詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天皇の言葉(天皇を沈黙させる安倍)

2018-01-07 16:20:56 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇の言葉(天皇を沈黙させる安倍)
             自民党憲法改正草案を読む/番外163(情報の読み方)

 古い記事だが……。
 2017年12月30日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

90年慮泰愚氏来日/「痛惜の年」陛下意向/日韓の歴史「気持ち伝えたい」

 本文は、こう書いてある。

  天皇陛下が1990年、当時の盧泰愚(ノテウ)・韓国大統領を迎えた宮中晩餐会のお言葉で、日韓の歴史に言及しながら表明された「痛惜の念」は、陛下のお気持ちをくみ、政府が盛り込んだ表現だったことがわかった。当時の首相海部俊樹氏(86)が読売新聞の取材に明らかにした。このお言葉は、昭和天皇が84年に伝えた「遺憾」よりも、踏み込んだ表現を求めていた韓国側に高く評価されたが、政府は内閣で調整したという説明にとどめていた。

 天皇の言葉「痛惜の年」そのものについては、私は特に感想をもたない。注目したのは、

「痛惜の念」は、陛下のお気持ちをくみ、政府が盛り込んだ表現だった

 この一文である。「天皇の言葉」は天皇だけで書いているのではない。註釈に、書いてある。

〈お言葉〉天皇や皇族が公に発信する言葉を指す。天皇が宮中晩餐会や全国戦没者追悼式などでお言葉を述べるのは、憲法に規定された「国事行為」ではなく、象徴の地位に基づいて公的な立場で行う「公的行為」に分類される。お言葉は天皇の意思だけでなく、国民の期待も考慮して作成され、その内容について内閣が責任を負う。

 ここで注目するのは、

お言葉は天皇の意思だけでなく、国民の期待も考慮して作成され、その内容について内閣が責任を負う

 である。
 「お言葉は天皇の意思だけでなく」「その内容について内閣が責任を負う」で思い出すのは、2016年の「生前退位意向」が明らかになった後の「天皇の言葉」である。8月8日に、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を天皇はビデオメッセージとして発表している。
 あれもまた、天皇が独自に書いたものではない、と言えるだろ。
 このことは「天皇の悲鳴」に書いた。
 ビデオメッセージには、とても不自然なことばがある。天皇なのに「申す」という動詞をつかっている。「思います」「考えます」で十分なのに「思われます」「考えられます」と婉曲的に言っている。
 なぜか。
 その部分には「内閣(安倍)」からの「圧力」があったのだ。「圧力」があったために、天皇のことばは歪んでいるのだ。
 そういうことを、私は「推測」として書いた。
 90年の盧泰愚来日時のことばが、天皇と内閣との「交渉」の結果「成文化」されたものであるなら、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」もまた天皇と内閣(安倍)の交渉の結果、成文化されたのだろう。そのことが「間接的」に証明されたといえるだろう。
 2017年の「新年のおことば」は高齢の天皇に配慮して、負担にならないよう「中止」ということだったが、これもまた「配慮」というより、天皇と内閣(安倍)の交渉の結果だろう。2016年末、安倍はパールハーバーを慰問している。そのときスピーチをしている。そのスピーチをつくるのに安倍側が忙しくて、天皇の「新年のおことば」を「調整」している時間がなかったのだ。だから、「中止させた」のだ。
 安倍が「天皇を沈黙させた」のだ。

 安倍は、天皇を「抹殺」しようとしている。「生きたまま」の「抹殺」。それが「生前退位」である。
 天皇さえ「沈黙している」、国民は天皇を見習い「沈黙しろ」。
 これが安倍の「独裁」の主張だ。
 憲法を改正し、戦争を引き起し、国民を戦場におくりこみ、「御霊」にする。つまり「戦死させる」。そのために、「護憲派天皇」がいては困るのだ。

 こういうことを「推理・分析」したのが「天皇の悲鳴」である。天皇のことば、皇后のことば、安倍のことばを比較し、同時に報道された「政局」の細部のニュースから、そういうことを浮かび上がらせている。
 自分で書くと「自画自賛」になってしまうが、読んだひとの間で評判になっている。オンデマンド出版なので、アマゾンや一般書店では買えません。
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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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井坂洋子「キューピー」

2018-01-06 09:55:05 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「キューピー」(「現代詩手帖」1月号)

 井坂洋子「キューピー」は三歳のときの記憶。海辺の岩場を走って、足を切ったときのことだろう。

ふじつぼの硬い殻を
足うらに感じながら
三歳をあるいた
イソギンチャクに指をつっこむと
しゅうといってしぼむのが面白い 母は
気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう
後姿を追って 岩場をはしって
突っ伏した
キューピーのように両手を裂けるほど開いて
じぶんの悲鳴が生誕から今までを
何周も往復するのを聞いた
  満たされて
ガーゼの上ににじむ
血とはじめて かいこうした
伸び縮みするゴムのような頭にもホータイが巻かれ
へやの壁の隅に 雲が湧いていた

 後半の、二字下げの「満たされて」という一行がとてもおもしろい。とても複雑だ。ここに「何」が省略されているのか。「何が」満たされたのか。
 どう思います? どう「妄想」します?
 私は、

しゅうといってしぼむのが面白い 母は
気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう

 この二行の部分に注目して、「妄想」する。「誤読」する。
 「母は」という主語は「先に行ってしまう」という動詞につながる。「学校文法」の感覚では、

しゅうといってしぼむのが面白い
母は気もそぞろに歌うような調子で先に行ってしまう

 の方が「正しい作文法」ということになると思う。「面白い」と感じているのは「三歳の私」。「先に行ってしまう」のは「母」。「母は」の位置を変えた方が、それぞれの一行に主語と動詞が緊密につながる。わかりやすい。
 でも、井坂は、そうは書かない。
 なぜだろう。
 イソギンチャクに指を入れるとしゅうっとしぼむ。「面白いよ、お母さん、ほらみて」と三歳の私はいいたい。注目されたい。でも「お母さん」と呼びかけようとして顔を上げたら、母は「先に行ってしまっている」。
 「面白い」を「母」に告げたい、三歳の意識の中では、その「面白いを告げたい気持ち」と「母」はしっかり結びついている。だから「一行」になっている。
 けれど「現実」は、「母」は三歳の私のことを無視して、「先に行ってしまう」。
 三歳の私はおいてきぼりだ。
 断絶/切断がある。
 このときの「気持ち」が「改行」のあり方にあらわれている。
 「母」はきっと、「海」にも「イソギンチャク」にも「三歳の私」にも関心がない。もっと重要な「何か」に関心がある。
 それは「三歳の私」には不満だ。直感的に不満。あるいは「肉体的に不満」といえばいいのか、ことばにできない不満がある。
 でも、どう伝えていいのかわからないので、置いてきぼりにならないように、走り出す。そして倒れる。ふじつぼで足を切ったのか。イソギンチャクに足をとられたのか。バンザイをするキューピーの形で。そして、大声で泣く。その声は生まれてから三歳までに泣いた分よりももっと多い。力一杯、泣いている。痛いのではない。「母」を呼んでいるのだ。
 「母」は驚いてもどってくる。抱き起こす。このとき「三歳の私」は「母」をとりもどした。「母」の愛に満たされたのだ。
 で。
 私は「書いていないこと」を想像するのが大好きだ。
 このときの「母」は、きっと「三歳の私」とふたりで海へ行ったのではない。そこに「父」がいたのでもない。「父」ではない「男」がいたのだ。「母」はその「男」といっしょにいることがうれしくて「気もそぞろ」になっている。「三歳の私」を忘れている。
 それが「三歳の私」には気に入らない。
 イソギンチャクはたしかに面白い。けれど、その面白さを「母」が共有してくれない。「母」は「気持ち」を「男」と共有している。「三歳の私」とではなく。
 それが「三歳の私」には気に入らない。
 でも、けがをした。血が流れた。母が驚き、あわてる。「三歳の娘」にかけより、病院へかけこむ。このとき、「三歳の私」は自分の「泣き声(悲鳴)」が自分のまわりをぐるぐるまわるのを感じると同時に、自分を中心にして「母」がぐるぐるまわっている。右往左往しているということを、「生誕から今まで」の記憶から思い出しているかもしれない。「何周も往復する」のは「悲鳴(泣き声)」だけではない。
 だから「満足」。「満たされる」。自分が「中心にいる」。
 病院のベッドで「かいこう」するのは、「血」だけではない。「母」とも「かいこう」している。出会いなおしている。
 これは「父」には言えない秘密。

へやの壁の隅に 雲が湧いていた

 最終行は、このままでは「非現実的」。窓から「雲が沸いている」のが見えたではない。きっと「へやの壁の隅」に「雲」が湧いていたのではなく、「三歳の私のこころ」のなかに「輝かしいもの」が湧いていたのだろう。
 「勝利」の喜びのようなものが。
 「三歳の私」は「見知らぬ男」に勝っただけではない。そのとき「三歳の私」は書かれていない父といっしょに「見知らぬ男」に勝った。そして、家族を守った。

 そんなことを感じさせるものが「改行」と「二字下げ」の工夫に隠れている。
 井坂の「書いていること」は違うかもしれないが、私が「聞いたこと(読んだこと)」は、そういうことである。

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*


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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
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語らない安倍(巧妙になる沈黙作戦)

2018-01-05 12:01:32 | 自民党憲法改正草案を読む
語らない安倍(巧妙になる沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外162(情報の読み方)

 2018年01月05日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

首相「改憲論議深める」年頭改憲

 本文には、こう書いてある。

 安倍首相は4日、三重県伊勢市で年頭の記者会見を行い、憲法改正について「今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し、国民的な議論を一層深めていく」と表明した。自民党総裁として改憲案を国会に提出し、議論を加速させることに意欲を示したものだ。

 これでは何のことか、さっぱりわからない。「憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し」とあるが、安倍は「改正案」を国民に示したか。「自衛隊を書き加える」「教育を無償化する」というようなことを言ってはいるが「明文化(成文化)」した形では一度も提示していない。これでは「議論」にならない。「議論」をするなら、「議論」の出発点である「ことば」を提示しないといけない。「議論」は「ことば」を中心におこなうものである。
 2面には

「対北」「働き方改革」重点

 という見出しで、こういう文章がある。

 ミサイル警戒に当たる自衛隊員へのねぎらいで記者会見を切り出した首相は、「従来の延長線上ではなく、国民を守るために真に必要な防衛力強化に取り組む」と表明した。今年末には「防衛計画の大綱」(防衛大綱)の見直しを目指しており、敵基地攻撃能力の保有の是非について議論を本格化させる意向を示唆したものとみられる。

 これを「憲法改正」と関係づけて読み直してみる。
 安倍は年内の「改憲」を目指している。「防衛大綱」は「改憲」後のもの、「改憲」を反映させたものとなる。
 「自衛隊」ということばは、国を「自衛する」という意味で受け止められている。「敵国」の攻撃にあったら防戦する。自衛する。その「自衛活動」の行動範囲は、私の感覚では「領空、領海、領土」である。特に実際に国民が暮らしている「領土」が「防衛(自衛)」のいちばんの対象であると思う。これが「従来の」考え方であると思う。
 安倍は、それを乗り越えようとしている。「従来」を否定している。「従来」の考え方を否定するのが、「国民を守るために真に必要な防衛力強化」という部分である。読売新聞はそれを「敵基地攻撃能力の保有」と言い換えている。(説明しなおしている。)
 当然、「改憲案」は「従来」のものとは違うということが想定できる。「自衛隊を憲法に加える」だけではなく、「敵国の基地を攻撃できる」という要素を盛り込んだものにしないと、「防衛大綱」は改憲された新憲法を逸脱することになる。
 たとえば「自衛隊の活動範囲は領海、領空、領土内に限定される。その範囲を越えての武力の使用は侵略行為であり、これを侵してはらない」と憲法に明文化すると、「新防衛大綱」は「違憲」ということになる。だから、安倍が狙っている「改憲」では、そういうことばは絶対に「明文化」されない。
 「新防衛大綱」(敵国の基地を攻撃できる)にそなえて、では、憲法をどう改正するのか。それを安倍は明確に言っていない。
 いまここで、自衛隊が、攻撃されたら日本を守るというだけではなく、攻撃されるおそれを感じたら敵国の基地を攻撃できるように憲法で規定するという「案」を表明したら、きっと大騒ぎになる。それは侵略戦争とどう違うのか。第二次大戦のときのアジア諸国侵攻とどう違うのか。だから、言わないのだ。
 こんな「詐欺」みたいな手口を許していいはずがない。

 1面の記事のつづきにもどる。

 首相は、「時代の変化に応じ、国のかたち、あり方を議論するのは当然だ」とも強調した。現在、改憲に前向きな勢力は衆参両院で国会発議に必要な3分の2を超えているが、「(各党が)具体的な案を持ち寄りながら議論が進んでいく中で、国民的な理解も深まっていく」と述べた。

 「(各党が)具体的な案を持ち寄りながら議論が進んでいく中で」というが、肝心の安倍自身(自民党そのもの)が「具体的な案」を提示していない。
 安倍が2017年5月に読売新聞で「改憲」を語り、それを受けて開かれ6月の「自民党憲法改正推進本部」では「たたき台」をまとめた。(「憲法 9条改正、これでいいのか」を参照してください。)ところが12月の推進本部での会合では「たたき台」が消えて、2案併記になった。
①9条1、2項を維持した上で自衛隊を憲法に明記する(安倍の提案)
②9条2項を削除し、自衛隊の目的・性格をより明確化する(2012年の改正草案)
 「議論」の「幅」が広がったというか、「拡散」されてしまった。どちらの案も問題があるが、それぞれ具体的に議論しないといけない。2案あっては、議論の時間が足りないだろう。
 各党(野党)に「具体的な案」を要求するなら、まず安倍自身が「具体的な案」(成文化、明文化されたもの)を示さないといけない。野党に「成文化(具体的な案)」を要求し、「議論対象」を増やし、十分な議論をせずに「〇時間議論した」と逃げるつもりなのだ。
 「成文化した案」は、国会で「議論」するだけではなく、各議員がそれぞれの支持者の前で説明し、質問を受け、討論するという時間も必要だろう。単に議員が一方的説明し、「国民の理解を得られた」というのではなく、必ず「賛成派」「反対派」の意見が同時にわかるるようにし、公開討論、公開質問という形で国民全体で議論をする必要がある。

 西部版の1面には掲載されていなかったが、

 首相は、衆参両院の憲法審査会などでの論議を通じ、与野党の幅広い合意形成が進むことへの期待感も示したが、「スケジュールありきではない」とも語った。

 という。
 「幅広い合意形成」を言うなら、最低限、安倍案を「成文化」し、国民に提示しないといけない。それをしないのは「スケジュールありき」だからである。十分な議論をさせないように、案の提出を遅らせる。そのくせ「〇時間かけたから十分に審議した」というのである。
 「共謀罪法」の強行採決をみれば、そのことがよくわかる。
 野党議員にも、国民にも「議論させない」、「沈黙作戦」で安倍の「独裁」を強行に推し進める。

 具体的なことばを語らないのは、国民からことばを奪い、「思想」を支配するためである。国民に考えさせないためである。「沈黙作戦」は巧妙な「洗脳作戦」でもある。洗脳されないために、私たちは、自分のことばで語り続けなければならない。

 
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江代充「想起」

2018-01-05 10:57:43 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「想起」(「現代詩手帖」1月号)

 江代充「想起」は「夜」というタイトルであつめられた作品のうちの一篇。

ひと気のない土の空き地の
ずっと西の隅の方へわたしはきていた
そこで一つずつ種蒔く母とふたり
またはふたりのうちのひとりとして
数えられる所に いるためである

 いつものように「ぎくしゃく」した文体である。一行一行が「写真」のように完結し、接続に飛躍があるためだ。「映画」のように移動していかない。移動していくのだが、移動の瞬間に飛躍する。
 「ひと気のない土の空き地」は「種蒔く」という「動詞」によって「畑」にかわる。その「畑」は「数えられる所」と言いなおされる。どうやら、どこか「町外れ」とでもいうべき畑で「わたし」と「母」がいる。「母」は「種をまいている」。それを「わたし」は見ているのだろうか。いっしょに種をまくというよりも、母に連れられて畑に来ている。そういう「風景(情景)」がなんとなく目に浮かぶが、どうもすっきりと「映像」にならない。
 なぜだろう。
 いくつかの「動詞」が気になる。
 「数えられる」(数える)という「動詞」がある。「母とふたり」、「母とわたし」の「ふたり」と数えるのか、「ふたり」を意識するとき「わたし」という「ひとり」が意識されるがゆえに「ふたり」になるのか。「ふたりのうちのひとりとして」の「として」ということばが複雑なのだと思う。「して」はさっと読んでしまうことばだが、もとは「する」という「動詞」だろう。「ふたりのうちのひとり」に「する」ことによって「数える」。「ひとり」を強く認識「する」ことで、あそこには「ふたり」がいると「数える」。「ひとり(わたし)」を認識しない限り「ふたり」はそこには存在しない。
 「風景(情景)」を描写しているようであって、実は「認識」を描写している。
 だが、この「ふたりにする」「ふたりのうちのひとりにする」というときの「する」の認識主体(主語)はだれだろう。「わたし」か。「わたし」かもしれない。しかし、なぜそういうときに、わざわざ「ふたりにする」「ふたりのうちのひとりにする」という具合に「数える」のか。私もときどき母の野良仕事を手伝ったことがあるが、そういうとき「ふたり」「ひとり」は意識しない。
 なぜ、意識するのか。つづくことばを読むと、少し想像が膨らむ。

ここへ来るまでに
道でふたりの友を見たが
わたしはそこに留まり
ひざを屈したかれらに合わせ脇のほうへ退くと

 「友」に出合ったのだ。「ふたり」の「友」とあるから、ふたりはきっと「遊び仲間」なのだろう。遊びにゆく途中なのだろう。彼らとは違い(彼らについていくことはできず)、「わたし」はそこで「脇」へ「退く」。「ひざを屈した」は「遊ぼう」「だめだよ。畑へ行かないと」「残念だなあ」の残念をあらわしているかもしれない。がっくりとひざを落として残念がる姿を「ひざを屈する」と書いているのかもしれない。
 そのとき、「友(ふたり)」に「わたし」はどう見えたか。認識されたか。「わたし(江代)」は母と畑仕事をする。「わたし」ひとりが認識されたのか、母とふたりが認識されたのか、母とふたりの「そのうちのひとり」として認識されたのか。
 「認識する」の主語は「友(ふたり)」であると同時に、どう「認識されたか」を意識する「わたし」というものを浮かび上がらせる。
 「認識する」か「意識する」か。
 ここに微妙で、同時に絶対的な「切断」がある。「切断」と同時に「接続」がある。「友(ふたり)」の「認識」を「意識する」とき、「友の認識」はほんとうに「友の認識」なのか、「わたし」の思い込み(意識)にすぎないのか。これを区別することは、できない。たとえば、「友(ふたり)」が「江代(わたし)が母と畑仕事をしていた」ことについては「何も思わなかった」と否定すると、「友の認識」は存在したといえるのか。それは「わたし(江代)」の意識の中だけで存在したのではないのか。
 ことばは、こういう問題を、はっきりとは「断定」できない。ことばと同時に何かがいっしょに動くだけである。「考える」が動くのである。ことばは「考える」ためにある。ことばなしには「考えられない」から、こういう問題が起きる。江代は「考える」ということばはつかわず「想起(する)」と言っているが。
 で。
 ちょっと飛躍するが、ここから詩はさらに展開する。
 いや、飛躍するといった方がいいか。
 前の一行を重複させて引用する。

ひざを屈したかれらに合わせ脇のほうへ退くと
一軒の白い家の なじんだ外壁に添いつづけ
こちらにもかかわるような枝の葉が
くらく淡い影をおとした道の半ばへも伸びひろがり
それが改めて
あたりの手本になったように思えてくる

 「意識(認識)」と「情景(存在)」の関係が複雑になる。「融合」してしまう。とけあって、混沌としてくる。混沌の中から「意識」が瞬間瞬間に飛び出し、それが「ことば」になる。その「ことば」が存在を生み出し、同時に「意識/認識/精神」を生み出すという感じだ。
 「動詞」を手がかりに「ひと/わたし(江代)」と「存在(もの/風景)」のつながりを追ってみる。
 「退く」の主語は「わたし」。そうすると「添いつづける」の主語も「わたし」だろうか。「わたし」は白い家の壁(白壁?)に添いながら(沿いながら)歩くかたちで、「かれら(友ふたり)」から離れる。退く。友から離れて畑で待つ母の所へゆく「わたし」の姿が思い浮かぶ。
 だが「添いつづける」の主語は「枝の葉」のようにも思われる。「外壁」は「塀の壁」かもしれない。白い家の庭から伸びてきた枝。それが「外壁(塀の壁)」に添って、伸びている。
 なぜ、ここで「添いつづける」(添う)という動詞が動くのか。「添う」という動詞をつかうとき、「わたし(江代)」の意識の中では何が動き、何を生み出そうとしているのか。
 「くらく淡い影をおとした道の半ばへも伸びひろがり」は単なる「風景」ではない。「くらく淡いかげ」は、「道」に落ちているだけではない。「わたし(江代)」の意識にこそ落ちている。「道」は「歩く」ところ、「歩いている」のは「わたし」。「道」は「歩く」という「動詞」を中心にして「わたし」と結びつき、「わたし」そのものになる。友ふたりから離れ、母の仕事を手伝いにゆく「わたし」に「寄り添う」ように、その「枝の葉」「枝の葉」のつくりだす「影」が広がってくる。「こちらにもかかわってくる」という表現が、「添う」ではなく「寄り添う」と思わずことばをおぎなってしまわざるをえない形で影響してくる。響いてくる。「かげ」につながる「動詞」は最初は「おとした(落とす/落ちる)」という否定的なニュアンスをもったものから「伸びひろがる」という肯定的なものを含んだものにかわっている。これも「こちら=わたし/江代」に「かかわる」の「かかわる」という動詞が押し広げるニュアンスだ。これは、「枝の葉のかげ」の認識の仕方と同時に、「わたし(江代)」の「こころ」そのものが変化していることをあらわしている。
 友と遊ぶことができない。母の畑仕事の手伝いをしないといけない。これは幼い子どもにとってはつらく悲しい記憶だ。「貧乏」の恥ずかしい思い出でもある。(私は貧農の子どもなので、どうしても、そう考えてしまう。遊んでいる、遊びにゆく友を見ながら、見られないよう避けながら、退くように、畑へゆく、というのはつらいだけでなく、なんとなく恥ずかしい。)
 でも、枝の葉が「外壁」に添うように枝を伸ばしてくるとき、それは同時に「わたし(江代)」に向けて、気持ちを支えるように伸ばされた「手」のようにも感じられる。
 最終行の「手本」は、「わたし(江代)」に向かって「伸びひろがり」つづける枝のことか、母の仕事を手伝いにゆく「わたし(江代)」のことか。「江代くんはえらいね、遊んでばかりいるんじゃなくて、おかあさんの仕事を手伝いにゆく」と、どこかで誰かが語っているのかもしれない。「誰か」ではなく「枝の葉」かもしれないけれど。いや、そうではなくて、この詩を読んだ「読者(私)」かもしれない。「わたし(江代)」が読者になって、遠い過去を思い出しているのかもしれない。「想起」しているのかもしれない。
 こんなふうに、私は「あれやこれや」を考えた。私のことばに「結論」はない。いつものことだが。

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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
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谷川俊太郎「詩の鳥」

2018-01-04 10:28:31 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「詩の鳥」(「現代詩手帖」1月号)

 谷川俊太郎「詩の鳥」。不機嫌なのかなあ。

詩でも書くしかない新年だ
言葉は紙上の市場で
天使のいない雲の中で
あれやこれやの大繁盛だが
コケ嚇しに空威張り
でなきゃ泣き言ホラ話
思想観念主義主張
言葉の掃き溜め悪臭紛々
だが待った!
そこに降り立つ〈詩の鳥〉一羽
火の鳥ほどのパワーはないが
生まれは宇宙育ちは地球
言葉の出自がいささか違う
アジプロを拒み抒情に流れず
魂の奥の奥から生まれる言葉を
おずおずと差し出す優雅……
と言いたいのは山々だが
詩の鳥の群れは言葉の森で
鳴かず飛ばずの毎日らしい
一羽でも詩の鳥を見つけたら
あなた どうする?

 「詩でも書くしかない新年だ」と書いているが、発表が「新年」(実際は年末、新年は雑誌の名目)であって、それに間に合わせるために「旧年」のうちに書かれたもの。
 「書く」というよりも「読む」方に重点が移動している。
 ここが、読み落としてはいけないポイントだと思う。
 「書く」ではなく「読む」に重点が移動しているのは、つづく行を読めばあきらかになる。
 「言葉は……」から「……悪臭紛々」までは、流通している「詩」を読んだ谷川の感想である。
 そういう「詩」しかないから、自分で「詩でも書くしかない」と言っているのだろう。「だが待った!」という行をはさみ、ここから「書く」に移動していく。「詩でも書くしかない」と書いているときの「詩」の定義のようなものが展開される。

生まれは宇宙育ちは地球

 というのは、谷川の詩そのものを思わせる。「詩の鳥」とは谷川自身のことになる。だからこそ、それが「書く」という動詞といっしょに動くことになる。「言葉の出自がいささか違う」というのは自負だろう。
 で、そのあと、最後の四行はどうだろう。

詩の鳥の群れは言葉の森で
鳴かず飛ばずの毎日らしい

 これは谷川の「自画像」? 読者からは、そうみられているかもしれないなあ、という不安?
 では、

一羽でも詩の鳥を見つけたら
あなた どうする?

 うーん、これは「詩の鳥」をあなたは見つけられるかと問いかけられている気がする。「詩の鳥」を見つけたら、ひとは「どうする?」と問われるまでもなく、感動する。感動して、そのあと何をするかはわからない。でも、まず感動するということが起きるはずである。そのあと何をするかわからないというのは、感動とは自分が自分でなくなることだからである。そのあと何をするかまでは、だれもわからない。
 それが詩。
 だから、ここでは「どうする?」と問われているのではなく、「見つけられるか」と問われているのである。
 谷川は「詩を書く」。年が改まっても(新年になっても)、それしかできない、と宣言している。そのうえで、谷川の詩が大繁盛の詩とはどこが違うのか、その違いを「見つけられるか」「見分けられるか」と問いかけている。この問いは、一般の読者ではなく、「詩を書く読者」に向けての厳しい問いかけである。

 うーむ。どう答えよう。
 私は、私の書いてきたことが、私の「見つけた」ものであると答えるしかない。
 (1)一行目の「書く」という動詞は、「読む」という動詞(体験)を踏まえたことばであり、「書く」と書きながら意識を「読む」に転換する「書き方」に詩を見つけた。
 (2)最後の「見つけたら」「どうする?」という問いは、「見つけられるか」ということを間接的に言いなおしたものである。その「言い直し」の「間接性」に詩を見つけた。この「間接性」は、「コケ嚇しに空威張り」というような直接的な(露骨な?)批判のことばの裏返しの「態度」である。
 (3)この詩の中では、「書くと読む」、「直接性と間接性」が入れ替わるように動いている。「見つけたら」「どうする?」という間接的な問いは、「見つけられるか」という直接的な批判でもある。
 とても入り組んでいる。その「入り組み方」に私は、谷川の「不機嫌」を感じた。
 「旧年」に書かれたこの詩はこの詩として、私は「新年」になってから書いた谷川の詩を読みたい。

現代詩手帖 2018年 01 月号 [雑誌]
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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



*


詩集『誤読』を発売しています。
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初笑い(のち、怒り爆発)

2018-01-03 19:19:02 | 自民党憲法改正草案を読む
初笑い(のち、怒り爆発)
             自民党憲法改正草案を読む/番外161(情報の読み方)

 2018年01月03日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

新元号 少ない画数に/政府方針 1文字15画上限

 本文には、こう書いてある。

 政府は、皇太子さまの即位に伴う2019年5月1日の改元を巡り、新たな元号は画数ができるだけ少なく、なじみやすい漢字を用いる方針だ。国民の「元号離れ」を防ぐ狙いがある。

 もっともらしく聞こえるが、「嘘だろう」と私は言ってしまう。「キラキラネーム」というらしいが、いまの若い人は、どう読んでいいのかわからないような漢字をこどもの名前につけている。私の感覚で言えば「なじみにくい漢字」だ。私のような老人には「なじみにくい漢字」が好まれている。
 「元号」をつかうのはもっぱら「老人」だから、「老人」になじみやすい漢字をつかい、「老人」の元号離れを防ぐということかもしれない。あるいは「云々」を読めない安倍のために簡単な漢字の元号が必要ということなのか。
 若者のことは知らないが(私以外の老人のことも知らないが)、若者が「元号離れ」をしているのなら、簡単な漢字をつかったからといって「元号」にもどってくるとは思えない。「平成」は2文字で「11画」。もし、「画数」が大事なら「1文字15画以内」は「平成」よりはるかに複雑。「2文字11画以内」にしないと。
 若者はさておき、老人である私は「平成」になってから、「平成」を自分からつかったことがない。「昭和」と結びつけて「年数」の計算をするのがややこしいからである。私は50歳をすぎたころから自分の年齢を間違えるようになった。気にしなくなったからである。どうしても思い出さないといけないときは、「昭和」と「平成」をつかって考えるのではなく、西暦を利用している。簡単だからね。
 国民の「簡便さ」を考えるなら、年号なんかやめてしまえばいい。年月の数え方に二種類あるのは面倒くさい。ひとつにすれば、とても簡単なのに。便利なのに。
 そういうことと関係するのだが。

 新元号のアルファベットの頭文字は、明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)と重ならないようにする方針だ。官民でつかわれる書類の年号表記がアルファベットの頭文字となっている場合があり、混乱を避けるためだ。

 ここで、私は笑いが止まらなくなった。
 「政府」というのは具体的にだれのことを指しているのか知らないが、頭文字(アルファベット)以外に年号の識別方法がないわけではないだろう。「官民でつかわれる書類の年号表記がアルファベットの頭文字となっている場合があり」ということは、アルファベットの頭文字を使用していない官民もあるということだろう。同じ頭文字で区別ができないと思うなら、それぞれが工夫するだろう。それくらいは面倒でもなんでもない。「書類」には最初から「M、T、S、H」が印刷されているのだろう。それを「明、大、昭、平」の一文字にすればいいだけである。「M、T、S、H」なら明治、大正、昭和、平成の略(頭文字)だとわかるが、「明、大、昭、平」の一文字だと「これはどういう意味ですか?」と国民の誰かが聞くとでも思っているのだろうか。
 天皇が死んで、その結果、天皇が交代し、新しい「年号」になるというのなら、まだ、最初の内は「混乱する」ということがあるかもしれないが、前もって「年号」を発表するのだから、それがどんな「年号」になろうが、だれも混乱しないだろう。国民の混乱を避けるために、前もって「年号」を発表するのではなかったのか。

 で、ここから私は妄想するだが。

 なぜ、こんなにあたふたと「新元号」のことを重大事のように騒ぐのだろう。その口実に「国民」を引き合いに出すのだろう。
 これは国民のためなんかではない。
 「退位/即位」も、最初は「国民の混乱を防ぐ」という口実で「1月1日」が政府の方針だったはずだ。宮内庁から「1月1日は忙しいからむり」と難色を示されて、変更することになった。「4月1日」が「年度がわり」で国民には馴染みがあるが、政府は「5月1日」にした。統一地方選があるためだ。選挙に「退位/即位」が影響するのを恐れたのだ。「静かな環境で退位/即位」というのが政府の方便だが、民主主義というのは「うるさい」のが基本。選挙は「民主主義」の根幹。与野党のせめぎあいのさなかに天皇が交代するのは、私なんかは、わくわくするようなおもしろいことだと思う。
 「天皇」は「象徴」だが、「象徴」は「自動的」に「象徴」になるのではない。国民が天皇を「象徴」にするのである。
 憲法には、

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 と書いてある。「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とは、国民の総意がなければ、だれも「天皇=象徴」という「地位」にはつけないということである。
 「天皇は」という書き出しのために、「主語」が天皇であると錯覚しがちだが、憲法の「主語(主役)」は常に「国民」である。
 「国民の総意」が天皇を「象徴」にするのである。天皇は「国民の総意」をくみながら「象徴」になる。
 「基く」という「動詞」を読み落としてはならない。
 少し脱線したが。
 なぜ、こんなにあたふたと「新元号」のことを重大事のように騒ぐのだろう。
 安倍が、いまの天皇の存在をはやく消してしまいたいと思っているからだと、私は判断している。
 憲法を改正するにあたって、「護憲派」の天皇の存在を国民が意識するようでは困るのだ。安倍は、護憲派天皇の姿を国民から消してしまいたいのだ。戦争の歴史を反省し、平和を祈るいまの天皇の姿が国民の意識に強くのこっていると、戦争へ向けての憲法改正ができない。だから、天皇の存在を消そうとしている。
 「天皇の悲鳴」に書いたことだが、天皇が戦争の犠牲者に対して深く哀悼のことばを語るのに対して、安倍は「御霊」を追悼するだけである。「御霊」とは戦場で死んで言ったひとだ。安倍は国民を「御霊」にしたがっている。防衛大学での訓示が象徴的である。安倍は「自衛隊員」を「片腕」と呼んでいる。安倍の「片腕(肉体)」にしようとしている。安倍は戦場から離れた場所で指揮をとり、自衛隊員が安倍のかわりに戦場で死ぬ。「御霊」ということばと引き換えに。
 いったい戦場で死んで「御霊」になりたいひとがいるのだろうか。
 新聞を読んでいる内に、「初笑い」が「初怒り」になった。


 




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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田原「小説家 閻連科に」

2018-01-03 09:20:21 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「小説家 閻連科に」(「現代詩手帖」1月号)

 田原「小説家 閻連科に」を読みながら、田原にとって閻連科とはどういうふうに見えているか考えてみた。

故郷からの一本のロープ
いくら旅して遠く離れても
目に見えない力で
あなたの魂を引っ張る

 ここから閻が「故郷」の生まれであることがわかる。「故郷」は「都会」と対極にあるものだろう。都会に出てきても、魂は「故郷」にある。これは、田原の姿かもしれない。田原がそうであるから、閻の魂が「故郷」に引っ張られるのを感じ取ることができるだろう。
 でも「一本のロープ」とは何だろうか。
 「故郷は一本のロープ」ではなく「故郷からの一本のロープ」と書いている。

 「ロープ」と「比喩」で呼ばれたものが、次の連から具体的に書き直される。

低い藁ぶきの屋根は
狭い庭を際立たせる
老いた楡の木の実は
飢餓を満たす

 「故郷」は「低い藁ぶきの屋根」の家。庭は狭い。ひとは楡の木の実を食べて飢餓を満たす。「もの(藁ぶき屋根)」だけではなく「狭い庭」の「狭い」という「こと」、「楡の実」で飢えをしのいだという「こと」が「故郷」である。
 田原もまた同じことを体験したのだろう。閻の「肉体」に田原は田原の「肉体」を重ねている。

門口のぬかるむ小道が
あなたの生長を記した
遠方の町は
唯一の憧れ

 「遠方の町」に「憧れる」、その「憧れる」という「動詞」が「故郷」なのだ。「肉体」のつぎに「こころ」を重ねている。共有している。田原もまた「遠方の町」に憧れたことがあるのだ。

村はずれの田沼は涸れ
ようやく意味を表す
鳥の巣の卵はすべて取り出され
木はさびしくてたまらない

 これは何だろう。
 「意味」は「肉体(飢餓)」と「精神(憧れ)」の拮抗から動き出すもの。ことばによって初めてつかみとることができる「真実」である。
 田原は、これを「鳥の巣」以下の二行で言いなおしている。
 「故郷」を出る。それは、「故郷」の側から見れば、「鳥の巣の卵」を失った「木」になるということだろうか。さびしいという感情、それが「意味」だ。隠れていたものがあらわれてきたのだ。「木」を「肉親(家族)」、「鳥の巣の卵」を閻、あるいは田原と読み直すこともできるかもしれない。
 私は閻の履歴も田原の履歴も知らないから思いっきり「誤読」する(妄想する)のだが、閻も田も「肉親」を「故郷」に残して、「遠い町(都会)」へ出てきたのかもしれない。
 「故郷」では「肉親」が「巣の卵」をなくしてしまった木のようにさびしさをかかえて生きている。それが田原には「わかる」のだろう。
 自分だけの「視点」で世界を見つめるのではなく、自分をみつめる他者(といってもつながりのあるひと、たとえば肉親)の視点からも世界を見つめる。
 そうすると、世界が「立体的」になる。
 このような連を含んでことばはつづき、

あなたは一艘の船
現実と虚構の間を渡る
あなたは一つの炭
自分を燃やし尽くしても、厳寒を追い払えない

 「現実と虚構」というのは、しかし、ふつうに言うような「現実と嘘(空想)」とは違うと思う。
 先に引用したことばに結びつけて言うと「現実」を「私(閻、田原)」とするなら「虚構」は「故郷の肉親」である。それも「現実」である。ただし、「私」が直接「肉体」でつかみとる「現実」ではなく、「他者」を見ることによってつかみ取る(一緒に生きることでつかみ取る)もうひとつの「現実」である。
 私は、「虚構」を「他者」と読みたいのだ。
 「現実」は「虚構」によって、その本質を浮かび上がらせる。小説は「虚構」を利用して「現実」のなかに潜む「真実」を暴き出すものという見方がある。その見方を流用すれば、「私(自己)」は「他者」をとおして「本質」をつかむ。「他者」をとおして「自己(私)」の「本質」をつかみなおすということになる。木がさびしいなら、鳥も(卵も、卵から孵って、飛び立っていく小鳥も)さびしいのだ。
 そのとき、その「現実と虚構」「自己と他者」というのは、「固定化」できないものである。相互を「渡る」ことで、瞬間瞬間に姿をあらわすものである。「現実」は「虚構」であり、「虚構」は「現実」である。「私(自己)」と「他者」であり、「他者」は「自己(私)」である。
 ふたつのあいだを激しく往き来しながら、往き来する(渡る)という「動詞」が浮かび上がる。「動詞」のなかに、「現実(私)」と「虚構(他者)」が結びつき、ただ「消尽」する。
 そう作家の姿をスケッチした後、

積み重ねた原稿用紙は耕した田んぼ
あぜ道を縦横に通って宇宙と繋がる
母語は絶対的なもの
それを超えるのは
文学その現実と魔術の翼

 という連がある。
 「母語は絶対的なもの」という一行に、私は「嫉妬」してしまう。
 「自己(私)」と「他者(肉親)」をつないでけっして放さないものが「母語」である。「現実」と「虚構」を結びつけて放さないのが「母語」である。
 「母語」のなかには「音」がある。共有された「ことばの動き(ことばの肉体)」がある。「意味」を突き破って動いていく「比喩(イメージ)」がある。「論理」をたたき壊す「激情」がある。
 これは中国語を「母語」としない私には触れることのできない「いのち」である。
 「母語」とは「現実(肉体/いのち)」であり、「文(文章)」とは「虚構(意味/精神)」である、とも言える。
 「意味(ストーリー)」なら翻訳でもたどることができる。しかし、「母語」がもっている「音」の力、「音」が抱え込む「暴力」のようなものは、私にはつかみとれない。触れることさえできない。
 その「一端」は閻の小説を読めば「知る」ことができる。音(音楽)に対する敏感な肉体が描かれている。だが、それは「わかる」とは言えない。
 閻の小説は、田原が書いているように「魔術」(魔法)のようなものである。
 しかし、その「魔術」を私は「ストーリー」として読むのであって、「声(音)」、いいかえると「音楽」として感じ取るのではない。
 田原は「音(音楽)」に反応していると思う。「音(音楽)」が「母語」という「意味」以前のものを「絶対」と呼ぶところにあらわされている。
 田原には、あたりまえかもしれないが「母語」が見えている。聞こえている。「母語」をとおして、閻と「肉体」を重ね、「激情」を重ね、「体験」を重ね、生きている。
 それが詩のことばのいたるところに感じられる。

 こういうことは「嫉妬」してもしようがないことである。
 しかし、「母語」として、閻のことばを読む(聞く)ことができるというのは、やはりうらやましい。閻の『硬きこと水のごとし』を読んだ直後なので、そう感じた。

田原詩集 (現代詩文庫)
田 原
思潮社


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暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
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閻連科『硬きこと水のごとし』

2018-01-02 09:21:39 | 詩集
閻連科『硬きこと水のごとし』(谷川毅訳)(河出書房新社、2017年12月30日発行)

 閻連科『硬きこと水のごとし』の帯には「エロ・革命・血笑記」と書いてある。「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯……革命の歌に乗って二人の欲望が炸裂する。」とも。
 その通りだねえ。
 まるでポルノ小説、それも「チャタレイ夫人の恋人」のような世界文学ではなく、大衆週刊誌に連載されている小説を初めて読んだ少年が、ことばそのものに勃起し、射精してしまう勢いで、これでもかこれでもかとことばをまき散らす。帯の「そそりたつ乳房、震える乳首、秘密の三角地帯」が象徴的だが、おとなになるとこんなに「欲張り」なセックスはしない。ひとつを味わうので手一杯。でも、目覚めたばかりの欲望は、みっつでもまだ足りない。
 で、ここからがポイント。
 「革命の歌に乗って」と帯では簡単に書いてある。小説を読むと、「革命の歌」によって主人公の性欲は駆り立てられる。女の方も同じ。「革命」というのは、若い世代のセックスと同じなのだ。本能によって、ひとつひとつ発見し、その発見でさらに新しい何かをつくりだしてしまう。存在しなかったものをつくってしまう。存在しなかったものをつくりだすためには、それまでに存在しているものを徹底的にこわしてしまう。
 あ、こんな「意味」を書くつもりはなかったのだった。
 この小説の何がおもしろいかというと、「音楽に乗って欲望が燃え上がる」ということ。「革命の」はわきに置いておく。「音」が大事なのだ。「音」によって欲望が呼び覚まされ、それを「音=ことば」にしてしまう。「意味」を破壊して、「音=ことば」のうねりにしてしまう。
 延々とつづくセックス描写は「描写」ではない。「そそりたつ」とか「震える」とか「三角地帯」と「視覚的」であっても、それは大切な要素ではない。どれだけ「音=ことば」にできるかが重要なのだ。「意味」が「無意味」になって、ただ「音」としてうねる。「声」が「意味」を捨ててしまって、欲望の喘ぎになる。そうなるまで、ひたすら「ことば」を発し続ける。
 中国は「漢字文化」。「漢字」は「表意文字」、つまりひとつひとつの漢字に「意味」がある。私は中国語が読めないし、聞いても理解できないからいいかげんなことしか言えないが、閻連科のことばは「意味」を中心にしては動いていないと思う。「音」を中心にして動いている。日本の漫才に、猛烈なスピードでしゃべりまくる漫才があるが、あれに似ている。もちろん「意味」もあるのだが、私はそういうものを聞いているとき、「意味」ではなくしゃべりつづけるスピード、「声」の力に酔っている。矛盾し、飛躍していても、ことばにスピードがあれば、それを「音楽」のように聞いてしまう。そういう感じで、閻連科を読んでしまう。
 思うに閻連科はとても聴覚がすぐれている。耳が鋭いのだ。『年月日』でも感じたが、ふつうの人が聞こえない音を聞いてしまう耳を持っている。
 
たまたま結婚式の行列が目の前を通り過ぎ、全中隊一斉にピタッと立ち止まり、兵士たちの視線はビシバシ音を立てた。花嫁の美しい万丈の光芒が千里を照らし、雲間から射し込む一万本の光は宇宙に映えた。(12ページ)

 後半のおおげさなことばの洪水は「意味」の乱反射とも言うべきもので、こういうことばの展開は随所に出てくるが、私はその直前の「視線はビシバシ音を立てた」にびっくりする。視線と視線が正面衝突し「ビシバシ」音を立てるのではない。視線が「ビシバシ」と音を立てながら肉体から出て行くのだ。それは目から飛び出す精液のようなものだ。精液が「ビュッビュッ」と音を立てて飛び出すように、「見たい」という欲望が音を立てて視線になって飛び出していく。これは「肉体の内部」で感じる音、「肉体」が体験する音だ。
 こういう音もある。

 あのときは言葉にできなかった色形をしたみずみずしい花が俺の心の中で一輪また一輪と咲いて、その花びらが開く音が響いてきて、それは車に轢きつぶされそうな心臓の音だった。(21ページ)

 「花びらの開く音」。それは「心の中」、つまり「肉体の内部」で生まれている。そして「心臓」という「肉体の内部」にふたたび帰っていく。「音」は「肉体」から外に噴出し、それは再び「肉体」に帰ってくる。「音」が出たり入ったり、ピストン運動している、と言いなおせば、それはそのまま男がセックスしている姿になる。
 閻連科の繰り広げるセックス描写は、思わず声に出して笑ってしまうくらい強烈だが、そしてその強烈さに笑ってしまうためにどこが特徴的なのか指摘するのはむずかしい。(いや、簡単すぎて、説明しなくても笑ってしまうので、そういう部分の引用は避ける。また、それを読みたいひとのためにも残しておくことにする。)だから、なるべくセックスしていない部分(小説のはじまりの部分)から引用したのだが、その特徴は、
(1)描写がはじまると、世界が一気に拡大する。花嫁の描写が花嫁で終わらず、宇宙をつらぬく光線にまで拡大する。
(2)描写の対象が、花嫁と宇宙でもそうだが、瞬時に入れ替わるだけではなく、逆方向から見つめなおされる。「心の中で開いた」花を描写していて、その「心(心臓)」が車に轢かれるという具合に、書かれる。別の角度から書かれるのだが、それは「心/心臓」という一点に集中する。拡散と集中が同時に起きている。
 この2点に要約できると思う。

 小説の背景には「文化大革命」があり、この小説は「文化大革命批判」としても読めるのだが、「文化大革命」のエネルギーを二人の主人公の生きる力として解放して見せてくれているとも言える。「文化大革命」の直接の被害者ではない私は、「文化大革命」という負の動きがあったからこそ、それを突き破る形でこういう小説が生まれてきたのだと思った。「文化大革命」はすごいものを生み出した、と感じた。「文化大革命」がなければ、こういうエネルギーの暴発は生まれなかったかもしれない。根源的な野生に、中国人が目覚めることがなかったかもしれないとさえ感じた。でたらめというかドタバタ劇なのに、「真理」がそこにある、と感じ、そこに引き込まれていく。


 非常に強い力でことばを統一して動かしているということが「わかる」(実感できる)作品だ。

硬きこと水のごとし
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瀬尾育生「ベテルにて」

2018-01-01 13:49:25 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「ベテルにて」(「現代詩手帖」2018年1月号)

 瀬尾育生「ベテルにて」の末尾に「注」がついている。

*この作品について、インターネット上での引用・インターネット上での言及を禁じます(作者)

 しかし、禁じられれば禁を破りたくなるのが人間というもの。
 私は二点知りたい。
 (1)瀬尾は、何を根拠に「禁じます」と言っているのか。
 著作権法には「引用」に関する規定がある。

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

 瀬尾の作品は「公表された著作物」である。この条文に従う限り、だれでも瀬尾の作品を引用し、言及できる。瀬尾がなぜ「インターネット上で」とことわりを書いているのかわからないが、紙の媒体、あるいは「口頭」での言及(テレビ、ラジオ、舞台)と、どう違うのだろうか。
 (2)禁を破ることによって何が起きるか、それを知りたい。
 インターネットで作品を「引用/言及」をめぐっては、私は何度か苦情を受けたことがある。おもしろい例がふたつある。
 ひとりは私の読み方が間違っていると指摘してきた。そのひとは、私の間違いを詩壇に公表し、詩壇から追放してやる、というようなはがきを書いてきた。私は「詩壇」などには属していない。追放されるということがどういうことかわからないので、どういうことが起きるのか楽しみにしているが、まだ何の変化もない。「属していない」から追放されるということも起きないのだ。
 もうひとりは詩集を贈呈したのに批判を書くのはおかしいと言ってきた。「ネガティブキャンペーンは許せない」ということらしい。「谷内に詩集、詩誌を送るのをやめよう。現代詩手帖のアンケートに答えられないようにしよう」とインターネットで呼びかけた。現代詩手帖からのアンケートはあったりなかったりだから、そのひとの「訴え」は半分くらい現代詩手帖の編集部に届いたということかな?
 さて、瀬尾は、どういう行動をおこすだろうか。何を言うだろう。とても期待している。

 私は、ほんとうのことを言えば紙の媒体が好きである。
 読むのは紙の媒体に限定している。目が悪いせいもあるが、インターネットでは「余白」にメモをとることができないということがいちばんの要因だ。紙の媒体なら、余白に書き込みをしながら考えることができる。ことばを動かせる。
 「公表」の場として紙の媒体を利用しないのは、金がかかるからである。年金生活では、印刷し、郵送するというスタイルは維持できない。インターネットはほとんど無料である。金のない人間が自分のことばを発表するにはとても便利な道具である。

 前置き(?)は、ここまで。



 「ベテルにて」はよくわからない。「ベテル」がどこか私は知らない。ほかに「シドン」「マリア」「モアプ」「ハートランド」「マグダラ」というカタカナの固有名詞も登場する。「聖書」に関係する地名なのかもしれない。こういうことはそれこそインターネットで調べれば情報を得ることができるかもしれないが、そこで知った情報は私が確かめたことでもないので、私は調べない。知らないことは知らないままにしておく。
 「わかる」部分を探して、私は作品を読む。

無彩色の外套に包まれて凍るような冬の水場に立ちわずかな炎で褐色の米を炊いている。白い野菜が刻まれるのと同じ歩幅で子音だけが細く伝わる。

 この書き出しから「わかる」ことは、瀬尾のことばがとても鍛えられたな肉体をもっているということだ。「ことばの肉体」のなかに「ことばの歴史(時間)」がある。
 一行目は「冬」が全体を統一している。「無彩色」は「暖色」というより「冷たい」感じを誘う。「凍る」ということばにつながり、それが「冬」と自然に結びつく。その直後の「水場」の「水」は、書いていないが冷たくて凍りそうだ。そう書いたあとで、今度は逆に「炎」に視点を映す。明るい色。「赤」の印象をひきずって、それは「褐色」という色のなかで燃える。「米を炊く」という動詞が、「暮らし」を呼び寄せる。
 「暮らし」は「米」から「野菜」へと広がっていく。とても自然だ。
 でも、その「野菜」は「米を炊く」のように、すぐには「食べ物」と結びつかない。いや、食べ物を連想させながら、ことばはまったく違うものを浮かび上がらせる。「野菜が刻まれる」のあとに、唐突に「同じ歩幅」が出てくる。「歩幅」のなかの「歩」が「歩く」という動詞を呼び起こす。野菜を刻むように歩幅を刻む、同じ歩幅で歩いてくる。その「音」が耳に届く。
 「子音だけが細く伝わる」。ああ、美しいことばだなあ。足音を、足音ということばをつかわずに書き、しかも「音」なのに視覚化している。
 ことばのひとつひとつが、ことばの奥でつながっている。ひとつの「肉体」として動いている。切り離せない。
 この緊密な文体の緊密をつくりだしているもののひとつに、読点「、」の排除がある。瀬尾は読点「、」をつかっていない。
 で、ここから少し脱線する。「まえがき」に逆戻りすると言った方がいいかも知れない。
 インターネットの「文体」は読点「、」の乱用にある。やたらと多い。私はもともと読点を多くつかう方だが、インターネットで書くようになってからさらに増えた。目が休まるからである。
 瀬尾がインターネットでの引用を拒むのは、緊張感のある文体がインターネットになじまないと知っているからかもしれない。
 そして、このことと関係するのだが、瀬尾の「文体」は、最初から最後まで同じ訳ではない。そのこともインターネットで引用、言及されることを拒む理由になっているかもしれない。文体の変化を、インターネットは正確に反映しない、だからインターネット上での引用は困るということかもしれない。
 どういうことかというと。(途中を省略しながら引用するので、原文は「現代詩手帖」で確認してください。)

私は水路の水際にいてここにひとすじの抜け道もないと信じている。けれど死んでいったひとのことを思えば
運河は開扉されて船がくだっていった。その水辺から階段室が始まっている。雫が降りしきっているがそれが着地することはない。後についてきてださいあなたは。けれど死んでいった人のことを思えば

 「けれど死んでいったひとのことを思えば」という句点「。」も読点「、」もないことばで終わる行が繰り返される。循環か、螺旋か。わからないが、そこには「持続」がある。「思えば(思う)」という動詞が「持続」を生み出している。持続を誘う。「思えば」何なのか、と想像させる。
 最初にふれた書き出しでは、個人(ひとり)の思い(思う)ではなく、ことばそのものの「肉体」がかかえもつ「持続/継続/つながり」が動いていた。
 二連目では「(おまえ)/あなた」と「わたし」に人称がわかれ、それを「思う」という動詞がつなぐ。
 このあとが、またおもしろい。

あなたはどこまで と私は先導する人に訪ねた。どこで私たちは分かれるのですか。分かれる

 「別れる」ではなく「分かれる」。「別れる」は「ふたり」が別れる。「分かれる」は「ひとつ」が「分かれる(分割される)」。これは「分かれるのですか」という「問い」となって姿をあらわした後、そこにふいにあらわれた「分かれる」ということばそのもののなかに「私」がとじこめられ、それを反復する。「分かれる」。しかし、ここにも句読点はない。
 こうした「不安定」な文(結論のない、句点のない文)をはさみ、さらにことばは変化する。

それは水辺の水道路のようで、巨大な階段室を降りてゆくと先導する人は深く頭巾を被って薄く冷たい灯りを持っている。だれ
という語が巨大な階段室を糸くずのようにまわりながら落ちてゆく。だれ
という語が巨大な階段室を糸くずのようにまわりながら落ちてゆく。

 やっとあらわれた読点「、」(詩の後半でも、もう一回出てくるが)が、何かを「分ける」。そして「だれ」が登場する。
 「私」と「あなた(おまえ)」と「だれ」。三人になれば、それは無数への入り口になる。無数は、そのうちの「ひとり」によって結ばれ「ひとり(ひとつ)」になる。
 「いのち」になるのか「信仰(宗教)」になるのかわからないが、つまり「意味」はわからないが。(というか、私は、こういう閉ざしていくことばには何か恐怖というか、警戒してしまう。最後までおいつづけ、見極めようとすることができない。)

 非常に強い力でことばを統一して動かしているということが「わかる」(実感できる)作品だ。

戦争詩論
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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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