けるときは、この「思った」ことを「思い出す」という感じになれない。いつも「思っている」ことを語るのだが、いつも思っていることとというのは、それが「いつも思っている」だけに、意識になっていない。無意識になっている。その「無意識」をいきなり語るように言われて、とまどってしまう。ことばを動かす「きっかけ(対象)」がない。
 詩の感想を書く、映画の感想を書くというときは、つねにことばを動かしていく「対象」がある。けれど、インタビューを受けるときは、その「対象」が自分の「無意識」なので、動かそうにも動かしようがないということが起きる。

 インタビューというのは、そこに誰かがいるわけだが、それは「対話」ではない、ということが、ことばを動かすときの「障碍」のようになっているということもわかった。
 私はプラトンの「対話篇」がとても好きだが、「対話篇」はあくまで「対話」だ。ソクラテスと誰かが「対話」する。ソクラテスのことばが「中心」にあるように思えるが、そのことばは相手のことばを「点検」するような形で動いている。ソクラテスがソクラテスだけで、自分のことばを動かしているわけではない。自分以外のことばと出会い、そのとき自分のことばはどう動くかを調べている。
 私はたぶん、その「対話篇」にとても影響を受けている。
 他人の話を聞く(作品を読む)というのは、自分のことばを動かすためのリハーサル。聞いた後、読んだ後で、自分のことばが誘い出されるようにして動く。ソクラテスは相手の話を聞きながら、肉体の中でことばが動いているのを感じている。そのときの「感じ」(違和感とか、同意とか)を思い出しながら、「声」の形でことばを動かしていく。
 私もたぶんそういうことをやっている。
 インタビューという形式では、「話し相手」はいるにはいるが、その「相手」は自分のことばを動かさない。「対話」ではなく、実は「独白」なのだ。それが「むずかしさ」の理由だ。
 完全な「独白」なら、何度でもおなじことばを繰り返していられる。でもインタビューはそういうこともできない。
 「質問」と「答え」という形式ではなく、「対話」のなかで「ふたり」でことばを動かしていくという形式なら、ことばは動くかなあということも思った。



 「不思議のクニの憲法2018」は2月3日公開。
  「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」(以上、ポエムピース発行)はアマゾンで発売中。
 「天皇の悲鳴」は下のURLから。(開いたページの右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072865


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
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ミック・ジャクソン監督「否定と肯定」(★★★)

2018-01-07 23:12:14 | 映画
監督 ミック・ジャクソン 出演 レイチェル・ワイズ、トム・ウィルキンソン、ティモシー・スポール

 ホロコーストはあったのかなかったのか、法廷で争う。ホロコースト否定論者を批判したことが「名誉棄損」にあたるという。なんだか、「論理」がよくわからない。それをさらに複雑にしているのがイギリスの裁判制度。イギリスでは、訴えられた方が「無罪の立証責任」を追う。ホロコーストがあったということ(歴史的に誰もが知っていること)を立証しなければならない。
 なんだ、これは。
 この過程で、まあ、イギリスらしいというか、さすがに「ことば、ことば、ことば」(ハムレット)の国だけあって、ほんとうに「ことば、ことば、ことば」(論理、論理、論理)の展開なのである。
 イギリス人はめんどうくさい、と思う半面、何がなんでも「ことば」で決着をつけようとするところが、うーん、すごい、とも思う。

 実は。
 この映画を見る前に、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」という映画の撮影があり(我が家で、私が松井監督からインタビューされた)、私の思っていることを語ったのだが、「語る」のはとても難しい。
 書くときは、書くスピードがことばを抑制する。文字をみながらことばを反芻する。でも、語るときは反芻できない。書きながら考えることができる。私は早口のせいもあるが、話しながら考えることができない。
 「ことば」が「論理」にならない。
 「声(ことば)」に考えを託し、「論理」でひとを説得するのは、かなり訓練がいるぞと思ったばかりなので、法廷の「攻防」に、何とも言えないものを感じた。
 感情のままに語るのではなく、時には感情を否定して、「論理」にする。「論理」になったものだけが「事実」としてひとに共有される。こういうことをイギリス人は日常的ではないかもしれないが、常に訓練しているのだと思い、びっくりした。
 「ことば」として「共有」されないものは存在しない。それがイギリス人の「肉体」になっている。「思想」になってしみついている。イギリス人のひとりひとりがシェークスピアなのだ。
 イギリスの法廷に引っ張りだされるレイチェル・ワイズが「感情型」のアメリカ人(ユダヤ人)なので、「ことば」と「論理」と「事実」のつかみ方が違っていて、それがさらにイギリス特有の「ことば」感覚を浮き彫りにしていて、ストーリーの展開よりも、はるかにスリリングなのである。

 それにしても。
 今回の映画に限らず、最近はヒトラーに関係する映画が多い。ネオナチなど、「極右」の動きがヨーロッパで活発になっていることが影響しているのかもしれない。このままではヒトラーが生まれてくる。そういう不安が、ヒトラーがどういう人間だったのか、ヒトラーと人々はどう闘ってきたのか、その目的はなんだったのかということを問い直そうとしているのかもしれない。
 日本には「戦争映画」が皆無というわけではないが、戦争への「反省」を踏まえての映画、日本人は戦争とどう向き合ってきたか、「抵抗」を描いたものが少ないと思う。「権力」とどう闘ってきたか、という「歴史」を継承する作品が少ないと思う。
 こういう「反省」のなさも、安倍の「独裁」を暴走させているかもしれない。日本人は権力に「抵抗する」という訓練ができていないのかもしれない。「権力」の思いを「忖度」する訓練ばかりしているのかもしれない。

 話はごちゃごちゃになるが。
 「不思議のクニの憲法2018」は2月3日から上映される。機会があれば、ぜひ、映画を見て憲法について考えてみてください。
 安倍の狙いとおりに改憲されると、国民は戦場に駆り立てられ、そこで死に、「御霊」と呼ばれることになる。
(KBCシネマ1、2018年01月07日)



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「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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